第104話 王血の値段
安全拠点の解析室には、まだ夜の白い光が残っていた。
帳簿の復元画面には、赤い文字が焼きついたように浮かんでいる。
王血級の感情反応。
採取予定:今夜。
その二行が表示されてから、誰もすぐには口を開かなかった。
榊は端末の画面を睨みつけ、澪奈は復元された文字列を何度も照合している。クラウディオは、椅子にも座らず、画面の前に立っていた。薄く整えられた顔に大きな乱れはない。だが、赤い瞳は冷えている。
首筋の噛み跡は、まだ完全には隠されていなかった。
ルストはそれを見たが、何も言わない。
クラウディオは気づいている。
気づいたうえで、襟を直さない。
澪奈が、硬い声で言った。
「取引予定時刻は今夜。場所は、旧臨海倉庫街の一角です。表向きは古物オークションの搬入記録になっています」
榊が画面を覗き込む。
「旧臨海倉庫街……廃業した会員制オークション会場があった場所か」
「はい。帳簿の搬入番号と、古物業者の保管記録が一致しました。現在は閉鎖扱いですが、倉庫区画の一部に電力使用があります」
榊はすぐに通信端末を取った。
「篠宮、灰島、願い屋の怪異。まとめて押さえる」
クラウディオが鼻で笑う。
「怪異を押収できるなら、警察も少しは進歩したな」
「うるさい。お前も対象だ。勝手に血を抜かれるな」
「心配の仕方が雑だ」
ルストが静かに言った。
「雑でも、必要だ」
クラウディオは横目でルストを見る。
「お前まで警察の雑さに染まるな」
「必要なら染まる」
「最悪だな」
「知っている」
榊は二人のやり取りを切るように、地図を広げた。
「外周は俺たちで押さえる。買い手側の人間、搬入品、取引記録、全部取る。澪奈、怪異反応の記録は」
「準備します。ただ、怪異本体は記録できるか分かりません。でも、反応は残せます」
クラウディオは画面から目を離さない。
「また記録か。人間は本当に紙と数字が好きだな」
榊は短く返した。
「今回は拝まない。見るためだ」
クラウディオの目が、ほんの少しだけ動いた。
以前、自分が言った言葉を返されたのだと分かったのだろう。
証拠は見るものだ。
拝むものではない。
彼は薄く笑った。
「なら、見落とすな」
「誰に言ってる」
「見落とす人間に」
「全人類を敵に回す言い方をするな」
「全人類が俺の足元に来てから言え」
榊は呆れた顔をしたが、今は言い返さなかった。
余裕がなかった。
王血級の感情反応。
それは、クラウディオの血から得られる記憶や感情を意味していた。
ただの吸血鬼の血ではない。
王血。
稀血。
数百年分の記憶を含む血。
喪失を含む血。
人形師として、失われた記憶を形に残そうとしてきた者の血。
怪異から本心を覗かせなかった者の血。
ルストとの血術的な接触で、強い感情の濁りを生じさせた血。
《願い屋》にとって、それは最高級の商品だった。
クラウディオは画面を見て、冷たく呟いた。
「王血級、ね。値札だけは立派だな」
ルストが低く言う。
「笑う話じゃない」
「笑わなければ、腹を立てているとばれる」
「もうばれている」
「では、お前の観察眼を呪う」
ルストは答えなかった。
ただ、クラウディオの半歩後ろに立った。
所有するためではない。
守るために。
クラウディオはそれに気づいている。気づいて、やはり何も言わない。
言わないまま、取引現場へ向かう準備が始まった。
◇
旧臨海倉庫街は、海に近い場所にあった。
夜の潮風が、閉鎖された倉庫の壁を低く撫でている。錆びたフェンス。古い街灯。使われなくなった搬入口。コンクリートには、雨水と油の混じったような黒い染みが残っていた。
その奥に、廃業した会員制オークション会場がある。
かつては、美術品や骨董品の搬入に使われていたらしい。今は看板も外され、入口のガラスには内側から黒い布が貼られている。だが、建物の奥には薄い灯りがあった。
榊は外周に配置した捜査員へ短く指示を出している。
澪奈は車両の中で、怪異反応を記録するための端末を立ち上げていた。通常の映像記録だけでは足りない。音、温度、文字化け、通信障害、血術反応。拾えるものはすべて拾う。
「篠宮の配信機材らしき電波が出ています」
澪奈の声が通信に入った。
「録画ではなく、生配信準備に近い動きです。ただ、通常の配信サイトではありません。閉じた回線です」
榊が眉をひそめる。
「買い手向けか」
「可能性があります」
クラウディオは古い搬入口を見た。
「願いにも内覧会があるとはな。悪趣味の展示販売だ」
ルストは隣にいる。
距離は近い。
近いが、触れない。
前話からの余韻は、まだ完全には消えていない。クラウディオの首筋に残る噛み跡と、ルストの沈黙が、それを隠しきらないまま残している。
榊が低く言う。
「篠宮、灰島、取引記録、買い手。取れるものは全部取る」
澪奈の声が続く。
「怪異本体は記録できるか分かりません。でも、反応は残せます。空間異常が起きたら、通信は一部落ちると思ってください」
クラウディオは鼻で笑った。
「怪異と人間の市場に乗り込むのに、通信が落ちる心配だけで済むなら安いな」
榊は振り返る。
「クラウディオ。お前を餌にするつもりはない」
「すでに帳簿に餌として載っている。今さら人道的な顔をするな」
「お前を危険な囮にしすぎる気はないと言ってる」
「珍しくまともなことを言うな。気味が悪い」
「殴るぞ」
「順番待ちだ。灰銀の方が先に予約している」
ルストが静かに言った。
「殴らない」
「今は、だろう」
「必要なら止める」
「俺を止める話ばかりするな」
ルストは答えない。
代わりに、倉庫の入口へ視線を向けた。
そこには、赤い封蝋のついた木箱が積まれている。番号札。硝子瓶を入れるための緩衝材。古い時計や指輪を入れる小箱。灰島の帳簿と同じ紙質の取引票。
その一枚に、暗号化された札が付いていた。
王血級感情反応。
クラウディオの表情が、わずかに冷えた。
「本人の前で札を貼るとは、礼儀を学び直すべきだな」
「行くぞ」
榊が合図を出す。
古い搬入口が、静かに開いた。
◇
中は、現実の倉庫でありながら、すでに半分だけ異界だった。
天井は高く、暗い。照明は必要最低限しか点いていない。床には古い搬送用の線が残り、壁際には木箱や布をかけられた棚が並んでいる。
奥には、かつてオークション会場として使われていたらしい広いホールがあった。
椅子は並んでいない。
代わりに、細長い机がいくつも置かれている。
机の上には、古い指輪、懐中時計、硝子瓶、人形の目、写真のない写真立て、赤い小瓶が並んでいた。どれも番号札が付けられている。
現実の古物と、怪異の器が混ざっている。
空気には、血の匂いに似たものと、古い紙の匂い、甘く焦げたような匂いが混じっていた。
クラウディオの指が、微かに止まる。
その匂いに反応したのは、一瞬だけだった。
だが、ルストは見逃さなかった。
舞台のように一段高くなった場所に、篠宮カナメが立っていた。
配信の時と同じ、柔らかな顔。
人の願いを受け止めるような微笑み。
だが、その目は、救いを売る者の目だった。
彼女の周囲には、数人の買い手らしき影がいる。顔はよく見えない。ぼやけたように輪郭が曖昧で、現実の人間なのか、怪異空間の影なのか判別しにくい。
篠宮は、クラウディオたちを見て微笑んだ。
「お越しになったのですね」
榊が低く言う。
「篠宮カナメ。話を聞かせてもらう」
「私は、願いを叶えているわけではありません」
「その言い訳は聞き飽きた」
篠宮は眉を下げる。
「皆さん、救いを求めているだけです」
クラウディオが一歩前へ出た。
「救いを売る顔で、値段表を隠すな」
篠宮の微笑みが、ほんの少しだけ硬くなる。
「本当に叶えたい願いほど、相応の器が必要です」
「そして相応の代金も必要、か」
「願いには重さがあります」
「重さを測る秤が腐っている」
クラウディオの声は冷たかった。
その時、ホールの奥から別の声がした。
「お客様に対して、少々手厳しいのではございませんか」
灰島だった。
年齢不詳の古物商は、いつものように白い手袋を嵌め、穏やかな顔で現れた。背後には、灰島の帳簿と同じ紙質の取引票が並ぶ机がある。
彼はクラウディオを見る。
まるで商品を評価する目だった。
礼儀正しく、丁寧で、だからこそ最悪だった。
「今夜の品は、格別でございます」
ルストの空気が、わずかに冷える。
灰島は気にしない。
「王血。稀血。数百年分の記憶を含む血。喪失の密度が高く、人形師として記憶を形に残そうとした者の血。怪異から本心を覗かせなかった者の血。そして、古い吸血鬼との反応によって感情断片を生じさせた血」
クラウディオの赤い目が細くなる。
灰島は微笑んだ。
「あなたの血なら、どんな願いでも叶うでしょうね。誰かの死者を戻すことすら、夢ではないかもしれません」
ホールの空気が、そこで変わった。
ルストの目が冷える。
榊が灰島を睨む。
澪奈の通信越しの呼吸が一瞬止まる。
クラウディオだけが、笑った。
冷たく。
整った顔で。
まったく笑っていない目で。
「俺の血を願望処理機にするな。品性が死んでいるぞ」
灰島は穏やかに首を傾けた。
「血は、ただの液体ではございません。長く生きた血ほど、よく覚えています」
「では、お前の舌も長く使った分、少しは言葉を覚えろ」
「あなたの血は、喪失の密度が違う」
その言葉で、クラウディオの笑みが少しだけ薄くなる。
灰島は続ける。
「若返り、死者への未練、失われた記憶の復元。王血なら、どれもよい反応を示すでしょう。願う者にとって、これほど上質な器はないでしょう」
篠宮が柔らかく言った。
「願いを諦めきれない人たちは、きっと欲しがります」
クラウディオは冷えた声で返す。
「死者蘇生を販促文句にするな。最低の商人だ」
灰島は笑わない。
ただ、静かに言う。
「商人は、求められる品を用意するだけでございます」
「なら、求める者ごと海に沈めろ」
榊が低く言った。
「クラウディオ、挑発に乗るな」
「乗っているつもりはない。踏み潰しているだけだ」
しかし、その時だった。
ホールの奥に、赤い文字が浮かんだ。
アプリ通知のように。
帳簿の文字のように。
鏡の奥から滲み出る声のように。
《願い屋》の怪異が、そこにいた。
姿ははっきりしない。
篠宮の声。
灰島の横顔。
アプリ通知。
赤い小瓶の光。
銀の手鏡に映る影。
それらが混ざり、ホールの奥に揺れている。
声が、クラウディオへ届いた。
「ロウェナを戻したくはありませんか」
その瞬間、クラウディオの表情が消えた。
本当に、一瞬だけだった。
赤い目の焦点が遠くなる。
口元の冷笑が途切れる。
人形師の指先が、何かを掴み損ねるように微かに動く。
火。
白い包み紙。
焦げた甘い匂い。
古い名前。
それらが、言葉にならないほど短く彼の中をよぎった。
ルストは見逃さなかった。
《願い屋》は囁く。
「失った者を、作り直したくはありませんか」
クラウディオは動かない。
目だけが、少し遠い。
「人形で代用するより、本物を取り戻したくはありませんか」
榊が息を呑む。
澪奈の通信が乱れる。
篠宮は微笑んだまま、何も言わない。
灰島は、静かな目でクラウディオを見ている。
怪異は、さらに甘く囁いた。
「王血なら届くかもしれません」
「あなたの血で、あなたの願いを叶えればよい」
クラウディオの喉が、わずかに動いた。
ルストが一歩前へ出た。
クラウディオの前に立つ。
「そいつに願うな」
クラウディオの赤い目が、ようやく現実へ戻った。
彼はルストの背を見た。
灰銀の髪。
邪魔なほど大きな背。
勝手に前に立つ男。
クラウディオは苛立ったように言う。
「命じるな」
「命じる」
「殺すぞ」
「あとにしろ」
「偉そうに」
「今だけだ」
ルストは振り返らない。
クラウディオは舌打ちした。
けれど、願わない。
《願い屋》へ言葉を渡さない。
入力もしない。
契約もしない。
血も差し出さない。
クラウディオは、ルストの背越しに怪異を見た。
「死者を戻す商売ほど、信用できないものはない」
声は冷えていた。
だが、さっき消えた表情の跡が、まだ完全には消えていない。
「失った者を、お前の棚に並べる気はない」
《願い屋》の影が揺れる。
「本物を望まないのですか」
「俺の喪失に値札をつけるな」
クラウディオの声が、低く落ちた。
その瞬間、榊が合図を出した。
外周の捜査員が動く。
搬入口が押さえられ、買い手らしき影が一斉にざわめく。澪奈の記録装置が反応を拾い、端末が連続して通知音を鳴らす。
「反応記録、開始します」
澪奈の声が通信に入る。
「怪異反応が強くなっています。篠宮周辺、灰島周辺、そしてクラウディオさんの血術反応に集中しています」
榊が叫ぶ。
「篠宮、灰島、取引票を押さえろ! 買い手を外へ出すな!」
灰島は慌てない。
篠宮も逃げない。
《願い屋》の怪異だけが、ホールの奥で濃くなる。
赤い文字が、空中に浮かぶ。
王血級感情反応。
採取予定:今夜。
願いを入力してください。
クラウディオの首筋の噛み跡が、薄く熱を持つ。
ルストがそれに気づき、さらに一歩、クラウディオの前に立つ。
「触れさせない」
「所有者面をするな」
「守ると言っている」
「言い方が悪い」
「直す気はない」
クラウディオは、それ以上言わなかった。
怪異の声が、二人の間をすり抜けるように響く。
「あなたの願いは、誰よりも高く売れる」
その声は、ホールの隅々まで届いた。
篠宮の声にも似ていた。
灰島の声にも似ていた。
アプリ通知の冷たさもあった。
クラウディオは何も言わなかった。
ルストだけが、その沈黙の重さに気づいた。




