第107話 貴族令息の手袋
ヴェルネ家の洋館は、霧杜市の外れにあった。
住宅地を抜け、古い石塀の続く坂道を上がった先。竹林と雑木林に囲まれた敷地の奥に、灰色の屋根を持つ洋館が建っている。日本国内にある別邸だというが、外観はどこか古い欧州の館をそのまま持ち込んだようだった。
高い尖塔。
重い木製の扉。
蔦の絡んだ外壁。
縦に長い窓。
磨かれてはいるが、光を返しきれない古い真鍮の取っ手。
美しい。
だが、どこか衰えている。
庭木は刈られているのに、枝先が荒れている。噴水は形だけ残り、水は止まっていた。玄関前の石畳は掃き清められているが、目地に入り込んだ苔までは取り切れていない。
旧家の体面だけが、かろうじて残っている館だった。
クラウディオは門の前で足を止め、建物を一瞥した。
「見事な衰退だな。金のかかった墓石に似ている」
ルストは隣で門扉を見上げた。
「依頼人の前で言うな」
「今は前ではない」
「中でも言うな」
「検討してやる」
「検討は短くしろ」
クラウディオは鼻で笑った。
前夜の事件後、霧杜中央署にはリュシアン・ヴェルネから提出された資料が届いた。妹の記憶障害に関する診断書の写し、使用人たちの体調不良の記録、ヴェルネ家の簡単な家系図、そして屋敷内で起きた異変の時系列表。
だが、その時系列表にはいくつも空白があった。
榊は別件の対応と相談記録の整理に追われ、現地確認にはクラウディオとルストを向かわせた。澪奈は署に残り、リュシアンから受け取った資料の照合と、洋館から送られる記録の確認を担当している。
通信は繋がっていた。
『映像、入っています』
澪奈の声が、小型端末から聞こえる。
『館内の写真、できる範囲で送ってください。特に使用人の動線、妹さんの部屋、地下への入口がある場合は確認したいです』
クラウディオは端末を見ずに言う。
「注文が多いな」
『証拠も多い方がいいです』
「証拠は拝むものではないからな」
『見るものです。前任者の教えです』
ルストが、かすかに口元を緩めた。
クラウディオはそれに気づき、面倒そうに視線を逸らした。
門の向こうから、使用人らしき年配の男が歩いてきた。
白髪交じりの髪をきちんと撫でつけ、古い型の黒い制服を着ている。姿勢は悪くない。だが、顔色が妙に悪かった。頬は落ち、目の下が暗い。足取りも重く、年齢より十歳は老けて見える。
男は門を開け、深く頭を下げた。
「お待ちしておりました。リュシアン様が応接室でお待ちです」
声にも疲れがあった。
ルストが男を見る。
「体調が悪いのか」
男は一瞬だけ驚いた顔をした。
「いえ……少し、疲れが抜けないだけでございます」
クラウディオはその言い方を聞き、館の奥へ目を向けた。
少し。
疲れ。
そういう言葉で寿命の削れを包む者を、彼はこの数日で何人も見た。
玄関を入ると、空気が冷えていた。
高い天井。
重い扉。
磨かれた床。
色褪せた絨毯。
壁に並ぶ先祖の肖像画。
古い燭台。
使われていない客間の扉。
妙に静かな廊下。
調度品はどれも上等だった。だが、どこか手入れが行き届いていない。銀製の飾りには薄い曇りがあり、花瓶の花は新しいのに、置かれた台の隅には細かな埃が溜まっている。
人の気配が少なすぎた。
館の広さに対して、動く者の数が足りていない。
途中の廊下で、若い使用人の女とすれ違った。彼女も顔色が悪かった。年若いはずなのに、手の甲の皮膚が薄く、階段を上るだけで息が浅くなっている。
リュシアンの証言と、少なくとも表面上は一致していた。
使用人たちの寿命が削られた。
何人も急に衰弱した。
それが本当に妹の願いによるものかは、まだ分からない。
だが、この館に何かが起きたこと自体は、嘘ではなさそうだった。
◇
応接室には、リュシアン・ヴェルネがいた。
淡い金髪は今日も丁寧に整えられ、薄青紫の瞳は、泣いた後のように赤みを帯びている。白い肌。細い首。黒に近い濃灰色の上質なコート。手には、淡灰色の手袋を嵌めていた。
昨日とは違う手袋だ。
新品に見える。
柔らかそうな上質の革で、縫い目も美しい。旧欧州系吸血鬼貴族の令息らしい品のよさがある。
だが、クラウディオの視線はすぐにそこへ落ちた。
手首の内側だけが、古く擦れている。
革の表面が、そこだけわずかに荒れていた。何度も何かを押さえつけたか、金属や硬い縁に触れたような摩耗。手袋全体が新品めいている分、そこだけが妙に浮いている。
さらに、右手の指先に、ごく薄い赤黒い染みがあった。
普通の血痕にも見える。
だが、ルストの眉がわずかに動いた。
クラウディオも同じものを見ていた。
血の匂いが、ただの血ではない。
願い屋の契約痕に似た気配。
第96話で見た、契約の口に触れた血の、かすかな濁り。
リュシアンは立ち上がり、深く礼をした。
「お越しいただき、ありがとうございます」
声は震えていた。
手袋の指が、胸元で細く重なる。
その指先の染みを、リュシアンは見せない角度にしていた。
クラウディオは、何も言わない。
まず涙ではなく、手を見る。
リュシアンは椅子に座ると、すぐに目元を押さえた。
手袋が、目元へ上がる。
涙を拭う仕草。
そのたびに、指先の赤黒い染みが一瞬だけ見え、すぐ隠れる。
クラウディオの赤い目が、冷めていく。
ルストはリュシアンの正面に座った。
「順番に話せ」
「はい……」
「妹は今どこにいる」
「二階の奥の部屋です。今日は、誰とも会いたくないと……いえ、会いたくないというより、誰が誰なのか分からない時があって」
リュシアンの声が揺れる。
「兄である私を見て、昨日も、誰ですかと」
ルストは少しだけ目を伏せた。
「記憶の欠落は続いているのか」
「はい。良い時と悪い時があります。私の名前を呼べる時もある。けれど、次の瞬間には、私のことだけ忘れている。父や使用人の名も、時々分からなくなる。家のことも……」
リュシアンは息を詰めた。
「家のことも、壊れているんです」
クラウディオが静かに言う。
「壊れた、ね」
リュシアンはクラウディオを見た。
昨日よりも、はっきりと怯えた顔を作る。
「妹は、家を救いたかっただけなんです」
ルストが促す。
「何を願った」
リュシアンは手袋の指を握りしめた。
「家を元に戻したい」
その言葉は、小さく、しかしはっきりした。
「妹は、そう願ったんです」
応接室の古い時計が、低く鳴った。
リュシアンの声は震え続ける。
「ヴェルネ家は、もう長く持たないと言われていました。古い取引は途絶え、財産も失われ、使用人も減りました。残っていたのは、家名と、体面だけです。父はそれを認めようとしなかった。妹は……あの子は、家が壊れていくのを見るのが耐えられなかった」
「だから願った」
ルストが言う。
リュシアンは頷く。
「願いは叶いました。一時的には」
彼は目を伏せる。
「古い取引先から、突然連絡がありました。失われたと思っていた資産の一部も見つかった。家の評判も、少しだけ持ち直した。父は、奇跡だと言っていました」
クラウディオは皮肉げに口元を歪める。
「人間は都合の良い不自然を奇跡と呼ぶ。便利な辞書だ」
リュシアンはその言葉を聞こえなかったように続けた。
「でも、すぐに使用人たちが倒れ始めました」
その瞬間、廊下の外を誰かがゆっくり通り過ぎる足音がした。
重い足取り。
リュシアンは肩を震わせた。
「最初は執事長でした。急に立っていられなくなって……それから庭師、侍女、父の側付きも。皆、年齢よりずっと老けたように見えて、息が続かなくなって」
ルストが問う。
「倒れた順番は」
リュシアンは口を開きかけた。
一瞬だけ止まる。
「執事長が最初で……庭師、その後に侍女です。たぶん」
「たぶん?」
「その時、家の中が混乱していて」
クラウディオが小さく笑った。
「便利な混乱だな」
リュシアンの目に涙が浮かぶ。
「私は、止めようとしただけなんです」
その台詞は、昨日も聞いた。
会議室でも。
相談記録の中でも。
泣く者の台本の中でも。
ルストは、すぐには返さなかった。
リュシアンの恐怖は本物に見えた。声の震えも、涙も、指先の冷えも、作り物とは言い切れない。使用人たちの衰弱も、この館の空気も、リュシアンの証言と合う部分がある。
だから、ルストは甘やかさず、しかし切り捨てずに聞いた。
「お前は、その時どこにいた」
「妹の部屋に」
「契約の通知を見たのか」
「はい。妹のスマホに、赤い通知が残っていました」
「妹が願った瞬間は見たのか」
リュシアンは、また涙を拭う。
手袋が目元へ上がる。
手首の内側の擦れ。
指先の赤黒い染み。
クラウディオは、それだけを見ていた。
「見ていません。私が気づいた時には、もう……」
「なら、なぜ願い文を正確に知っている」
クラウディオが口を挟んだ。
リュシアンは、息を呑む。
ルストもクラウディオを見る。
クラウディオは椅子に座らず、応接室の壁際に立っている。先祖の肖像画の下、赤い目だけが冷えていた。
「妹が『家を元に戻したい』と願った。貴様はそう言った。願った瞬間を見ていないのに、なぜそこまで正確に知っている」
リュシアンは唇を震わせた。
「通知の履歴に……願い文が残っていたんです」
「端末は」
「今は、妹の部屋に」
「昨日は持ち出せないと言った。今日は見せられるのか」
「妹が不安定なので、今は……」
「なるほど。便利な妹だ。証拠の前に立ってくれる」
ルストが低く言う。
「クラウディオ」
クラウディオは横目でルストを見る。
「泣く前に、時系列を揃えろ」
リュシアンは肩を震わせた。
しかし、クラウディオの視線は顔ではなく手袋にあった。
◇
応接室を出て、三人は館内を案内された。
ルストは、廊下の壁に並ぶ肖像画を見た。
ヴェルネ家の先祖たち。
白い肌。
薄い髪。
長い指。
古い欧州貴族特有の、死に近い美しさ。
その下を、顔色の悪い使用人がゆっくり歩いている。
洋館は静かだった。
静かすぎた。
使われていない客間の扉がいくつも並び、燭台には火が入っていない。階段の絨毯は色褪せ、ところどころ擦り切れている。大きな窓から入る光は弱く、昼なのに廊下の奥は夕方のように暗い。
リュシアンは、二階の奥の部屋の前で立ち止まった。
「妹の部屋です」
扉は閉ざされていた。
奥から、微かな声が聞こえる。
歌のようでもあり、誰かの名を繰り返しているようでもある。
リュシアンは扉に触れ、しかし開けなかった。
「今日は、会わせない方がいいと思います。見知らぬ人が来ると、妹は混乱しますから」
ルストは頷いた。
「無理はさせない」
クラウディオは扉の足元を見た。
古い床板。
その隙間に、かすかな赤い輪染みがあった。
赤い小瓶を置いた時に底が触れたような、丸い痕。
古いものだ。
だが、ただのワイン染みや薬瓶の跡ではない。
クラウディオはそれを見たが、すぐには口にしなかった。
ルストも、廊下の奥へ視線を向けた。
「血の匂いが薄い」
リュシアンがびくりとする。
「ここで、ですか」
「いや」
ルストは階段の方を見る。
「下だ」
リュシアンの手袋の指が、かすかに動いた。
「地下は古い貯蔵庫です。長い間使っていません。湿気もありますし、危険です」
クラウディオの口元が動いた。
「危険な場所ほど、案内人は急に親切になる」
「本当に危ないんです」
「泣くほどか?」
リュシアンは目を伏せる。
涙がまた浮かぶ。
クラウディオは低く言った。
「泣くなとは言っていない。泣きながら時系列を歪めるなと言っている」
その言葉に、リュシアンの唇が一瞬だけ強張った。
すぐに弱々しい表情へ戻る。
ルストは二人の間に立つように、わずかに位置を変えた。
「地下は後で確認する。まず、使用人が倒れた場所を見せろ」
リュシアンは頷いた。
「こちらです」
彼は廊下を歩き出す。
その後ろ姿は細く、頼りなく、今にも崩れそうだった。
だが、クラウディオの目は、その歩き方ではなく、手袋の手首にあった。
手首の内側の擦れ。
地下の古い扉。
鍵。
何度も押さえつけたような摩耗。
契約痕の血。
それらが、まだ一本には繋がらない。
だが、糸の端は見え始めていた。
◇
使用人たちの部屋は、館の裏手に近い一角にあった。
そこには三人の使用人が休んでいた。医師の診察は受けているという。けれど、どの顔も白く、目の下が黒い。老化と疲労と貧血が混じったような状態だった。
ルストは短く確認する。
「痛みは」
年配の女中が小さく首を横に振る。
「痛みというより、空っぽになったような……」
「いつから」
「お嬢様のご様子がおかしくなられた翌日からです」
リュシアンが横で、目を伏せる。
「皆、妹を心配していました。妹も、皆を大切にしていたのに」
クラウディオは女中へ問う。
「倒れた順番は覚えているか」
女中は苦しそうに考えた。
「最初は……庭師のマルクだったと思います。その次に執事長が」
リュシアンの指が動いた。
クラウディオはそれを見る。
「リュシアンの話では、執事長が最初だった」
女中は戸惑ったようにリュシアンを見る。
「そう、でしたか……私も、あまり記憶が」
リュシアンは静かに言う。
「皆、混乱していたんです。仕方ありません」
クラウディオは何も返さなかった。
ただ、手袋の指先を見る。
リュシアンは、手を背に回した。
ルストはその動きにも気づいた。
リュシアンの恐怖は本物に見える。
使用人たちの衰弱も本物だ。
妹の記憶が壊れていることも、おそらく嘘ではない。
だが、自分の責任に近づく部分だけが、霧に包まれている。
被害者であることと、加害に関わっていないことは同じではない。
クラウディオの言葉が、ルストの中に残っていた。
◇
応接室へ戻った後、クラウディオは紅茶に手をつけなかった。
リュシアンは向かいの椅子に座り、疲れたように息を吐いている。涙は少し引いている。だが、目元は赤い。手袋の指は、膝の上で細く絡まっていた。
クラウディオは、静かに言った。
「手袋を外せ」
リュシアンの顔がこわばる。
「え……」
「聞こえなかったか。手袋を外せ」
ルストがクラウディオを見る。
「理由は」
「ある」
クラウディオは、リュシアンの手元へ視線を落とした。
「新品の革だ。だが、手首の内側だけが古く擦れている。涙を拭う時、指先の染みを見せない角度にしている。右手の先には古い血がある。普通の血痕にも見えるが、契約口の匂いが混じっている」
リュシアンの唇が震える。
「そんな……」
クラウディオは、声を荒げなかった。
むしろ、静かだった。
「妹が願ったと言ったな。なら、なぜ貴様の手袋に契約痕の血がある」
その瞬間、リュシアンは固まった。
涙が止まる。
呼吸が止まる。
指先が動かない。
ほんの一拍だけ、怯えとは違う表情が浮かんだ。
計算が追いつかなかった顔。
次の瞬間、リュシアンは崩れた。
目に涙が戻り、肩が震え、声が細くなる。
「妹を止めようとして触れたからです」
彼は両手を胸元へ引き寄せた。
「契約の印が妹に現れた時、私はそれを押さえようとして……その時の血が、手袋に」
涙が落ちる。
「私は、本当に止めたかったんです。妹が何かに触れようとして、赤い輪が出て、私は怖くて、それでも止めないとと思って」
ルストは黙って聞いた。
その説明は、完全に不可能ではない。
契約痕に触れれば、血が移る可能性はある。
リュシアンの恐怖も、すべてが嘘とは思えない。
ルストは低く言った。
「触れた時に付いた可能性はある」
クラウディオは即座に返す。
「可能性はな。涙と同じで、どこにでも流し込める」
「決めつけるな」
「決めつけていない。疑っている」
リュシアンは、二人を見比べた。
ルストへ、縋るような視線を向ける。
クラウディオは笑った。
冷たく。
「便利な涙だ。隙間に流し込めば、どんな嘘も接着できる」
リュシアンの顔が、傷ついたように歪んだ。
「ひどい……」
「怖がっていることは否定しない」
クラウディオは言った。
「だが、怖がっている者が奪っていないとは限らない」
リュシアンは答えなかった。
ただ、手袋を外さなかった。
その沈黙を、ルストは見た。
澪奈の通信が、小さく鳴る。
『今のやり取り、記録しました。手袋の映像、拡大できます』
クラウディオは端末へ短く言う。
「後で送る」
『地下の確認もお願いします。先ほどから通信に周期的なノイズが入っています。地下方向からです』
ルストが立ち上がる。
「地下を確認する」
リュシアンも立ち上がった。
「本当に、危険です。古い倉庫ですし、何もありません」
クラウディオは扉へ向かう。
「何もない場所ほど、持ち主は見せたがらない」
リュシアンは唇を噛んだ。
それでも、ついてきた。
◇
地下への扉は、廊下の奥にあった。
重い木製の扉。
古い鉄の鍵。
周囲の床は、他の場所よりも磨かれていた。使われていないという説明に反して、扉の前だけ埃が薄い。
ルストは扉の前で足を止めた。
「血の匂いがする」
クラウディオも扉の取っ手を見る。
古い鉄に、何度も触れた跡がある。
鍵穴の周囲には細かな擦れがあり、その位置はリュシアンの手袋の手首の摩耗と、妙に合っていた。
クラウディオは何も言わず、ルストへ視線を向ける。
ルストは鍵を見た。
「開けられるか」
リュシアンが急いで言う。
「鍵は、父が管理していて」
その時、扉の向こうから微かな音がした。
硝子が触れ合うような、かすかな音。
リュシアンの顔色が変わる。
クラウディオは低く言った。
「今の硝子は、父上が鳴らしたのか」
リュシアンは答えない。
ルストが扉の取っ手に手をかけた。
古い錠は固かったが、完全には閉じていなかった。重い音を立てて、扉が少しずつ開く。
冷たい空気が、地下から上がってくる。
湿気。
古い木箱。
埃。
そして、薄い血の匂い。
地下室へ続く石段は暗かった。
ルストが先に降りる。
クラウディオが続く。
リュシアンは階段の上で、立ち尽くしていた。
「来ないのか」
クラウディオが振り返らずに言う。
リュシアンは、消え入りそうな声で答えた。
「……足元が、暗くて」
「涙で濡れているからな」
ルストが低くたしなめる。
「クラウディオ」
「はいはい」
地下室は、古い貯蔵庫だった。
ワイン棚の名残。
使われなくなった木箱。
布をかけられた家具。
錆びた燭台。
床には、丸い輪染みがいくつもあった。
赤い小瓶の底と同じ大きさの輪。
クラウディオは、奥の棚へ近づいた。
棚の下段に、古い木箱が押し込まれている。
蓋は閉じられていたが、完全ではない。隙間から、赤い糸の端が見えた。
ルストが木箱を引き出す。
蓋を開ける。
中には、小瓶が入っていた。
空だった。
しかし、その形をクラウディオは知っている。
《宵待堂》の棚に並んでいた赤い小瓶。
願いの支払いとして抜かれた血を保存していた器。
その同じ形の瓶が、木箱の中に転がっている。
一つではない。
いくつも。
中身はすべて抜かれている。
口には赤い糸の残りが巻かれ、底には乾いた赤黒い痕があった。
ルストの顔が硬くなる。
クラウディオは、その瓶を見下ろした。
リュシアンの手袋。
契約痕の血。
地下室の鍵。
使用人たちの寿命。
妹の記憶。
まだ結論には早い。
だが、洋館の地下に隠されていたこれは、偶然では片づかない。
木箱の奥で、赤い糸の残った小瓶が、空のままいくつも転がっていた。
その形は、《願い屋》の棚で見た赤い小瓶と、寸分違わなかった。




