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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第8部 【被害者を装う者たち】

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第106話 泣く者の証言


 霧杜中央署の会議室には、紙の匂いと疲労の匂いが積もっていた。


 長机の上に、相談記録が山になっている。薄いファイル、印刷されたメール、録音データの文字起こし、医療機関から出た診断書らしき写し、血痕写真、時系列表、手書きのメモ。どれも《願い屋》関連として分類され、赤い付箋が貼られていた。


 その赤が、まるでまだ血が乾いていないように見える。


 榊は椅子の背に体を預け、片手で額を押さえていた。


 目の下には、薄く疲労の影がある。第七部の取引現場で篠宮カナメと灰島を押さえ、怪異市場の契約網を一部壊した。そこで終わるはずだった。


 少なくとも、人間は何かを壊せば終わった気になる生き物だ。実際には、割れた瓶の欠片でさらに足を切る。律儀に。


 榊は、机の上のファイルを睨んだ。


「願い屋を潰したら、今度は被害者が増えた」


 クラウディオは、窓際の壁に寄りかかっていた。


 昼間だというのに、ブラインドは半分下ろされている。光が縞になって床に落ち、その一部がクラウディオの靴先に触れていた。彼はそれを避けもせず、机の上の紙束を冷めた目で眺めている。


「怪異を壊すと、人間の言い訳が湧く。自然現象だな」


 榊が睨む。


「自然現象にするな」


「では季節性の流行と呼ぶか」


「余計悪い」


 澪奈は、二人の応酬を聞き流しながら端末を操作していた。画面には、相談メールの件名が一覧で並んでいる。


 私も願い屋の被害者です。


 願い屋に巻き込まれました。


 何も知らなかったのに血を取られました。


 家族が倒れました。助けてください。


 記憶がありません。


 私は悪くありません。


 同じような件名が、いくつも続く。


 録音データの中には、泣きながら話す声もあった。震える息。途切れる言葉。長い沈黙。鼻をすする音。助けてください、と繰り返す声。


 中には本物の被害者もいる。


 指先から血が滲み続ける者。


 急に老け込んだ者。


 大切な記憶だけが抜け落ちた者。


 家族を失った者。


 恋人を失った者。


 願いを叶えた覚えはないのに、代償だけ取られたと訴える者。


 誰かに勝手に願われたと言う者。


 《願い屋》の通知が来たと主張する者。


 自分は巻き込まれただけだと泣く者。


 けれど、そのすべてが真っ直ぐな被害とは限らなかった。


 他人を失脚させる願いを出したのに、自分は脅されただけだと言う者がいた。


 恋人の記憶を奪ったのに、自分も被害者だと泣く者がいた。


 家族の寿命を代償にした可能性があるのに、何も知らなかったと言い張る者がいた。


 願いが叶った恩恵だけを受け取り、代償が問題になった途端に、怪異に騙されたと訴える者がいた。


 さらに厄介なのは、願い屋事件の混乱に乗じて、自分の罪を怪異のせいにしようとする者だった。


 榊はファイルを一冊開いた。


「これは、取引先の男を失脚させたって相談だ。本人は『自分は願い屋に脅されていただけ』と主張している。だが願いが叶った後、その会社との契約を取ってる」


 澪奈が別の資料を示す。


「こちらは恋人の記憶欠落です。訴えてきた女性は、自分も被害者だと言っています。ただ、願いの内容を尋ねると毎回話が逸れます。恋人側は、彼女との別れ話をした記憶だけが抜けています」


 榊の眉が深くなる。


「こっちは家族の寿命か。父親が急に老化して倒れた。相談者は『何も知らない』と言っているが、その直前に相続関連の揉め事があった」


 クラウディオは冷めた声で言った。


「願い屋は血を取る。だが、人間は責任を削る。どちらも随分と食欲旺盛だ」


 ルストは会議室の端に立ち、紙束を見ていた。


 彼の顔には、疲れよりも静かな警戒がある。第七部で《願い屋》の契約口を断ち、これ以上の徴収を止めた。だが、すでに願った者、買った者、売った者、知らないふりをした者までは、怪異を斬るだけでは止められない。


 人間側の問題が残っている。


 むしろ、ここからが人間の仕事だった。


 澪奈は、複数の相談文を並べて表示した。


「相談内容の文面が、複数件で一致しています」


 榊が顔を上げる。


「一致?」


「はい。完全なコピーではありません。同じ人物が書いたわけではないと思います。ただ、構成が似ています」


 澪奈は画面を拡大した。


「最初に『私は何も知らなかった』と訴える。次に『助けようとしただけ』と説明する。その後、被害の描写を入れる。最後に『怪異に巻き込まれた』とまとめる。願いの内容や、願いが叶ったことで誰が得をしたのかはぼかされます」


 榊は黙った。


 澪奈は別の音声データを表示する。


「音声相談も似ています。泣く、震える、言葉に詰まるタイミングが近いです。沈黙の長さも不自然に似ている。被害を訴える順番まで似ています」


「偶然か」


「件数が多すぎます」


 澪奈は、少しだけ声を落とした。


「まるで、被害者として振る舞うための台本があるみたいです」


 会議室の空気が変わった。


 榊が低く繰り返す。


「台本?」


 クラウディオは、鼻で笑った。


「泣く順番まで教えてくれる親切な世の中か。滅べ」


「簡単に滅ぼすな」


「ではまず配布元だけ滅べ」


 榊はファイルを閉じた。


「本物の被害者もいる。そこは間違えるな」


 クラウディオの赤い目が、榊へ向く。


「泣いていることと、奪っていないことは別だ」


 その声は冷たい。


 だが、ただの意地悪ではなかった。


「被害を受けたことと、誰かを犠牲にして願ったことも別だ。怪異に騙されたことと、加害していないことも別だ。助けたかった、守りたかった、知らなかった。便利な言葉は多いが、責任を消す薬にはならない」


 ルストが静かに言った。


「本物の被害者まで疑うな」


「疑っていない。分けろと言っている」


 クラウディオは机の上の相談記録へ視線を落とした。


「涙は証拠にならない。せいぜい水分だ」


 榊が眉を寄せる。


「言い方」


「水分に謝れとでも?」


「泣いてる人間にそれを言うな」


「泣く人間ほど、言葉の穴を涙で埋めることがある」


 ルストは、クラウディオを見た。


 クラウディオの冷たさに引っかかりながらも、その言葉が完全に間違っているとは言えないことも分かっていた。


 《願い屋》事件では、願った者がいた。


 そして、その願いの代償を誰かが支払わされた。


 願った側は、自分を被害者だと呼ぶことがある。


 被害者の顔をした加害者。


 泣く証言者の嘘。


 第八部は、その入り口に立っていた。


     ◇


 午後、会議室に新たな来訪者が通された。


 榊が対応に出て、数分後、一人の青年を連れて戻ってきた。


 青年は、扉の前で深く礼をした。


「突然の訪問をお許しください」


 声は細く、震えていた。


 だが、聞き取りにくいわけではない。むしろ、一音一音が丁寧に整えられていた。古い欧州の発音を思わせる柔らかな抑揚がある。


 リュシアン・ヴェルネ。


 榊が先に名を告げた。


「旧欧州系吸血鬼貴族の血を引く家の令息だそうだ。本人は半血だと言っている」


 リュシアンは、淡い金髪を首元で緩く結んでいた。銀に近いその髪は、会議室の白い光を受けると、ほとんど透けるように見える。瞳は薄い青紫。白い肌は血の気が薄く、長い睫毛の下に陰が落ちていた。


 黒い手袋を嵌めた手は、痩せている。


 上質なコートは、旧欧州の古い貴族趣味を思わせた。形は現代的だが、襟元や袖口の仕立てが妙に古い。壊れそうな美しさ、という言葉がよく似合う。


 同時に、どこか作り物めいていた。


 硝子ケースの中に置かれた古い人形のような、完璧に整えられた儚さ。


 クラウディオは、その青年を見た瞬間から目を細めていた。


 ルストは、別の反応をした。


 古い欧州系吸血鬼貴族。


 半血。


 脆く見える青年。


 泣き出しそうな目。


 その情報は、ルストの中にある古い責任感を刺激した。古い血筋に生まれながら、守られる力を持たない者。力ある家に属しながら、押し潰されそうな者。彼はそういう存在を、反射的に放っておけない。


 リュシアンは、会議室の中へ一歩入ったところで、唇を震わせた。


「妹が……妹が、願い屋に」


 涙が、すぐに目の縁へ浮かんだ。


 早い。


 そして、美しい。


 泣き慣れているような、あるいは泣く顔を知っているような涙だった。


 ルストが一歩近づく。


「落ち着け。話せるところからでいい」


 リュシアンはルストを見た。


 その薄青紫の瞳に、頼るような光が浮かぶ。


「ありがとうございます……」


 クラウディオは、窓際から冷ややかに言った。


「よく泣く男だな。涙腺だけで家督を継げそうだ」


 榊がすぐに顔をしかめる。


「クラウディオ」


 ルストも短く言った。


「少し抑えろ」


 クラウディオは肩を竦める。


「抑えている。まだ帰れと言っていない」


 リュシアンは、怯えたように身をすくめた。


 その動作も、妙に綺麗だった。


 肩が小さく落ち、睫毛が震え、手袋の指が胸元の布を掴む。守らなければと思わせる形が、すべて揃っている。


 澪奈は、端末に録音を開始しながら、その動きを見ていた。


 美しい。


 弱々しい。


 だが、整いすぎている。


 榊が椅子を示す。


「座ってください。ここで話を聞きます」


 リュシアンは浅く座った。


 膝の上で、黒い手袋の指を重ねる。


 目元に涙を浮かべたまま、彼は話し始めた。


「妹は……エリーズは、数日前から様子がおかしかったんです。スマホを見て、何かに怯えていました。私は、問いただしました。けれど、妹は何も言わなくて」


 ルストは静かに聞いている。


 榊はメモを取る。


 澪奈は録音と文字起こしを同時に走らせていた。


 クラウディオだけが、リュシアンの言葉の順番を見ている。


「私は、助けようとしただけなんです」


 リュシアンの声が震えた。


 その震えは、聞かせたい言葉の直前に来た。


「止めたかった。けれど、間に合わなかった」


 涙が一筋、頬を伝った。


「妹は私のことを忘れました」


 ルストの目がわずかに動く。


 リュシアンは、それを見るように目を伏せた。


「兄である私を見ても、誰ですか、と。あの子は、小さい頃から私の手を離さなかったのに……私の名を、呼べなくなったんです」


 榊が低く問う。


「妹さんは、何を願ったんですか」


 リュシアンの唇が震える。


「分かりません」


 クラウディオの目が細くなる。


「分からない?」


「妹は何も言ってくれませんでした」


「では、なぜ願い屋だと分かった」


 リュシアンは一瞬だけ、言葉に詰まった。


 すぐに涙を増やす。


「通知が……妹のスマホに、あのアプリの通知が残っていたんです」


 澪奈が口を挟む。


「その端末はお持ちですか」


「家に保管しています。持ち出すことができなくて……家の者たちが混乱していて」


 榊が書き留める。


「家の者たちも倒れたと聞いています」


 リュシアンは両手を強く握った。


「はい。家の者たちも、次々に倒れて……父は急に老け込み、叔母は自分の名前を書けなくなり、使用人の一人は、朝になっても目を覚まさなくなりました」


「順番は」


 澪奈が尋ねた。


 リュシアンの顔が、一瞬だけ固まる。


 本当に一瞬だった。


 けれど、クラウディオは見た。


 澪奈も見た。


「すみません。もう一度、時系列を確認してもいいですか」


 澪奈の声は丁寧だった。


 リュシアンは目を伏せた。


「すみません……私、混乱していて。妹が先で、父がその次……いえ、叔母が先だったかもしれません。あの夜は、皆が叫んでいて、私は……私は何もできなかった」


 涙がまた落ちる。


 その沈黙の長さは、録音データで聞いた相談者たちの沈黙と少し似ていた。


 クラウディオが言った。


「助けようとしただけ、ね。便利な言葉だ」


 リュシアンは震えたように顔を上げる。


「私は、本当に」


「泣く前に、願いの内容を言え」


 会議室が冷えた。


 ルストが低く言う。


「クラウディオ」


 クラウディオは止まらない。


「妹が何を忘れたかではなく、何を忘れさせられたかを話せ。家の者が倒れた順番を言え。お前は何を止めようとした。誰のスマホを見た。誰が得をした」


 リュシアンの薄い唇が震える。


「そんな……私は、そんなふうに疑われるために来たわけでは」


「では何のために来た」


 クラウディオの声は静かだった。


 リュシアンは、答えずにルストを見た。


 助けを求める目だった。


 ルストは少し眉を寄せる。


 彼はリュシアンを完全に信じたわけではない。


 だが、目の前で震えている相手を、即座に切り捨てることもしない。


 古い癖だった。


 弱い者を放っておけない。


 傷ついたように見える者へ、まず手を伸ばしてしまう。


「落ち着け」


 ルストは言った。


「今は証言を整理している。責めているだけではない」


 クラウディオが冷ややかに笑う。


「責めてもいる」


「少し黙れ」


「命令か」


「頼みだ」


 その一言に、クラウディオはわずかに黙った。


 ほんのわずか。


 だが、黙った。


 リュシアンは、その隙に息を整えるように胸を押さえた。


「私は……誰を信じればいいのか分からないんです」


 彼はルストを見上げた。


「妹は私のことを忘れました。家の者たちは倒れて、父も私を責めます。私は助けようとしただけなのに……誰も、信じてくれない」


 クラウディオの目が細くなる。


 まただ。


 助けようとしただけ。


 その言葉が繰り返される。


 しかも、ちょうどよく涙と一緒に出てくる。


 澪奈は端末の文字起こしを見た。相談記録の文面と、リュシアンの言い回しが重なっている。


 私は何も知らなかった。


 助けようとしただけ。


 巻き込まれた。


 信じてもらえない。


 構成が似ている。


 榊も、そのことに気づき始めていた。


 クラウディオが問う。


「妹が願い屋に巻き込まれたと最初に気づいたのは誰だ」


「私です」


「妹の端末を見たのは」


「私です」


「家の者が倒れた後、医者を呼んだのは」


「それは……使用人が」


「どの使用人だ」


 リュシアンは口ごもった。


「名前を、今すぐには」


「家の使用人の名前を忘れたのか」


「混乱しているんです」


「便利な混乱だな。お前に不利なところだけ霧が出る」


 ルストがまた制する。


「クラウディオ」


「はいはい。泣く者には毛布と温かい茶を出せばいいのだったな。証言の穴には砂糖でも詰めるか」


 榊はため息をついた。


「言い方は最悪だが、質問自体は必要だ」


 リュシアンの顔が、わずかに歪んだ。


 すぐに涙で隠す。


 その切り替えも早かった。


     ◇


 取り調べではなく、相談聴取という形を保ったまま、話は続いた。


 リュシアンは妹の苦しみについては細かく語った。


 妹が兄を忘れたこと。


 部屋の隅で震えていたこと。


 家族の肖像画を見ても、自分だけを指差せなかったこと。


 呼び名を忘れたこと。


 昔、庭で転んだ時にリュシアンが手を引いた思い出まで消えていたこと。


 その描写は、胸を打つものだった。


 少なくとも、聞いた者の同情を引き出すには十分だった。


 しかし、肝心な部分は曖昧なままだった。


 妹が何を願ったのか。


 誰が《願い屋》を使ったのか。


 家の者たちが倒れた正確な順番。


 リュシアン自身が何をしていたのか。


 なぜ警察へ来るまで時間がかかったのか。


 妹の記憶喪失で、誰が得をしたのか。


 家督や相続の問題があるのか。


 その問いになると、涙が増える。


 声が震える。


 視線がルストへ向く。


 クラウディオには、ほとんど助けを求めない。


 それもまた、クラウディオの目に引っかかった。


 リュシアンは、クラウディオを恐れているように振る舞う。


 だが、本当に恐れている者の目ではない。


 恐れを見せる場所を選んでいる。


 澪奈は、静かに記録を止めずにいた。


「リュシアンさん」


「はい……」


「妹さんが記憶を失ったことで、ヴェルネ家の継承や財産管理に変化はありましたか」


 リュシアンは、また一瞬だけ固まった。


「なぜ、そんなことを」


「確認です」


「私は妹を助けたいだけです」


「はい。そのためにも確認が必要です」


 リュシアンは目を伏せた。


「家のことは、今は……」


 クラウディオが低く言う。


「今は話したくない、か。助けを求める時は家名を出し、責任の話になると家を閉じる。便利な門だな」


 リュシアンの肩が震える。


「ひどい方ですね」


「よく言われる」


「私は、本当に苦しくて」


「苦しんでいることと、奪っていないことは別だ」


 リュシアンは泣きそうな顔でルストを見る。


 ルストは、クラウディオの言葉に眉を寄せながらも、リュシアンへ言った。


「怪我は」


「え……」


「身体に異常はあるか。血を取られた痕、契約の口、記憶欠落、寿命の変化。医療記録はあるか」


 ルストの声は実務的だった。


 保護的で、しかし盲信ではない。


 リュシアンは、そこで少し安心したように息をついた。


「私自身には、大きな異常はありません。ただ……眠れなくて。妹のことを思うと、胸が苦しくて」


「追われているのか」


「分かりません。家の中にも、誰を信じていいのか」


「誰に追われている」


「それも……分からないんです」


 クラウディオが小さく笑う。


「分からないことの多い相談だな」


 ルストはクラウディオへ視線を向ける。


 だが、リュシアンからも目を離さない。


 ルストは愚かではない。


 完全に騙されているわけでもない。


 ただ、目の前の弱さを、まず救助対象として扱う。


 それがクラウディオには見えていた。


 そして、少し気に食わなかった。


 もちろん、彼はそうは認めない。


 証言者として不自然だから見ている。


 そういう顔をしている。


 だが、リュシアンがルストを見るたび、クラウディオの赤い目の温度が少しずつ下がっていた。


     ◇


 聴取の終盤、リュシアンは疲れたように立ち上がりかけた。


「すみません……これ以上は、少し」


 榊は頷く。


「今日はここまでにします。ただし、妹さんの端末、医療記録、家の者が倒れた時系列、関係者の連絡先は提出してください」


「分かりました」


 澪奈が補足する。


「妹さんの記憶欠落について、診断書や検査記録がある場合もお願いします」


「はい……」


 リュシアンは、そこでふらついたように見せた。


 ルストが反射的に一歩近づく。


「大丈夫か」


 リュシアンは、その声にすがるように顔を上げた。


 涙がまた、目元に浮かぶ。


「どうか、妹を助けてください」


 その声は小さかった。


 会議室の中で、ひどく弱く響いた。


 リュシアンの黒い手袋の指が、ルストの袖に触れる。


 ほんの少し。


 だが、確かに触れた。


 ルストは反射的にその手を払わなかった。


「まずは証言を続けろ。必要な記録を出せ。助けるためにも、事実がいる」


 リュシアンは頷いた。


「私には、もう誰を信じればいいのか分からないんです」


 指先は、まだルストの袖に触れている。


 クラウディオは、その手元を見ていた。


 リュシアンの指。


 ルストの袖。


 すがるような距離。


 守られるべき存在として整えられた涙。


 証言の穴。


 助けようとしただけ、という便利な言葉。


 そして、ルストがその手を払わないこと。


 恋愛的な感情だけではない。


 証言者としての不自然さへの警戒。


 演技臭さへの嫌悪。


 ルストの古い癖を狙うような近づき方への不快。


 それらが一つになって、クラウディオの目の奥で冷えた。


 リュシアンの指がルストの袖に触れた瞬間、クラウディオの赤い目が、ほんのわずかに温度を失った。



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