第109話 善意の看護師
病院の廊下は、白すぎた。
壁も、床も、天井も、薄く光を返している。午後の光が大きな窓から差し込み、磨かれた廊下の上に柔らかな四角を落としていた。消毒液の匂いが空気の奥まで染み込み、誰かの足音も、カートの車輪の音も、控えめに吸い込まれていく。
霧杜市立総合医療センター。
表向きは、ただの総合病院だった。
だが、願い屋事件以降、ここには特殊な患者が何人も運び込まれている。
血を奪われた者。
急に老け込んだ者。
特定の記憶だけを失った者。
眠り続ける者。
家族の名前を書けなくなった者。
願いの代償が、身体症状と記憶障害の両方になって現れた者たち。
病院は、警察に協力的だった。怪異事件といっても、患者の身体は現実に衰弱し、血液の数値は変わり、記憶の欠落は家族の前で起こる。医療側が見なければならないものは、たしかにそこにあった。
榊は受付で手続きを済ませながら、低い声で言った。
「白瀬看護師は、願い屋関連の被害者対応でも評判がいい」
クラウディオは、その横で院内案内図を眺めていた。正確には、案内図ではなく、その下に置かれていた「願い屋関連相談・連携窓口」の小さな掲示を見ている。
「怪異の残骸にまで受付窓口ができるとはな。人間社会は何でも部署にする」
「必要だからだ」
「必要なものほど、誰かが便利に使う」
榊が眉を寄せる。
「またそれか」
「またそれだ。人類が懲りないからな」
澪奈は端末を確認しながら歩いている。
「相談記録でも、彼女に助けられたという家族の声が複数あります。説明が丁寧で、患者さんへの対応も落ち着いているそうです」
ルストは、白い廊下の奥を見た。
病室の前で、不安そうな家族が椅子に座っている。ナースステーションでは、看護師たちが静かに動いていた。誰かが泣きそうな顔で質問し、別の看護師がゆっくり頷きながら答えている。
怪異事件の現場とは違う。
ここには、切迫した怒鳴り声も、血の飛沫も、異界化した棚もない。
それでも、願い屋の傷跡は白い壁の中に入り込んでいた。
ルストは言った。
「支える者は必要だ」
クラウディオが横目で見る。
「だからといって、支える者を疑わなくていい理由にはならない」
「分かっている」
「本当に?」
「お前ほどではない」
「それは褒め言葉だな。貴様にもようやく良心が」
「褒めていない」
榊がうんざりしたように振り返る。
「病院でやるな」
「では葬儀場ならいいのか」
「場所の問題だけじゃない」
クラウディオは肩を竦めた。
その時、ナースステーションの向こうで、一人の看護師が高齢患者の毛布を整えた。
自然な動きだった。
手元に無駄がない。毛布を直し、患者の肩口を冷やさないように押さえ、同時にベッド脇の家族へ小さく声をかける。相手が頷くまで急かさず、目線を合わせて話していた。
その看護師が、こちらへ気づいて歩いてくる。
白瀬真帆だった。
年齢は三十前後に見える。黒髪を低くまとめ、清潔な制服を身につけている。顔立ちは派手ではないが、柔らかく整っていた。目元には疲労が少しある。それでも、笑みは崩れない。声を出す前から、相手を安心させる種類の空気をまとっている。
彼女は、榊へ会釈した。
「お待ちしておりました」
そして、クラウディオたちにも丁寧に頭を下げる。
「白瀬真帆です。リュシアン様の妹さんを担当しています」
声は柔らかかった。
病院の廊下に馴染む、穏やかな声。
榊が頷く。
「急にすみません。状況確認をしたい」
「はい。主治医から共有許可の範囲については確認しています。患者さんの状態に配慮しながら、ご説明します」
真帆は視線を澪奈へ移した。
「記録の確認も必要でしたら、あとで該当部分をお見せします。ただ、患者さんの負担にならない範囲でお願いいたします」
澪奈が丁寧に返す。
「ありがとうございます」
ルストは、真帆の言葉を聞きながら、ほんの少し表情を緩めた。
落ち着いている。
説明が過不足なく、患者への配慮もある。
願い屋事件に関わる者たちの中で、珍しくまともな人間側の支えに見えた。
クラウディオだけが、真帆の笑顔ではなく、彼女の持つファイルを見ていた。
薄いブルーのファイル。
背表紙には番号が振られている。
患者名ではなく、分類番号が先に書かれていた。
◇
病室へ向かう途中、真帆は廊下の椅子に座る若い母親へ声をかけた。
「水分は取れていますか。少し顔色が悪いので、無理をなさらないでくださいね」
母親は泣き疲れた顔で頷く。
真帆は自動販売機の場所を短く案内し、近くにいた別の看護師へ目配せした。動きに無理がない。誰に何を任せるか、自然に分かっている。
クラウディオはその様子を横目で見た。
「手慣れているな」
ルストは言う。
「悪いことではない」
「手慣れた善意ほど、棚に並ぶと綺麗だ」
「また棚か」
「最近、棚にろくなものがない」
ルストは言い返さなかった。
否定できないのが腹立たしい。人間も怪異も、何かを棚に並べすぎる。文明の誤用である。
真帆は、病室の前で足を止めた。
「妹さんは今、少し落ち着いています。ただ、記憶の混乱が出やすい状態です。大きな声や、一度に複数の質問は避けてください」
榊が頷く。
「分かりました」
「リュシアン様は、今日は少し遅れていらっしゃるそうです。ご本人も昨夜あまり眠れていないと聞いています」
その名が出た瞬間、クラウディオの口元が薄く歪んだ。
「眠れない貴族令息は病院の予定も優雅に遅れるのか」
榊が小声で言う。
「その言い方やめろ」
「かなり抑えた」
ルストはクラウディオを見た。
第108話のラスト。
リュシアンはルストにだけ言った。
今夜、一人では眠れない。
その言葉に、クラウディオは笑った。
だが、目だけは笑っていなかった。
その冷たさは、今も残っている。
真帆は二人の空気に気づいているのかいないのか、穏やかなまま病室の扉を開けた。
◇
病室は個室だった。
白いシーツ。
薄いカーテン。
ベッド脇のモニター。
小さな花瓶。
窓辺に置かれた本。
空調の音。
眠る患者の弱い息。
そこに、リュシアンの妹、エリーズ・ヴェルネが横たわっていた。
彼女は淡い金髪を枕の上に散らし、薄い顔色で眠っている。兄とよく似た美しい顔立ちだが、頬には血の気がなく、指先は細く冷たそうだった。まつげが震え、夢の中でも何かを探しているように見える。
真帆はベッド脇へ静かに近づき、声を落とした。
「エリーズさん。少し確認に来ました。起きられますか」
エリーズの瞼が、ゆっくり開く。
焦点の合わない薄青の瞳が、天井を見て、真帆を見て、それから部屋にいる者たちへ移った。
「……ここは」
「病院です。白瀬です。分かりますか」
エリーズは真帆の顔を見て、小さく頷いた。
「白瀬、さん」
「はい。大丈夫ですよ」
その声のかけ方は、確かに優しかった。
急かさず、正解を押しつけず、患者が自分で分かる範囲を待っている。ルストはその様子を見て、真帆への警戒を少し緩めた。
真帆は彼らを振り返る。
「長くは話せません。記憶に負荷がかかると、混乱が強く出ます」
澪奈が小さく頷いた。
「状態の説明をお願いします」
真帆はファイルを開いた。
「記憶障害は、部分的です」
淡々としているが、冷たくはない。
「ご家族に関する記憶と、願いに関わる記憶が特に不安定です。リュシアン様を兄と認識できる時もありますが、直後に分からなくなることがあります。ヴェルネ家の名前を忘れることもあれば、逆に『家を戻さないで』という言葉だけを繰り返すこともあります」
クラウディオの目がわずかに動く。
「戻さないで?」
真帆は頷く。
「はい。『戻したい』ではなく、『戻さないで』です。言葉の意味を本人が説明できないため、現時点では反応として記録しています」
エリーズが、ベッドの上で小さく指を動かした。
「家……」
ルストが静かに問う。
「家を覚えているのか」
エリーズは、ルストを見た。
知らない相手を見る目だった。
「家は……戻ったの?」
真帆がすぐに穏やかに言う。
「今は考えなくて大丈夫です」
「戻さないで」
エリーズの声は、細く掠れていた。
「戻すと、みんな……」
そこまで言って、彼女は口を閉じる。
息が乱れかけた。
真帆はすぐにベッド脇へ寄り、優しく声をかける。
「大丈夫です。今は休みましょう。ここは安全です」
エリーズは真帆の声で少し落ち着いた。
リュシアンの名には混乱する。
真帆の声には落ち着く。
その事実は、患者への丁寧なケアの結果にも見えた。
同時に、少し整いすぎていた。
真帆はファイルへ視線を戻す。
「体力低下も急激です」
榊が聞く。
「どの程度ですか」
「日によって変動がありますが、短い会話でも疲労が強く出ます。睡眠時間も不安定です。眠れていても回復した感じが乏しい。手足の冷えも強いです」
澪奈がメモを取る。
真帆は続けた。
「血液の数値にも、通常の疾患では説明しづらい変動があります」
ルストが問う。
「症状は願い屋の代償と合うのか」
真帆は迷わず答えた。
「はい。少なくとも、私たちが確認している被害例とは一致点が多いです。願い屋の代償被害として確認されている症状と、複数点で一致します」
説明は丁寧だった。
専門的すぎず、しかし曖昧でもない。
怪異事件の被害者を見慣れた医療者の言葉だった。
ルストは小さく頷く。
「分かった」
その横で、クラウディオがわずかに顔を上げた。
彼の視線が、ベッド脇の棚へ向かう。
処置台。
保管ケース。
真帆の持つファイル。
病室の隅に置かれた小さな冷蔵庫。
消毒液の匂い。
清潔な布の匂い。
人の体温。
眠る患者の弱い息。
その奥に、別の匂いがあった。
古い血を閉じ込めた匂い。
《宵待堂》の赤い小瓶。
ヴェルネ家の地下にあった空瓶。
その底に残っていた赤黒い痕。
それらと似た、保存された血の匂い。
ルストが低く問う。
「何かあるのか」
クラウディオは病室の隅を見たまま答えた。
「消毒液の奥に、別の匂いがある」
「血か」
「保存された血だ」
真帆が、静かに視線を上げた。
驚きはあった。
だが、慌てはしない。
榊も澪奈も、真帆を見る。
真帆は落ち着いた声で説明した。
「被害者の血液は、記録のために一部保管しています」
医療の言葉としては、自然だった。
「願い屋の代償は、通常の疾患とは異なる反応を示すことがあります。症状の変化を追うためです。患者さんを守るためにも、記録は必要です」
榊は眉を寄せながらも、すぐに否定はしなかった。
澪奈も端末へ視線を落とし、病院から事前提供された資料を確認する。
「願い屋関連患者の経過観察記録……はい、検体管理の項目はあります。警察との連携用にも記録が必要とされていますね」
真帆は頷いた。
「患者さんの状態を把握するためのものです。もちろん、医師の管理下で扱っています」
ルストは、その説明に納得しかけた。
患者を守るため。
記録するため。
変化を追うため。
怪異事件の中で、普通の医療だけでは説明できない症状を、どうにか把握しようとしている。
それは必要なことだ。
だが、クラウディオは納得しなかった。
彼が引っかかったのは、匂いだけではない。
言葉だった。
保管。
記録。
分類。
経過観察。
反応の保存。
医療の言葉として成立する。
同時に、《宵待堂》の帳簿にも、東都認知生命研究センターの貸与記録にも似ている。
クラウディオは、真帆を見た。
「善意の棚卸しとは、ずいぶん現代的だな」
病室の空気が、少し冷えた。
榊が低く言う。
「クラウディオ」
だが、真帆は怒らなかった。
穏やかに、ほんの少しだけ眉を下げる。
「棚卸しではありません。患者さんの記録です」
クラウディオは微笑んだ。
「記録と棚卸しは、書く側の態度が違うだけで、形はよく似る」
「患者さんを品物として扱っているわけではありません」
「そうだろうな。棚に並べる者は、たいてい自分の手元だけは清潔だと思っている」
真帆の笑みは崩れない。
しかし、ほんの少しだけ、目の奥が静かになった。
澪奈はその変化を見た。
クラウディオも見た。
ルストは、クラウディオの言い方に眉を寄せながらも、止めなかった。
匂いはある。
記録の言葉にも、違和感はある。
ただし、責めるにはまだ足りない。
責めてはいない。覚えているだけだ。
クラウディオなら、そう言うだろう。
◇
病室を出ると、リュシアンが廊下の向こうから歩いてきた。
昨日より顔色が悪い。
眠れなかったという言葉が、見た目には合っていた。淡い金髪は整えられているが、目元には薄い疲労があり、黒い手袋の指は胸元で絡まっている。
真帆はリュシアンへ柔らかく声をかけた。
「リュシアン様。今日は妹さん、少し落ち着いています。ただ、長い面会は避けた方がいいと思います」
リュシアンは、ほっとしたように息をついた。
「ありがとうございます、白瀬さん。あなたがいてくださって、本当に助かっています」
「私はできることをしているだけです」
そのやり取りは自然だった。
家族と看護師。
不安な兄と、患者を支える医療者。
だが、クラウディオは二人を見ていた。
リュシアンが言葉に詰まりそうになる前に、真帆が補う。
真帆が妹の容態を説明すると、リュシアンが安心したように息をつく。
証言と看護記録が、互いの足りない部分を埋め合う。
それ自体はおかしくない。
家族から聞いた話が看護記録に反映され、看護師の説明を家族が頼りにするのは自然だ。
自然だからこそ、やりやすい。
「よく補い合うな。証言と看護記録の仲がいい」
クラウディオが言った。
リュシアンの肩が震える。
真帆は穏やかに返した。
「患者さんのご家族から聞いた内容も、記録には反映しています」
「便利な循環だ」
「事実確認のためです」
「事実は循環させると、だんだん丸くなる。角が取れて都合がよくなる」
榊が割って入った。
「今日は妹さんの状態確認が目的だ。続きは記録を精査してからにする」
クラウディオはそれ以上言わなかった。
ただ、真帆の持つファイルの背表紙を見た。
患者名より先にある番号。
分類。
反応。
保存。
その言葉たちを、彼は覚えた。
ルストが低く言う。
「白瀬は、患者を見ている」
クラウディオは横目で返す。
「棚も見ている」
「証拠はまだない」
「匂いはある」
「匂いだけで責めるな」
「責めていない。覚えているだけだ」
ルストは黙った。
その沈黙は、否定ではなかった。
クラウディオは、リュシアンと真帆を見た。
泣く者。
善意の者。
守られる者。
支える者。
どちらも、人間は疑いづらい顔をしている。
だからこそ、危うい。
◇
聞き取りを終え、榊と澪奈は病院の記録提供について事務手続きを進めることになった。
真帆は廊下で、クラウディオたちを見送った。
「患者さんもご家族も、不安が強い状態です。確認が必要なのは理解していますが、できるだけ負担が少ない形でお願いします」
榊は頷く。
「協力に感謝します」
「こちらこそ。被害に遭われた方を守るためなら、できる限り協力します」
その言葉は、清潔だった。
善意の形をしていた。
真帆はその後、廊下の椅子に座っていた家族へ声をかけた。泣いている女性に椅子を勧め、使い捨てのカップに水を注ぎ、必要な書類の場所を案内する。
どこまでも、良い看護師に見えた。
少なくとも、その場にいる家族たちにとっては。
クラウディオは、廊下の曲がり角で一度振り返った。
真帆は、患者家族の肩にそっと手を添えている。
優しく。
穏やかに。
まるで、善意そのもののように。
クラウディオは小さく言った。
「評判のいい人間ほど、棚に飾られる顔が上手い」
ルストが横に並ぶ。
「本物の善意もある」
「知っている」
「なら」
「本物だから利用されることもある」
ルストは黙った。
それは、否定しづらい言葉だった。
◇
処置室の扉が閉まった。
廊下の声が遠ざかる。
白瀬真帆は、誰もいない部屋で手を洗い、ペーパータオルで丁寧に水気を拭き取った。表情は変わらない。病室で患者に向けていた穏やかな顔のまま、処置台の横にある棚の鍵を開ける。
棚の中には、ファイルが並んでいた。
患者名の書かれた通常のファイルとは別に、薄い封筒がいくつも重ねられている。
封筒の表には、名前ではなく番号が書かれていた。
G-17。
M-04。
K-22。
分類名は小さく、端にだけ記されている。
記憶反応。
家族記憶。
願望残滓。
血液反応。
真帆は、一枚の紙片を取り出した。
そこには、エリーズ・ヴェルネの名前は書かれていない。
代わりに、短い番号と、いくつかの項目が並んでいた。
家族記憶反応。
兄識別:不安定。
願望語反応:「戻す」「家」。
血液反応:保存済。
真帆は、その紙片を静かに見つめた。
誰もいない処置室には、消毒液の匂いがある。
その奥に、赤い小瓶の保存臭とよく似た匂いが、ほんのわずかに残っていた。
真帆は紙片を折らずに封筒へ入れる。
封筒の口を閉じる手つきは、慣れていた。
白瀬真帆は、誰もいない処置室で、患者の記憶反応を記録した紙片を封筒に入れた。
封筒の表には、患者の名前ではなく、短い番号だけが書かれていた。




