第100話 言わない王
願いは、否定しても願いです。
その文字が、闇の奥でほどけた。
《宵待堂》の棚に浮かんでいた通知文が、一文字ずつ剥がれ、黒い床へ落ちる前に消えていく。赤い小瓶の底で揺れていた血の光は、沈殿するように静まり、懐中時計の逆回転も止まった。
けれど、店は戻らなかった。
灯りは落ちたまま。
棚の古物だけが、暗闇の中で淡く光っている。
指輪は、誰かの恋の始まりを閉じ込めたまま、銀の輪を冷たく光らせていた。懐中時計は、誰かから削られた寿命を、秒針のない内側でまだ数えている。人形の目は、母親を忘れた少女の空白を黒い硝子の奥に沈め、赤い小瓶は願いの支払いとして抜かれた血の気配を細く漂わせている。
銀の手鏡は伏せられている。
だが、伏せられているはずなのに、こちらを見ているようだった。
クラウディオは闇の中に立っていた。
ルストの声は、まだ耳の奥に残っている。
本人が言わないものを、お前から聞く気はない。
その言葉を、彼は聞いていた。
闇の奥で。
棚の影に隔てられた場所で。
ルストが、自分の本心を怪異から聞くことを拒んだ瞬間を。
クラウディオは、何も言わなかった。
言うべきことがなかったわけではない。
言えば壊れるものがある。
言わなければ傷つくものもある。
そのどちらも知っていて、それでも彼は言わない方を選ぶ男だった。
榊の声が、棚の向こうから聞こえた。
「クラウディオ! ルスト!」
声は遠い。
すぐ近くにいるはずなのに、古い商店街の端から呼ばれているように歪んでいた。
澪奈の声も途切れた。
「記録が……空間が、分かれて……榊さん、そっちに行けません」
クラウディオは舌打ちした。
「まだ腹の中か」
ルストが、少し離れた位置から言った。
「出口が動いている」
クラウディオはそちらへ目を向けた。
暗闇の中で、ルストの輪郭はかろうじて見えた。灰銀の髪。背筋の通った影。彼は棚の間に立ち、闇の奥を読んでいる。
その距離が、急に遠ざかった。
棚が伸びた。
さっきまで一本だった通路が、黒い水面のように裂ける。帳簿の紙片が空中へ舞い上がり、二人の間を白く遮った。ページには文字が浮かんでいる。
聞きますか。
確認しますか。
本心を表示しますか。
お支払いは成就後に確定します。
クラウディオが動こうとした瞬間、銀の手鏡が床の上で起き上がった。
鏡面に、棚が映る。
棚の向こうにルストが映る。
だが、次の瞬間、鏡の像が割れた。
ルストの姿が、闇の奥へ沈む。
「ルスト」
呼んだ声は、途中で途切れた。
まるで店が声の端を噛み切ったようだった。
闇が厚くなる。
赤い小瓶の列が、クラウディオの前で脈打つ。
人形の目が、一斉に瞬きをした。
棚の奥から、複数の声が重なる。
欲しい言葉ではありませんか。
本物でなくても、言葉は刺さる。
クラウディオは目を細めた。
「商売人の癖に、押し売りが下手だな」
返事はなかった。
ただ、店の奥で通路が折れ曲がる音がした。
◇
ルストは、暗い通路に取り残されていた。
さっきまで隣にあったはずのクラウディオの気配は遠い。だが、完全に消えたわけではない。血の気配、古い王の匂い、人形に触れる指先の冷たさ。それらは、薄い糸のように闇の向こうへ続いている。
棚には、赤い小瓶が並んでいた。
銀の手鏡。
指輪。
懐中時計。
写真のない写真立て。
それぞれの器が、微かに光っている。
指輪からは、知らない恋人の声が漏れていた。
あの日、雨だったね。
懐中時計からは、老いた息の音がする。
まだ、生きてるのか。
人形の目には、白い病室が浮かぶ。
すみません。どなたですか。
赤い小瓶は、血ではないものを脈打たせている。
ルストはその間を進んだ。
足元に、帳簿の紙片が落ちている。
貸与。
反応観察。
願望記憶残滓。
東都認知生命研究センター。
文字は読もうとすると滲み、別の言葉へ変わる。
聞きますか。
確認しますか。
本心を表示しますか。
ルストは踏み越えた。
その時、通路の奥から声がした。
「貴様など必要ない」
クラウディオの声だった。
冷たい。
高慢。
人を突き放すような響き。
赤い目の吸血鬼王が、皮肉げに笑う時の声に似ていた。
ルストの指先が、わずかに強張った。
闇の奥から、クラウディオの輪郭をまとった影が現れる。
黒髪。
赤い目。
人形師の細い指。
薄い唇。
整った顔。
だが、どこか浅い。
影は、クラウディオの顔で笑った。
「貴様はただ、昔の噛み跡を後生大事に持っているだけだ」
ルストは動かない。
「俺は一人で足りる」
影が近づく。
「灰銀。お前がいなくても、俺は壊れない」
その言葉は、刺さった。
偽物だと分かっている。
声の温度が違う。
目の奥が違う。
皮肉の重さが違う。
それでも、必要ない、という言葉は空気より軽くはなかった。第99話で《願い屋》が突いたものと同じ場所へ、また触れてくる。
伴侶か。
監視者か。
過去の檻の名残か。
必要とされているのか。
ただ古い噛み跡に縛られているだけなのか。
ルストは、その疑問が自分の中にあることを知っていた。
知っているからこそ、怪異はそこへ声を差し込む。
影はさらに言った。
「そばにいるな。目障りだ」
ルストは、そこで息を吐いた。
「浅い」
影の笑みがわずかに揺れる。
「何を」
「その程度なら、あいつの方がまだ傷つけ方が上手い」
ルストの声は低かった。
痛みはある。
だが、見誤るほどではない。
クラウディオなら、もっと鋭く、もっと意地悪く、もっと逃げ場のない言い方をする。
ただ冷たく突き放すだけでは足りない。
必要ない、と言うなら、必要だと思い込ませてから切る。目障りだと言うなら、こちらが目を逸らせない場所に立ったまま言う。迷惑だと言うなら、離れないまま言う。触るなと言うなら、離れろとは言わない。
クラウディオのひどさは、もっと複雑だった。
影は、ただ冷たい言葉を並べている。
それでは足りない。
「クラウディオならもっと鋭く、もっと意地悪く、もっと逃げ場のない言い方をする」
ルストは言った。
「偽物は浅い」
影の赤い目が歪む。
「必要ないと言われるのが怖いのですね」
ルストは影を見据えた。
「怖いなら、もっと本物を連れてこい」
影の輪郭が揺れる。
棚の指輪が鳴った。
銀の手鏡の鏡面に、黒い波紋が立つ。
「本物でなくても、言葉は刺さる」
影の声は、《願い屋》の声へ混じった。
「欲しい言葉ではありませんか。否定でも、拒絶でも、聞ければ満たされる。知らないままより、傷つく方がましでしょう」
ルストは一歩進んだ。
「お前は、あいつじゃない」
影の顔が、ほんの一瞬だけ崩れた。
篠宮の笑顔。
灰島の横顔。
アプリ通知の文字。
それらがクラウディオの顔の下から覗く。
ルストは静かに言った。
「真似をするなら、嫌なところまで似せろ」
その瞬間、影の背後の棚が割れるように光った。
赤い小瓶の列が震え、人形の目が閉じる。通路の奥に、別の闇が開いた。
◇
クラウディオの前にも、影が現れていた。
棚には、人形の目が並んでいる。
記憶の棺。
銀の手鏡。
名前の刻まれた鍵。
写真のない写真立て。
それらの奥から、灰銀の髪をした影が歩いてくる。
ルストに似ていた。
背筋の通った立ち方。
無駄のない足取り。
低く落ち着いた声。
冷えた目。
狩人の静かな佇まい。
だが、目が違う。
ルストの目は冷たいだけではない。
見る時は、もっと深く見る。黙る時は、もっと重く黙る。怒る時は、声を荒げなくても、場の温度を下げる。
この影は、形だけをなぞっている。
影はクラウディオを見て、静かに言った。
「ただの管理対象だ」
クラウディオの目が細くなる。
その言葉は、闇の中にまっすぐ落ちた。
ただの管理対象。
監視対象。
危険物。
過去から続く責任。
見張るべき吸血鬼王。
災厄の名残。
それは、クラウディオの内側にある古い不安へ触れた。
ルストは自分を選んでいるのか。
それとも、見張っているだけなのか。
そばにいるのは、必要だからか。
危険だからか。
過去の王として、放置できないからか。
影は続ける。
「俺はお前を見張っているだけだ」
クラウディオは笑った。
冷たく。
いつものように。
ただし、声は少しだけ冷えすぎていた。
「芸がないな。あの男は、そんなに分かりやすく俺を突き放さない」
影は無表情のまま立っている。
「お前がまた壊れないように、管理している」
「ルストを真似るなら、まず無駄口を減らせ」
クラウディオは一歩も退かない。
「必要だからいるわけじゃない」
「管理対象などと言うには、あいつは俺に構いすぎる」
影の眉がわずかに動いた。
「危険だからそばにいる」
「本物なら、そんな安い言葉を使う前に黙る」
クラウディオの赤い目が、影を射抜く。
「お前はルストの沈黙を知らない」
影は、その言葉を理解しなかった。
似せた顔のまま、ただ次の台詞を重ねる。
「お前は、自由にしていい相手ではない」
クラウディオは、そこで少しだけ口元を歪めた。
痛くないわけではない。
その言葉も、確かに刺さる。
自由。
管理。
監視。
過去から続く責任。
ルストがそばにいる理由を、クラウディオは何度も疑ったことがある。自分から問いはしない。問えば答えを聞かなければならない。聞けば、何かが変わる。
だから、言わない。
聞かない。
逃げる。
影はその逃げ場に声を入れてきた。
だが、雑だった。
ルストは、もっと厄介だ。
彼は管理するなどと簡単に言わない。
言葉を減らして、そこにいる。
触るなと言えば触れない。
離れろと言わなければ離れない。
問えば逃げるだろうと見抜きながら、必要なところでは待つ。
ルストのひどさは、単純な支配ではない。
もっと静かで、もっと重く、もっと逃げ場がない。
クラウディオは冷笑した。
「管理するなら、もっと上手くやれ。お前は雑だ」
影の周囲に、通知文字が浮かぶ。
欲しい言葉ではありませんか。
本物でなくても、言葉は刺さる。
確認しますか。
本心を表示しますか。
「本物でなくても、言葉は刺さる、か」
クラウディオは呟いた。
「実に安い慰めだな。偽物の刃で切って、血が出たら本物だと言うつもりか」
影の声が、《願い屋》の声に変わる。
「否定しても、傷は残ります」
「残るだろうな」
クラウディオは静かに認めた。
「だが、残った傷を商品にされる筋合いはない」
人形の目が一斉に光った。
銀の手鏡が、勝手に起き上がろうとする。
クラウディオは足元に落ちていた帳簿の紙片を踏んだ。
紙片には、こう書かれていた。
反応観察。
願望記憶残滓。
東都認知生命研究センター。
クラウディオの目が一段冷える。
「願いだけでなく、反応も集めているわけだ」
影が言った。
「それもまた、願いです」
「何でも願いにするな。商売人根性が下品だ」
クラウディオは影へ一歩近づいた。
「真似をするなら、嫌なところまで似せろ」
影が揺れる。
「本物なら、今ここで黙る。そして俺を苛立たせる。お前は喋りすぎだ」
クラウディオは、影の横を通り過ぎようとした。
影が手を伸ばす。
その手はルストに似ていた。
骨ばった指。
冷たい気配。
触れられそうになった瞬間、クラウディオの表情が消えた。
「触るな」
影の手が止まる。
「それは本物に言う言葉では?」
「本物なら、止まる」
影の輪郭が崩れた。
灰銀の髪がほどけ、通知文字になり、黒い煙へ変わる。
クラウディオは低く言った。
「お前は、あいつじゃない」
棚の奥で、光が割れた。
◇
通路が崩れるように繋がった。
棚が左右へずれ、闇が薄くなる。
赤い小瓶の光が一本の線になり、懐中時計の針が一斉に止まる。人形の目が閉じ、写真のない写真立ての中に、白いノイズのような光だけが残った。
クラウディオとルストは、同じ棚の前に戻っていた。
そこには、銀の手鏡が伏せられている。
赤い小瓶が並んでいる。
帳簿は閉じかけている。
榊の声が、さっきより近くなった。
「クラウディオ! ルスト! 聞こえるか!」
澪奈の声も届く。
「帳簿の記録、一部だけ残せました。ただ、文字が消えかけています」
榊が叫ぶ。
「今は出るぞ。店ごと沈む」
クラウディオは帳簿へ視線を向けた。
「沈むなら、帳簿だけ浮かせろ」
「無茶を言うな!」
「では沈むな」
榊の怒鳴り声が、少しだけ現実味を戻した。
だが、クラウディオとルストの間には、まださっきの影が残っている。
偽物の声。
貴様など必要ない。
ただの管理対象だ。
どちらも本物ではない。
分かっている。
けれど、言葉は残る。
ルストはクラウディオを見た。
クラウディオの沈黙が違う。
前話の闇の奥で、ルストが怪異へ言った言葉。
本人が言わないものを、お前から聞く気はない。
クラウディオはそれを聞いていた。
ルストは、今になって確信した。
クラウディオの視線が、わずかに逃げる。
それで十分だった。
「聞いていたのか」
ルストが問う。
クラウディオは、すぐには答えなかった。
ほんの短い間があった。
その間に、棚の奥で通知文字がまた浮かびかける。
本心を確認しますか。
クラウディオはそれを一瞥し、冷たく笑った。
「さあな」
いつものはぐらかしだった。
それで終わりにするための声。
何も言わず、何も渡さず、自分の中にあるものを閉じておくための返事。
ルストは静かに言った。
「そうか」
短い返事だった。
だが、その表情が、わずかに険しくなる。
クラウディオは気づいた。
当然、気づいた。
ルストは怪異から聞かなかった。
本人が言わないものを怪異から聞く気はないと拒んだ。
それなのに、本人はまた言わない。
その小さな痛みが、ルストの灰色の目に沈んだ。
クラウディオは口を開きかけた。
何かを言う余地はあった。
礼ではなくても。
答えではなくても。
せめて、今の「さあな」を戻す言葉くらいは。
だが、彼は言わなかった。
王だった男。
今も吸血鬼王である男。
願い屋にも、鏡にも、偽物にも、本心を渡さなかった男。
その沈黙が誰かを守ることもある。
同時に、誰かを傷つけることもある。
棚の奥で、帳簿のページがまためくれた。
東都認知生命研究センター。
反応観察。
願望記憶残滓。
文字は消えかけている。
榊の声が近づく。
「二人とも、早くしろ!」
澪奈が叫ぶ。
「出口、今なら繋がっています!」
ルストはクラウディオから視線を外した。
「行くぞ」
クラウディオは頷かない。
ただ、歩き出した。
赤い小瓶の光が薄れ、銀の手鏡は伏せられたまま沈黙している。
背後で、誰かの声が囁いた。
欲しい言葉ではありませんか。
クラウディオは振り返らなかった。
ルストも振り返らなかった。
ただ、二人の間には、偽物ではない沈黙が残った。
クラウディオは、その表情に気づいた。
それでも、王は何も言わなかった。




