表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第8部 【被害者を装う者たち】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

109/125

第108話 信じる灰銀



 木箱の中で、小瓶が空のまま転がっていた。


 赤い糸の残った口。


 乾いた赤黒い痕のある底。


 《宵待堂》の棚に並んでいた赤い小瓶と、寸分違わない形。


 洋館の地下は、古い湿気と埃の匂いに満ちていた。ワイン棚の名残、布をかけられた家具、錆びた燭台、使われなくなった木箱。その奥に隠されていた小瓶だけが、妙に新しかった。


 新しいというより、最近まで使われていた気配がある。


 だが、中身はない。


 血も、記憶も、寿命も、感情も、すでに抜かれた後のように。


 ルストは一本を手に取らず、少し身を屈めて見た。指紋や痕跡を乱さないためだった。彼は旧い吸血鬼王であり、ハンターでもある。血の匂いには鋭いが、証拠を無造作に踏みにじるほど雑ではない。


 クラウディオは、木箱の中を見下ろしていた。


 赤い瞳に、地下の冷えが映っている。


『映像、届いています』


 端末から澪奈の声が聞こえた。通信は地下へ入ってから少し乱れているが、切れてはいない。


『空瓶の形状は、《宵待堂》で確認した赤い小瓶と一致します。ただし、中身は残っていません。底に、血液反応に似た痕があります。通常の血液としては説明しづらいです』


 ルストが低く言う。


「数が多い」


『はい。少なくとも七本あります』


 階段の上から、リュシアン・ヴェルネの震える声が降ってきた。


「そんなものが……この家に……」


 その驚きは、美しく震えていた。


 だが、少しだけ遅かった。


 見つかった直後に息を呑むのではなく、クラウディオとルストがそれを見つめ、澪奈が解析結果を口にした後で、まるで言うべき台詞を思い出したかのように出てきた驚きだった。


 クラウディオは階段の方を見上げず、木箱の中を見たまま言った。


「家を元に戻したい願いにしては、空瓶が多いな」


 ルストは静かに返す。


「まだ誰が使ったか分からない」


「分からない。だから見る」


 クラウディオは小瓶の並びへ目を走らせた。


 転がり方。


 瓶の口に残った赤い糸。


 木箱の底に沈んだ細かな灰。


 一本だけ、底の乾いた痕が濃い。


 その横に、薄い擦れ跡がある。


 革手袋の内側で何かを押さえつけた時にできるような、細い摩擦の跡。


 上にいるリュシアンは、階段の途中で立ち尽くしていた。淡い金髪。薄青紫の瞳。白い肌。地下の暗がりを怖がるように、手すりを細い指で掴んでいる。


 その手には、淡灰色の手袋。


 新品に見えるのに、手首の内側だけが古く擦れている手袋。


 右手の指先には、契約痕の血に似た赤黒い染み。


 リュシアンは、ルストを見る時だけ、声を柔らかくした。


「ルスト様……私は、本当に知りませんでした。妹が、どこまで関わっていたのかも。私がもっと早く気づいていれば……」


 クラウディオの赤い目が、わずかに冷える。


 ルストは階段の上を見た。


「今は決めつけない。だが、この瓶については確認する」


 リュシアンは、ほっとしたように息をついた。


 その息は、クラウディオへ向けたものではない。


 ルストへ向けたものだった。


 クラウディオは、ようやく顔を上げた。


「貴様は泣く顔に弱いな。飢えた狼でも涙を流せば膝に乗せるのか」


 地下の空気が、さらに冷えた。


 ルストはクラウディオを見た。


 灰銀の瞳は、怒りではなく、静かな疲労を帯びている。


「疑うのは後でもできる。死んだ後では助けられない」


 その言葉は、正しかった。


 ルストは長くハンターとして、人間や吸血鬼の被害者を見てきた。血を流しながら助けを求める者。声を失って震える者。家族を奪われた者。怪異に噛まれ、契約の口から寿命を吸われ、それでも自分の何が失われたのか分からず泣く者。


 そういう者たちを、最初から疑うことは簡単ではない。


 疑っている間に死ぬ者がいる。


 証言の整合性を取っている間に、二度と戻らない場所へ連れて行かれる者がいる。


 ルストはそれを知っている。


 だから、まず守る側に立とうとする。


 疑いは後でもできる。


 死んだ後では助けられない。


 それは確かに正しい。


 だが今回、その正しさが危うい。


 クラウディオは階段の上のリュシアンを一瞥した。


 リュシアンは、怯えたように目を伏せる。クラウディオからは半歩引き、ルストの視界へ入る位置へ立つ。その動きは弱々しい。けれど、弱さの置き場所が正確すぎた。


「疑わないとは言っていない」


 ルストは低く続けた。


「だが、守るべき相手を見誤る方が怖い」


 クラウディオは短く笑った。


「守るべき相手の皮を被った者が、一番よく喋る」


「お前は疑いすぎる」


「貴様は信じすぎる」


「信じてはいない。守っている」


「なら、守りながら手元を見ろ」


 クラウディオの視線が、リュシアンの手袋へ落ちた。


 リュシアンは、その視線に気づいたように、手首を胸元へ引き寄せる。涙を拭う時の手袋の角度と同じだ。指先の染みが見えないように、手首の擦れが袖の影に隠れるように。


 ルストも、その動きを見た。


 見ていないわけではない。


 違和感に気づかないほど鈍くもない。


 それでも、彼はリュシアンを階段から追い詰めるような聞き方はしなかった。


 怖がっている者を、地下の暗がりでさらに追い込むことが、本当に正しいのか。


 それが本物の被害者だった場合、どれほど壊すことになるのか。


 ルストは、その重さを知っている。


 クラウディオは、その逡巡ごと苛立たしかった。


 しかし、その苛立ちは嫉妬だけではない。


 リュシアンの証言の穴。


 視線の動き。


 泣くタイミング。


 質問を逸らす瞬間。


 手袋を直す癖。


 ルストの反応を確認する目。


 クラウディオに詰められると怯える角度。


 ルストへ向く時だけ、少し声が柔らかくなること。


 自分に不利な質問の時だけ、涙が増えること。


 そのすべてを見ている。


 クラウディオには分かっていた。


 リュシアンは怯えている。


 ただし、被害に怯えているのではない。


 罪に怯えている。


     ◇


 地下室の確認は、澪奈の通信指示に従って進められた。


 クラウディオは直接小瓶に触れず、端末の映像で木箱の中を撮影した。ルストは地下室の入口、壁、床の輪染み、棚の裏を確認する。埃の積もり方から、木箱が最近動かされたことは明らかだった。


『床の輪染みも記録してください』


 澪奈の声が言う。


『赤い小瓶の底と一致する可能性があります。あと、扉の鍵穴周辺もお願いします。擦れが見えます』


 クラウディオは端末を向けた。


「鍵穴の擦れと、リュシアンの手袋の手首内側の摩耗が合うかもしれん」


 階段の上で、リュシアンが息を詰める気配がした。


 ルストは、その反応を聞き逃さなかった。


 クラウディオも当然聞いた。


 しかし、すぐには言葉にしない。


 代わりに、空瓶の数を数える。


「七本。うち二本は底の痕が濃い。一本は口の赤糸が新しい」


『妹さん一人の願いにしては多すぎます』


 澪奈の声が硬くなる。


『ただし、複数の願いが同時に扱われた可能性、別の家人や使用人が関わった可能性もあります。誰が使ったかは、まだ断定できません』


「断定しないのは結構だ。だが、数を無視するな」


 クラウディオは階段の上へ目を向けた。


「リュシアン。地下の鍵は誰が持っていた」


 リュシアンは手すりを握ったまま、答えるまでに一拍置いた。


「父が……管理していたはずです」


「はず?」


「私は、鍵の管理まですべて把握していたわけではありません」


 その言葉を言いながら、リュシアンは手袋の手首を直した。


 擦れた部分を、袖の中へ押し込むように。


 クラウディオはその手を見る。


 ルストも見た。


 リュシアンはすぐに目を伏せる。


「本当に、私は……知らなかったんです。妹が、こんな場所に何かを隠していたなんて」


 クラウディオが静かに言う。


「妹が隠したと決めたのか」


 リュシアンの顔がこわばる。


「いえ……そういう意味では」


「便利だな。知らないと言いながら、妹のせいにする道だけは迷わず歩く」


 リュシアンの目に涙が浮かぶ。


「違います。私は、妹を守りたいだけです。お願いです、これ以上妹を疑わないでください」


 ルストが口を開く前に、クラウディオが言った。


「ルストに縋る前に、質問に答えろ」


 リュシアンは怯えたようにルストを見る。


「そんなつもりでは……」


「つもりがない者ほど、都合よく腕を掴む」


 その言葉に、ルストの視線がクラウディオへ向いた。


 クラウディオはそちらを見ない。


 自分の苛立ちを、嫉妬として扱わせるつもりはない。彼が見ているのは証言の歪みだ。手袋だ。空瓶だ。視線だ。泣く順番だ。


 そういう顔をしている。


 だが、ルストは気づいていた。


 クラウディオの目が冷える理由は、それだけではない。


 リュシアンが自分へ向ける声。


 触れそうな距離。


 助けを求める角度。


 そのすべてが、クラウディオの中の何かを小さく引っ掻いている。


 ただし、それを今ここで言えば、クラウディオは確実に噛みつく。


 物理ではなく言葉で。


 それはそれで厄介だった。人間界は本当に面倒なものばかりだが、吸血鬼同士の関係も負けず劣らず面倒だった。


     ◇


 地上へ戻ると、洋館の廊下には夕方の影が伸びていた。


 大きな窓から入る光は弱く、古い絨毯の赤が暗く沈んでいる。先祖の肖像画は、壁の上から静かにこちらを見下ろしていた。白い顔、薄い瞳、細い指。古い血筋の誇りと衰退が、額縁の中で埃を被っている。


 リュシアンは応接室へ戻る途中、何度も足を止めた。


 疲れているように見える。


 それは演技だけとは言えない。


 地下で見つかった小瓶に動揺しているのは本当かもしれない。妹の記憶が壊れたことも、使用人たちが倒れたことも、おそらく事実だ。彼の恐怖は本物に見える。


 だが、恐怖が本物だからといって、語るすべてが真実とは限らない。


 怖がっている者が、奪っていないとは限らない。


 クラウディオの言葉が、ルストの中で重く残る。


 応接室では、リュシアンがソファに浅く腰を下ろした。彼は手袋の指を膝の上で絡める。その動作は繊細で、弱々しい。けれど、手袋を外そうとはしない。


 ルストは向かいに座り、静かに問うた。


「使用人が倒れた順番を、もう一度確認する」


 リュシアンは目を伏せた。


「はい……」


「最初は執事長と言った。だが、女中は庭師が先だと言った」


 リュシアンの指が、手袋の手首を押さえた。


「混乱していたんです。皆、倒れて……父も怒鳴っていて、妹は泣いていて」


「お前はどこにいた」


「妹の部屋です」


「ずっとか」


「……たぶん」


 クラウディオが笑う。


「記憶障害が家族内で流行っているのか」


 ルストが視線で制する。


 クラウディオは肩をすくめた。


「黙れと言われる前に黙ってやろう。王の慈悲だ」


 リュシアンは、弱々しく言った。


「私は、本当に助けたかったんです。妹は、家を救いたかっただけで……ヴェルネ家は、もう崩れかけていた。あの子は、ただ、昔のように戻したかっただけなんです」


 ルストは静かに聞いた。


 リュシアンの声の震えは自然に見える。


 妹の話になると息が浅くなる。


 使用人の話では目を伏せる。


 家運の話になると、ほんの少しだけ言葉が早くなる。


 その違いに、ルストも気づいた。


 気づいている。


 それでも、すぐに突き放せない。


 ルストには、泣いて助けを求めた者を疑い切れずに守った記憶もあれば、疑いすぎて間に合わなかった記憶もある。ハンターとして生きてきた年月の中で、助けを求める声はいつも綺麗ではなかった。嘘も混じった。恐怖で記憶が歪むこともあった。罪悪感で言葉が遅れることもあった。


 だから、証言の穴だけで切り捨てることはしない。


 だが、クラウディオはその「切り捨てない」隙間に、リュシアンが指を差し込んでいるように見えていた。


「お前は疑いすぎる」


 ルストは低く言った。


 クラウディオは即座に返す。


「貴様は信じすぎる」


「信じてはいない。守っている」


「なら、守りながら手元を見ろ」


 応接室の空気が止まる。


 リュシアンは、まるでその言葉が自分へ向けられた刃のように身をすくめた。


 ルストは、クラウディオの言葉を否定しなかった。


 彼も手元を見る。


 リュシアンの指先。


 手首の擦れ。


 涙を拭う時の角度。


 質問が地下に近づくたびに、手袋を直す癖。


 確かにそこには、見逃してはいけないものがある。


 リュシアンは小さく息を吸った。


「ルスト様……」


 クラウディオの目が冷える。


 リュシアンは、クラウディオには怯える。


 ルストには頼る。


 その差はあまりにも分かりやすかった。


 分かりやすいのに、弱さの形としては効く。


 リュシアンは、ルストの顔色を見ながら言葉を選んでいる。ルストが眉を寄せれば声を小さくし、ルストが「落ち着け」と言えばそこで涙を増やす。クラウディオに詰められればルストの方へ視線を逃がし、ルストの前では「壊れそうな令息」の姿を崩さない。


 計算されている。


 露骨すぎるほどに。


 だが、恐怖は本物に見える。


 そこが最も質が悪い。


 クラウディオは低く言った。


「涙は証言ではない」


 リュシアンは唇を噛む。


「私は、泣きたくて泣いているわけでは」


「泣く者を助けるなとは言っていない。泣いている間に手元を見るだけだ」


 リュシアンの指が、また手袋を直した。


 ルストはその動きを見た。


 今度は、はっきりと。


     ◇


 澪奈からの通信は、夕方近くに入った。


『空瓶の映像解析、一次確認が出ました』


 クラウディオは端末を机に置いた。


 画面に澪奈の顔が映る。背後には霧杜中央署の会議室が見えた。山積みの相談記録の上に、新しいファイルがさらに乗っている。書類は繁殖でもするのかと疑いたくなる光景だった。


『小瓶は《願い屋》の器と同じ規格で間違いありません。ただ、中身は抜かれています。底に残った痕は、血液反応に近いですが、通常の血ではありません。契約口を通過した後の血に近い反応です』


 リュシアンの顔色が悪くなる。


 クラウディオはそれを見る。


『また、地下扉の鍵穴周辺に残っていた擦過痕ですが、手袋の手首内側の摩耗位置と一致する可能性があります。もちろん、まだ映像だけの比較です。現物確認が必要です』


 ルストがリュシアンへ向く。


「手袋を提出できるか」


 リュシアンの目が揺れる。


「今、ですか」


「検査が必要だ」


「でも、これは……母の形見で」


 クラウディオが小さく笑う。


「急に家族の情緒が増えたな。先ほどまでは鍵の管理も使用人の順番も霧の中だったのに」


 リュシアンは傷ついた顔をする。


「どうして、そんな言い方を」


「手袋を外したくない理由が増えるほど、こちらは見たくなる」


 ルストは、クラウディオを制するように一瞬見た。


 しかし今回は、クラウディオだけを止めなかった。


「リュシアン。提出は任意だ。だが、疑いを晴らしたいなら必要になる」


 リュシアンは、ルストを見る。


 その視線には、助けを求める色があった。


 同時に、判断を押し返してほしいという期待もある。


 ルストが「今は無理にしなくていい」と言うのを待っているような。


 クラウディオは、それを見ていた。


 リュシアンは涙を浮かべる。


「私を疑うのは構いません。でも、妹は……妹だけは、これ以上傷つけないでください」


 クラウディオは即座に返した。


「今は手袋の話をしている。妹を盾に出すな」


 リュシアンは黙る。


 涙が落ちる。


 だが、手袋は外さない。


 ルストは、その沈黙を見つめた。


 被害者を守ることと、証言を疑うことは両立しなければならない。


 疑いすぎれば、本物の被害者を傷つける。


 信じすぎれば、加害者に利用される。


 その狭間に、いま彼らは立っている。


 ルストは信じる灰銀だった。


 信じることは弱さではない。


 だが、信じる姿勢を見抜かれれば、罠にもなる。


 クラウディオは疑う吸血鬼王だった。


 疑うことは冷酷ではない。


 だが、疑いだけで押し潰せば、救えるものも壊す。


 どちらも必要だった。


 だからこそ、今この場はひどく危うい。


     ◇


 リュシアンの疲労を理由に、調査はいったん区切られた。


 地下の空瓶は現場保全のため、映像と位置記録を残し、正式な回収は榊と澪奈の手配を待つことになった。使用人たちへの追加聴取も、医師の診断記録と照合する必要がある。妹の部屋と端末については、リュシアンが「妹の状態が安定してから」と繰り返し、すぐには確認できなかった。


 確認できないことが、多すぎる。


 夕暮れが近づき、洋館の窓に外の青い影が映った。


 リュシアンは応接室の椅子に座り、両手を膝の上で重ねていた。手袋はまだ外していない。顔色は悪く、目元には涙の跡がある。疲れ切っているように見える。


 それは本当かもしれない。


 だが、クラウディオはなお手袋を見ていた。


 ルストは、その視線に気づいている。


 そして、リュシアンがルストを見ていることにも気づいている。


「今日はここまでだ」


 ルストは言った。


「明日以降、妹の端末、医療記録、地下の鍵、使用人の時系列を確認する」


 リュシアンは小さく頷いた。


「はい……」


 声は弱い。


 だが、その弱さは、ルストへまっすぐ向いていた。


 クラウディオへではない。


「ルスト様」


 リュシアンが呼んだ。


 クラウディオの目が、わずかに細くなる。


 リュシアンは椅子から立ち上がり、ゆっくりとルストへ近づいた。ふらつくように。けれど、距離の詰め方は正確だった。近すぎず、しかし放っておけない程度に近い。


「お願いがあります」


 ルストは黙って続きを待つ。


 リュシアンはクラウディオを見なかった。


 ルストだけを見た。


 薄青紫の瞳に、また涙が浮かぶ。


 黒い手袋の指が、胸元の布を掴む。


 そして、震える声で言った。


「今夜、一人では眠れない」


 応接室の空気が止まった。


 ルストは一瞬、言葉を返さなかった。


 保護すべきか。


 距離を置くべきか。


 このまま突き放して、もし本当に狙われていたら。


 このまま近づけて、もし利用されていたら。


 その迷いは、ほんの短いものだった。


 だが、リュシアンはその一瞬を見ていた。


 クラウディオも見ていた。


 クラウディオは、そこで笑った。


「涙の次は不眠か。品揃えがいいな」


 声だけなら、いつもの皮肉だった。


 けれど、目は笑っていない。


 リュシアンは傷ついたように身をすくめ、ルストへ半歩寄る。


 ルストはまだ答えない。


 クラウディオは笑っていた。


 だがその赤い目だけは、リュシアンの手袋より冷たく、少しも笑っていなかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ