第105話 願い屋は血を取る
「あなたの願いは、誰よりも高く売れる」
その囁きが、旧臨海倉庫の地下ホールに落ちた瞬間、空気が変わった。
床に赤い通知文字が浮かぶ。
願いを入力してください。
願いを確認しています。
お支払いは、成就後に確定します。
古い木箱の蓋が、ひとりでに開いた。中に詰められた緩衝材の奥で、赤い小瓶が震えている。銀の手鏡が、伏せられていたはずの机の上でゆっくり立ち上がった。指輪が小さく鳴り、懐中時計の針が一斉に動き、人形の目が暗い硝子の奥から光を返す。
篠宮カナメの声が、複数の端末から重なって聞こえた。
願いは、正しく言葉にすれば届きます。
灰島の帳簿が、誰も触れていないのにめくれていく。
代償種別。
保存状態。
販売可否。
貸与可否。
買い手番号。
買い手たちの匿名番号札が、空中に浮いた。富裕層の資産管理番号、文筆業者、政治関係代理、研究施設関係者、警察庁関連符号。人間の顔は見えない。ただ、番号だけが赤い鱗のように闇へ貼り付いていく。
願いの器が、互いに響き合う。
赤い小瓶は心臓のように脈打つ。
銀の手鏡は口のように開く。
帳簿のページは肋骨のように広がる。
棚が背骨のように伸び、懐中時計が寿命の音を刻み、指輪が失われた恋を囁き、人形の目が忘却の瞬間を映す。
それは、もはやひとつの怪異ではなかった。
市場だった。
人間の願いを喰らい、代償を値札に変え、記憶と寿命と血を商品棚に並べる、異形の市場。
クラウディオは、ルストの背の向こうからそれを見た。
「市場が開いたな」
ルストは低く返した。
「閉じる」
榊が通信へ短く命じる。
「全員、記録を残せ。見失うな」
澪奈の声が、乱れた通信越しに返った。
「反応、取れています。願いの器が連動しています。篠宮の端末、灰島の帳簿、買い手番号、すべて同時に反応しています」
クラウディオは冷たく笑った。
「怪異というより、会計処理の悪夢だな」
その声に反応するように、ホールの奥で赤い文字が揺れた。
本心を聞かせてあげる。
銀の手鏡の鏡面が、ルストの方を向いた。
ルストは、一瞬も迷わなかった。
「本人が言わないものは、いらない」
鏡面に映る赤い文字が、波紋のように歪む。
怪異の声が甘くなる。
「あなたはもう少しだけ知った。続きを知りたいでしょう」
ルストの視線が、クラウディオへわずかに動く。
第102話で、彼は血から感情の断片を読んだ。
安堵。
信頼。
苛立ち。
それらは言葉ではなかった。
答えでもなかった。
ルストは静かに言った。
「血で読めたものも、答えではない」
銀の手鏡が軋むように鳴った。
怪異は今度、澪奈の端末へ赤い通知を走らせる。
記録できないものを、記録できる形にしてあげる。
澪奈の指が一瞬だけ止まった。
記録者として、科学捜査に携わる者として、記録できないものを記録したいという欲は、彼女の中にもある。怪異はそこへ正確に指を入れる。
だが、澪奈は唇を噛み、端末を握り直した。
「記録しています。怪異本体は完全には捕捉できません。でも、代償の流れは残っています。篠宮と灰島の発言、記録できています」
榊の前には、別の文字が浮かぶ。
正義のために、証拠が欲しいでしょう。
榊は歯を食いしばる。
「証拠は欲しい。だが、人の記憶や寿命を買ってまで欲しがるほど落ちちゃいない」
クラウディオが横目で見た。
「少しは警察官らしい返答だな」
「今それ言うか」
「褒めている」
「褒め方がいつも腐ってるんだよ」
怪異の声が、次にクラウディオへ向かった。
失った記憶を戻してあげる。
床に、古い紙片のような光が散る。
死んだ人を、願いの形で返してあげる。
ホールの空気に、焦げた甘い匂いが混じった。
白い包み紙。
火。
古い名前。
人形ではない手。
クラウディオの表情が、ほんの一瞬だけ消えた。
ルストは見逃さない。
クラウディオは欲している。
欲していないはずがない。
失った者を戻したくないはずがない。
ただし、それは怪異に渡していいものではない。
願えば、喪失すら棚に並べられる。記憶も痛みも、値札つきの器にされる。戻したものさえ、市場の在庫にされる。
クラウディオは、それを分かっている。
だからこそ、その喪失を喪失のまま守る。
怪異が囁く。
「願えば、形にできます」
クラウディオは、ゆっくりと顔を上げた。
「俺の願いを叶えられるほど、貴様は上等ではない」
赤い文字が、微かに乱れた。
その台詞は強がりだった。
だが、嘘ではなかった。
クラウディオは続ける。
「死者を戻す商売ほど、信用できないものはない。失った者を、お前の棚に並べる気はない」
怪異の市場が、低くざわめいた。
◇
榊が動いた。
外周を押さえていた捜査員たちが、搬入口と裏手の通路を封鎖する。買い手の影がざわめき、番号札が空中で震えた。人間の輪郭を取り戻した者もいる。顔を隠した富裕層らしき男、代理人、配信関係者、研究施設の職員らしき白いIDカードを下げた女。
榊は篠宮へ向かった。
「篠宮カナメ。任意同行じゃ済まない」
篠宮は、なおも優しく微笑んだ。
「私は、苦しんでいる人に道を示しただけです」
「願いの先に何があるか知っていたな」
「願ったのは、本人たちです。私は叶えていません」
榊の目が冷えた。
「案内した先で、血と記憶と寿命を取られると知っていた。取られた代償が商品になることも知っていた。違うか」
篠宮は答えなかった。
その沈黙を、澪奈の端末が記録している。
クラウディオは、篠宮を見て低く言った。
「崖を指して、道案内と言うな」
篠宮の笑顔が、わずかに薄くなる。
榊は彼女の手元の端末を押さえた。
「相談者リスト、案内メッセージ、配信記録。全部確認する。願った人間だけを責めて終わらせる気はない」
灰島は、別の机の前に立っていた。
白い手袋。
穏やかな顔。
取引が崩れ始めているのに、慌てていない。
ただ、商品棚を眺める古物商の目で、市場の揺らぎを見ている。
榊は灰島にも視線を向ける。
「灰島。お前もだ」
灰島は静かに笑った。
「私は品を扱っただけでございます」
「人の記憶と寿命を品にした時点で終わりだ」
「残念です。よい市場でしたのに」
「続きは署で聞く」
灰島は抵抗しない。
「では、帳簿もご一緒に」
その声音には、まだ余裕があった。
クラウディオは冷たく言う。
「願いが残ることと、お前が商売を続けることは別だ」
灰島はクラウディオへ目を向ける。
「人は願います。形が変わるだけで、商いはなくなりません」
「なら、その形を壊す」
クラウディオの声が低く落ちた。
◇
怪異市場の中心で、契約口が開いた。
それは口に見えた。
赤い輪にも見えた。
小さな穴にも見えた。
願いの器から伸びる細い糸が、そこへ集まっている。血、寿命、記憶、感情。すでに奪われたものの一部と、これから奪う予定だったものが、赤黒い流れになって市場の奥へ吸い込まれている。
第96話で、クラウディオは言った。
これは吸血ではない。契約の口だ。
願い屋は、血を吸うのではなく、契約として命を噛んでいる。
いま、その契約の口が、ホール中に開いていた。
ルストは一歩前へ出る。
灰銀の髪が、怪異の赤い光を弾いた。
「戻せない」
彼は言った。
クラウディオが答える。
「知っている」
「なら、これ以上は取らせない」
ルストの目が冷える。
彼は、血の流れを読む。
吸血鬼として。
古い王として。
どの糸が被害者へ続き、どれが買い手へ流れ、どれが新たな契約口へ繋がっているのか。すべてを戻すことはできない。削られた寿命のすべてを返せない。失われた記憶の形を、完全には戻せない。願いによって変わった現実を、都合よく巻き戻せない。
だが、これ以上奪わせないことはできる。
ルストは、血の圧を絞るようにして、契約口の流れへ刃を入れた。
怪異の赤い文字が大きく歪む。
キャンセルしますか。
支払いは継続中です。
支払いは継続中です。
支払いは継続中です。
ルストは低く言った。
「黙れ」
赤い輪のいくつかが、裂けるように閉じた。
同時に、クラウディオが人形の目を手に取った。
《宵待堂》で見たものと同じ、黒い硝子の目。少女が母親を忘れた瞬間を閉じ込めた器。
クラウディオの指は、怒りで乱れていない。
人形師の手だった。
壊れたものを扱う時の、慎重な手。
「人形の目を、怪異の口にするな」
彼は低く言った。
赤い糸が、人形の目から契約口へ伸びている。
クラウディオはその糸を、ただ乱暴に切らなかった。糸の結び目を読み、絡み方を見て、器の中に残された記憶を傷つけない場所を選ぶ。
「記憶は無理に戻すものじゃない」
彼の声が、怪異のざわめきを縫うように通る。
「器に縛るな。欠けたものには、欠けたままの輪郭がある」
彼は、人形師の糸を展開した。
目に見えないほど細い糸が、願いの器同士の接続へ絡む。指輪、懐中時計、写真立て、人形の目、赤い小瓶。器そのものを壊すのではない。契約網との接続だけを絡め取り、引き剥がす。
いくつかの器が、音もなく沈黙した。
失われた記憶は戻らない。
だが、これ以上、誰かの願いの支払いへ流用されない。
クラウディオの赤い瞳が、さらに深く光った。
空気が重くなる。
赤い小瓶が震える。
通知文字が歪む。
市場全体が、初めてクラウディオを商品ではなく、王として認識した。
クラウディオは、静かに言った。
「我が血に値をつけたな」
その一人称に、榊が一瞬だけ息を呑む。
ルストは動かない。
クラウディオの声は冷えていた。
「なら、商人ごと棚を閉じろ」
赤い文字が、砕けた。
◇
怪異はなおも囁く。
本心を聞かせてあげる。
ルストには、銀の手鏡が向く。
失った記憶を戻してあげる。
人形の目と写真立てが、クラウディオへ向く。
死んだ人を、願いの形で返してあげる。
赤い小瓶の中で、焦げた甘い匂いが強くなる。
クラウディオの指先が、一瞬だけ止まった。
ルストはそれを見た。
だが、前に出すぎない。
クラウディオが自分で拒む余地を奪わない。
ただ隣に立つ。
クラウディオは、怪異を見上げた。
「何度言わせる。俺の願いを叶えられるほど、貴様は上等ではない」
怪異の市場が、低く軋んだ。
ルストは銀の手鏡へ視線を向ける。
「答えは、あいつが持っている」
銀の手鏡の鏡面が割れた。
榊が叫ぶ。
「澪奈!」
「帳簿の複製、保全完了! 篠宮と灰島の発言、記録できています。代償の流れも一部残っています。東都認知生命研究センターへの貸与記録、警察庁関係者の符号も保存しました!」
「よし。人間側は逃がさない」
榊は篠宮と灰島を見た。
「怪異は逃げても、人間の手は残る」
篠宮の目がわずかに揺れる。
灰島は、それでも微笑んでいた。
だが、その背後の棚は崩れ始めている。
クラウディオの糸が契約網を絡め取り、ルストが契約口を断つ。赤い小瓶の光が弱まり、懐中時計の針が止まり、指輪の囁きが沈む。
願いの市場が閉じていく。
完全には消えない。
だが、今夜の大規模取引は壊れた。
王血級の感情反応の採取計画も。
篠宮と灰島を通じた現実側の窓口も。
一部の代償の流通経路も。
契約口のいくつかも。
クラウディオは、赤い小瓶の割れた破片を見た。
中の光は消えかけている。
榊が悔しそうに言う。
「全部は戻らないのか」
クラウディオは、静かに答えた。
「全部は戻らない」
榊の顔が歪む。
削られた寿命。
抜かれた記憶。
失われた感情。
願いによって変わってしまった現実。
それらは、都合よく元通りにはならない。
榊は拳を握った。
「それでも止める」
クラウディオは頷かない。
ただ、短く言った。
「それでいい。全能ぶるな」
その声に、珍しく嘲りは薄かった。
◇
市場が崩れた後、旧臨海倉庫の地下ホールには、現実の冷たい空気が戻っていた。
篠宮カナメは、抵抗しなかった。
最後まで、自分は願いを叶えていないと言い続けた。
灰島も同じだった。
白い手袋を外す時でさえ、彼は穏やかに微笑んでいた。
「私一人を止めても、願いは残ります」
榊はその手を押さえた。
「願いが残るのと、お前の商売を許すのは別だ」
灰島は目を細める。
「では、また別の誰かが棚を作るでしょう」
「その時も壊す」
榊は言った。
澪奈は記録装置を回収している。端末のいくつかは焼き切れ、映像は乱れている。それでも、発言記録、帳簿の複製、貸与記録、買い手符号、篠宮と灰島が現場にいた事実は残った。
怪異そのものは、完全には捕まらない。
けれど、人間の手は残る。
願いを案内した手。
代償を商品にした手。
買った手。
観察した手。
榊はそれを追うつもりだった。
クラウディオは、崩れた机の前に立っていた。
足元には、割れた銀の手鏡の破片が落ちている。そこに、赤い文字が一瞬だけ映った。
願いは残ります。
クラウディオは破片を踏み砕いた。
だが、砕けた赤い光の一部が、床の影へ細く逃げた。
ルストはそれを見た。
「逃げたな」
「ああ」
「追うか」
「追える形で逃げるほど、親切な怪異なら苦労はない」
クラウディオは手首を見た。
第101話から残る、ルストの噛み跡。
薄くなっているが、まだある。
彼はその痕を見て、鼻で笑った。
「貴様は怪異より質が悪い。聞くなと言えば噛む」
ルストは低く返した。
「お前が言えば噛まない」
クラウディオは赤い目だけを横へ向ける。
ルストはいつものように静かだった。
勝ち誇らない。
責めない。
ただ、待つ顔をしている。
クラウディオは、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「検討してやる」
「長い検討になりそうだな」
「当然だ。王の決裁は重い」
「なら待つ」
「待つな。鬱陶しい」
「待つ」
「最悪だな」
「知っている」
クラウディオは、今度は何も言わなかった。
だが、手首の噛み跡を隠しはしなかった。
◇
翌未明。
夜の駅のホームには、始発を待つ人影がまばらに立っていた。
ベンチの端に、一人の若い女が座っている。
目元は赤い。
泣いた後の顔だった。
彼女は、誰かへ送るメッセージを開いていた。
私は悪くない。
あの人が先に。
私はただ、少しだけ。
指が止まる。
スマホの画面が、一瞬だけ暗くなった。
そこに、見覚えのあるアイコンが浮かび上がる。
正式なストアには存在しないはずのアプリ。
壊されたはずの《願い屋》。
通知が一つ、表示された。
次の願い主を探しています
女は、涙の残る目でその文字を見つめた。
ホームに、始発列車の接近音が響く。
画面の赤い通知は、静かに瞬いていた。




