第101話 なら身体に聞く
安全拠点の蛍光灯は、夜を白く塗りつぶしていた。
《宵待堂》から脱出した直後、榊が確保していた警察側の一時拠点へ、四人は戻された。霧杜中央署から少し離れた、表向きは資料保管用の会議室。窓には遮光ブラインドが下ろされ、扉には簡易の封鎖札と、澪奈が急いで貼った観測用の符号シールが並んでいる。
机の上には、かろうじて持ち出せた記録が置かれていた。
帳簿そのものは、異界化した《宵待堂》の奥で閉じられた。紙の大半は回収できていない。けれど、榊の端末と澪奈の解析機には、開かれていたページの写真と、乱れた映像記録が残っていた。
それだけでも、十分に厄介だった。
「まずは帳簿だ。消える前に押さえる」
榊は上着を椅子にかけることもせず、端末を接続した。画面には、ノイズ混じりの帳簿画像が映っている。文字の一部は黒く滲み、ところどころ通知文に置き換わっていた。
願いを入力してください。
成就を確認しました。
貸与可。
反応観察。
お支払いは継続中です。
それらが、帳簿の項目と重なっている。
澪奈は解析端末を立ち上げ、保存できた画像を複数の画面へ展開した。
「記録の一部が欠けています。でも、施設名と貸与記録は残っています」
榊が画面を覗き込む。
「東都認知生命研究センター」
「はい。貸与先の欄に複数回出ています。願望記憶残滓、契約口、寿命残量、恋慕記憶。項目名は通常の研究記録ではありえませんが、帳簿上は器の貸与記録として残っています」
榊は眉間を押さえた。
「また科学の側に戻るのか」
「可能性は高いです」
澪奈は別の資料を開いた。
「この貸与記録、法医学関連施設の資料と照合できます。東都認知生命研究センター。前章の事件資料にも、関連名義がありました。直接の証明にはなりませんが、科学捜査の檻の時に出てきた外部委託先リストと、一部の関連法人名が重なります」
榊の顔が硬くなる。
クラウディオは、その画面を見ていた。
見てはいた。
だが、集中しきっていなかった。
赤い瞳は文字を追っている。けれど、その奥にある意識は、別の場所へ引っかかっている。
《宵待堂》の暗闇。
浮かぶ通知文。
聞きたいでしょう。
あの吸血鬼王が、あなたをどう思っているのか。
言葉にしない本心を、聞かせてあげましょう。
そして、ルストの声。
本人が言わないものを、お前から聞く気はない。
クラウディオは、その言葉を聞いていた。
聞いていたのに、何も言わなかった。
いまも言っていない。
ルストは、部屋の壁際に立っていた。灰銀の髪に蛍光灯の白が落ちている。彼もまた帳簿の解析を見ているようで、視線は時折クラウディオへ戻った。
榊は二人を見比べ、眉をひそめた。
「……お前ら、後にしろ」
クラウディオが片眉を上げる。
「何をだ」
「その面倒くさい空気だ」
「空気にまで職務質問する気か。勤勉だな」
「お前らの空気は、たまに証拠品より扱いに困る」
澪奈が資料から顔を上げずに言った。
「できれば、解析端末の近くで怪異より面倒な反応を起こさないでください」
クラウディオは鼻で笑った。
「失礼な。俺は端末より品がある」
榊は即答した。
「怪異よりはな」
「褒め方が雑すぎる」
軽口は交わされた。
だが、それで消える緊張ではなかった。
帳簿に残された語が、画面の中で不規則に揺れている。
反応観察。
願望記憶残滓。
契約口。
貸与中。
澪奈が画面の一部を拡大する。
「この『契約口』という項目ですが、第96話の瀬戸雅也さんの手首にあった赤い輪の痕と関連している可能性があります。契約として命を噛む、というクラウディオさんの見立てと一致します」
榊は低く言う。
「願いの器を貸し出し、反応を観察する。誰かが、願いの代償を研究材料にしている」
クラウディオは、ようやく画面へ意識を戻した。
「願いを瓶に詰めた後は、研究室で観察か。人間の好奇心は腐っても勤勉だな」
ルストが静かに言う。
「久遠院を思い出しているのか」
クラウディオは画面から目を離さない。
「まだ名前を貼るな」
「前にも言った」
「何度でも言う。名前を貼ると、人間は安心してその札しか見なくなる。皿を用意した奴と、料理した奴と、味見した奴が同じとは限らない」
榊が短く息を吐いた。
「なら、全部洗う」
「ようやく警察らしくなったな」
「黙れ」
榊は端末を操作した。
「澪奈、施設名の関連記録を洗えるだけ洗え。消えた帳簿の復元も並行だ」
「分かりました」
澪奈は頷き、解析に戻る。
事件は進んでいた。
東都認知生命研究センター。
願いの器。
反応観察。
契約口。
警察側が追うべき手がかりは増えている。
だが、クラウディオとルストの間には、それとは別のものが残っていた。
言われなかった言葉。
聞かれなかった本心。
拒まれた怪異。
はぐらかした王。
◇
解析作業が一段落したのは、深夜を少し回ったころだった。
榊は別室へ連絡に出た。澪奈は保存したデータを二重化し、端末に外部接続をかけないまま、隔離環境で復元を続けている。
会議室の隅には、熱の抜けた紙コップのコーヒーが置かれていた。誰も飲み切っていない。コーヒーは、捜査現場における気休めの代表格だ。飲んでも眠気は消えないし、現実も軽くならない。ただ苦い水が増えるだけである。
クラウディオは、部屋を出た。
廊下は静かだった。
夜間照明だけが足元を照らしている。窓のない廊下には、外の気配がない。病院でも警察署でもない、臨時拠点特有の仮の匂い。人が長く留まることを前提にしていない場所の空気だった。
彼が廊下の奥へ進むと、背後から足音がついてきた。
ルストだ。
振り返らなくても分かる。
クラウディオは足を止めなかった。
「何だ。怪異の次は灰銀の尾行か」
「尾行ではない」
「では徘徊か。古い吸血鬼にも夜歩きの習慣があるとはな」
「話がある」
「俺にはない」
「ある」
短い断定だった。
クラウディオは、ようやく足を止めた。
廊下の突き当たりには、使われていない小さな会議室があった。扉は半開きで、中は暗い。クラウディオはそこへ入り、壁際で振り返った。
「お前が怪異の安売り心理診断を断ったのは賢明だったな。俺の本心など聞いたところで、お前の気分が悪くなるだけだ」
いつもの調子だった。
軽い皮肉。
早口ではないが、先に逃げ道を作る声。
ルストは、扉を閉めた。
音は小さかった。
けれど、閉じられたことで、廊下の気配が遠のいた。
ルストは静かに言った。
「なら、お前が言え」
クラウディオは笑った。
「言う義理がどこにある」
ルストの目が冷える。
それでも彼は、すぐには動かなかった。
クラウディオは、その沈黙を見て、さらに口角を上げた。
「ほら、また黙る。結局、お前も聞く勇気などない」
その瞬間、ルストが動いた。
怒鳴らなかった。
足音も荒げなかった。
ただ、一歩で距離を詰め、クラウディオの腕を取った。強く引くのではない。逃げ道を塞ぐ位置へ、確実に導く。クラウディオの背が、会議室の壁に触れた。
クラウディオの目が細くなる。
「脅しか」
ルストは低く言った。
「なら身体に聞く」
クラウディオの空気が冷えた。
「怪異と同じ真似をする気か」
「違う」
「違うと言えば違うと思うな。怪異もだいたいそう言う」
ルストの指が、クラウディオの腕から離れた。
その代わり、両手を壁につくような形で退路を塞ぐ。
近い。
だが、触れてはいない。
「止めるなら、言え」
クラウディオは唇を歪めた。
「命令するな」
「命令じゃない」
「俺に選ばせているつもりか」
「選べ」
ルストの声は静かだった。
「本心を決めつける気はない」
クラウディオの表情が、ほんのわずかに変わる。
ルストは続けた。
「怪異から聞く気はなかった。だが、お前が言わないまま、俺だけ黙って飲み込む気もない」
「ずいぶん贅沢な要求だな」
「お前が逃げるからだ」
「逃げてなどいない」
「逃げる時ほど、よく喋る」
クラウディオは目を眇めた。
「ずいぶん俺を分かった気でいる」
「分かっていない」
ルストは即答した。
「だから聞いている」
その言葉は、皮肉より重かった。
クラウディオは、一瞬だけ黙る。
ルストはその沈黙を見て、さらに近づいた。
首筋へ視線を落とす。
「本当に嫌なら、止まる」
クラウディオの喉がわずかに動いた。
「……吸血鬼風情が紳士の真似か」
「必要ならする」
「似合わない」
「知っている」
ルストはそこで止まった。
牙を立てられる距離。
それでも止まった。
クラウディオが明確に拒絶すれば、退ける距離。
クラウディオは、ルストの肩に手を置いた。
押し返すように。
だが、押し返しきらない。
指先に力が入っているのに、腕は止まっている。
クラウディオは低く言った。
「離れろ」
ルストの動きが止まった。
すぐに、完全に。
牙が届く寸前で、彼は身を引いた。
クラウディオの首筋から距離が空く。
その反応に、クラウディオ自身がわずかに息を詰めた。
ルストは目を逸らさず言った。
「分かった」
そのまま退こうとする。
その時、クラウディオの指が、ルストの服を掴んだ。
強くはない。
だが、離すなと言うには十分だった。
ルストは動きを止める。
クラウディオは視線を逸らした。
「……違う」
「何が」
「今のは」
言葉が途切れる。
クラウディオは唇を噛み、苛立ったように吐き捨てた。
「距離が近すぎると言っただけだ。勝手に撤退するな」
ルストの目が少しだけ変わった。
「続けていいのか」
「いちいち言わせるな」
「言わせる」
静かな返答だった。
「嫌なら止める。だが、今のお前は俺を止めていない」
クラウディオはルストの服を掴んだまま、低く笑った。
「最悪だな」
「知っている」
クラウディオは、長い沈黙の後、顔を少しだけ横へ向けた。
首筋が、白い蛍光灯の下に晒される。
明確な招きではない。
だが、拒絶でもない。
吸血鬼同士なら、その角度の意味を間違えない。
ルストは、もう一度だけ言った。
「本当に嫌なら、止まる」
クラウディオの指が、ルストの服をさらに強く掴んだ。
「……黙れ」
それは拒絶ではなかった。
言葉を失った男が、最後に残した防壁だった。
◇
牙が、首筋へ沈んだ。
クラウディオの身体が、瞬間的に強張る。
白い壁に背が押しつけられ、ルストの肩を押す手に力が入った。息が乱れる。喉の奥で、声にならない音が揺れた。
痛みはあった。
だが、それだけではなかった。
血が繋がる。
吸血鬼同士の血は、ただの液体ではない。記憶、魔力、古い契約、身体に刻まれた時間。すべてが薄く絡み合い、触れた相手へ断片を返す。
ルストは深く奪わなかった。
問うように、牙を置く。
血術の糸を細く通す。
クラウディオの反応を読む。
拒絶があれば離れる。
逃げるなら追わない。
そう決めている。
クラウディオの手は、最初、ルストの肩を押していた。
怒り。
羞恥。
苛立ち。
何を勝手に、と噛みつくような感情。
それらが血の表面を荒らす。
だが、血の奥には別のものがあった。
ルストの牙がそこに触れた瞬間、クラウディオの腕から力が抜けた。
完全ではない。
まだ抗う形は残っている。
だが、押し返す力ではなくなる。
指が、ルストの肩から背へ移った。
ゆっくりと。
迷うように。
それから、掴む。
縋るようにも、逃げ道を自分で塞ぐようにも見えた。
クラウディオの口から、低い声が漏れた。
かつての躾の時を思わせる、乱れた呼吸の奥に沈む声。
ルストの背がわずかに強張った。
それでも、彼は深くしすぎない。
血の味ではなく、血の反応を読む。
脈。
魔力。
首筋の熱。
身体の強張りと、そこからほどける一瞬。
クラウディオの血は、言葉より先に答えていた。
怒り。
恥。
拒絶の形をした防御。
執着。
そして、その奥に、小さな安堵がある。
ルストの意識へ、断片が流れ込む。
《宵待堂》の暗闇。
浮かぶ通知文。
聞きたいでしょう。
言葉にしない本心を、聞かせてあげましょう。
ルストの声。
本人が言わないものを、お前から聞く気はない。
暗闇の奥で、それを聞いていたクラウディオ。
その胸の奥で、ほんのわずかに緊張がほどけた瞬間。
盗まれなかった。
売られなかった。
怪異の棚に置かれなかった。
ルストが、怪異を選ばなかった。
その安堵。
たったそれだけだった。
好きだとか、愛しているとか、そんな言葉ではない。
全体でもない。
奥底でもない。
ただ、断片。
だが、確かにクラウディオのものだった。
ルストは牙を浅くした。
呼吸が、ほんの少し変わる。
クラウディオがそれに気づき、掠れた声で言った。
「何を見た」
ルストは、首筋から少しだけ離れた。
唇の端に血の気配が残る。
だが、彼はそれを見せびらかさない。
ただ、クラウディオを見た。
「……安堵したんだな」
クラウディオの目が揺れた。
ほんの一瞬。
すぐに赤い瞳が鋭くなる。
「黙れ」
ルストは言った。
「言え」
「言う義理がないと、さっき言った」
「なら、血が先に言う」
クラウディオの喉が動いた。
「傲慢だな」
「そうだ」
「開き直るな」
「お前もだ」
クラウディオは笑おうとした。
しかし、うまくいかなかった。
背中は壁に預けたまま。指は、ルストの服を掴んだまま。怒っている。確かに怒っている。だが、逃げていない。
ルストはその状態を、勝手に都合よく解釈しなかった。
もう一度、低く問う。
「嫌なら止める」
クラウディオは眉を寄せた。
「……いちいち確認するな」
「確認する」
ルストの声は変わらない。
「お前を怪異と同じようには扱わない」
クラウディオの表情が、そこで止まった。
怪異。
本心を盗もうとしたもの。
記憶を削る鏡。
願いを代金にする市場。
沈黙を商品にしようとした声。
ルストは、それとは違うと明確に告げた。
だから、確認する。
嫌なら止める。
止めろと言えば退く。
本心を決めつけない。
その言葉が、クラウディオにとって腹立たしいほど正しかった。
「最悪だ」
クラウディオは低く言った。
「俺の嫌がることばかり丁寧にする」
「嫌なら止める」
「だから、」
クラウディオは言葉を切った。
ルストの服を掴む手に力を込める。
引く。
わずかに。
自分の方へ。
「止めろとは言っていない」
ルストの目が、静かに細くなる。
クラウディオは視線を逸らした。
「勘違いするな。お前に好き勝手させると言ったわけではない」
「分かっている」
「分かっていない顔をするな」
「していない」
「している」
短いやり取りの奥で、距離だけがさらに狭まった。
クラウディオは、まだ怒っていた。
怒っているのに、ルストを離さない。
ルストは、もう一度だけ彼の首筋へ視線を落とした。そこには、吸血鬼同士の問いの痕がある。血は多くない。けれど、繋がったものは確かに残っている。
クラウディオは、その視線を受けて、喉の奥で小さく息を吐いた。
「数十年も、数百年も、間抜けな間を空けておいて、今さら血で聞くとはな」
「言葉で聞いた」
「答えなかったら噛むのか」
「止めるなら、止まる」
同じ言葉を繰り返されて、クラウディオはひどく不機嫌そうに笑った。
「本当に面倒な男だ」
「お前ほどではない」
「俺を比較対象にするな」
「一番近い」
クラウディオは、その言葉に返さなかった。
返せなかったのではない。
返さなかった。
けれど、今度の沈黙は、ただの逃げではなかった。
ルストはそれを見て、無理に言葉を引き出さなかった。
彼は、クラウディオの首筋へもう一度近づいた。
今度は、噛む前に止まる。
クラウディオが止めるかどうかを待つ。
クラウディオは、目を閉じなかった。
視線を逸らしたまま、ルストの肩を掴む。
逃げない。
拒まない。
その手が、答えだった。
◇
遠くで、解析端末の通知音が鳴った。
会議室の外。
別室。
榊と澪奈が帳簿の復元を続けている部屋。
東都認知生命研究センター。
反応観察。
願望記憶残滓。
契約口。
貸与中。
事件はまだ終わっていない。
《願い屋》の市場は残り、灰島は消え、篠宮は沈黙し、久遠院の名はまだ貼られていない。研究施設へ流れた願いの器が何をされたのかも、分からない。
だが、その夜、その小さな会議室だけは、事件の記録から少し離れた場所にあった。
ルストは低く言った。
「もう一度確認する」
クラウディオは顔をしかめる。
「しつこい」
「嫌なら止める」
「……いちいち確認するなと言った」
「確認するとも言った」
「吸血鬼のくせに妙なところで律儀だな」
「お前相手だからだ」
クラウディオの表情が、また一瞬だけ揺れた。
すぐに隠した。
だが、ルストは追及しなかった。
クラウディオは、自分からルストの襟を引いた。
それは、言葉ではなかった。
だが、選択だった。
止めない、というだけではない。
今は離すな、という行動だった。
ルストはその手を見て、静かに息を吸った。
「分かった」
「何がだ」
「お前が止めないこと」
「言い方が腹立たしい」
「本心を決めつける気はない」
「それも腹立たしい」
「なら、言え」
「言わん」
クラウディオは即答した。
それでも、手は離れない。
ルストの目が、わずかに柔らかくなる。
クラウディオはそれを見て、苛立ったように視線を逸らした。
「笑うな」
「笑っていない」
「今、笑う前の顔をした」
「よく見ているな」
「見るな」
「無理だ」
クラウディオは舌打ちした。
その音は、いつもより弱かった。
ルストが再び距離を詰める。
首筋の熱。
血の薄い匂い。
壁に落ちる二つの影。
閉じられた扉の向こうで、解析端末の通知音がもう一度鳴る。
その先へ進む前に、ルストは最後にもう一度だけ問いを置いた。
「嫌なら止める」
クラウディオは、今度は逃げなかった。
ルストの服を掴んだまま、低く言う。
「……止めるな」
その一言は、短かった。
強がりにまみれていた。
怒りも残っていた。
それでも、確かにクラウディオ自身の選択だった。
ルストは頷いた。
次の瞬間、会議室の中の影が重なった。
血術の糸が、静かにほどけて、また結ばれる。
遠くで帳簿の復元音が鳴り続けている。
けれど、その先を、帳簿の文字も、怪異の通知も、誰にも記録させなかった。




