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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第7部 【願い屋は血を取る】

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第105話 願い屋は血を取る



「あなたの願いは、誰よりも高く売れる」


 その囁きが、旧臨海倉庫の地下ホールに落ちた瞬間、空気が変わった。


 床に赤い通知文字が浮かぶ。


 願いを入力してください。


 願いを確認しています。


 お支払いは、成就後に確定します。


 古い木箱の蓋が、ひとりでに開いた。中に詰められた緩衝材の奥で、赤い小瓶が震えている。銀の手鏡が、伏せられていたはずの机の上でゆっくり立ち上がった。指輪が小さく鳴り、懐中時計の針が一斉に動き、人形の目が暗い硝子の奥から光を返す。


 篠宮カナメの声が、複数の端末から重なって聞こえた。


 願いは、正しく言葉にすれば届きます。


 灰島の帳簿が、誰も触れていないのにめくれていく。


 代償種別。


 保存状態。


 販売可否。


 貸与可否。


 買い手番号。


 買い手たちの匿名番号札が、空中に浮いた。富裕層の資産管理番号、文筆業者、政治関係代理、研究施設関係者、警察庁関連符号。人間の顔は見えない。ただ、番号だけが赤い鱗のように闇へ貼り付いていく。


 願いの器が、互いに響き合う。


 赤い小瓶は心臓のように脈打つ。


 銀の手鏡は口のように開く。


 帳簿のページは肋骨のように広がる。


 棚が背骨のように伸び、懐中時計が寿命の音を刻み、指輪が失われた恋を囁き、人形の目が忘却の瞬間を映す。


 それは、もはやひとつの怪異ではなかった。


 市場だった。


 人間の願いを喰らい、代償を値札に変え、記憶と寿命と血を商品棚に並べる、異形の市場。


 クラウディオは、ルストの背の向こうからそれを見た。


「市場が開いたな」


 ルストは低く返した。


「閉じる」


 榊が通信へ短く命じる。


「全員、記録を残せ。見失うな」


 澪奈の声が、乱れた通信越しに返った。


「反応、取れています。願いの器が連動しています。篠宮の端末、灰島の帳簿、買い手番号、すべて同時に反応しています」


 クラウディオは冷たく笑った。


「怪異というより、会計処理の悪夢だな」


 その声に反応するように、ホールの奥で赤い文字が揺れた。


 本心を聞かせてあげる。


 銀の手鏡の鏡面が、ルストの方を向いた。


 ルストは、一瞬も迷わなかった。


「本人が言わないものは、いらない」


 鏡面に映る赤い文字が、波紋のように歪む。


 怪異の声が甘くなる。


「あなたはもう少しだけ知った。続きを知りたいでしょう」


 ルストの視線が、クラウディオへわずかに動く。


 第102話で、彼は血から感情の断片を読んだ。


 安堵。


 信頼。


 苛立ち。


 それらは言葉ではなかった。


 答えでもなかった。


 ルストは静かに言った。


「血で読めたものも、答えではない」


 銀の手鏡が軋むように鳴った。


 怪異は今度、澪奈の端末へ赤い通知を走らせる。


 記録できないものを、記録できる形にしてあげる。


 澪奈の指が一瞬だけ止まった。


 記録者として、科学捜査に携わる者として、記録できないものを記録したいという欲は、彼女の中にもある。怪異はそこへ正確に指を入れる。


 だが、澪奈は唇を噛み、端末を握り直した。


「記録しています。怪異本体は完全には捕捉できません。でも、代償の流れは残っています。篠宮と灰島の発言、記録できています」


 榊の前には、別の文字が浮かぶ。


 正義のために、証拠が欲しいでしょう。


 榊は歯を食いしばる。


「証拠は欲しい。だが、人の記憶や寿命を買ってまで欲しがるほど落ちちゃいない」


 クラウディオが横目で見た。


「少しは警察官らしい返答だな」


「今それ言うか」


「褒めている」


「褒め方がいつも腐ってるんだよ」


 怪異の声が、次にクラウディオへ向かった。


 失った記憶を戻してあげる。


 床に、古い紙片のような光が散る。


 死んだ人を、願いの形で返してあげる。


 ホールの空気に、焦げた甘い匂いが混じった。


 白い包み紙。


 火。


 古い名前。


 人形ではない手。


 クラウディオの表情が、ほんの一瞬だけ消えた。


 ルストは見逃さない。


 クラウディオは欲している。


 欲していないはずがない。


 失った者を戻したくないはずがない。


 ただし、それは怪異に渡していいものではない。


 願えば、喪失すら棚に並べられる。記憶も痛みも、値札つきの器にされる。戻したものさえ、市場の在庫にされる。


 クラウディオは、それを分かっている。


 だからこそ、その喪失を喪失のまま守る。


 怪異が囁く。


「願えば、形にできます」


 クラウディオは、ゆっくりと顔を上げた。


「俺の願いを叶えられるほど、貴様は上等ではない」


 赤い文字が、微かに乱れた。


 その台詞は強がりだった。


 だが、嘘ではなかった。


 クラウディオは続ける。


「死者を戻す商売ほど、信用できないものはない。失った者を、お前の棚に並べる気はない」


 怪異の市場が、低くざわめいた。


     ◇


 榊が動いた。


 外周を押さえていた捜査員たちが、搬入口と裏手の通路を封鎖する。買い手の影がざわめき、番号札が空中で震えた。人間の輪郭を取り戻した者もいる。顔を隠した富裕層らしき男、代理人、配信関係者、研究施設の職員らしき白いIDカードを下げた女。


 榊は篠宮へ向かった。


「篠宮カナメ。任意同行じゃ済まない」


 篠宮は、なおも優しく微笑んだ。


「私は、苦しんでいる人に道を示しただけです」


「願いの先に何があるか知っていたな」


「願ったのは、本人たちです。私は叶えていません」


 榊の目が冷えた。


「案内した先で、血と記憶と寿命を取られると知っていた。取られた代償が商品になることも知っていた。違うか」


 篠宮は答えなかった。


 その沈黙を、澪奈の端末が記録している。


 クラウディオは、篠宮を見て低く言った。


「崖を指して、道案内と言うな」


 篠宮の笑顔が、わずかに薄くなる。


 榊は彼女の手元の端末を押さえた。


「相談者リスト、案内メッセージ、配信記録。全部確認する。願った人間だけを責めて終わらせる気はない」


 灰島は、別の机の前に立っていた。


 白い手袋。


 穏やかな顔。


 取引が崩れ始めているのに、慌てていない。


 ただ、商品棚を眺める古物商の目で、市場の揺らぎを見ている。


 榊は灰島にも視線を向ける。


「灰島。お前もだ」


 灰島は静かに笑った。


「私は品を扱っただけでございます」


「人の記憶と寿命を品にした時点で終わりだ」


「残念です。よい市場でしたのに」


「続きは署で聞く」


 灰島は抵抗しない。


「では、帳簿もご一緒に」


 その声音には、まだ余裕があった。


 クラウディオは冷たく言う。


「願いが残ることと、お前が商売を続けることは別だ」


 灰島はクラウディオへ目を向ける。


「人は願います。形が変わるだけで、商いはなくなりません」


「なら、その形を壊す」


 クラウディオの声が低く落ちた。


     ◇


 怪異市場の中心で、契約口が開いた。


 それは口に見えた。


 赤い輪にも見えた。


 小さな穴にも見えた。


 願いの器から伸びる細い糸が、そこへ集まっている。血、寿命、記憶、感情。すでに奪われたものの一部と、これから奪う予定だったものが、赤黒い流れになって市場の奥へ吸い込まれている。


 第96話で、クラウディオは言った。


 これは吸血ではない。契約の口だ。


 願い屋は、血を吸うのではなく、契約として命を噛んでいる。


 いま、その契約の口が、ホール中に開いていた。


 ルストは一歩前へ出る。


 灰銀の髪が、怪異の赤い光を弾いた。


「戻せない」


 彼は言った。


 クラウディオが答える。


「知っている」


「なら、これ以上は取らせない」


 ルストの目が冷える。


 彼は、血の流れを読む。


 吸血鬼として。


 古い王として。


 どの糸が被害者へ続き、どれが買い手へ流れ、どれが新たな契約口へ繋がっているのか。すべてを戻すことはできない。削られた寿命のすべてを返せない。失われた記憶の形を、完全には戻せない。願いによって変わった現実を、都合よく巻き戻せない。


 だが、これ以上奪わせないことはできる。


 ルストは、血の圧を絞るようにして、契約口の流れへ刃を入れた。


 怪異の赤い文字が大きく歪む。


 キャンセルしますか。


 支払いは継続中です。


 支払いは継続中です。


 支払いは継続中です。


 ルストは低く言った。


「黙れ」


 赤い輪のいくつかが、裂けるように閉じた。


 同時に、クラウディオが人形の目を手に取った。


 《宵待堂》で見たものと同じ、黒い硝子の目。少女が母親を忘れた瞬間を閉じ込めた器。


 クラウディオの指は、怒りで乱れていない。


 人形師の手だった。


 壊れたものを扱う時の、慎重な手。


「人形の目を、怪異の口にするな」


 彼は低く言った。


 赤い糸が、人形の目から契約口へ伸びている。


 クラウディオはその糸を、ただ乱暴に切らなかった。糸の結び目を読み、絡み方を見て、器の中に残された記憶を傷つけない場所を選ぶ。


「記憶は無理に戻すものじゃない」


 彼の声が、怪異のざわめきを縫うように通る。


「器に縛るな。欠けたものには、欠けたままの輪郭がある」


 彼は、人形師の糸を展開した。


 目に見えないほど細い糸が、願いの器同士の接続へ絡む。指輪、懐中時計、写真立て、人形の目、赤い小瓶。器そのものを壊すのではない。契約網との接続だけを絡め取り、引き剥がす。


 いくつかの器が、音もなく沈黙した。


 失われた記憶は戻らない。


 だが、これ以上、誰かの願いの支払いへ流用されない。


 クラウディオの赤い瞳が、さらに深く光った。


 空気が重くなる。


 赤い小瓶が震える。


 通知文字が歪む。


 市場全体が、初めてクラウディオを商品ではなく、王として認識した。


 クラウディオは、静かに言った。


「我が血に値をつけたな」


 その一人称に、榊が一瞬だけ息を呑む。


 ルストは動かない。


 クラウディオの声は冷えていた。


「なら、商人ごと棚を閉じろ」


 赤い文字が、砕けた。


     ◇


 怪異はなおも囁く。


 本心を聞かせてあげる。


 ルストには、銀の手鏡が向く。


 失った記憶を戻してあげる。


 人形の目と写真立てが、クラウディオへ向く。


 死んだ人を、願いの形で返してあげる。


 赤い小瓶の中で、焦げた甘い匂いが強くなる。


 クラウディオの指先が、一瞬だけ止まった。


 ルストはそれを見た。


 だが、前に出すぎない。


 クラウディオが自分で拒む余地を奪わない。


 ただ隣に立つ。


 クラウディオは、怪異を見上げた。


「何度言わせる。俺の願いを叶えられるほど、貴様は上等ではない」


 怪異の市場が、低く軋んだ。


 ルストは銀の手鏡へ視線を向ける。


「答えは、あいつが持っている」


 銀の手鏡の鏡面が割れた。


 榊が叫ぶ。


「澪奈!」


「帳簿の複製、保全完了! 篠宮と灰島の発言、記録できています。代償の流れも一部残っています。東都認知生命研究センターへの貸与記録、警察庁関係者の符号も保存しました!」


「よし。人間側は逃がさない」


 榊は篠宮と灰島を見た。


「怪異は逃げても、人間の手は残る」


 篠宮の目がわずかに揺れる。


 灰島は、それでも微笑んでいた。


 だが、その背後の棚は崩れ始めている。


 クラウディオの糸が契約網を絡め取り、ルストが契約口を断つ。赤い小瓶の光が弱まり、懐中時計の針が止まり、指輪の囁きが沈む。


 願いの市場が閉じていく。


 完全には消えない。


 だが、今夜の大規模取引は壊れた。


 王血級の感情反応の採取計画も。


 篠宮と灰島を通じた現実側の窓口も。


 一部の代償の流通経路も。


 契約口のいくつかも。


 クラウディオは、赤い小瓶の割れた破片を見た。


 中の光は消えかけている。


 榊が悔しそうに言う。


「全部は戻らないのか」


 クラウディオは、静かに答えた。


「全部は戻らない」


 榊の顔が歪む。


 削られた寿命。


 抜かれた記憶。


 失われた感情。


 願いによって変わってしまった現実。


 それらは、都合よく元通りにはならない。


 榊は拳を握った。


「それでも止める」


 クラウディオは頷かない。


 ただ、短く言った。


「それでいい。全能ぶるな」


 その声に、珍しく嘲りは薄かった。


     ◇


 市場が崩れた後、旧臨海倉庫の地下ホールには、現実の冷たい空気が戻っていた。


 篠宮カナメは、抵抗しなかった。


 最後まで、自分は願いを叶えていないと言い続けた。


 灰島も同じだった。


 白い手袋を外す時でさえ、彼は穏やかに微笑んでいた。


「私一人を止めても、願いは残ります」


 榊はその手を押さえた。


「願いが残るのと、お前の商売を許すのは別だ」


 灰島は目を細める。


「では、また別の誰かが棚を作るでしょう」


「その時も壊す」


 榊は言った。


 澪奈は記録装置を回収している。端末のいくつかは焼き切れ、映像は乱れている。それでも、発言記録、帳簿の複製、貸与記録、買い手符号、篠宮と灰島が現場にいた事実は残った。


 怪異そのものは、完全には捕まらない。


 けれど、人間の手は残る。


 願いを案内した手。


 代償を商品にした手。


 買った手。


 観察した手。


 榊はそれを追うつもりだった。


 クラウディオは、崩れた机の前に立っていた。


 足元には、割れた銀の手鏡の破片が落ちている。そこに、赤い文字が一瞬だけ映った。


 願いは残ります。


 クラウディオは破片を踏み砕いた。


 だが、砕けた赤い光の一部が、床の影へ細く逃げた。


 ルストはそれを見た。


「逃げたな」


「ああ」


「追うか」


「追える形で逃げるほど、親切な怪異なら苦労はない」


 クラウディオは手首を見た。


 第101話から残る、ルストの噛み跡。


 薄くなっているが、まだある。


 彼はその痕を見て、鼻で笑った。


「貴様は怪異より質が悪い。聞くなと言えば噛む」


 ルストは低く返した。


「お前が言えば噛まない」


 クラウディオは赤い目だけを横へ向ける。


 ルストはいつものように静かだった。


 勝ち誇らない。


 責めない。


 ただ、待つ顔をしている。


 クラウディオは、ほんの少しだけ口元を歪めた。


「検討してやる」


「長い検討になりそうだな」


「当然だ。王の決裁は重い」


「なら待つ」


「待つな。鬱陶しい」


「待つ」


「最悪だな」


「知っている」


 クラウディオは、今度は何も言わなかった。


 だが、手首の噛み跡を隠しはしなかった。


     ◇


 翌未明。


 夜の駅のホームには、始発を待つ人影がまばらに立っていた。


 ベンチの端に、一人の若い女が座っている。


 目元は赤い。


 泣いた後の顔だった。


 彼女は、誰かへ送るメッセージを開いていた。


 私は悪くない。


 あの人が先に。


 私はただ、少しだけ。


 指が止まる。


 スマホの画面が、一瞬だけ暗くなった。


 そこに、見覚えのあるアイコンが浮かび上がる。


 正式なストアには存在しないはずのアプリ。


 壊されたはずの《願い屋》。


 通知が一つ、表示された。


 次の願い主を探しています


 女は、涙の残る目でその文字を見つめた。


 ホームに、始発列車の接近音が響く。


 画面の赤い通知は、静かに瞬いていた。




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