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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第7部 【願い屋は血を取る】

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第99話 本心を聞かせてやる



 帳簿の紙面には、願いが整列していた。


 《宵待堂》の奥棚から見つかった革表紙の帳簿は、古物商の仕入れ記録の形をしていた。だが、そこに並ぶ文字は、通常の品名ではない。


 合格願望 記憶一部 人形眼 保存済。


 復縁願望 恋慕記憶 指輪 販売可。


 延命願望 寿命残量 懐中時計 貸与可。


 復讐願望 憎悪記憶 鍵 調整中。


 承認願望 孤独記憶 写真立て 販売可。


 血液支払 契約血痕 小瓶 分割保存。


 榊は、そのページを押さえたまま、低く言った。


「この帳簿、押収する」


 灰島は微笑んでいた。


 変わらず穏やかだった。白い手袋を嵌めた両手を前で重ね、棚の影に立っている。年齢不詳の顔には、狼狽も怒りもない。自分の店の奥に隠していた帳簿を開かれてなお、彼は客を迎えている店主の顔を崩さなかった。


「押収、でございますか」


「そうだ」


「記憶も、寿命も、血も、物証としてお持ち帰りになりますか」


 榊の目が鋭くなる。


「人から奪ったものだ。物扱いで済ませる気はない」


「奪った、と断定なさる」


「差し出されたと言いたいのか」


 灰島は、答えない。


 答えないことが、答えだった。


 澪奈は端末を取り出し、帳簿の記録を撮影しようとしていた。指が少し震えている。それでも、彼女は画面を合わせ、ページの文字を残そうとする。


「利用番号と、押収済み端末の通知履歴を照合します。少なくとも数件は一致しています。補欠合格の少女、復縁した女性、父親を助けた男性。この帳簿の記録と、《願い屋》の利用履歴が対応しています」


 榊は頷いた。


「灰島、仕入れ元も貸与先も全部出してもらう」


「商売上の信用に関わります」


「人の記憶と寿命を売っておいて、信用を語るな」


 クラウディオは、帳簿の一行を見ていた。


 貸与先:東都認知生命研究センター。


 検体名:願望記憶残滓。


 用途:反応観察。


 回収予定:未定。


 その文字の周囲だけ、紙がわずかに冷えて見えた。


 ルストは店内の奥へ視線を向ける。


 棚に並ぶ指輪、懐中時計、人形の目、赤い小瓶、銀の手鏡、名前の刻まれた鍵、写真のない写真立て。すべてが静かに置かれている。


 だが、静かすぎた。


 さっきまであった、薄く広がる血と記憶の匂いが、一点へ寄り始めている。


 ルストの目が細くなる。


「離れろ」


 クラウディオが帳簿から視線を上げた。


「何からだ」


 その瞬間、店内の灯りが落ちた。


 音もなく、すべての光が消える。


 天井の小さな灯り。棚の奥の電球。帳簿を照らしていた卓上ランプ。ガラス戸の向こうから入っていたはずの商店街の薄明かり。それらが一斉に途切れた。


 闇が落ちるというより、店全体が黒い布で覆われたようだった。


 榊の声が飛ぶ。


「澪奈!」


「います!」


 だが、声が遠い。


 同じ店内にいるはずなのに、互いの距離が伸びている。棚の間隔が変わっている。さっきまで手の届く距離にあった帳簿が、黒い水の向こう側に沈んだように見えた。


 澪奈の端末が白く点滅した。


「記録が飛んでいます。映像が、文字に置き換わっている」


 画面には、撮影していたはずの帳簿ではなく、黒い文字だけが浮かんでいた。


 願いを入力してください。


 お支払いは、成就後に確定します。


 聞きますか。


 聞きますか。


 聞きますか。


 榊が舌打ちする。


「灰島!」


 返事はなかった。


 棚の影にいたはずの灰島は、いつの間にか消えていた。


 白い手袋も、灰色の上着も、穏やかな笑みもない。


 残っているのは、棚に並ぶ古物だけだった。


 指輪が、小さく鳴った。


 懐中時計の針が逆回転を始める。


 人形の目が、瞬きするように淡く光った。


 赤い小瓶の底で、血のような赤が揺れる。


 銀の手鏡が、前に伏せられていたはずの角度から、ゆっくりこちらを向いた。


 クラウディオは低く言った。


「店主が消えたな」


 ルストは闇の奥を見る。


「店だけが残った」


「違う」


 クラウディオの赤い目が、暗闇の中で細く光った。


「店が喋る」


 その言葉に応えるように、棚の奥から声がした。


 ひとつではない。


 篠宮カナメの柔らかな声。


 灰島の穏やかな声。


 アプリ通知の無機質な響き。


 利用者たちの泣き声。


 願いを入力した時の息。


 支払いを告げる文字。


 笑い声。


 すすり泣き。


 合格したい。


 戻ってきてほしい。


 死なせたくない。


 消えてほしい。


 人気者になりたい。


 忘れたい。


 知りたい。


 取り戻したい。


 それらが闇の中で重なり、ひとつの輪郭を作った。


     ◇


 それは、人の形をしていなかった。


 しているようにも見えた。


 棚の間に立つ影は、見る角度によって変わる。ある瞬間には篠宮カナメの笑顔に見え、次の瞬間には灰島の横顔になる。顔の位置に、アプリ通知の文字列が浮かぶこともあった。


 ご依頼を承りました。


 成就を確認しました。


 お支払いは、願いが叶ったあとで。


 追加の願いも承ります。


 その文字がほどけると、銀の手鏡に映っていた黒い影が、店内へ滲み出したように見えた。赤い小瓶の中の血の光が脈を打ち、帳簿のページが勝手にめくれる。


 それは、声であり、文字であり、鏡像であり、古物であり、欲望の残響だった。


 クラウディオは、その輪郭を見て、唇を歪めた。


「なるほど。店主でもアプリでも占い師でもない。全部の間にいるのか」


 闇の中の影が、笑った。


 笑い声は篠宮のように優しく、灰島のように静かで、通知音のように冷たかった。


「願いがあるところに、窓口は生まれます」


 榊の声が遠くから響く。


「ルスト! クラウディオ!」


 棚が伸びている。


 店内の距離が歪んでいる。


 榊の姿は見えない。声だけが、いくつもの棚の向こうから反響している。


「くそ、店内の距離がおかしい」


 澪奈の声も遠い。


「通知文が増えています。これはアプリではなく、空間そのものに出ています」


 壁に、黒い文字が浮かんだ。


 本心を確認しますか。


 お支払いは、成就後に確定します。


 聞きますか。


 聞きますか。


 聞きますか。


 ルストはクラウディオの位置を確かめようとした。


 だが、さっきまで隣にいたはずの気配が遠い。


 棚の光が遮る。


 赤い小瓶の列が揺れる。


 銀の手鏡の鏡面が、闇の中でこちらを向く。


 クラウディオの姿は、見えなかった。


 声も、ない。


 ルストは動かなかった。


 不用意に動けば、この店の中で距離をさらに狂わされる。


 闇の奥で、《願い屋》の影が彼へ向いた。


 顔はない。


 しかし、見られていると分かった。


「聞きたいでしょう」


 声が、近くで囁いた。


 ルストの指が、ほんのわずかに強張った。


 その反応を、怪異は見逃さない。


「あの吸血鬼王が、あなたをどう思っているのか」


 棚の指輪が鳴る。


 懐中時計の針が止まる。


 銀の手鏡の鏡面に、かすかな靄が浮かぶ。


「言葉にしない本心を、聞かせてあげましょう」


 ルストは答えなかった。


 闇が近づく。


 声が形を変える。


 篠宮の声で、優しく。


 灰島の声で、丁寧に。


 通知文のように、無機質に。


「伴侶だと思っているのか」


 ルストの呼吸が、一瞬だけ止まった。


「監視者だと思っているのか」


 棚の奥で、名前の刻まれた鍵がかすかに揺れた。


「それとも、過去の檻の名残でしかないのか」


 言葉は、鋭かった。


 優しい声で刺されたからこそ、深かった。


 ルストは、クラウディオの声を思い出した。


 くだらんな。鏡などに聞くまでもない。俺は貴様を迷惑な灰銀の荷物だと思っている。


 あの時、彼は返さなかった。


 クラウディオが茶化す時ほど、本音を隠していると知っていたから。


 そして、別の声も思い出す。


 覗くなよ、ルスト。


 命令ではなかった。


 頼みに近かった。


 あの銀の手鏡を伏せた時の、黒い布の感触。


 見ない、と言った自分の声。


 そのあと、クラウディオが何も言わなかった沈黙。


 ルストはさらに、過去の断片を思い出した。


 帰るな、と言われた夜。


 触るなと拒まれながら、離れろとは言われなかった距離。


 今日は噛まないと告げた時の、手首の近さ。


 クラウディオが本当に嫌なら、もっと鋭く切ることを知っている。


 必要ない相手なら、もっと綺麗に捨てることを知っている。


 しかし、クラウディオが言葉で本心を渡さないことも知っている。


 だから、知りたい。


 その欲は確かにある。


 なかったことにはできない。


 ルストは、クラウディオが自分を何と呼ぶのか知りたかった。


 伴侶か。


 監視者か。


 過去の檻か。


 それとも、もっと別の何かなのか。


 だが、それをこの怪異から聞くことは、違った。


 クラウディオの沈黙を破ることではない。


 沈黙を盗むことだ。


 《願い屋》は、さらに囁いた。


「知りたいのに」


 壁に文字が浮かぶ。


 本心を確認しますか。


 願いを入力してください。


 聞きますか。


 聞きますか。


 聞きますか。


「願いは、否定しても願いです」


 ルストは、ようやく口を開いた。


「いらない」


 闇が一瞬、静かになった。


 銀の手鏡の鏡面が、かすかに曇る。


 《願い屋》が笑った。


 今度は、少しだけ声に棘があった。


「怖いのですか」


 ルストは、その声を正面から受けた。


 怖い。


 その言葉を、否定しようとは思わなかった。


 知れば壊れるかもしれない。


 聞けば戻れないかもしれない。


 クラウディオが本当に自分を檻だと思っていたら。


 監視者だと思っていたら。


 過去の残響にすぎないと思っていたら。


 その答えに傷つかない自信などない。


 けれど、それでも違う。


 怖いからではない。


 恐れているから聞かないのではない。


 クラウディオが言わないものを、怪異から買う気がないだけだ。


 ルストは低く答えた。


「本人が言わないものを、お前から聞く気はない」


 赤い小瓶が震えた。


 指輪が鳴る。


 懐中時計の針が逆回転する。


 人形の目が、一斉にこちらを向いたように光った。


 《願い屋》の声が重なる。


「本心を知らないまま、そばにいるのですか」


 ルストは答えない。


「言葉がなくても、満たされるのですか」


 答えない。


「聞けば、楽になるかもしれません」


 ルストは静かに言った。


「楽になるために、あいつの中身を売らない」


 闇が、少しだけ揺れた。


「それもまた、願いですね」


 《願い屋》の声が、薄く笑う。


「知りたい。けれど聞かない。触れたい。けれど奪わない。待ちたい。けれど焦がれている。美しい願いです」


「願いにするな」


「願いは、名づけられなくても願いです」


「お前の棚には置かせない」


 ルストの声が冷えた。


 棚の硝子が、かすかに鳴る。


 《願い屋》の輪郭が揺れた。


 篠宮の笑顔が浮かび、灰島の横顔に変わり、通知の文字列へほどける。


 お支払いは、成就後に確定します。


 聞きますか。


 聞きますか。


 聞きますか。


「聞かない」


 ルストは言った。


 それは、第95話の「見ない」と同じだった。


 銀の手鏡を伏せた時と同じ拒絶。


 ただし、今回は鏡ではない。


 声だ。


 クラウディオの本心を、怪異が代わりに聞かせるという誘惑。


 ルストは、その声ごと断った。


     ◇


 暗闇の奥で、空気がわずかに動いた。


 ルストはそれに気づいた。


 棚の光が、ひとつずつずれる。


 赤い小瓶の列の向こう。


 銀の手鏡が作る影のさらに奥。


 そこに、赤い目があった。


 クラウディオだった。


 彼は、闇の中に立っていた。


 いつからそこにいたのかは分からない。


 だが、今の言葉は聞いていた。


 本人が言わないものを、お前から聞く気はない。


 その一文を。


 クラウディオは何も言わない。


 礼もない。


 茶化しもない。


 いつものように、くだらんな、と切り捨てることもしない。


 ただ、赤い目だけが、わずかに揺れていた。


 ルストは彼を見た。


 クラウディオは視線を逸らさなかった。


 けれど、何も渡さなかった。


 言葉も。


 本心も。


 答えも。


 それでよかった。


 《願い屋》の声が、闇の中でまた笑った。


「拒むのですね」


 クラウディオが、ようやく口を開いた。


「安売りに付き合うほど、こいつは暇ではない」


 声はいつもの調子に近かった。


 近かったが、完全には戻っていない。


 ルストは短く言った。


「聞いていたのか」


「耳はある」


「それだけか」


「それだけだ」


 それ以上、ルストは聞かなかった。


 クラウディオも言わなかった。


 ただ、沈黙の質だけが変わっていた。


 榊の声が遠くから響く。


「クラウディオ! ルスト!」


 澪奈の端末が白く光る。


「文字が消えます。映像記録、戻ります!」


 棚の奥で、帳簿のページが勝手に閉じる音がした。


 壁に浮かんでいた通知文が、ひとつずつ剥がれるように消えていく。


 願いを入力してください。


 聞きますか。


 お支払いは、成就後に確定します。


 最後に残った文字だけが、闇の中で淡く光った。


 願いは、否定しても願いです。


 クラウディオはそれを見て、冷たく笑った。


「なら、覚えておけ」


 闇の中で、彼の声が静かに落ちた。


「叶えられなかった願いも、願いだ」


 《願い屋》は答えなかった。


 笑い声だけが、棚の奥へ引いていく。


 指輪の音が止まる。


 懐中時計の針が止まる。


 人形の目の光が消える。


 赤い小瓶の底の血の光が沈む。


 銀の手鏡が、ゆっくり伏せられた。


 店内の灯りが戻った時、灰島はどこにもいなかった。


 帳簿は閉じている。


 だが、榊の手元には、開かれていたページの写真が残っていた。


 澪奈の端末にも、乱れた映像と文字列がわずかに保存されている。


 クラウディオは何も言わなかった。


 ルストも、何も求めなかった。


 ただ、さっきまでの闇よりも重い沈黙が、二人の間に残っていた。



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