第98話 願いの器
古い商店街は、前に訪れた時よりも静かだった。
昼のはずなのに、アーケードの下には夕暮れのような色が沈んでいる。黄ばんだ屋根板から落ちる光は弱く、閉じたシャッターの列をぼんやり撫でるだけだった。薬局の色褪せた看板。止まった時計を飾ったままの時計店。成人式の見本写真が陽に焼けた写真館。空の硝子ケースだけを残した和菓子屋の跡。
どの店も、時間の外に押しやられたように黙っていた。
その奥に、《宵待堂》だけが灯っている。
木枠のガラス戸。古びた看板。細い筆文字。前に見た時と何も変わらない。変わらないことが、かえって気味悪かった。
榊は足を止め、店を見上げた。
「また来ることになるとはな」
クラウディオは看板を見て、薄く笑った。
「願いの棺桶屋が一度で済むほど親切なら、事件になっていない」
澪奈は端末と資料を抱えている。昨夜、被害者ごとの記憶欠落と《宵待堂》の品物を照合した時の顔色の悪さが、まだ残っていた。
ルストはガラス戸の奥を見て、低く言った。
「前より匂う」
澪奈が顔を上げる。
「増えているんですか」
「いや。こちらが、何を嗅げばいいか分かっただけだ」
榊の表情が硬くなる。
前に来た時、棚の品々は「願いの残骸」に見えた。血の染みたハンカチ、記憶が抜けた日記、寿命を削られた時計、名前を失った鍵、割れた人形。どれも被害者の後に残ったものだと思っていた。
だが今は違う。
残骸ではない。
抜き取られた記憶や寿命や血が、品物に縛られている可能性がある。
つまり、あの棚は廃品置き場ではなかった。
倉庫だ。
商品棚だ。
人間が願いと引き換えに失ったものを、丁寧に磨き、値札の代わりに日付を添え、次の誰かへ渡すための棚。
クラウディオはガラス戸に映る自分の顔を見た。
映っている。
銀の手鏡とは違う。普通のガラスには彼の姿がある。
しかし、その奥にある棚が、彼の輪郭をどこか別の場所へ引きずろうとしているように見えた。
「行くぞ」
クラウディオが扉を開ける。
小さな鈴が鳴った。
鈴のようでもあり、古い皿に硬貨が落ちる音のようでもある。願い屋の通知音とよく似た音。聞くたびに、人間の祈りに会計処理をつける趣味の悪さを思い出す。
◇
店内は、やはり奥行きが狂っていた。
外から見れば狭い店舗のはずなのに、一歩入ると棚が奥へ奥へと続いている。木の床は磨かれ、埃はない。古いものばかりが並んでいるのに、放置された気配がない。誰かが毎日、丁寧に手入れをしている。
それがかえって不気味だった。
棚には、前回と同じ品々が並んでいた。
指輪。
懐中時計。
赤い小瓶。
人形の目。
日記。
写真立て。
名前の刻まれた鍵。
血が染みたハンカチ。
割れた人形。
銀の手鏡。
ラベルのない小箱。
中身の分からない硝子瓶。
だが、前回とは見え方が違った。
古い指輪は、ただの装飾品ではない。誰かが失った恋の始まりを、冷たい銀の輪の内側に閉じ込めているように見えた。
懐中時計は、止まっているのではない。誰かから削り取った時間を、針の裏側でまだ刻んでいるようだった。
赤い小瓶は、血を入れた器ではない。願いの支払いとして抜かれたものを、小分けにして並べた容器だった。
人形の目は、こちらを見ているのではない。誰かが誰かを忘れた瞬間を、硝子の奥から見返している。
クラウディオは棚を見た。
「残骸ではないな」
榊が隣で問う。
「違うのか」
「棄てられたものなら、もう少し死んでいる」
澪奈は小さく息を呑んだ。
「生きている、ということですか」
「生きてはいない。だが、終わってもいない」
クラウディオの声は冷たかった。
「奪われたものを、そのまま眠らせずに置いている。趣味が悪い」
店の奥から、灰島が現れた。
年齢不詳の古物商は、前と同じように穏やかな顔をしていた。白髪にも黒髪にも見える髪。皺があるのに若くも見える目元。濃い灰色の上着。白い手袋。どこまでも丁寧で、どこまでも薄気味悪い。
「お戻りでしたか」
灰島は軽く礼をした。
「お気に召す品がございましたか」
榊の顔が険しくなる。
「客として来たわけじゃない」
「承知しております」
「なら、その口調をやめろ」
「申し訳ございません。癖でして」
謝る声には、一片の反省もなかった。
クラウディオは棚を見たまま言った。
「扱い方、だったか」
灰島が微笑む。
「はい。ただし、品にはそれぞれ、扱い方がございます」
「扱い方、ね。人間の欠片を商品説明にするとは、教育が行き届いている」
「欠片だからこそ、丁寧に扱う必要がございます」
「丁寧に解体して、丁寧に並べて、丁寧に売る。実に礼儀正しい墓荒らしだ」
灰島は怒らない。
むしろ、クラウディオが理解し始めたことを歓迎しているようだった。
「願いの器は、ただの残り物ではございません」
その言葉に、ルストの目が細くなる。
灰島は棚へ視線を向けた。
「願いの後に残るものは、よく働きます。記憶も、血も、寿命も、感情も、形を与えれば保つことができます」
「保って、どうする」
榊が低く問う。
「保たれたものには、使い道がございます」
澪奈の指が、資料の端を強く押さえた。
「使い道……」
クラウディオが静かに言う。
「奪って、縛って、値をつける」
灰島は否定しなかった。
「言い方はお客様次第です」
「客ではない」
「では、見学者でしょうか」
「捜査対象の店主が、よく喋る」
灰島は微笑んだ。
「黙っていても、棚は語りますから」
◇
最初に澪奈が確認したのは、古い指輪だった。
細い銀の輪。内側に小さな日付と、二つのイニシャルらしい文字が刻まれている。前回見た時は、恋人を忘れた者の残した品だと思っていた。
だが、澪奈が記録と照合すると、その刻印は恋人と復縁した女性の証言に出てきた日付と一致した。
「この指輪の刻印、復縁した女性の証言に出てきたものと一致します」
澪奈は声を抑えて言った。
「恋人を好きになった日の話に出てきた日付です。本人はその日の記憶を失っていますが、恋人側の証言には残っていました」
クラウディオは指輪を見た。
触れない。
だが、銀の輪の内側から、雨の匂いのようなものが立ち上がる気がした。
駅前の小さな喫茶店。
傘の骨が風で軋む音。
くだらない会話。
濡れた袖。
手が触れた瞬間、胸が痛むほど熱くなる感覚。
それはもう、本人の中にはない。
指輪だけが、その始まりを持っている。
クラウディオは薄く唇を歪めた。
「恋の始まりを指輪に詰めたか。悪趣味な包装だ」
灰島は穏やかに言う。
「恋の記憶は、需要がございます」
榊の顔が険しくなる。
「需要?」
「誰かを好きだった感覚を、もう一度知りたい方。あるいは、自分にはない感情を借りたい方。そういった方は少なくありません」
「他人の記憶を借りるってことか」
灰島は頷いた。
「一時的に、ですが」
澪奈が息を呑む。
「そんなことをしたら、また代償が」
「品を用いれば、何かしらの対価は生じます」
「分かっていて売るんですか」
「分かっていて買う方もいらっしゃいます」
榊が低く吐き捨てた。
「それを正当な取引と言うつもりか」
灰島は微笑む。
「差し出されたものに、値をつけただけです」
クラウディオの声が冷える。
「品物にしたのはお前だ」
◇
次に、懐中時計が棚から出された。
古い銀の懐中時計だった。蓋には細かな傷があり、鎖は黒ずんでいる。時計としては壊れているように見えた。内部の歯車は止まっている。なのに、針だけが一定でない速度で動いている。
速く進む。
止まる。
戻る。
また進む。
まるで、誰かの呼吸に合わせているようだった。
ルストがその時計を見下ろす。
「時間ではない」
榊が問う。
「何だ」
「命の残りだ」
澪奈が資料をめくる。
「入荷日が、父親を助けた会社員の《願い屋》使用日と近いです。ただ、完全に同一人物のものとはまだ断定できません。別の延命願望の被害者の可能性もあります」
時計の針が、かすかに震えた。
ルストは続けた。
「契約の口と似た痕がある」
「どこに」
澪奈が時計の裏蓋を確認する。内側に、小さな赤い輪のような痕があった。金属に血が染みたのではない。もっと深く、時間そのものに焼きつけられたような輪。
クラウディオは目を細めた。
「寿命を秒針にするな。職人への侮辱だ」
灰島は静かに答える。
「寿命は、形にしなければ流れてしまいます」
「流れた方がましなものもある」
「流れて消えるより、必要な方へ届く方が救いになる場合もございます」
「人間の欠落を循環させるな」
クラウディオの声は低く、鋭かった。
榊が懐中時計を睨む。
「これは押収できるのか」
澪奈も迷った顔をした。
「被害品なのか、商品なのか、証拠品なのか。通常の扱いでは……」
「人の記憶や寿命が入っているなら、物扱いでいいわけがない」
榊は灰島を見た。
「灰島、仕入れ元を出せ」
「すべて、正当な取引でございます」
「何をもって正当だと言っている」
「持ち込まれた品を買い取り、必要な方へお渡しする。古物商としては、ごく普通の流れです」
「普通の古物商は寿命を貸し出さない」
灰島は、そこで少しだけ笑った。
「時代により、扱う品は変わるものでございます」
◇
人形の目は、小さな透明ケースに入れられていた。
黒い硝子の目。
片方だけ。
まぶたも顔もない。ただ、目だけが丸く残っている。前回見た割れた人形の一部だったのかもしれない。ケースの下には、日付だけが書かれている。
クラウディオは、その目を見た瞬間、足を止めた。
人形師の目になった。
ただの証拠品を見る目ではない。作られたものの素材、造形、使われ方、壊され方を見る目。だが、その奥にある怒りを、ルストは見逃さなかった。
澪奈が資料を確認する。
「この日付は、高槻莉央さんの補欠合格と記憶欠落が発生した時期に近いです」
榊が言う。
「あの母親を忘れた少女か」
澪奈は頷いた。
ルストが、目に残る気配を読む。
病室の白い光。
合格通知を握る少女。
泣いている母親。
包帯の端に滲む赤。
少女の目が、母親を見て、申し訳なさそうに揺れる。
すみません。どなたですか。
その瞬間の空白が、人形の目の奥に閉じ込められていた。
ルストの表情が動く。
クラウディオは、ケース越しにその目を見下ろした。
「人形の目を、記憶の瓶にするな」
灰島は穏やかに言う。
「目は、見るためのものでございましょう」
「これは見るための目じゃない。忘れた瞬間を閉じる蓋だ」
クラウディオの声が一段冷えた。
「人形に閉じ込めるにも礼儀がある。持ち主の名も、願いの理由も、失った痛みも削って、目だけを棚に置くな」
灰島は答えなかった。
ただ、微笑んでいた。
それが、答えるよりもずっと不快だった。
ルストの周囲の空気が冷える。
棚のガラスが、かすかに鳴った。
灰島の視線がルストへ向く。
「お気に障りましたか」
ルストは低く言った。
「これは売り物じゃない」
「買う方がいれば、売り物になります」
「黙れ」
その一言で、店の奥の影が揺れた。
榊が息を詰める。
クラウディオは、ルストの方を見ずに言った。
「まだ壊すな。棚の奥を見る」
ルストは灰島を見たまま、動かなかった。
「噛まない」
「空気が噛んでいる」
「噛まない」
「二回言う時は怪しい」
ルストは返さなかった。
クラウディオは人形の目から、ようやく視線を外した。
◇
赤い小瓶は、棚の中段に並んでいた。
小さな硝子瓶。
口は赤い糸で結ばれている。
中には液体らしいものはほとんどない。底に、赤黒い光だけが沈んでいるようにも見える。中身は少量なのに、近づくと喉の奥に鉄の匂いが残った。
クラウディオはその一つを取った。
指先が、慎重すぎるほど慎重だった。
ルストは、その手の硬さに気づいた。
聞かない。
ただ、隣に立つ。
クラウディオは瓶を光にかざした。
「悪趣味だな。吸血鬼ですら、ここまで小分けにしない」
灰島が、薄く笑った。
「吸血鬼は直接飲む。人間は瓶に詰める。それだけの違いでしょう」
ルストの瞳が冷える。
クラウディオも、ゆっくりと灰島を見た。
「本気で言っているなら、舌だけでなく頭も古物として売った方がいい」
「違いますか」
「違う」
クラウディオは瓶を揺らさないように持ったまま言った。
「吸血鬼は、少なくとも血が誰のものか知っている。これは名前を剥ぎ、願いを剥ぎ、支払いだけを瓶にしたものだ」
灰島は静かに答える。
「名を伏せることで、品として扱いやすくなります」
「だから品物にするなと言っている」
澪奈は小瓶の一つをケース越しに確認した。
「小瓶の赤い痕は、血液反応に似ています。ただ、通常の血液としては説明できません」
ルストが言う。
「契約として支払われた血だ。吸われた血ではない。指先から抜かれたものに似ている」
榊の顔が険しくなる。
「高槻莉央の血か」
「断定はできません」
澪奈は首を振った。
「ただ、願いを書いた指先から血が滲む被害者の記録と対応している可能性があります」
灰島が言った。
「血は、もっとも扱いやすい器の中身です」
ルストの空気がまた冷える。
クラウディオは小瓶を棚へ戻した。
「扱いやすい、か」
「はい」
「その言葉を二度と被害者の血に使うな」
声は静かだった。
だから余計に、棚の鈴がかすかに震えた。
◇
澪奈は、棚の商品と被害記録の照合を進めていた。
指輪。
懐中時計。
人形の目。
赤い小瓶。
写真立て。
鍵。
日記。
どれも、《願い屋》の被害者たちから抜かれたものと対応している可能性が高かった。
「棚の商品と、《願い屋》の被害記録が対応しています」
澪奈は、声を押し殺すように言った。
「入荷日と、被害者の願いが叶った日が近すぎます。この指輪の刻印は復縁した女性の証言と一致。懐中時計の時刻異常は寿命を支払った被害者の症状と一致。人形の目に残る映像のようなものは、高槻莉央さんの病室での証言と一致します」
榊は灰島へ視線を向ける。
「まだ、ただの古物だと言うのか」
「ただの古物とは申し上げておりません」
灰島は穏やかに返した。
「願いの器と申し上げました」
「誰かが買えば、他人の記憶や寿命を借りられるのか」
「一時的に」
「その使用にも代償が発生する」
「品には対価が伴います」
榊は机を叩きたい衝動をこらえた顔をした。
「つまり、願いを叶えて終わりじゃない。奪ったものを売り、買った奴からまた奪う」
クラウディオが低く言った。
「願いを叶えるだけなら、一度で終わる。こいつらは終わらせていない」
彼は棚を見渡した。
「奪ったものを売り、買わせ、また奪う」
「循環、ですか」
澪奈の声がかすれる。
「願い屋は怪異ではなく、市場だ」
クラウディオは言った。
その言葉は、店内の隅々まで冷たく届いた。
市場。
願いを整える案内人がいる。
願いを叶えるアプリがある。
代償を徴収する契約の口がある。
代償を器に縛る棚がある。
売る古物商がいる。
買う誰かがいる。
さらに、その使用によって新しい代償が生まれる。
願いは終わらない。
消費され、加工され、流通し、また誰かの欲望へ接続される。
クラウディオは、銀の手鏡の方を見た。
本心を映し、記憶を削る鏡。
あれも同じ市場の品だった。
見たいという願い。
知りたいという欲望。
その代金として削られる記憶。
灰島は、にこやかなまま言った。
「失ったものを、必要とする方もいらっしゃいます。誰かには不要になった記憶が、別の誰かには救いになることもございます」
「不要になったんじゃない。奪われたんだ」
榊の声が低くなる。
「品は巡るものです」
「人の命や記憶を巡らせるな」
クラウディオが言った。
「記憶の棺を、店先に並べるな」
灰島は、そこでほんの少しだけ目を細めた。
「棺ですか」
「中身が死んでいないなら、なおさら性質が悪い」
◇
店の奥には、古い帳簿があった。
最初に気づいたのは澪奈だった。
棚の下段、鍵付きの箱の奥に、革表紙の分厚い帳簿が収められていた。表紙は古びているが、最近も開かれている。手書きと印字が混ざった紙が挟み込まれ、古物商の仕入れ帳のようでいて、普通の品名ではない文字が並んでいた。
榊が灰島を見る。
「これは」
「帳簿を見るのは、あまり上品な客とは申せませんね」
「客じゃない。捜査だ」
「では、どこまでを物証として扱うのでしょう。記憶も、寿命も、血も、すべて品物でございます」
「品物にしたのはお前だ」
クラウディオが返した。
灰島は微笑む。
「買う方がいなければ、商売にはなりません」
榊は帳簿を開いた。
そこには、項目が並んでいた。
品名。
器の種類。
願いの分類。
成就日。
代償種別。
保存状態。
販売可否。
貸与可否。
回収元。
利用番号。
備考。
澪奈がページをめくるたびに、表情が硬くなっていく。
合格願望 記憶一部 人形眼 保存済
復縁願望 恋慕記憶 指輪 販売可
延命願望 寿命残量 懐中時計 貸与可
復讐願望 憎悪記憶 鍵 調整中
承認願望 孤独記憶 写真立て 販売可
血液支払 契約血痕 小瓶 分割保存
榊は歯を食いしばった。
「利用番号がある」
澪奈は端末を取り出し、押収済みの《願い屋》通知履歴と照合する。
「一致しています」
榊が顔を上げる。
「どれが」
「複数です。補欠合格の少女、恋人と復縁した女性、父を助けた男性に対応する記録があります。完全な個人名は書かれていませんが、利用番号、成就日、代償種別が一致しています」
クラウディオは帳簿を覗き込んだ。
「几帳面だな。悪趣味な商売人ほど帳簿をつける。地獄にも経理部があるらしい」
灰島は言った。
「商売には記録が必要です」
「犯罪にもな」
榊が低く返す。
澪奈はさらにページをめくった。
ある行で、手が止まる。
そこだけ、文字の書き方が少し違っていた。品名ではなく、貸与先の欄に施設名が記されている。
貸与先:東都認知生命研究センター
検体名:願望記憶残滓
用途:反応観察
回収予定:未定
資料室で見た時よりも、澪奈の顔色が明らかに変わった。
「榊さん」
榊が帳簿を覗き込む。
彼の眉が深く寄った。
「この施設名、見覚えがある」
澪奈は端末で検索しようとして、すぐに指を止めた。
「法医学関連の資料にも出てきます。表向きは、認知機能と生命科学の民間研究施設です。警察庁の外部委託資料にも、名前だけは」
榊の声が低くなる。
「東都認知生命研究センター」
ルストはクラウディオを見た。
「久遠院か」
クラウディオは、少し黙った。
ほんの短い沈黙だった。
だが、そこには前章の科学捜査の檻が一瞬だけ影を落とした。完璧すぎる証拠。人を檻に入れるために積まれた科学。観察者の気配。人間の中身を剥がし、反応を見る目。
クラウディオは帳簿から目を離さずに言った。
「まだ名前を貼るな」
ルストは黙る。
クラウディオは続けた。
「だが、研究施設に願いの器が流れているなら、観察席どころか解剖台だな」
店内の鈴が、小さく鳴った。
灰島は何も言わない。
ただ、薄く微笑んでいる。
帳簿の上には、願いの分類、代償、器、貸与先が並んでいる。
願いは叶えられ、代償は奪われ、器に縛られ、棚に並び、売られ、貸し出され、研究施設へ流れていた。
クラウディオは、帳簿に手を置かなかった。
触れれば、その紙の向こうから誰かの記憶が絡みついてきそうだった。
彼は低く言った。
「願い屋は終わらせない。叶えた後からが、本当の商売だ」




