第102話 血に混じる安堵
血は、言葉にはならなかった。
ルストの牙がクラウディオの首筋に沈んだまま、夜の一室は深く静まっていた。警察側の安全拠点。その奥にある、使われていない小さな会議室。外の廊下からは、解析端末の低い駆動音と、遠くで榊が誰かと話す声がかすかに届いている。
扉は閉じられていた。
白い蛍光灯は消され、壁際の非常灯だけが、床に薄い緑の影を落としている。机と椅子は端へ寄せられ、壁には資料を貼るためのマグネットがいくつか残っていた。仮の拠点らしい、冷たい部屋だった。
その冷たさの中で、クラウディオの体温だけが妙に近かった。
ルストは、噛む力を緩めた。
血を深く奪うためではない。問いかけるための牙だった。血術の糸を通し、脈と魔力の震えに触れる。吸血鬼同士にしか分からない、言葉以前の応答。
そこにあったものは、明確な記憶ではなかった。
映像でもない。
文章でもない。
好きだとか、必要だとか、帰るなとか、そういう都合よく形のある答えではない。
ただ、体温のような濁りだった。
血に混じった感情の反応。
薄く、熱く、ひどく不機嫌で、触れた途端に牙を立て返してきそうな色をしている。
怪異から本心を聞こうとしなかったルストへの、ほんのわずかな安堵。
勝手に覗かれなかったことへの、奇妙な信頼。
ルストなら、《願い屋》から買わない。
ルストなら、自分の沈黙を棚に並べない。
そう分かってしまったことへの、腹立たしいほどの安心。
その安心を嬉しいと認めたくない苛立ち。
安堵した自分への怒り。
噛まれているのに手を振り払わない自分への怒り。
血を読まれていると分かっているのに、完全には拒めなかった自分への怒り。
そして、言えば確定する、という逃げ。
確定すれば奪われるかもしれない。
形になれば壊されるかもしれない。
だから言わない。
言わないことで守っているつもりでいる。
ルストは、それ以上踏み込まなかった。
この断片は答えではない。
クラウディオの本心そのものではない。
血が、言葉の代わりになるわけではない。
ただ、隠し損ねたものが混じっていた。
それだけだった。
ルストが牙を抜くと、クラウディオの身体が遅れて息を取り戻した。
背はまだ壁についたまま。片手はルストの服を掴んでいる。もう片方の手は、ルストの肩を押していたはずなのに、いつの間にか背の布地を掴む形に変わっていた。
クラウディオはそのことに気づき、ひどく不機嫌そうに手を引いた。
だが、完全に離れはしない。
首筋に残った噛み跡へ指を当てる。血は多くない。赤い線が薄く滲んでいるだけだ。吸血鬼同士の血術痕は、傷というよりも契約の余韻に似ていた。
クラウディオはいつもなら襟を直す。
痕を隠す。
何事もなかったように、すべてを布と皮肉の下へしまい込む。
けれど今回は、指先で噛み跡に触れただけだった。
襟を閉じなかった。
袖口を整えるようなふりもしない。
ただ、荒れた呼吸を整えながら、ルストを睨む。
「満足したか、血の尋問官」
声は怒っていた。
掠れてもいた。
その掠れを、クラウディオ自身が嫌っているのが分かる。
ルストは低く答えた。
「少しは」
クラウディオは、殴りそうな顔をした。
実際、手が一瞬動いた。胸元を押すように、ルストの身体を軽く突く。だが、それ以上の力は入らなかった。
「最低の返答だな」
「全部読めたわけじゃない」
「読めなくていい」
「そうだな」
素直に返されると、クラウディオはさらに不機嫌になる。
「血を読んでおいて、その程度か。お前の語彙は牙に全部吸われたのか」
「血は答えではない」
ルストは言った。
クラウディオの目が、わずかに細くなる。
「なら何を読んだ」
「隠し損ねたものだ」
クラウディオは黙った。
数秒だけ。
だが、その沈黙は短いわりに重かった。
ルストは追及しなかった。
安堵したな、と言った時、クラウディオは否定しなかった。ただ「黙れ」と返した。いつものように、違う、と切らなかった。それだけで十分ではない。十分ではないが、何もないわけでもない。
クラウディオは壁から身を起こし、乱れた服を軽く整えた。
整えたのは、襟ではなかった。
袖口。
前身頃。
上着の裾。
首筋の噛み跡だけは、そのままだった。
ルストはそれを見た。
からかいはしない。
ただ、見た。
クラウディオが即座に睨む。
「見るな」
「見えている」
「目を潰すぞ」
「それは困る」
「困れ」
「お前を見るものがなくなる」
クラウディオは一瞬、言葉に詰まった。
すぐに顔をしかめる。
「そういう返しは、今すぐやめろ」
「なぜ」
「腹が立つ」
「それだけか」
「十分だ」
クラウディオは首筋に触れた指を下ろした。
まだ隠さない。
ルストはそれに気づいている。
クラウディオも、気づかれていることに気づいている。
その上で、隠さない。
この小さな選択を、ルストは勝手に勝利とは受け取らなかった。だが、無かったことにもしなかった。
クラウディオが噛み跡を見せたまま、壁から離れる。
足元は乱れていない。
だが、距離はさっきより近い。
逃げるなら、今すぐ廊下へ出られる。
それをしない。
「二度と同じ手が通じると思うな」
クラウディオが言った。
「同じ手は使わない」
「違う手なら使う気か」
「お前が止めなければ」
「……最悪だな」
「確認はする」
「その律儀さが最悪だと言っている」
クラウディオの声には怒りが残っていた。
だが、明確な後悔はなかった。
ルストはそれを確かめるように、少しだけ視線を下げる。
クラウディオの手は、今もルストの袖を緩く掴んでいた。
本人は気づいているのか、いないのか。
いや、気づいている。
気づいていながら、放していない。
ルストはその手へ触れなかった。
触れれば、クラウディオは今度こそ離すだろう。そういう男だ。
だから、見るだけにした。
クラウディオが苛立ったように袖を離す。
「その目も腹立たしい」
「何も言っていない」
「言わない目をしている」
「お前もよくする」
「俺の真似をするな」
「していない」
「している」
短い応酬の後、沈黙が落ちた。
だが、前話の最後に残った沈黙とは少し違う。
あの時は、言わないことで二人の間に棘が刺さった。
今は、まだ抜けていない棘を、互いに見ている。
血で少し読んだ。
だが、それで終わりではない。
血は答えではない。
言葉の代わりにはならない。
ルストは、それを分かっていた。
「全部じゃない」
彼は言った。
クラウディオが睨む。
「何がだ」
「お前の答えだ」
「答えなどない」
「なら、まだ聞く」
クラウディオは、ひどく嫌そうな顔をした。
「怪異より性質が悪いな」
「怪異からは聞かない」
その言葉で、空気が少し止まった。
第99話の暗闇。
願い屋の囁き。
本心を聞かせてやるという誘惑。
ルストはそれを拒んだ。
クラウディオは、それを聞いていた。
そして、安堵していた。
その安堵を、ルストは血から知ってしまった。
クラウディオは視線を逸らす。
「余計なことだけ覚えている」
「忘れない」
「忘れろ」
「無理だ」
「便利な古物商でも探してこい。記憶を買い取ってくれるだろう」
ルストの目が冷えた。
「売らない」
即答だった。
クラウディオの口元が、わずかに動く。
笑いかけたのか。
皮肉を言いかけたのか。
どちらでもなかったのか。
結局、彼は何も言わなかった。
言わない。
言わない王のまま、目を伏せる。
ルストはその沈黙を、今度は責めなかった。
責めるほど、血の断片は強くない。
しかし、許して忘れるほど軽くもない。
だから、残る。
まだ言葉が必要なまま。
◇
廊下の向こうで、端末の通知音が鳴った。
現実の音だった。
《願い屋》の通知ではない。
澪奈が解析端末に設定した、復元完了の短い電子音。
クラウディオは、そこでようやく首筋から手を離した。噛み跡はまだ見えている。隠さないまま、扉の方へ視線を向ける。
ルストも空気を戻した。
事件がある。
願い屋がある。
灰島は消えた。
篠宮はまだ全てを話していない。
東都認知生命研究センターの名は、帳簿の中で重く残っている。
そして、警察庁内部の影。
扉の外から、榊の足音が近づいた。
荒い。
急いでいる。
すぐにノックもなく扉が開いた。
榊は二人を見た。
ルスト。
クラウディオ。
クラウディオの首筋の噛み跡。
乱れた空気。
沈黙。
彼は一瞬だけ目を細めた。
「……後にしろと言ったよな」
クラウディオは即座に返す。
「今、後にしたところだ」
「どう見ても現在進行形だろうが」
「人間の時間感覚は雑だな」
「吸血鬼の距離感の方がよほど雑だ」
榊はそれ以上追及しなかった。
追及するだけの余裕がない顔だった。
「澪奈が呼んでいる。解析結果が出た」
その声で、クラウディオの表情が切り替わる。
さっきまで壁際に残っていた熱は、赤い瞳の奥へしまわれた。完全に消えたわけではない。ただ、事件の冷たい光が上から被さった。
ルストはその変化を見た。
隠すのが上手い。
だが、噛み跡はまだ隠していない。
会議室を出る時、クラウディオは襟を直さなかった。
◇
解析室の空気は硬かった。
澪奈は端末の前に座り、複数の画面を開いていた。帳簿の画像、復元された項目、ノイズ化した文字列、警察庁の内部資料の断片、民間研究施設の登録情報。すべてが乱雑に並んでいるようで、澪奈の手元では一つずつ線で結ばれている。
彼女は顔色が悪かった。
疲労だけではない。
見つけたものの重さに、表情が硬くなっている。
「解析結果が出ました」
澪奈の声は低い。
榊が横に立つ。
「まず聞け。かなりまずい」
クラウディオは椅子に座らない。
ルストは、その半歩後ろに立つ。
さっきまでの距離が、まだ少し残っている。
澪奈は画面を切り替えた。
そこには、帳簿の復元部分が表示されていた。
利用番号。
願望分類。
代償種別。
器。
保存状態。
販売可否。
貸与可否。
買い手。
買い手。
クラウディオの目が細くなる。
「買い手?」
澪奈は頷いた。
「帳簿には、願い屋の利用者だけでなく、代償の買い手の記録もあります」
部屋の空気が変わった。
榊が拳を握る。
「利用者だけじゃない。奪われた代償品を買った側の記録だ」
澪奈は画面をスクロールする。
「《宵待堂》の願いの器を購入、貸与、使用した者の記録です。他人の記憶、寿命、血、感情を一時的に借りた者。あるいは、研究材料として受け取った者」
ルストが言う。
「市場の客か」
「はい」
澪奈の声は苦かった。
「買い手の中に、警察庁関係者と民間研究施設の関係者が混ざっています」
榊の顎が固まる。
クラウディオは、画面を見たまま動かない。
警察庁関係者。
民間研究施設の関係者。
東都認知生命研究センター。
前章で見た、科学捜査の檻。
証拠を並べ、人を追い詰める構造。
完璧すぎる科学証拠。
外部委託先。
記録。
観察。
人間の中身を抜き、反応を見て、使える形へ整える目。
澪奈は続けた。
「一部の名前は伏せられています。復元できたのは肩書きと所属の断片だけです。ただ、警察庁の外部協力リストと一致する記号があります。民間研究施設側では、東都認知生命研究センターの関係者名義と照合中です」
榊が低く言った。
「警察庁の名があるのはまずい」
クラウディオは淡々と返す。
「まずい、で済むなら人間社会は平和だな」
「茶化すな」
「茶化していない。かなり正確に呆れている」
澪奈は画面の一部を拡大した。
そこには、断片的な語が並んでいた。
願望記憶残滓。
反応観察。
契約口の安定性。
寿命移動反応。
血液支払痕。
貸与中。
返却未定。
「研究施設では、願いの器の反応を観察していた可能性があります。寿命の移動、記憶残滓、契約の口、血と記憶の結びつき。断片だけですが、怪異の代償を科学的に利用しようとしているように見えます」
ルストが問う。
「久遠院か」
クラウディオはすぐには答えなかった。
画面の文字を見ている。
赤い瞳に、冷たい怒りが薄く浮く。
「まだ名前を貼るな。だが、椅子は近い」
榊が眉をひそめる。
「椅子?」
「観察席だ」
クラウディオは、画面の中の「反応観察」という文字を見た。
「願いを売る怪異。代償を売る古物商。そこから買う人間。さらにそれを研究する施設。誰も自分の手だけは綺麗だと思っている。案内しただけ、拾っただけ、買っただけ、観察しただけ」
彼の声は低くなる。
「実に人間らしい分業だ」
澪奈は唇を噛んだ。
「買い手の詳細は、まだ完全には復元できていません。ですが、警察庁側の内部照合が必要です。ただ、どこまで信用して照会していいか……」
榊が即座に言う。
「俺がやる。だが、通常ルートには乗せない」
「分かりました」
「澪奈、今見つけたデータは隔離したまま保存。外部共有は俺が許可するまで止めろ」
「はい」
ルストはクラウディオを見た。
クラウディオの首筋の噛み跡は、まだ隠れていない。
事件の話をしている今も、彼は襟を直さない。
それが意図的かどうかは、もう問わなかった。
クラウディオは、画面を見つめたまま言った。
「願いを売る怪異を、人間が研究材料にしているわけか。実に勤勉な地獄だ」
その声には、怪異への嫌悪だけではないものが混じっていた。
科学の名を借りた収奪への怒り。
人間の好奇心への失望。
前章から続く、証拠と観察の檻への警戒。
そして、まだ言葉にならないものを首筋に残したまま、吸血鬼王は画面の中の地獄を見ていた。
ルストは何も言わなかった。
ただ、隣に立っていた。
血だけでは足りない。
言葉はまだ必要だった。
だが今、二人の間にも、事件の奥にも、同じものが残っている。
まだ、誰も言いきっていない真実が。




