第108話 信じる灰銀
木箱の中で、小瓶が空のまま転がっていた。
赤い糸の残った口。
乾いた赤黒い痕のある底。
《宵待堂》の棚に並んでいた赤い小瓶と、寸分違わない形。
洋館の地下は、古い湿気と埃の匂いに満ちていた。ワイン棚の名残、布をかけられた家具、錆びた燭台、使われなくなった木箱。その奥に隠されていた小瓶だけが、妙に新しかった。
新しいというより、最近まで使われていた気配がある。
だが、中身はない。
血も、記憶も、寿命も、感情も、すでに抜かれた後のように。
ルストは一本を手に取らず、少し身を屈めて見た。指紋や痕跡を乱さないためだった。彼は旧い吸血鬼王であり、ハンターでもある。血の匂いには鋭いが、証拠を無造作に踏みにじるほど雑ではない。
クラウディオは、木箱の中を見下ろしていた。
赤い瞳に、地下の冷えが映っている。
『映像、届いています』
端末から澪奈の声が聞こえた。通信は地下へ入ってから少し乱れているが、切れてはいない。
『空瓶の形状は、《宵待堂》で確認した赤い小瓶と一致します。ただし、中身は残っていません。底に、血液反応に似た痕があります。通常の血液としては説明しづらいです』
ルストが低く言う。
「数が多い」
『はい。少なくとも七本あります』
階段の上から、リュシアン・ヴェルネの震える声が降ってきた。
「そんなものが……この家に……」
その驚きは、美しく震えていた。
だが、少しだけ遅かった。
見つかった直後に息を呑むのではなく、クラウディオとルストがそれを見つめ、澪奈が解析結果を口にした後で、まるで言うべき台詞を思い出したかのように出てきた驚きだった。
クラウディオは階段の方を見上げず、木箱の中を見たまま言った。
「家を元に戻したい願いにしては、空瓶が多いな」
ルストは静かに返す。
「まだ誰が使ったか分からない」
「分からない。だから見る」
クラウディオは小瓶の並びへ目を走らせた。
転がり方。
瓶の口に残った赤い糸。
木箱の底に沈んだ細かな灰。
一本だけ、底の乾いた痕が濃い。
その横に、薄い擦れ跡がある。
革手袋の内側で何かを押さえつけた時にできるような、細い摩擦の跡。
上にいるリュシアンは、階段の途中で立ち尽くしていた。淡い金髪。薄青紫の瞳。白い肌。地下の暗がりを怖がるように、手すりを細い指で掴んでいる。
その手には、淡灰色の手袋。
新品に見えるのに、手首の内側だけが古く擦れている手袋。
右手の指先には、契約痕の血に似た赤黒い染み。
リュシアンは、ルストを見る時だけ、声を柔らかくした。
「ルスト様……私は、本当に知りませんでした。妹が、どこまで関わっていたのかも。私がもっと早く気づいていれば……」
クラウディオの赤い目が、わずかに冷える。
ルストは階段の上を見た。
「今は決めつけない。だが、この瓶については確認する」
リュシアンは、ほっとしたように息をついた。
その息は、クラウディオへ向けたものではない。
ルストへ向けたものだった。
クラウディオは、ようやく顔を上げた。
「貴様は泣く顔に弱いな。飢えた狼でも涙を流せば膝に乗せるのか」
地下の空気が、さらに冷えた。
ルストはクラウディオを見た。
灰銀の瞳は、怒りではなく、静かな疲労を帯びている。
「疑うのは後でもできる。死んだ後では助けられない」
その言葉は、正しかった。
ルストは長くハンターとして、人間や吸血鬼の被害者を見てきた。血を流しながら助けを求める者。声を失って震える者。家族を奪われた者。怪異に噛まれ、契約の口から寿命を吸われ、それでも自分の何が失われたのか分からず泣く者。
そういう者たちを、最初から疑うことは簡単ではない。
疑っている間に死ぬ者がいる。
証言の整合性を取っている間に、二度と戻らない場所へ連れて行かれる者がいる。
ルストはそれを知っている。
だから、まず守る側に立とうとする。
疑いは後でもできる。
死んだ後では助けられない。
それは確かに正しい。
だが今回、その正しさが危うい。
クラウディオは階段の上のリュシアンを一瞥した。
リュシアンは、怯えたように目を伏せる。クラウディオからは半歩引き、ルストの視界へ入る位置へ立つ。その動きは弱々しい。けれど、弱さの置き場所が正確すぎた。
「疑わないとは言っていない」
ルストは低く続けた。
「だが、守るべき相手を見誤る方が怖い」
クラウディオは短く笑った。
「守るべき相手の皮を被った者が、一番よく喋る」
「お前は疑いすぎる」
「貴様は信じすぎる」
「信じてはいない。守っている」
「なら、守りながら手元を見ろ」
クラウディオの視線が、リュシアンの手袋へ落ちた。
リュシアンは、その視線に気づいたように、手首を胸元へ引き寄せる。涙を拭う時の手袋の角度と同じだ。指先の染みが見えないように、手首の擦れが袖の影に隠れるように。
ルストも、その動きを見た。
見ていないわけではない。
違和感に気づかないほど鈍くもない。
それでも、彼はリュシアンを階段から追い詰めるような聞き方はしなかった。
怖がっている者を、地下の暗がりでさらに追い込むことが、本当に正しいのか。
それが本物の被害者だった場合、どれほど壊すことになるのか。
ルストは、その重さを知っている。
クラウディオは、その逡巡ごと苛立たしかった。
しかし、その苛立ちは嫉妬だけではない。
リュシアンの証言の穴。
視線の動き。
泣くタイミング。
質問を逸らす瞬間。
手袋を直す癖。
ルストの反応を確認する目。
クラウディオに詰められると怯える角度。
ルストへ向く時だけ、少し声が柔らかくなること。
自分に不利な質問の時だけ、涙が増えること。
そのすべてを見ている。
クラウディオには分かっていた。
リュシアンは怯えている。
ただし、被害に怯えているのではない。
罪に怯えている。
◇
地下室の確認は、澪奈の通信指示に従って進められた。
クラウディオは直接小瓶に触れず、端末の映像で木箱の中を撮影した。ルストは地下室の入口、壁、床の輪染み、棚の裏を確認する。埃の積もり方から、木箱が最近動かされたことは明らかだった。
『床の輪染みも記録してください』
澪奈の声が言う。
『赤い小瓶の底と一致する可能性があります。あと、扉の鍵穴周辺もお願いします。擦れが見えます』
クラウディオは端末を向けた。
「鍵穴の擦れと、リュシアンの手袋の手首内側の摩耗が合うかもしれん」
階段の上で、リュシアンが息を詰める気配がした。
ルストは、その反応を聞き逃さなかった。
クラウディオも当然聞いた。
しかし、すぐには言葉にしない。
代わりに、空瓶の数を数える。
「七本。うち二本は底の痕が濃い。一本は口の赤糸が新しい」
『妹さん一人の願いにしては多すぎます』
澪奈の声が硬くなる。
『ただし、複数の願いが同時に扱われた可能性、別の家人や使用人が関わった可能性もあります。誰が使ったかは、まだ断定できません』
「断定しないのは結構だ。だが、数を無視するな」
クラウディオは階段の上へ目を向けた。
「リュシアン。地下の鍵は誰が持っていた」
リュシアンは手すりを握ったまま、答えるまでに一拍置いた。
「父が……管理していたはずです」
「はず?」
「私は、鍵の管理まですべて把握していたわけではありません」
その言葉を言いながら、リュシアンは手袋の手首を直した。
擦れた部分を、袖の中へ押し込むように。
クラウディオはその手を見る。
ルストも見た。
リュシアンはすぐに目を伏せる。
「本当に、私は……知らなかったんです。妹が、こんな場所に何かを隠していたなんて」
クラウディオが静かに言う。
「妹が隠したと決めたのか」
リュシアンの顔がこわばる。
「いえ……そういう意味では」
「便利だな。知らないと言いながら、妹のせいにする道だけは迷わず歩く」
リュシアンの目に涙が浮かぶ。
「違います。私は、妹を守りたいだけです。お願いです、これ以上妹を疑わないでください」
ルストが口を開く前に、クラウディオが言った。
「ルストに縋る前に、質問に答えろ」
リュシアンは怯えたようにルストを見る。
「そんなつもりでは……」
「つもりがない者ほど、都合よく腕を掴む」
その言葉に、ルストの視線がクラウディオへ向いた。
クラウディオはそちらを見ない。
自分の苛立ちを、嫉妬として扱わせるつもりはない。彼が見ているのは証言の歪みだ。手袋だ。空瓶だ。視線だ。泣く順番だ。
そういう顔をしている。
だが、ルストは気づいていた。
クラウディオの目が冷える理由は、それだけではない。
リュシアンが自分へ向ける声。
触れそうな距離。
助けを求める角度。
そのすべてが、クラウディオの中の何かを小さく引っ掻いている。
ただし、それを今ここで言えば、クラウディオは確実に噛みつく。
物理ではなく言葉で。
それはそれで厄介だった。人間界は本当に面倒なものばかりだが、吸血鬼同士の関係も負けず劣らず面倒だった。
◇
地上へ戻ると、洋館の廊下には夕方の影が伸びていた。
大きな窓から入る光は弱く、古い絨毯の赤が暗く沈んでいる。先祖の肖像画は、壁の上から静かにこちらを見下ろしていた。白い顔、薄い瞳、細い指。古い血筋の誇りと衰退が、額縁の中で埃を被っている。
リュシアンは応接室へ戻る途中、何度も足を止めた。
疲れているように見える。
それは演技だけとは言えない。
地下で見つかった小瓶に動揺しているのは本当かもしれない。妹の記憶が壊れたことも、使用人たちが倒れたことも、おそらく事実だ。彼の恐怖は本物に見える。
だが、恐怖が本物だからといって、語るすべてが真実とは限らない。
怖がっている者が、奪っていないとは限らない。
クラウディオの言葉が、ルストの中で重く残る。
応接室では、リュシアンがソファに浅く腰を下ろした。彼は手袋の指を膝の上で絡める。その動作は繊細で、弱々しい。けれど、手袋を外そうとはしない。
ルストは向かいに座り、静かに問うた。
「使用人が倒れた順番を、もう一度確認する」
リュシアンは目を伏せた。
「はい……」
「最初は執事長と言った。だが、女中は庭師が先だと言った」
リュシアンの指が、手袋の手首を押さえた。
「混乱していたんです。皆、倒れて……父も怒鳴っていて、妹は泣いていて」
「お前はどこにいた」
「妹の部屋です」
「ずっとか」
「……たぶん」
クラウディオが笑う。
「記憶障害が家族内で流行っているのか」
ルストが視線で制する。
クラウディオは肩をすくめた。
「黙れと言われる前に黙ってやろう。王の慈悲だ」
リュシアンは、弱々しく言った。
「私は、本当に助けたかったんです。妹は、家を救いたかっただけで……ヴェルネ家は、もう崩れかけていた。あの子は、ただ、昔のように戻したかっただけなんです」
ルストは静かに聞いた。
リュシアンの声の震えは自然に見える。
妹の話になると息が浅くなる。
使用人の話では目を伏せる。
家運の話になると、ほんの少しだけ言葉が早くなる。
その違いに、ルストも気づいた。
気づいている。
それでも、すぐに突き放せない。
ルストには、泣いて助けを求めた者を疑い切れずに守った記憶もあれば、疑いすぎて間に合わなかった記憶もある。ハンターとして生きてきた年月の中で、助けを求める声はいつも綺麗ではなかった。嘘も混じった。恐怖で記憶が歪むこともあった。罪悪感で言葉が遅れることもあった。
だから、証言の穴だけで切り捨てることはしない。
だが、クラウディオはその「切り捨てない」隙間に、リュシアンが指を差し込んでいるように見えていた。
「お前は疑いすぎる」
ルストは低く言った。
クラウディオは即座に返す。
「貴様は信じすぎる」
「信じてはいない。守っている」
「なら、守りながら手元を見ろ」
応接室の空気が止まる。
リュシアンは、まるでその言葉が自分へ向けられた刃のように身をすくめた。
ルストは、クラウディオの言葉を否定しなかった。
彼も手元を見る。
リュシアンの指先。
手首の擦れ。
涙を拭う時の角度。
質問が地下に近づくたびに、手袋を直す癖。
確かにそこには、見逃してはいけないものがある。
リュシアンは小さく息を吸った。
「ルスト様……」
クラウディオの目が冷える。
リュシアンは、クラウディオには怯える。
ルストには頼る。
その差はあまりにも分かりやすかった。
分かりやすいのに、弱さの形としては効く。
リュシアンは、ルストの顔色を見ながら言葉を選んでいる。ルストが眉を寄せれば声を小さくし、ルストが「落ち着け」と言えばそこで涙を増やす。クラウディオに詰められればルストの方へ視線を逃がし、ルストの前では「壊れそうな令息」の姿を崩さない。
計算されている。
露骨すぎるほどに。
だが、恐怖は本物に見える。
そこが最も質が悪い。
クラウディオは低く言った。
「涙は証言ではない」
リュシアンは唇を噛む。
「私は、泣きたくて泣いているわけでは」
「泣く者を助けるなとは言っていない。泣いている間に手元を見るだけだ」
リュシアンの指が、また手袋を直した。
ルストはその動きを見た。
今度は、はっきりと。
◇
澪奈からの通信は、夕方近くに入った。
『空瓶の映像解析、一次確認が出ました』
クラウディオは端末を机に置いた。
画面に澪奈の顔が映る。背後には霧杜中央署の会議室が見えた。山積みの相談記録の上に、新しいファイルがさらに乗っている。書類は繁殖でもするのかと疑いたくなる光景だった。
『小瓶は《願い屋》の器と同じ規格で間違いありません。ただ、中身は抜かれています。底に残った痕は、血液反応に近いですが、通常の血ではありません。契約口を通過した後の血に近い反応です』
リュシアンの顔色が悪くなる。
クラウディオはそれを見る。
『また、地下扉の鍵穴周辺に残っていた擦過痕ですが、手袋の手首内側の摩耗位置と一致する可能性があります。もちろん、まだ映像だけの比較です。現物確認が必要です』
ルストがリュシアンへ向く。
「手袋を提出できるか」
リュシアンの目が揺れる。
「今、ですか」
「検査が必要だ」
「でも、これは……母の形見で」
クラウディオが小さく笑う。
「急に家族の情緒が増えたな。先ほどまでは鍵の管理も使用人の順番も霧の中だったのに」
リュシアンは傷ついた顔をする。
「どうして、そんな言い方を」
「手袋を外したくない理由が増えるほど、こちらは見たくなる」
ルストは、クラウディオを制するように一瞬見た。
しかし今回は、クラウディオだけを止めなかった。
「リュシアン。提出は任意だ。だが、疑いを晴らしたいなら必要になる」
リュシアンは、ルストを見る。
その視線には、助けを求める色があった。
同時に、判断を押し返してほしいという期待もある。
ルストが「今は無理にしなくていい」と言うのを待っているような。
クラウディオは、それを見ていた。
リュシアンは涙を浮かべる。
「私を疑うのは構いません。でも、妹は……妹だけは、これ以上傷つけないでください」
クラウディオは即座に返した。
「今は手袋の話をしている。妹を盾に出すな」
リュシアンは黙る。
涙が落ちる。
だが、手袋は外さない。
ルストは、その沈黙を見つめた。
被害者を守ることと、証言を疑うことは両立しなければならない。
疑いすぎれば、本物の被害者を傷つける。
信じすぎれば、加害者に利用される。
その狭間に、いま彼らは立っている。
ルストは信じる灰銀だった。
信じることは弱さではない。
だが、信じる姿勢を見抜かれれば、罠にもなる。
クラウディオは疑う吸血鬼王だった。
疑うことは冷酷ではない。
だが、疑いだけで押し潰せば、救えるものも壊す。
どちらも必要だった。
だからこそ、今この場はひどく危うい。
◇
リュシアンの疲労を理由に、調査はいったん区切られた。
地下の空瓶は現場保全のため、映像と位置記録を残し、正式な回収は榊と澪奈の手配を待つことになった。使用人たちへの追加聴取も、医師の診断記録と照合する必要がある。妹の部屋と端末については、リュシアンが「妹の状態が安定してから」と繰り返し、すぐには確認できなかった。
確認できないことが、多すぎる。
夕暮れが近づき、洋館の窓に外の青い影が映った。
リュシアンは応接室の椅子に座り、両手を膝の上で重ねていた。手袋はまだ外していない。顔色は悪く、目元には涙の跡がある。疲れ切っているように見える。
それは本当かもしれない。
だが、クラウディオはなお手袋を見ていた。
ルストは、その視線に気づいている。
そして、リュシアンがルストを見ていることにも気づいている。
「今日はここまでだ」
ルストは言った。
「明日以降、妹の端末、医療記録、地下の鍵、使用人の時系列を確認する」
リュシアンは小さく頷いた。
「はい……」
声は弱い。
だが、その弱さは、ルストへまっすぐ向いていた。
クラウディオへではない。
「ルスト様」
リュシアンが呼んだ。
クラウディオの目が、わずかに細くなる。
リュシアンは椅子から立ち上がり、ゆっくりとルストへ近づいた。ふらつくように。けれど、距離の詰め方は正確だった。近すぎず、しかし放っておけない程度に近い。
「お願いがあります」
ルストは黙って続きを待つ。
リュシアンはクラウディオを見なかった。
ルストだけを見た。
薄青紫の瞳に、また涙が浮かぶ。
黒い手袋の指が、胸元の布を掴む。
そして、震える声で言った。
「今夜、一人では眠れない」
応接室の空気が止まった。
ルストは一瞬、言葉を返さなかった。
保護すべきか。
距離を置くべきか。
このまま突き放して、もし本当に狙われていたら。
このまま近づけて、もし利用されていたら。
その迷いは、ほんの短いものだった。
だが、リュシアンはその一瞬を見ていた。
クラウディオも見ていた。
クラウディオは、そこで笑った。
「涙の次は不眠か。品揃えがいいな」
声だけなら、いつもの皮肉だった。
けれど、目は笑っていない。
リュシアンは傷ついたように身をすくめ、ルストへ半歩寄る。
ルストはまだ答えない。
クラウディオは笑っていた。
だがその赤い目だけは、リュシアンの手袋より冷たく、少しも笑っていなかった。




