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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第7部 【願い屋は血を取る】

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第104話 王血の値段


 安全拠点の解析室には、まだ夜の白い光が残っていた。


 帳簿の復元画面には、赤い文字が焼きついたように浮かんでいる。


 王血級の感情反応。


 採取予定:今夜。


 その二行が表示されてから、誰もすぐには口を開かなかった。


 榊は端末の画面を睨みつけ、澪奈は復元された文字列を何度も照合している。クラウディオは、椅子にも座らず、画面の前に立っていた。薄く整えられた顔に大きな乱れはない。だが、赤い瞳は冷えている。


 首筋の噛み跡は、まだ完全には隠されていなかった。


 ルストはそれを見たが、何も言わない。


 クラウディオは気づいている。


 気づいたうえで、襟を直さない。


 澪奈が、硬い声で言った。


「取引予定時刻は今夜。場所は、旧臨海倉庫街の一角です。表向きは古物オークションの搬入記録になっています」


 榊が画面を覗き込む。


「旧臨海倉庫街……廃業した会員制オークション会場があった場所か」


「はい。帳簿の搬入番号と、古物業者の保管記録が一致しました。現在は閉鎖扱いですが、倉庫区画の一部に電力使用があります」


 榊はすぐに通信端末を取った。


「篠宮、灰島、願い屋の怪異。まとめて押さえる」


 クラウディオが鼻で笑う。


「怪異を押収できるなら、警察も少しは進歩したな」


「うるさい。お前も対象だ。勝手に血を抜かれるな」


「心配の仕方が雑だ」


 ルストが静かに言った。


「雑でも、必要だ」


 クラウディオは横目でルストを見る。


「お前まで警察の雑さに染まるな」


「必要なら染まる」


「最悪だな」


「知っている」


 榊は二人のやり取りを切るように、地図を広げた。


「外周は俺たちで押さえる。買い手側の人間、搬入品、取引記録、全部取る。澪奈、怪異反応の記録は」


「準備します。ただ、怪異本体は記録できるか分かりません。でも、反応は残せます」


 クラウディオは画面から目を離さない。


「また記録か。人間は本当に紙と数字が好きだな」


 榊は短く返した。


「今回は拝まない。見るためだ」


 クラウディオの目が、ほんの少しだけ動いた。


 以前、自分が言った言葉を返されたのだと分かったのだろう。


 証拠は見るものだ。


 拝むものではない。


 彼は薄く笑った。


「なら、見落とすな」


「誰に言ってる」


「見落とす人間に」


「全人類を敵に回す言い方をするな」


「全人類が俺の足元に来てから言え」


 榊は呆れた顔をしたが、今は言い返さなかった。


 余裕がなかった。


 王血級の感情反応。


 それは、クラウディオの血から得られる記憶や感情を意味していた。


 ただの吸血鬼の血ではない。


 王血。


 稀血。


 数百年分の記憶を含む血。


 喪失を含む血。


 人形師として、失われた記憶を形に残そうとしてきた者の血。


 怪異から本心を覗かせなかった者の血。


 ルストとの血術的な接触で、強い感情の濁りを生じさせた血。


 《願い屋》にとって、それは最高級の商品だった。


 クラウディオは画面を見て、冷たく呟いた。


「王血級、ね。値札だけは立派だな」


 ルストが低く言う。


「笑う話じゃない」


「笑わなければ、腹を立てているとばれる」


「もうばれている」


「では、お前の観察眼を呪う」


 ルストは答えなかった。


 ただ、クラウディオの半歩後ろに立った。


 所有するためではない。


 守るために。


 クラウディオはそれに気づいている。気づいて、やはり何も言わない。


 言わないまま、取引現場へ向かう準備が始まった。


     ◇


 旧臨海倉庫街は、海に近い場所にあった。


 夜の潮風が、閉鎖された倉庫の壁を低く撫でている。錆びたフェンス。古い街灯。使われなくなった搬入口。コンクリートには、雨水と油の混じったような黒い染みが残っていた。


 その奥に、廃業した会員制オークション会場がある。


 かつては、美術品や骨董品の搬入に使われていたらしい。今は看板も外され、入口のガラスには内側から黒い布が貼られている。だが、建物の奥には薄い灯りがあった。


 榊は外周に配置した捜査員へ短く指示を出している。


 澪奈は車両の中で、怪異反応を記録するための端末を立ち上げていた。通常の映像記録だけでは足りない。音、温度、文字化け、通信障害、血術反応。拾えるものはすべて拾う。


「篠宮の配信機材らしき電波が出ています」


 澪奈の声が通信に入った。


「録画ではなく、生配信準備に近い動きです。ただ、通常の配信サイトではありません。閉じた回線です」


 榊が眉をひそめる。


「買い手向けか」


「可能性があります」


 クラウディオは古い搬入口を見た。


「願いにも内覧会があるとはな。悪趣味の展示販売だ」


 ルストは隣にいる。


 距離は近い。


 近いが、触れない。


 前話からの余韻は、まだ完全には消えていない。クラウディオの首筋に残る噛み跡と、ルストの沈黙が、それを隠しきらないまま残している。


 榊が低く言う。


「篠宮、灰島、取引記録、買い手。取れるものは全部取る」


 澪奈の声が続く。


「怪異本体は記録できるか分かりません。でも、反応は残せます。空間異常が起きたら、通信は一部落ちると思ってください」


 クラウディオは鼻で笑った。


「怪異と人間の市場に乗り込むのに、通信が落ちる心配だけで済むなら安いな」


 榊は振り返る。


「クラウディオ。お前を餌にするつもりはない」


「すでに帳簿に餌として載っている。今さら人道的な顔をするな」


「お前を危険な囮にしすぎる気はないと言ってる」


「珍しくまともなことを言うな。気味が悪い」


「殴るぞ」


「順番待ちだ。灰銀の方が先に予約している」


 ルストが静かに言った。


「殴らない」


「今は、だろう」


「必要なら止める」


「俺を止める話ばかりするな」


 ルストは答えない。


 代わりに、倉庫の入口へ視線を向けた。


 そこには、赤い封蝋のついた木箱が積まれている。番号札。硝子瓶を入れるための緩衝材。古い時計や指輪を入れる小箱。灰島の帳簿と同じ紙質の取引票。


 その一枚に、暗号化された札が付いていた。


 王血級感情反応。


 クラウディオの表情が、わずかに冷えた。


「本人の前で札を貼るとは、礼儀を学び直すべきだな」


「行くぞ」


 榊が合図を出す。


 古い搬入口が、静かに開いた。


     ◇


 中は、現実の倉庫でありながら、すでに半分だけ異界だった。


 天井は高く、暗い。照明は必要最低限しか点いていない。床には古い搬送用の線が残り、壁際には木箱や布をかけられた棚が並んでいる。


 奥には、かつてオークション会場として使われていたらしい広いホールがあった。


 椅子は並んでいない。


 代わりに、細長い机がいくつも置かれている。


 机の上には、古い指輪、懐中時計、硝子瓶、人形の目、写真のない写真立て、赤い小瓶が並んでいた。どれも番号札が付けられている。


 現実の古物と、怪異の器が混ざっている。


 空気には、血の匂いに似たものと、古い紙の匂い、甘く焦げたような匂いが混じっていた。


 クラウディオの指が、微かに止まる。


 その匂いに反応したのは、一瞬だけだった。


 だが、ルストは見逃さなかった。


 舞台のように一段高くなった場所に、篠宮カナメが立っていた。


 配信の時と同じ、柔らかな顔。


 人の願いを受け止めるような微笑み。


 だが、その目は、救いを売る者の目だった。


 彼女の周囲には、数人の買い手らしき影がいる。顔はよく見えない。ぼやけたように輪郭が曖昧で、現実の人間なのか、怪異空間の影なのか判別しにくい。


 篠宮は、クラウディオたちを見て微笑んだ。


「お越しになったのですね」


 榊が低く言う。


「篠宮カナメ。話を聞かせてもらう」


「私は、願いを叶えているわけではありません」


「その言い訳は聞き飽きた」


 篠宮は眉を下げる。


「皆さん、救いを求めているだけです」


 クラウディオが一歩前へ出た。


「救いを売る顔で、値段表を隠すな」


 篠宮の微笑みが、ほんの少しだけ硬くなる。


「本当に叶えたい願いほど、相応の器が必要です」


「そして相応の代金も必要、か」


「願いには重さがあります」


「重さを測る秤が腐っている」


 クラウディオの声は冷たかった。


 その時、ホールの奥から別の声がした。


「お客様に対して、少々手厳しいのではございませんか」


 灰島だった。


 年齢不詳の古物商は、いつものように白い手袋を嵌め、穏やかな顔で現れた。背後には、灰島の帳簿と同じ紙質の取引票が並ぶ机がある。


 彼はクラウディオを見る。


 まるで商品を評価する目だった。


 礼儀正しく、丁寧で、だからこそ最悪だった。


「今夜の品は、格別でございます」


 ルストの空気が、わずかに冷える。


 灰島は気にしない。


「王血。稀血。数百年分の記憶を含む血。喪失の密度が高く、人形師として記憶を形に残そうとした者の血。怪異から本心を覗かせなかった者の血。そして、古い吸血鬼との反応によって感情断片を生じさせた血」


 クラウディオの赤い目が細くなる。


 灰島は微笑んだ。


「あなたの血なら、どんな願いでも叶うでしょうね。誰かの死者を戻すことすら、夢ではないかもしれません」


 ホールの空気が、そこで変わった。


 ルストの目が冷える。


 榊が灰島を睨む。


 澪奈の通信越しの呼吸が一瞬止まる。


 クラウディオだけが、笑った。


 冷たく。


 整った顔で。


 まったく笑っていない目で。


「俺の血を願望処理機にするな。品性が死んでいるぞ」


 灰島は穏やかに首を傾けた。


「血は、ただの液体ではございません。長く生きた血ほど、よく覚えています」


「では、お前の舌も長く使った分、少しは言葉を覚えろ」


「あなたの血は、喪失の密度が違う」


 その言葉で、クラウディオの笑みが少しだけ薄くなる。


 灰島は続ける。


「若返り、死者への未練、失われた記憶の復元。王血なら、どれもよい反応を示すでしょう。願う者にとって、これほど上質な器はないでしょう」


 篠宮が柔らかく言った。


「願いを諦めきれない人たちは、きっと欲しがります」


 クラウディオは冷えた声で返す。


「死者蘇生を販促文句にするな。最低の商人だ」


 灰島は笑わない。


 ただ、静かに言う。


「商人は、求められる品を用意するだけでございます」


「なら、求める者ごと海に沈めろ」


 榊が低く言った。


「クラウディオ、挑発に乗るな」


「乗っているつもりはない。踏み潰しているだけだ」


 しかし、その時だった。


 ホールの奥に、赤い文字が浮かんだ。


 アプリ通知のように。


 帳簿の文字のように。


 鏡の奥から滲み出る声のように。


 《願い屋》の怪異が、そこにいた。


 姿ははっきりしない。


 篠宮の声。


 灰島の横顔。


 アプリ通知。


 赤い小瓶の光。


 銀の手鏡に映る影。


 それらが混ざり、ホールの奥に揺れている。


 声が、クラウディオへ届いた。


「ロウェナを戻したくはありませんか」


 その瞬間、クラウディオの表情が消えた。


 本当に、一瞬だけだった。


 赤い目の焦点が遠くなる。


 口元の冷笑が途切れる。


 人形師の指先が、何かを掴み損ねるように微かに動く。


 火。


 白い包み紙。


 焦げた甘い匂い。


 古い名前。


 それらが、言葉にならないほど短く彼の中をよぎった。


 ルストは見逃さなかった。


 《願い屋》は囁く。


「失った者を、作り直したくはありませんか」


 クラウディオは動かない。


 目だけが、少し遠い。


「人形で代用するより、本物を取り戻したくはありませんか」


 榊が息を呑む。


 澪奈の通信が乱れる。


 篠宮は微笑んだまま、何も言わない。


 灰島は、静かな目でクラウディオを見ている。


 怪異は、さらに甘く囁いた。


「王血なら届くかもしれません」


「あなたの血で、あなたの願いを叶えればよい」


 クラウディオの喉が、わずかに動いた。


 ルストが一歩前へ出た。


 クラウディオの前に立つ。


「そいつに願うな」


 クラウディオの赤い目が、ようやく現実へ戻った。


 彼はルストの背を見た。


 灰銀の髪。


 邪魔なほど大きな背。


 勝手に前に立つ男。


 クラウディオは苛立ったように言う。


「命じるな」


「命じる」


「殺すぞ」


「あとにしろ」


「偉そうに」


「今だけだ」


 ルストは振り返らない。


 クラウディオは舌打ちした。


 けれど、願わない。


 《願い屋》へ言葉を渡さない。


 入力もしない。


 契約もしない。


 血も差し出さない。


 クラウディオは、ルストの背越しに怪異を見た。


「死者を戻す商売ほど、信用できないものはない」


 声は冷えていた。


 だが、さっき消えた表情の跡が、まだ完全には消えていない。


「失った者を、お前の棚に並べる気はない」


 《願い屋》の影が揺れる。


「本物を望まないのですか」


「俺の喪失に値札をつけるな」


 クラウディオの声が、低く落ちた。


 その瞬間、榊が合図を出した。


 外周の捜査員が動く。


 搬入口が押さえられ、買い手らしき影が一斉にざわめく。澪奈の記録装置が反応を拾い、端末が連続して通知音を鳴らす。


「反応記録、開始します」


 澪奈の声が通信に入る。


「怪異反応が強くなっています。篠宮周辺、灰島周辺、そしてクラウディオさんの血術反応に集中しています」


 榊が叫ぶ。


「篠宮、灰島、取引票を押さえろ! 買い手を外へ出すな!」


 灰島は慌てない。


 篠宮も逃げない。


 《願い屋》の怪異だけが、ホールの奥で濃くなる。


 赤い文字が、空中に浮かぶ。


 王血級感情反応。


 採取予定:今夜。


 願いを入力してください。


 クラウディオの首筋の噛み跡が、薄く熱を持つ。


 ルストがそれに気づき、さらに一歩、クラウディオの前に立つ。


「触れさせない」


「所有者面をするな」


「守ると言っている」


「言い方が悪い」


「直す気はない」


 クラウディオは、それ以上言わなかった。


 怪異の声が、二人の間をすり抜けるように響く。


「あなたの願いは、誰よりも高く売れる」


 その声は、ホールの隅々まで届いた。


 篠宮の声にも似ていた。


 灰島の声にも似ていた。


 アプリ通知の冷たさもあった。


 クラウディオは何も言わなかった。


 ルストだけが、その沈黙の重さに気づいた。




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