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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第7部 【願い屋は血を取る】

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第102話 血に混じる安堵

 血は、言葉にはならなかった。


 ルストの牙がクラウディオの首筋に沈んだまま、夜の一室は深く静まっていた。警察側の安全拠点。その奥にある、使われていない小さな会議室。外の廊下からは、解析端末の低い駆動音と、遠くで榊が誰かと話す声がかすかに届いている。


 扉は閉じられていた。


 白い蛍光灯は消され、壁際の非常灯だけが、床に薄い緑の影を落としている。机と椅子は端へ寄せられ、壁には資料を貼るためのマグネットがいくつか残っていた。仮の拠点らしい、冷たい部屋だった。


 その冷たさの中で、クラウディオの体温だけが妙に近かった。


 ルストは、噛む力を緩めた。


 血を深く奪うためではない。問いかけるための牙だった。血術の糸を通し、脈と魔力の震えに触れる。吸血鬼同士にしか分からない、言葉以前の応答。


 そこにあったものは、明確な記憶ではなかった。


 映像でもない。


 文章でもない。


 好きだとか、必要だとか、帰るなとか、そういう都合よく形のある答えではない。


 ただ、体温のような濁りだった。


 血に混じった感情の反応。


 薄く、熱く、ひどく不機嫌で、触れた途端に牙を立て返してきそうな色をしている。


 怪異から本心を聞こうとしなかったルストへの、ほんのわずかな安堵。


 勝手に覗かれなかったことへの、奇妙な信頼。


 ルストなら、《願い屋》から買わない。


 ルストなら、自分の沈黙を棚に並べない。


 そう分かってしまったことへの、腹立たしいほどの安心。


 その安心を嬉しいと認めたくない苛立ち。


 安堵した自分への怒り。


 噛まれているのに手を振り払わない自分への怒り。


 血を読まれていると分かっているのに、完全には拒めなかった自分への怒り。


 そして、言えば確定する、という逃げ。


 確定すれば奪われるかもしれない。


 形になれば壊されるかもしれない。


 だから言わない。


 言わないことで守っているつもりでいる。


 ルストは、それ以上踏み込まなかった。


 この断片は答えではない。


 クラウディオの本心そのものではない。


 血が、言葉の代わりになるわけではない。


 ただ、隠し損ねたものが混じっていた。


 それだけだった。


 ルストが牙を抜くと、クラウディオの身体が遅れて息を取り戻した。


 背はまだ壁についたまま。片手はルストの服を掴んでいる。もう片方の手は、ルストの肩を押していたはずなのに、いつの間にか背の布地を掴む形に変わっていた。


 クラウディオはそのことに気づき、ひどく不機嫌そうに手を引いた。


 だが、完全に離れはしない。


 首筋に残った噛み跡へ指を当てる。血は多くない。赤い線が薄く滲んでいるだけだ。吸血鬼同士の血術痕は、傷というよりも契約の余韻に似ていた。


 クラウディオはいつもなら襟を直す。


 痕を隠す。


 何事もなかったように、すべてを布と皮肉の下へしまい込む。


 けれど今回は、指先で噛み跡に触れただけだった。


 襟を閉じなかった。


 袖口を整えるようなふりもしない。


 ただ、荒れた呼吸を整えながら、ルストを睨む。


「満足したか、血の尋問官」


 声は怒っていた。


 掠れてもいた。


 その掠れを、クラウディオ自身が嫌っているのが分かる。


 ルストは低く答えた。


「少しは」


 クラウディオは、殴りそうな顔をした。


 実際、手が一瞬動いた。胸元を押すように、ルストの身体を軽く突く。だが、それ以上の力は入らなかった。


「最低の返答だな」


「全部読めたわけじゃない」


「読めなくていい」


「そうだな」


 素直に返されると、クラウディオはさらに不機嫌になる。


「血を読んでおいて、その程度か。お前の語彙は牙に全部吸われたのか」


「血は答えではない」


 ルストは言った。


 クラウディオの目が、わずかに細くなる。


「なら何を読んだ」


「隠し損ねたものだ」


 クラウディオは黙った。


 数秒だけ。


 だが、その沈黙は短いわりに重かった。


 ルストは追及しなかった。


 安堵したな、と言った時、クラウディオは否定しなかった。ただ「黙れ」と返した。いつものように、違う、と切らなかった。それだけで十分ではない。十分ではないが、何もないわけでもない。


 クラウディオは壁から身を起こし、乱れた服を軽く整えた。


 整えたのは、襟ではなかった。


 袖口。


 前身頃。


 上着の裾。


 首筋の噛み跡だけは、そのままだった。


 ルストはそれを見た。


 からかいはしない。


 ただ、見た。


 クラウディオが即座に睨む。


「見るな」


「見えている」


「目を潰すぞ」


「それは困る」


「困れ」


「お前を見るものがなくなる」


 クラウディオは一瞬、言葉に詰まった。


 すぐに顔をしかめる。


「そういう返しは、今すぐやめろ」


「なぜ」


「腹が立つ」


「それだけか」


「十分だ」


 クラウディオは首筋に触れた指を下ろした。


 まだ隠さない。


 ルストはそれに気づいている。


 クラウディオも、気づかれていることに気づいている。


 その上で、隠さない。


 この小さな選択を、ルストは勝手に勝利とは受け取らなかった。だが、無かったことにもしなかった。


 クラウディオが噛み跡を見せたまま、壁から離れる。


 足元は乱れていない。


 だが、距離はさっきより近い。


 逃げるなら、今すぐ廊下へ出られる。


 それをしない。


「二度と同じ手が通じると思うな」


 クラウディオが言った。


「同じ手は使わない」


「違う手なら使う気か」


「お前が止めなければ」


「……最悪だな」


「確認はする」


「その律儀さが最悪だと言っている」


 クラウディオの声には怒りが残っていた。


 だが、明確な後悔はなかった。


 ルストはそれを確かめるように、少しだけ視線を下げる。


 クラウディオの手は、今もルストの袖を緩く掴んでいた。


 本人は気づいているのか、いないのか。


 いや、気づいている。


 気づいていながら、放していない。


 ルストはその手へ触れなかった。


 触れれば、クラウディオは今度こそ離すだろう。そういう男だ。


 だから、見るだけにした。


 クラウディオが苛立ったように袖を離す。


「その目も腹立たしい」


「何も言っていない」


「言わない目をしている」


「お前もよくする」


「俺の真似をするな」


「していない」


「している」


 短い応酬の後、沈黙が落ちた。


 だが、前話の最後に残った沈黙とは少し違う。


 あの時は、言わないことで二人の間に棘が刺さった。


 今は、まだ抜けていない棘を、互いに見ている。


 血で少し読んだ。


 だが、それで終わりではない。


 血は答えではない。


 言葉の代わりにはならない。


 ルストは、それを分かっていた。


「全部じゃない」


 彼は言った。


 クラウディオが睨む。


「何がだ」


「お前の答えだ」


「答えなどない」


「なら、まだ聞く」


 クラウディオは、ひどく嫌そうな顔をした。


「怪異より性質が悪いな」


「怪異からは聞かない」


 その言葉で、空気が少し止まった。


 第99話の暗闇。


 願い屋の囁き。


 本心を聞かせてやるという誘惑。


 ルストはそれを拒んだ。


 クラウディオは、それを聞いていた。


 そして、安堵していた。


 その安堵を、ルストは血から知ってしまった。


 クラウディオは視線を逸らす。


「余計なことだけ覚えている」


「忘れない」


「忘れろ」


「無理だ」


「便利な古物商でも探してこい。記憶を買い取ってくれるだろう」


 ルストの目が冷えた。


「売らない」


 即答だった。


 クラウディオの口元が、わずかに動く。


 笑いかけたのか。


 皮肉を言いかけたのか。


 どちらでもなかったのか。


 結局、彼は何も言わなかった。


 言わない。


 言わない王のまま、目を伏せる。


 ルストはその沈黙を、今度は責めなかった。


 責めるほど、血の断片は強くない。


 しかし、許して忘れるほど軽くもない。


 だから、残る。


 まだ言葉が必要なまま。


     ◇


 廊下の向こうで、端末の通知音が鳴った。


 現実の音だった。


 《願い屋》の通知ではない。


 澪奈が解析端末に設定した、復元完了の短い電子音。


 クラウディオは、そこでようやく首筋から手を離した。噛み跡はまだ見えている。隠さないまま、扉の方へ視線を向ける。


 ルストも空気を戻した。


 事件がある。


 願い屋がある。


 灰島は消えた。


 篠宮はまだ全てを話していない。


 東都認知生命研究センターの名は、帳簿の中で重く残っている。


 そして、警察庁内部の影。


 扉の外から、榊の足音が近づいた。


 荒い。


 急いでいる。


 すぐにノックもなく扉が開いた。


 榊は二人を見た。


 ルスト。


 クラウディオ。


 クラウディオの首筋の噛み跡。


 乱れた空気。


 沈黙。


 彼は一瞬だけ目を細めた。


「……後にしろと言ったよな」


 クラウディオは即座に返す。


「今、後にしたところだ」


「どう見ても現在進行形だろうが」


「人間の時間感覚は雑だな」


「吸血鬼の距離感の方がよほど雑だ」


 榊はそれ以上追及しなかった。


 追及するだけの余裕がない顔だった。


「澪奈が呼んでいる。解析結果が出た」


 その声で、クラウディオの表情が切り替わる。


 さっきまで壁際に残っていた熱は、赤い瞳の奥へしまわれた。完全に消えたわけではない。ただ、事件の冷たい光が上から被さった。


 ルストはその変化を見た。


 隠すのが上手い。


 だが、噛み跡はまだ隠していない。


 会議室を出る時、クラウディオは襟を直さなかった。


     ◇


 解析室の空気は硬かった。


 澪奈は端末の前に座り、複数の画面を開いていた。帳簿の画像、復元された項目、ノイズ化した文字列、警察庁の内部資料の断片、民間研究施設の登録情報。すべてが乱雑に並んでいるようで、澪奈の手元では一つずつ線で結ばれている。


 彼女は顔色が悪かった。


 疲労だけではない。


 見つけたものの重さに、表情が硬くなっている。


「解析結果が出ました」


 澪奈の声は低い。


 榊が横に立つ。


「まず聞け。かなりまずい」


 クラウディオは椅子に座らない。


 ルストは、その半歩後ろに立つ。


 さっきまでの距離が、まだ少し残っている。


 澪奈は画面を切り替えた。


 そこには、帳簿の復元部分が表示されていた。


 利用番号。


 願望分類。


 代償種別。


 器。


 保存状態。


 販売可否。


 貸与可否。


 買い手。


 買い手。


 クラウディオの目が細くなる。


「買い手?」


 澪奈は頷いた。


「帳簿には、願い屋の利用者だけでなく、代償の買い手の記録もあります」


 部屋の空気が変わった。


 榊が拳を握る。


「利用者だけじゃない。奪われた代償品を買った側の記録だ」


 澪奈は画面をスクロールする。


「《宵待堂》の願いの器を購入、貸与、使用した者の記録です。他人の記憶、寿命、血、感情を一時的に借りた者。あるいは、研究材料として受け取った者」


 ルストが言う。


「市場の客か」


「はい」


 澪奈の声は苦かった。


「買い手の中に、警察庁関係者と民間研究施設の関係者が混ざっています」


 榊の顎が固まる。


 クラウディオは、画面を見たまま動かない。


 警察庁関係者。


 民間研究施設の関係者。


 東都認知生命研究センター。


 前章で見た、科学捜査の檻。


 証拠を並べ、人を追い詰める構造。


 完璧すぎる科学証拠。


 外部委託先。


 記録。


 観察。


 人間の中身を抜き、反応を見て、使える形へ整える目。


 澪奈は続けた。


「一部の名前は伏せられています。復元できたのは肩書きと所属の断片だけです。ただ、警察庁の外部協力リストと一致する記号があります。民間研究施設側では、東都認知生命研究センターの関係者名義と照合中です」


 榊が低く言った。


「警察庁の名があるのはまずい」


 クラウディオは淡々と返す。


「まずい、で済むなら人間社会は平和だな」


「茶化すな」


「茶化していない。かなり正確に呆れている」


 澪奈は画面の一部を拡大した。


 そこには、断片的な語が並んでいた。


 願望記憶残滓。


 反応観察。


 契約口の安定性。


 寿命移動反応。


 血液支払痕。


 貸与中。


 返却未定。


「研究施設では、願いの器の反応を観察していた可能性があります。寿命の移動、記憶残滓、契約の口、血と記憶の結びつき。断片だけですが、怪異の代償を科学的に利用しようとしているように見えます」


 ルストが問う。


「久遠院か」


 クラウディオはすぐには答えなかった。


 画面の文字を見ている。


 赤い瞳に、冷たい怒りが薄く浮く。


「まだ名前を貼るな。だが、椅子は近い」


 榊が眉をひそめる。


「椅子?」


「観察席だ」


 クラウディオは、画面の中の「反応観察」という文字を見た。


「願いを売る怪異。代償を売る古物商。そこから買う人間。さらにそれを研究する施設。誰も自分の手だけは綺麗だと思っている。案内しただけ、拾っただけ、買っただけ、観察しただけ」


 彼の声は低くなる。


「実に人間らしい分業だ」


 澪奈は唇を噛んだ。


「買い手の詳細は、まだ完全には復元できていません。ですが、警察庁側の内部照合が必要です。ただ、どこまで信用して照会していいか……」


 榊が即座に言う。


「俺がやる。だが、通常ルートには乗せない」


「分かりました」


「澪奈、今見つけたデータは隔離したまま保存。外部共有は俺が許可するまで止めろ」


「はい」


 ルストはクラウディオを見た。


 クラウディオの首筋の噛み跡は、まだ隠れていない。


 事件の話をしている今も、彼は襟を直さない。


 それが意図的かどうかは、もう問わなかった。


 クラウディオは、画面を見つめたまま言った。


「願いを売る怪異を、人間が研究材料にしているわけか。実に勤勉な地獄だ」


 その声には、怪異への嫌悪だけではないものが混じっていた。


 科学の名を借りた収奪への怒り。


 人間の好奇心への失望。


 前章から続く、証拠と観察の檻への警戒。


 そして、まだ言葉にならないものを首筋に残したまま、吸血鬼王は画面の中の地獄を見ていた。


 ルストは何も言わなかった。


 ただ、隣に立っていた。


 血だけでは足りない。


 言葉はまだ必要だった。


 だが今、二人の間にも、事件の奥にも、同じものが残っている。


 まだ、誰も言いきっていない真実が。



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