第103話 寿命の買い手
解析室の画面に、買い手という文字が残っていた。
警察側の安全拠点は、夜が深くなるほど冷えていく。窓のない部屋に並べられた端末は、青白い光を机の上に投げ、紙コップのコーヒーも、散らばった資料も、人間の顔色も同じように疲れた色へ染めていた。
榊は腕を組んだまま、画面を睨んでいる。
澪奈は椅子に座り、複数の端末を同時に操作していた。帳簿の画像はひどく乱れている。《宵待堂》の異界化の影響で、文字の一部は通知文に置き換わり、ところどころ黒く欠けていた。
それでも、完全には消えていなかった。
利用者番号。
願望分類。
代償種別。
器。
保存状態。
販売可否。
貸与可否。
買い手種別。
使用目的。
反応観察結果。
再利用回数。
貸与先。
回収予定。
備考。
それらの項目が、復元された画面の中で不気味に整列している。
クラウディオは、端末の前に立っていた。
椅子には座らない。腕も組んでいない。ただ、画面を見下ろしている。その横にルストが立つ。距離は近いが、触れてはいない。
クラウディオの襟は、いつものように完璧には整えられていなかった。
首筋の噛み跡は、薄く残っている。
隠そうと思えば隠せるはずだった。布を少し上げるだけでいい。それなのに、クラウディオは直さない。ルストはそれを見たが、何も言わない。
クラウディオは気づいている。
気づいて、少しだけ機嫌を悪くしている。
だが今は、事件の方が先だった。
「帳簿の復元が進みました」
澪奈が言った。
声には疲労が混じっていたが、輪郭ははっきりしている。彼女は画面の一つを拡大し、復元された項目を表示した。
「利用者の記録だけではありません。代償品の購入、貸与、転売に近い記録があります」
榊の眉が動く。
「転売?」
「正確には、代償の再利用です」
澪奈は別のページを開いた。
「願いを叶えた利用者から奪われた記憶、寿命、血、感情。それらが《宵待堂》の器に保存され、その後、買い手や貸与先へ流れていました。帳簿上では、商品として扱われています」
クラウディオが低く言った。
「願いの中古市場か。吐き気がするな」
榊は画面を睨み続けた。
「買い手ってのは、誰だ」
澪奈は小さく息を吸い、項目を順番に表示した。
「いくつか種類があります。匿名化されているものが多く、個人名は伏せられています。ただ、買い手種別、用途、決済経路、貸与先の断片は残っています」
画面に、最初の分類が映る。
若年感情反応/髪飾り/買い手種別:資産管理顧客/用途:若返り儀式補助。
寿命残量/懐中時計/買い手種別:匿名富裕層/用途:身体維持補助。
澪奈の声が硬くなる。
「若返り関連の購入記録が複数あります。買い手は匿名化されていますが、決済経路が富裕層向けの資産管理会社に繋がっています」
榊が吐き捨てるように言う。
「若返るために、誰かの寿命を買ったってことか」
クラウディオは画面を見たまま答えた。
「寿命そのものより、若さに伴う感情を買っている。若かった頃の自信、高揚感、身体がまだ自分のものだと信じられた感覚。どちらにせよ下劣だ」
澪奈が続ける。
「帳簿上では、寿命残量と若年感情反応は別の項目です。ただ、複数の器を併用した記録があります。懐中時計、髪飾り、声を保存したらしい小瓶。詳細な使用方法は書かれていません」
「書かれていなくて幸いだ」
クラウディオの声が冷える。
「人間は手順があれば、必ず真似をする」
榊は唇を噛んだ。
画面の中の数字は、冷たく並んでいる。
購入頻度。
貸与期間。
再利用回数。
誰かの時間が、取引回数として整理されている。
榊の拳が強く握られた。
◇
次に表示されたのは、指輪の記録だった。
恋慕記憶/指輪/買い手:文筆業者/用途:感情描写補助。
初恋記憶/紙片/買い手:文筆業者/用途:恋愛描写補助。
喪失感情/ハンカチ/買い手:文筆業者/用途:悲嘆描写補助。
榊が画面を見て、呆れたように低く言った。
「他人の恋愛まで買うのか」
澪奈は説明する。
「文筆業者とだけ記されています。実名はありません。作品名なども記録されていません。ただ、恋人を好きになった日の記憶、初恋の痛み、失恋の感情、復縁した時の感情などが、複数回購入または貸与されています」
クラウディオは薄く笑った。
「書けない感情を買う。盗作より質が悪いな」
ルストが静かに言う。
「持ち主には戻らない」
「だから商品になる。持ち主から切り離されたものほど、売る側には都合がいい」
クラウディオの目は笑っていなかった。
「恋の始まりを指輪に詰め、他人の胸の痛みを紙片に縛り、失恋の喉詰まりをハンカチへ染み込ませる。作家とやらは、それを借りて自分の言葉にする気だったわけだ」
榊が顔を歪める。
「感情を買って書いたものなんか、作品って言えるのか」
「読んだ者が泣けば、本人はそう言い張るだろうな」
「胸糞悪い」
「同感だ」
その短い同意に、榊は一瞬だけクラウディオを見た。
クラウディオは、もう画面の次の項目へ視線を移していた。
ルストは、その横顔を見る。
クラウディオは、冷たく言っている。
人間社会は昔からこうだと突き放す顔をしている。
だが、記憶や感情が材料として扱われる話になるたび、声が硬くなる。第97話で「記憶は支払いではない。形だ」と言った時と同じ冷え方だった。
彼にとって、形に残すことと、値札をつけることは違う。
そこには、彼なりの線がある。
◇
澪奈は次の分類を表示した。
努力記憶/硝子小瓶/買い手:芸術家/用途:技能感覚補填。
反復感覚/古い絵筆/買い手:芸術家/用途:手技補助。
失敗記憶/割れた人形指/買い手:造形関係者/用途:制作感覚補填。
榊が眉をひそめる。
「努力記憶?」
「分類上の名前です」
澪奈は慎重に答えた。
「長年練習した感覚、失敗しても続けた記憶、手に馴染んだ技術、作品を作るために積み上げた痛み。そういったものが、器に保存されていた可能性があります」
「努力まで売れるのか」
榊の声には怒りより先に、理解が追いつかない困惑があった。
クラウディオは冷たく言った。
「努力そのものではない。努力したという記憶と、身体に残った感覚だ」
「それを飲んで、才能を補った?」
榊の問いに、澪奈は首を振る。
「帳簿に具体的な使用方法はありません。そこは再現できる情報として残っていない。ただ、用途欄には技能感覚補填とあります」
クラウディオの赤い瞳が、わずかに細くなった。
「才能を買った気になっただけだ。借り物の努力で作ったものは、すぐ腐る」
その言い方は厳しかった。
だが、ただの軽蔑ではなかった。
クラウディオの指は、無意識に机の端に置かれた小さな写真へ触れていた。澪奈が資料として印刷した、《宵待堂》の割れた人形の写真だ。片目が抜け、指が欠け、胸元に赤い糸の跡がある。
彼は人形師だった。
失われたもの、忘れられたもの、壊されたものに形を与える。
それは、持ち主の痛みを横取りすることではない。
誰かの記憶を抜き、瓶に詰め、別の人間の才能の代用品として飲ませることではない。
クラウディオは低く言った。
「記憶は材料ではない」
澪奈の手が止まる。
榊も黙った。
クラウディオは続けた。
「形に残すことと、値札をつけることは違う。壊れたものを形に留めることと、他人の欠落を横流しすることも違う」
ルストは、横から静かにその声を聞いていた。
冷たく、皮肉で、暴君めいた男の声。
それでも、その底には明確な怒りがあった。
「人形は棺にもなる」
クラウディオは、割れた人形の写真を見た。
「だが、売り場ではない」
榊は小さく息を吐いた。
「お前にも倫理があるんだな」
クラウディオが即座に睨む。
「今の発言を記録から消せ」
「残念ながら口頭だ」
「なら記憶を売ってこい」
ルストが低く言う。
「売らない」
クラウディオは、ほんの一瞬だけ黙った。
それから、何もなかったように画面へ視線を戻す。
◇
次の項目で、榊の表情が一段険しくなった。
寿命残量/懐中時計/買い手種別:公的機関周辺顧客/用途:延命補助。
寿命残量/腕時計/買い手種別:政治関係者代理/用途:身体維持。
回収予定:未定。
再購入希望:有。
「政治家まで混ざってるのか」
榊の声が低く落ちた。
澪奈は慎重に言う。
「本人名は伏せられています。ただ、公的機関に近い経路があります。政治関係者代理、役職名の断片、顧客番号。決済情報はほとんど消えていますが、通常の個人顧客とは違う扱いです」
「病を延命するために、他人の寿命を買ったってことか」
「帳簿上は、延命補助です」
「言い換えただけだろうが」
榊の声に、はっきりと怒りが乗った。
クラウディオは淡々と言う。
「権力者が長く椅子に座るために、知らない誰かの時間を削る。珍しくもない」
「珍しくないで済ませるな」
「済ませていない。見慣れているだけだ」
榊はクラウディオを睨む。
「人の命を、売買データみたいに扱ってやがる」
クラウディオは画面を見たまま、冷たく返した。
「人間社会は昔からそうだろう。今回はラベルが丁寧になっただけだ」
その言葉に、部屋の空気が重くなる。
澪奈は何も言わなかった。
榊も一瞬言葉を失った。
クラウディオは続ける。
「身分、血筋、信仰、戦争、研究、病、労働、家族、愛情。人間は昔から、誰かの命や時間に値札をつけてきた。《願い屋》はそれを古物商の帳簿に書いた。丁寧な分類名と、保存状態と、再利用回数を添えてな」
榊は拳を握る。
「願った奴だけの責任じゃない」
「ああ」
「売った奴がいる。買った奴がいる。見ていた奴がいる。研究していた奴もいる」
「ようやく警察官らしい顔になったな」
クラウディオが言う。
榊は苛立って返す。
「今まで何だったんだよ」
「被害者の顔色を窺う公務員」
「本当に一言多いな、お前は」
「二言は控えた。感謝しろ」
軽口はあった。
しかし、榊の怒りは消えなかった。
その怒りを、クラウディオは本気では笑わなかった。
彼は、人間社会は昔からそうだと言った。
だが、無関心ではなかった。
見慣れているだけだ、と言った声には、長く見すぎた者の冷たさがあった。
◇
澪奈は、民間研究施設の項目を開いた。
貸与先:東都認知生命研究センター。
願望記憶残滓/複数器/用途:反応観察。
契約口反応/赤い輪痕記録/用途:再現性確認。
寿命移動反応/懐中時計/用途:経時変化観察。
血液支払痕/小瓶/用途:血と記憶の結合反応。
榊の表情がさらに硬くなる。
「東都認知生命研究センターの記録が複数あります」
澪奈は画面を切り替えながら言った。
「用途欄には、反応観察、再現性確認、契約口の安定性という語があります」
「怪異犯罪を研究しているのか」
「少なくとも、怪異による代償の移動を観察・記録していた可能性があります」
ルストが低く問う。
「使っている?」
クラウディオが答えた。
「願いの器を借りている時点で、使っている」
榊は奥歯を噛んだ。
「研究だけで済んでいれば、まだましだな」
クラウディオは画面を見たまま言った。
「怪異の移動反応を観察し、再現性を調べ、契約口の安定性を確認する。実験台が誰かなど、連中は気にしない。気にするなら、最初からこんな帳簿に名前を残さない」
澪奈は苦い顔で頷く。
「警察庁関係者との接点もあります」
画面に、匿名化された職員番号らしきものと、外部顧問経由の記録が表示された。
警察庁関連部署。
外部協力者。
東都認知生命研究センター共同項目。
願望記憶残滓。
証拠反応補助。
記録は完全ではない。
欠けている。
だが、欠けているから無視できるほど薄くもなかった。
「警察庁の名前がある」
榊の声は低い。
「内部で誰かが買っていたってことか。それとも研究施設経由で受け取っていたのか」
澪奈は首を横に振る。
「まだ直接購入とは断定できません。ただ、記録上は接点があります。外部顧問経由の受け渡し、共同観察項目、そして警察庁内部の資料番号と似た符号が残っています」
ルストはクラウディオを見る。
「久遠院か」
クラウディオは即座に返した。
「まだ名前を貼るな」
その声は、前より少し硬かった。
「だが、近いところに椅子はある。観察席か、実験台のそばかはまだ分からない」
榊が低く言う。
「科学捜査の檻の時と繋がるのか」
「繋がる可能性はある」
クラウディオは認めた。
「証拠を整え、人を追い詰め、反応を観察する。今回の願いの器も同じだ。欲望を整え、代償を取って、器に詰め、買わせ、観察する」
彼は画面の文字を見た。
「願い屋はアプリではない。市場だ」
榊が顔を上げる。
クラウディオは続けた。
「篠宮は客引き、灰島は店主、怪異は決済機構。研究施設は、買った品を分解している」
「最悪の商店街だな」
榊が吐き捨てる。
「商店街に失礼だ」
クラウディオは冷たく返した。
そして、さらに言う。
「願う者を集める。奪う。詰める。売る。買う。観察する。よくできた地獄の流通だ」
澪奈の端末が、そこで小さく鳴った。
復元が進んだ通知音だった。
画面の隅に、新しい項目が浮かぶ。
予約記録。
澪奈の手が止まった。
◇
「どうした」
榊が問う。
澪奈は新しいページを開いた。
通常の買い手記録よりも黒く滲んでいる。暗号化が強いのか、それとも《願い屋》の異界化の影響が強く残っているのか。文字の半分は欠けていた。
それでも、いくつかの語が読める。
大規模取引。
今夜。
感情反応。
王血級。
澪奈の顔色が変わった。
「次の取引予定があります。時刻は今夜」
榊がすぐに身を乗り出す。
「取引対象は」
澪奈は、画面を拡大した。
文字がノイズに潰れかける。
だが、最後に一行だけ、赤いような黒いような色で浮かび上がった。
王血級の感情反応。
部屋が静まり返った。
ルストが、ゆっくりとクラウディオを見る。
クラウディオは笑わなかった。
いや、口元だけは笑った。
だが、赤い目はまったく笑っていない。
澪奈は声を絞り出す。
「王血級、という分類は、帳簿の中では初めてです。吸血鬼王に関する記録の可能性があります。感情反応という語から見て、血から得られる記憶や感情の層を指している可能性が高いです」
榊が顔を強張らせる。
「クラウディオの血か」
澪奈は断定を避けるように唇を噛んだ。
「現時点では可能性です。ただ、直近の異常反応として記録されているのは、《宵待堂》の異界化空間内でのクラウディオさんとルストさんの反応です。その後の血術反応まで観測されていたかは分かりませんが……」
ルストの空気が冷えた。
「お前を品物にする気か」
クラウディオは、そこでようやく薄く笑った。
「王血級、ね。分類だけは豪勢だな」
「笑う話じゃない」
ルストの声は低かった。
クラウディオは横目で彼を見る。
「値札が高いなら、まだ目はあるな」
「クラウディオ」
呼び方が低く変わる。
クラウディオは、ほんのわずかに肩を竦めた。
「俺の感情に値札をつけるとは、ずいぶん勇敢な商人だ」
その声は軽い。
だが、目は笑っていない。
自分の血。
自分の記憶。
自分の感情。
それらが、王血級という分類にされ、取引対象として帳簿に載せられている。
記憶を材料ではないと言った男にとって、それは最も嫌う領域に踏み込まれることだった。
ルストが静かに言う。
「触れさせない」
クラウディオは即座に返す。
「所有者面をするな」
「守ると言っている」
その返答に、クラウディオは一瞬だけ言葉を失った。
すぐに眉を寄せる。
「言い方が悪い」
「直す気はない」
「最悪だな」
「知っている」
榊が二人を見る。
「喧嘩は後だ。取引場所は分かるか」
澪奈は画面を操作する。
「場所はまだ欠けています。ただ、予約記録には関連器の搬送予定があります。赤い小瓶、銀の手鏡、懐中時計、そして新規採取枠」
「新規採取枠?」
榊の声が硬くなる。
澪奈は画面を凝視した。
文字が揺れる。
欠けた黒い部分が、一瞬だけ復元される。
その瞬間、解析端末の画面に、赤い文字が一行だけ浮かび上がった。
採取予定:今夜
クラウディオの赤い瞳が、静かに細くなった。
ルストの周囲の空気が、さらに冷える。
願い屋は、次の商品を決めていた。
王血級の感情反応。
それは、クラウディオの血から得られる記憶や感情だった。




