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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第7部 【願い屋は血を取る】

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第103話 寿命の買い手



 解析室の画面に、買い手という文字が残っていた。


 警察側の安全拠点は、夜が深くなるほど冷えていく。窓のない部屋に並べられた端末は、青白い光を机の上に投げ、紙コップのコーヒーも、散らばった資料も、人間の顔色も同じように疲れた色へ染めていた。


 榊は腕を組んだまま、画面を睨んでいる。


 澪奈は椅子に座り、複数の端末を同時に操作していた。帳簿の画像はひどく乱れている。《宵待堂》の異界化の影響で、文字の一部は通知文に置き換わり、ところどころ黒く欠けていた。


 それでも、完全には消えていなかった。


 利用者番号。


 願望分類。


 代償種別。


 器。


 保存状態。


 販売可否。


 貸与可否。


 買い手種別。


 使用目的。


 反応観察結果。


 再利用回数。


 貸与先。


 回収予定。


 備考。


 それらの項目が、復元された画面の中で不気味に整列している。


 クラウディオは、端末の前に立っていた。


 椅子には座らない。腕も組んでいない。ただ、画面を見下ろしている。その横にルストが立つ。距離は近いが、触れてはいない。


 クラウディオの襟は、いつものように完璧には整えられていなかった。


 首筋の噛み跡は、薄く残っている。


 隠そうと思えば隠せるはずだった。布を少し上げるだけでいい。それなのに、クラウディオは直さない。ルストはそれを見たが、何も言わない。


 クラウディオは気づいている。


 気づいて、少しだけ機嫌を悪くしている。


 だが今は、事件の方が先だった。


「帳簿の復元が進みました」


 澪奈が言った。


 声には疲労が混じっていたが、輪郭ははっきりしている。彼女は画面の一つを拡大し、復元された項目を表示した。


「利用者の記録だけではありません。代償品の購入、貸与、転売に近い記録があります」


 榊の眉が動く。


「転売?」


「正確には、代償の再利用です」


 澪奈は別のページを開いた。


「願いを叶えた利用者から奪われた記憶、寿命、血、感情。それらが《宵待堂》の器に保存され、その後、買い手や貸与先へ流れていました。帳簿上では、商品として扱われています」


 クラウディオが低く言った。


「願いの中古市場か。吐き気がするな」


 榊は画面を睨み続けた。


「買い手ってのは、誰だ」


 澪奈は小さく息を吸い、項目を順番に表示した。


「いくつか種類があります。匿名化されているものが多く、個人名は伏せられています。ただ、買い手種別、用途、決済経路、貸与先の断片は残っています」


 画面に、最初の分類が映る。


 若年感情反応/髪飾り/買い手種別:資産管理顧客/用途:若返り儀式補助。


 寿命残量/懐中時計/買い手種別:匿名富裕層/用途:身体維持補助。


 澪奈の声が硬くなる。


「若返り関連の購入記録が複数あります。買い手は匿名化されていますが、決済経路が富裕層向けの資産管理会社に繋がっています」


 榊が吐き捨てるように言う。


「若返るために、誰かの寿命を買ったってことか」


 クラウディオは画面を見たまま答えた。


「寿命そのものより、若さに伴う感情を買っている。若かった頃の自信、高揚感、身体がまだ自分のものだと信じられた感覚。どちらにせよ下劣だ」


 澪奈が続ける。


「帳簿上では、寿命残量と若年感情反応は別の項目です。ただ、複数の器を併用した記録があります。懐中時計、髪飾り、声を保存したらしい小瓶。詳細な使用方法は書かれていません」


「書かれていなくて幸いだ」


 クラウディオの声が冷える。


「人間は手順があれば、必ず真似をする」


 榊は唇を噛んだ。


 画面の中の数字は、冷たく並んでいる。


 購入頻度。


 貸与期間。


 再利用回数。


 誰かの時間が、取引回数として整理されている。


 榊の拳が強く握られた。


     ◇


 次に表示されたのは、指輪の記録だった。


 恋慕記憶/指輪/買い手:文筆業者/用途:感情描写補助。


 初恋記憶/紙片/買い手:文筆業者/用途:恋愛描写補助。


 喪失感情/ハンカチ/買い手:文筆業者/用途:悲嘆描写補助。


 榊が画面を見て、呆れたように低く言った。


「他人の恋愛まで買うのか」


 澪奈は説明する。


「文筆業者とだけ記されています。実名はありません。作品名なども記録されていません。ただ、恋人を好きになった日の記憶、初恋の痛み、失恋の感情、復縁した時の感情などが、複数回購入または貸与されています」


 クラウディオは薄く笑った。


「書けない感情を買う。盗作より質が悪いな」


 ルストが静かに言う。


「持ち主には戻らない」


「だから商品になる。持ち主から切り離されたものほど、売る側には都合がいい」


 クラウディオの目は笑っていなかった。


「恋の始まりを指輪に詰め、他人の胸の痛みを紙片に縛り、失恋の喉詰まりをハンカチへ染み込ませる。作家とやらは、それを借りて自分の言葉にする気だったわけだ」


 榊が顔を歪める。


「感情を買って書いたものなんか、作品って言えるのか」


「読んだ者が泣けば、本人はそう言い張るだろうな」


「胸糞悪い」


「同感だ」


 その短い同意に、榊は一瞬だけクラウディオを見た。


 クラウディオは、もう画面の次の項目へ視線を移していた。


 ルストは、その横顔を見る。


 クラウディオは、冷たく言っている。


 人間社会は昔からこうだと突き放す顔をしている。


 だが、記憶や感情が材料として扱われる話になるたび、声が硬くなる。第97話で「記憶は支払いではない。形だ」と言った時と同じ冷え方だった。


 彼にとって、形に残すことと、値札をつけることは違う。


 そこには、彼なりの線がある。


     ◇


 澪奈は次の分類を表示した。


 努力記憶/硝子小瓶/買い手:芸術家/用途:技能感覚補填。


 反復感覚/古い絵筆/買い手:芸術家/用途:手技補助。


 失敗記憶/割れた人形指/買い手:造形関係者/用途:制作感覚補填。


 榊が眉をひそめる。


「努力記憶?」


「分類上の名前です」


 澪奈は慎重に答えた。


「長年練習した感覚、失敗しても続けた記憶、手に馴染んだ技術、作品を作るために積み上げた痛み。そういったものが、器に保存されていた可能性があります」


「努力まで売れるのか」


 榊の声には怒りより先に、理解が追いつかない困惑があった。


 クラウディオは冷たく言った。


「努力そのものではない。努力したという記憶と、身体に残った感覚だ」


「それを飲んで、才能を補った?」


 榊の問いに、澪奈は首を振る。


「帳簿に具体的な使用方法はありません。そこは再現できる情報として残っていない。ただ、用途欄には技能感覚補填とあります」


 クラウディオの赤い瞳が、わずかに細くなった。


「才能を買った気になっただけだ。借り物の努力で作ったものは、すぐ腐る」


 その言い方は厳しかった。


 だが、ただの軽蔑ではなかった。


 クラウディオの指は、無意識に机の端に置かれた小さな写真へ触れていた。澪奈が資料として印刷した、《宵待堂》の割れた人形の写真だ。片目が抜け、指が欠け、胸元に赤い糸の跡がある。


 彼は人形師だった。


 失われたもの、忘れられたもの、壊されたものに形を与える。


 それは、持ち主の痛みを横取りすることではない。


 誰かの記憶を抜き、瓶に詰め、別の人間の才能の代用品として飲ませることではない。


 クラウディオは低く言った。


「記憶は材料ではない」


 澪奈の手が止まる。


 榊も黙った。


 クラウディオは続けた。


「形に残すことと、値札をつけることは違う。壊れたものを形に留めることと、他人の欠落を横流しすることも違う」


 ルストは、横から静かにその声を聞いていた。


 冷たく、皮肉で、暴君めいた男の声。


 それでも、その底には明確な怒りがあった。


「人形は棺にもなる」


 クラウディオは、割れた人形の写真を見た。


「だが、売り場ではない」


 榊は小さく息を吐いた。


「お前にも倫理があるんだな」


 クラウディオが即座に睨む。


「今の発言を記録から消せ」


「残念ながら口頭だ」


「なら記憶を売ってこい」


 ルストが低く言う。


「売らない」


 クラウディオは、ほんの一瞬だけ黙った。


 それから、何もなかったように画面へ視線を戻す。


     ◇


 次の項目で、榊の表情が一段険しくなった。


 寿命残量/懐中時計/買い手種別:公的機関周辺顧客/用途:延命補助。


 寿命残量/腕時計/買い手種別:政治関係者代理/用途:身体維持。


 回収予定:未定。


 再購入希望:有。


「政治家まで混ざってるのか」


 榊の声が低く落ちた。


 澪奈は慎重に言う。


「本人名は伏せられています。ただ、公的機関に近い経路があります。政治関係者代理、役職名の断片、顧客番号。決済情報はほとんど消えていますが、通常の個人顧客とは違う扱いです」


「病を延命するために、他人の寿命を買ったってことか」


「帳簿上は、延命補助です」


「言い換えただけだろうが」


 榊の声に、はっきりと怒りが乗った。


 クラウディオは淡々と言う。


「権力者が長く椅子に座るために、知らない誰かの時間を削る。珍しくもない」


「珍しくないで済ませるな」


「済ませていない。見慣れているだけだ」


 榊はクラウディオを睨む。


「人の命を、売買データみたいに扱ってやがる」


 クラウディオは画面を見たまま、冷たく返した。


「人間社会は昔からそうだろう。今回はラベルが丁寧になっただけだ」


 その言葉に、部屋の空気が重くなる。


 澪奈は何も言わなかった。


 榊も一瞬言葉を失った。


 クラウディオは続ける。


「身分、血筋、信仰、戦争、研究、病、労働、家族、愛情。人間は昔から、誰かの命や時間に値札をつけてきた。《願い屋》はそれを古物商の帳簿に書いた。丁寧な分類名と、保存状態と、再利用回数を添えてな」


 榊は拳を握る。


「願った奴だけの責任じゃない」


「ああ」


「売った奴がいる。買った奴がいる。見ていた奴がいる。研究していた奴もいる」


「ようやく警察官らしい顔になったな」


 クラウディオが言う。


 榊は苛立って返す。


「今まで何だったんだよ」


「被害者の顔色を窺う公務員」


「本当に一言多いな、お前は」


「二言は控えた。感謝しろ」


 軽口はあった。


 しかし、榊の怒りは消えなかった。


 その怒りを、クラウディオは本気では笑わなかった。


 彼は、人間社会は昔からそうだと言った。


 だが、無関心ではなかった。


 見慣れているだけだ、と言った声には、長く見すぎた者の冷たさがあった。


     ◇


 澪奈は、民間研究施設の項目を開いた。


 貸与先:東都認知生命研究センター。


 願望記憶残滓/複数器/用途:反応観察。


 契約口反応/赤い輪痕記録/用途:再現性確認。


 寿命移動反応/懐中時計/用途:経時変化観察。


 血液支払痕/小瓶/用途:血と記憶の結合反応。


 榊の表情がさらに硬くなる。


「東都認知生命研究センターの記録が複数あります」


 澪奈は画面を切り替えながら言った。


「用途欄には、反応観察、再現性確認、契約口の安定性という語があります」


「怪異犯罪を研究しているのか」


「少なくとも、怪異による代償の移動を観察・記録していた可能性があります」


 ルストが低く問う。


「使っている?」


 クラウディオが答えた。


「願いの器を借りている時点で、使っている」


 榊は奥歯を噛んだ。


「研究だけで済んでいれば、まだましだな」


 クラウディオは画面を見たまま言った。


「怪異の移動反応を観察し、再現性を調べ、契約口の安定性を確認する。実験台が誰かなど、連中は気にしない。気にするなら、最初からこんな帳簿に名前を残さない」


 澪奈は苦い顔で頷く。


「警察庁関係者との接点もあります」


 画面に、匿名化された職員番号らしきものと、外部顧問経由の記録が表示された。


 警察庁関連部署。


 外部協力者。


 東都認知生命研究センター共同項目。


 願望記憶残滓。


 証拠反応補助。


 記録は完全ではない。


 欠けている。


 だが、欠けているから無視できるほど薄くもなかった。


「警察庁の名前がある」


 榊の声は低い。


「内部で誰かが買っていたってことか。それとも研究施設経由で受け取っていたのか」


 澪奈は首を横に振る。


「まだ直接購入とは断定できません。ただ、記録上は接点があります。外部顧問経由の受け渡し、共同観察項目、そして警察庁内部の資料番号と似た符号が残っています」


 ルストはクラウディオを見る。


「久遠院か」


 クラウディオは即座に返した。


「まだ名前を貼るな」


 その声は、前より少し硬かった。


「だが、近いところに椅子はある。観察席か、実験台のそばかはまだ分からない」


 榊が低く言う。


「科学捜査の檻の時と繋がるのか」


「繋がる可能性はある」


 クラウディオは認めた。


「証拠を整え、人を追い詰め、反応を観察する。今回の願いの器も同じだ。欲望を整え、代償を取って、器に詰め、買わせ、観察する」


 彼は画面の文字を見た。


「願い屋はアプリではない。市場だ」


 榊が顔を上げる。


 クラウディオは続けた。


「篠宮は客引き、灰島は店主、怪異は決済機構。研究施設は、買った品を分解している」


「最悪の商店街だな」


 榊が吐き捨てる。


「商店街に失礼だ」


 クラウディオは冷たく返した。


 そして、さらに言う。


「願う者を集める。奪う。詰める。売る。買う。観察する。よくできた地獄の流通だ」


 澪奈の端末が、そこで小さく鳴った。


 復元が進んだ通知音だった。


 画面の隅に、新しい項目が浮かぶ。


 予約記録。


 澪奈の手が止まった。


     ◇


「どうした」


 榊が問う。


 澪奈は新しいページを開いた。


 通常の買い手記録よりも黒く滲んでいる。暗号化が強いのか、それとも《願い屋》の異界化の影響が強く残っているのか。文字の半分は欠けていた。


 それでも、いくつかの語が読める。


 大規模取引。


 今夜。


 感情反応。


 王血級。


 澪奈の顔色が変わった。


「次の取引予定があります。時刻は今夜」


 榊がすぐに身を乗り出す。


「取引対象は」


 澪奈は、画面を拡大した。


 文字がノイズに潰れかける。


 だが、最後に一行だけ、赤いような黒いような色で浮かび上がった。


 王血級の感情反応。


 部屋が静まり返った。


 ルストが、ゆっくりとクラウディオを見る。


 クラウディオは笑わなかった。


 いや、口元だけは笑った。


 だが、赤い目はまったく笑っていない。


 澪奈は声を絞り出す。


「王血級、という分類は、帳簿の中では初めてです。吸血鬼王に関する記録の可能性があります。感情反応という語から見て、血から得られる記憶や感情の層を指している可能性が高いです」


 榊が顔を強張らせる。


「クラウディオの血か」


 澪奈は断定を避けるように唇を噛んだ。


「現時点では可能性です。ただ、直近の異常反応として記録されているのは、《宵待堂》の異界化空間内でのクラウディオさんとルストさんの反応です。その後の血術反応まで観測されていたかは分かりませんが……」


 ルストの空気が冷えた。


「お前を品物にする気か」


 クラウディオは、そこでようやく薄く笑った。


「王血級、ね。分類だけは豪勢だな」


「笑う話じゃない」


 ルストの声は低かった。


 クラウディオは横目で彼を見る。


「値札が高いなら、まだ目はあるな」


「クラウディオ」


 呼び方が低く変わる。


 クラウディオは、ほんのわずかに肩を竦めた。


「俺の感情に値札をつけるとは、ずいぶん勇敢な商人だ」


 その声は軽い。


 だが、目は笑っていない。


 自分の血。


 自分の記憶。


 自分の感情。


 それらが、王血級という分類にされ、取引対象として帳簿に載せられている。


 記憶を材料ではないと言った男にとって、それは最も嫌う領域に踏み込まれることだった。


 ルストが静かに言う。


「触れさせない」


 クラウディオは即座に返す。


「所有者面をするな」


「守ると言っている」


 その返答に、クラウディオは一瞬だけ言葉を失った。


 すぐに眉を寄せる。


「言い方が悪い」


「直す気はない」


「最悪だな」


「知っている」


 榊が二人を見る。


「喧嘩は後だ。取引場所は分かるか」


 澪奈は画面を操作する。


「場所はまだ欠けています。ただ、予約記録には関連器の搬送予定があります。赤い小瓶、銀の手鏡、懐中時計、そして新規採取枠」


「新規採取枠?」


 榊の声が硬くなる。


 澪奈は画面を凝視した。


 文字が揺れる。


 欠けた黒い部分が、一瞬だけ復元される。


 その瞬間、解析端末の画面に、赤い文字が一行だけ浮かび上がった。


 採取予定:今夜


 クラウディオの赤い瞳が、静かに細くなった。


 ルストの周囲の空気が、さらに冷える。


 願い屋は、次の商品を決めていた。


 王血級の感情反応。


 それは、クラウディオの血から得られる記憶や感情だった。




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