第99話 本心を聞かせてやる
帳簿の紙面には、願いが整列していた。
《宵待堂》の奥棚から見つかった革表紙の帳簿は、古物商の仕入れ記録の形をしていた。だが、そこに並ぶ文字は、通常の品名ではない。
合格願望 記憶一部 人形眼 保存済。
復縁願望 恋慕記憶 指輪 販売可。
延命願望 寿命残量 懐中時計 貸与可。
復讐願望 憎悪記憶 鍵 調整中。
承認願望 孤独記憶 写真立て 販売可。
血液支払 契約血痕 小瓶 分割保存。
榊は、そのページを押さえたまま、低く言った。
「この帳簿、押収する」
灰島は微笑んでいた。
変わらず穏やかだった。白い手袋を嵌めた両手を前で重ね、棚の影に立っている。年齢不詳の顔には、狼狽も怒りもない。自分の店の奥に隠していた帳簿を開かれてなお、彼は客を迎えている店主の顔を崩さなかった。
「押収、でございますか」
「そうだ」
「記憶も、寿命も、血も、物証としてお持ち帰りになりますか」
榊の目が鋭くなる。
「人から奪ったものだ。物扱いで済ませる気はない」
「奪った、と断定なさる」
「差し出されたと言いたいのか」
灰島は、答えない。
答えないことが、答えだった。
澪奈は端末を取り出し、帳簿の記録を撮影しようとしていた。指が少し震えている。それでも、彼女は画面を合わせ、ページの文字を残そうとする。
「利用番号と、押収済み端末の通知履歴を照合します。少なくとも数件は一致しています。補欠合格の少女、復縁した女性、父親を助けた男性。この帳簿の記録と、《願い屋》の利用履歴が対応しています」
榊は頷いた。
「灰島、仕入れ元も貸与先も全部出してもらう」
「商売上の信用に関わります」
「人の記憶と寿命を売っておいて、信用を語るな」
クラウディオは、帳簿の一行を見ていた。
貸与先:東都認知生命研究センター。
検体名:願望記憶残滓。
用途:反応観察。
回収予定:未定。
その文字の周囲だけ、紙がわずかに冷えて見えた。
ルストは店内の奥へ視線を向ける。
棚に並ぶ指輪、懐中時計、人形の目、赤い小瓶、銀の手鏡、名前の刻まれた鍵、写真のない写真立て。すべてが静かに置かれている。
だが、静かすぎた。
さっきまであった、薄く広がる血と記憶の匂いが、一点へ寄り始めている。
ルストの目が細くなる。
「離れろ」
クラウディオが帳簿から視線を上げた。
「何からだ」
その瞬間、店内の灯りが落ちた。
音もなく、すべての光が消える。
天井の小さな灯り。棚の奥の電球。帳簿を照らしていた卓上ランプ。ガラス戸の向こうから入っていたはずの商店街の薄明かり。それらが一斉に途切れた。
闇が落ちるというより、店全体が黒い布で覆われたようだった。
榊の声が飛ぶ。
「澪奈!」
「います!」
だが、声が遠い。
同じ店内にいるはずなのに、互いの距離が伸びている。棚の間隔が変わっている。さっきまで手の届く距離にあった帳簿が、黒い水の向こう側に沈んだように見えた。
澪奈の端末が白く点滅した。
「記録が飛んでいます。映像が、文字に置き換わっている」
画面には、撮影していたはずの帳簿ではなく、黒い文字だけが浮かんでいた。
願いを入力してください。
お支払いは、成就後に確定します。
聞きますか。
聞きますか。
聞きますか。
榊が舌打ちする。
「灰島!」
返事はなかった。
棚の影にいたはずの灰島は、いつの間にか消えていた。
白い手袋も、灰色の上着も、穏やかな笑みもない。
残っているのは、棚に並ぶ古物だけだった。
指輪が、小さく鳴った。
懐中時計の針が逆回転を始める。
人形の目が、瞬きするように淡く光った。
赤い小瓶の底で、血のような赤が揺れる。
銀の手鏡が、前に伏せられていたはずの角度から、ゆっくりこちらを向いた。
クラウディオは低く言った。
「店主が消えたな」
ルストは闇の奥を見る。
「店だけが残った」
「違う」
クラウディオの赤い目が、暗闇の中で細く光った。
「店が喋る」
その言葉に応えるように、棚の奥から声がした。
ひとつではない。
篠宮カナメの柔らかな声。
灰島の穏やかな声。
アプリ通知の無機質な響き。
利用者たちの泣き声。
願いを入力した時の息。
支払いを告げる文字。
笑い声。
すすり泣き。
合格したい。
戻ってきてほしい。
死なせたくない。
消えてほしい。
人気者になりたい。
忘れたい。
知りたい。
取り戻したい。
それらが闇の中で重なり、ひとつの輪郭を作った。
◇
それは、人の形をしていなかった。
しているようにも見えた。
棚の間に立つ影は、見る角度によって変わる。ある瞬間には篠宮カナメの笑顔に見え、次の瞬間には灰島の横顔になる。顔の位置に、アプリ通知の文字列が浮かぶこともあった。
ご依頼を承りました。
成就を確認しました。
お支払いは、願いが叶ったあとで。
追加の願いも承ります。
その文字がほどけると、銀の手鏡に映っていた黒い影が、店内へ滲み出したように見えた。赤い小瓶の中の血の光が脈を打ち、帳簿のページが勝手にめくれる。
それは、声であり、文字であり、鏡像であり、古物であり、欲望の残響だった。
クラウディオは、その輪郭を見て、唇を歪めた。
「なるほど。店主でもアプリでも占い師でもない。全部の間にいるのか」
闇の中の影が、笑った。
笑い声は篠宮のように優しく、灰島のように静かで、通知音のように冷たかった。
「願いがあるところに、窓口は生まれます」
榊の声が遠くから響く。
「ルスト! クラウディオ!」
棚が伸びている。
店内の距離が歪んでいる。
榊の姿は見えない。声だけが、いくつもの棚の向こうから反響している。
「くそ、店内の距離がおかしい」
澪奈の声も遠い。
「通知文が増えています。これはアプリではなく、空間そのものに出ています」
壁に、黒い文字が浮かんだ。
本心を確認しますか。
お支払いは、成就後に確定します。
聞きますか。
聞きますか。
聞きますか。
ルストはクラウディオの位置を確かめようとした。
だが、さっきまで隣にいたはずの気配が遠い。
棚の光が遮る。
赤い小瓶の列が揺れる。
銀の手鏡の鏡面が、闇の中でこちらを向く。
クラウディオの姿は、見えなかった。
声も、ない。
ルストは動かなかった。
不用意に動けば、この店の中で距離をさらに狂わされる。
闇の奥で、《願い屋》の影が彼へ向いた。
顔はない。
しかし、見られていると分かった。
「聞きたいでしょう」
声が、近くで囁いた。
ルストの指が、ほんのわずかに強張った。
その反応を、怪異は見逃さない。
「あの吸血鬼王が、あなたをどう思っているのか」
棚の指輪が鳴る。
懐中時計の針が止まる。
銀の手鏡の鏡面に、かすかな靄が浮かぶ。
「言葉にしない本心を、聞かせてあげましょう」
ルストは答えなかった。
闇が近づく。
声が形を変える。
篠宮の声で、優しく。
灰島の声で、丁寧に。
通知文のように、無機質に。
「伴侶だと思っているのか」
ルストの呼吸が、一瞬だけ止まった。
「監視者だと思っているのか」
棚の奥で、名前の刻まれた鍵がかすかに揺れた。
「それとも、過去の檻の名残でしかないのか」
言葉は、鋭かった。
優しい声で刺されたからこそ、深かった。
ルストは、クラウディオの声を思い出した。
くだらんな。鏡などに聞くまでもない。俺は貴様を迷惑な灰銀の荷物だと思っている。
あの時、彼は返さなかった。
クラウディオが茶化す時ほど、本音を隠していると知っていたから。
そして、別の声も思い出す。
覗くなよ、ルスト。
命令ではなかった。
頼みに近かった。
あの銀の手鏡を伏せた時の、黒い布の感触。
見ない、と言った自分の声。
そのあと、クラウディオが何も言わなかった沈黙。
ルストはさらに、過去の断片を思い出した。
帰るな、と言われた夜。
触るなと拒まれながら、離れろとは言われなかった距離。
今日は噛まないと告げた時の、手首の近さ。
クラウディオが本当に嫌なら、もっと鋭く切ることを知っている。
必要ない相手なら、もっと綺麗に捨てることを知っている。
しかし、クラウディオが言葉で本心を渡さないことも知っている。
だから、知りたい。
その欲は確かにある。
なかったことにはできない。
ルストは、クラウディオが自分を何と呼ぶのか知りたかった。
伴侶か。
監視者か。
過去の檻か。
それとも、もっと別の何かなのか。
だが、それをこの怪異から聞くことは、違った。
クラウディオの沈黙を破ることではない。
沈黙を盗むことだ。
《願い屋》は、さらに囁いた。
「知りたいのに」
壁に文字が浮かぶ。
本心を確認しますか。
願いを入力してください。
聞きますか。
聞きますか。
聞きますか。
「願いは、否定しても願いです」
ルストは、ようやく口を開いた。
「いらない」
闇が一瞬、静かになった。
銀の手鏡の鏡面が、かすかに曇る。
《願い屋》が笑った。
今度は、少しだけ声に棘があった。
「怖いのですか」
ルストは、その声を正面から受けた。
怖い。
その言葉を、否定しようとは思わなかった。
知れば壊れるかもしれない。
聞けば戻れないかもしれない。
クラウディオが本当に自分を檻だと思っていたら。
監視者だと思っていたら。
過去の残響にすぎないと思っていたら。
その答えに傷つかない自信などない。
けれど、それでも違う。
怖いからではない。
恐れているから聞かないのではない。
クラウディオが言わないものを、怪異から買う気がないだけだ。
ルストは低く答えた。
「本人が言わないものを、お前から聞く気はない」
赤い小瓶が震えた。
指輪が鳴る。
懐中時計の針が逆回転する。
人形の目が、一斉にこちらを向いたように光った。
《願い屋》の声が重なる。
「本心を知らないまま、そばにいるのですか」
ルストは答えない。
「言葉がなくても、満たされるのですか」
答えない。
「聞けば、楽になるかもしれません」
ルストは静かに言った。
「楽になるために、あいつの中身を売らない」
闇が、少しだけ揺れた。
「それもまた、願いですね」
《願い屋》の声が、薄く笑う。
「知りたい。けれど聞かない。触れたい。けれど奪わない。待ちたい。けれど焦がれている。美しい願いです」
「願いにするな」
「願いは、名づけられなくても願いです」
「お前の棚には置かせない」
ルストの声が冷えた。
棚の硝子が、かすかに鳴る。
《願い屋》の輪郭が揺れた。
篠宮の笑顔が浮かび、灰島の横顔に変わり、通知の文字列へほどける。
お支払いは、成就後に確定します。
聞きますか。
聞きますか。
聞きますか。
「聞かない」
ルストは言った。
それは、第95話の「見ない」と同じだった。
銀の手鏡を伏せた時と同じ拒絶。
ただし、今回は鏡ではない。
声だ。
クラウディオの本心を、怪異が代わりに聞かせるという誘惑。
ルストは、その声ごと断った。
◇
暗闇の奥で、空気がわずかに動いた。
ルストはそれに気づいた。
棚の光が、ひとつずつずれる。
赤い小瓶の列の向こう。
銀の手鏡が作る影のさらに奥。
そこに、赤い目があった。
クラウディオだった。
彼は、闇の中に立っていた。
いつからそこにいたのかは分からない。
だが、今の言葉は聞いていた。
本人が言わないものを、お前から聞く気はない。
その一文を。
クラウディオは何も言わない。
礼もない。
茶化しもない。
いつものように、くだらんな、と切り捨てることもしない。
ただ、赤い目だけが、わずかに揺れていた。
ルストは彼を見た。
クラウディオは視線を逸らさなかった。
けれど、何も渡さなかった。
言葉も。
本心も。
答えも。
それでよかった。
《願い屋》の声が、闇の中でまた笑った。
「拒むのですね」
クラウディオが、ようやく口を開いた。
「安売りに付き合うほど、こいつは暇ではない」
声はいつもの調子に近かった。
近かったが、完全には戻っていない。
ルストは短く言った。
「聞いていたのか」
「耳はある」
「それだけか」
「それだけだ」
それ以上、ルストは聞かなかった。
クラウディオも言わなかった。
ただ、沈黙の質だけが変わっていた。
榊の声が遠くから響く。
「クラウディオ! ルスト!」
澪奈の端末が白く光る。
「文字が消えます。映像記録、戻ります!」
棚の奥で、帳簿のページが勝手に閉じる音がした。
壁に浮かんでいた通知文が、ひとつずつ剥がれるように消えていく。
願いを入力してください。
聞きますか。
お支払いは、成就後に確定します。
最後に残った文字だけが、闇の中で淡く光った。
願いは、否定しても願いです。
クラウディオはそれを見て、冷たく笑った。
「なら、覚えておけ」
闇の中で、彼の声が静かに落ちた。
「叶えられなかった願いも、願いだ」
《願い屋》は答えなかった。
笑い声だけが、棚の奥へ引いていく。
指輪の音が止まる。
懐中時計の針が止まる。
人形の目の光が消える。
赤い小瓶の底の血の光が沈む。
銀の手鏡が、ゆっくり伏せられた。
店内の灯りが戻った時、灰島はどこにもいなかった。
帳簿は閉じている。
だが、榊の手元には、開かれていたページの写真が残っていた。
澪奈の端末にも、乱れた映像と文字列がわずかに保存されている。
クラウディオは何も言わなかった。
ルストも、何も求めなかった。
ただ、さっきまでの闇よりも重い沈黙が、二人の間に残っていた。




