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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第8部 【被害者を装う者たち】

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第110話 救う顔をした手



 白瀬真帆は、本当に優秀な看護師だった。


 それは、誰かが彼女を守るために作った評判ではない。病棟にいる者なら、誰でも一度は見ている。


 夜勤明けの朝、顔色の悪い患者へ穏やかに声をかける姿。


 食事をほとんど残した老人の前で、無理に食べさせようとせず、何が喉を通りにくいのか丁寧に聞く姿。


 泣いている家族の隣へ、押しつけがましくない距離で腰を下ろす姿。


 忙しい時間帯でも声を荒げず、患者の名前を間違えず、いつもと違う息の浅さや、眠る前の指先の震えに気づく姿。


 誰が水を怖がるか。


 誰が夜になると家族の名前を呼ぶか。


 誰が「帰りたい」と言いながら、本当は帰る場所を忘れているのか。


 真帆は、そういうことをよく覚えていた。


 願い屋事件の被害者が入院するようになってから、病棟の空気は変わった。普通の病気だけでは説明できない症状が増え、家族は混乱し、患者本人も、自分が何を失ったのか分からないまま怯えた。


 記憶が抜ける。


 血が足りなくなる。


 急に老け込む。


 大切な人の名前だけを忘れる。


 眠っても回復しない。


 泣きながら、自分が何を願ったのかも思い出せない。


 そういう患者たちに、真帆は寄り添った。


「大丈夫ですよ。今、分かるところからでいいんです」


 何度も、そう言った。


 家族が泣けば、責めなかった。患者が錯乱して点滴台を倒しても、怒鳴らなかった。医師や警察に説明する時も、過度に感情的にならず、必要なことを過不足なく伝えた。


 だから家族たちは、彼女に感謝した。


「白瀬さんがいてくれて、本当に助かりました」


「真帆さんは、患者さんのことをよく見ている」


「あの人、天使みたいな人よね」


 その言葉を聞いても、真帆は誇らしげには笑わなかった。


 ただ、少し困ったように微笑んで、首を横に振る。


「私は、できることをしているだけです」


 その声は本当に穏やかだった。


 嘘ではなかった。


 真帆は、本気で患者を救いたいと思っていた。


 そこが、厄介だった。


     ◇


 真帆がまだ新人だった頃、病棟に一人の女性患者がいた。


 長く苦しんだ人だった。


 病名や治療の細かな経過を、真帆はもう誰かに説明することはない。必要なのはそこではない。ただ、その女性が毎晩同じ記憶に苦しんでいたことだけは、今も覚えている。


 火事。


 助けられなかった子ども。


 自分だけが生き残った夜。


 女性は眠るたびに、その夜へ戻った。点滴の管を掴み、喉が裂けるような声で謝り続けた。夫は病室の外で泣き、母親は「もう忘れさせてあげてください」と、誰にともなく言った。


 忘れられたら楽なのに。


 それを聞いた時、真帆は何も言えなかった。


 医療は痛みを和らげる。


 熱を下げる。


 出血を止める。


 眠れるようにする。


 けれど、その人の中に焼きついた記憶までは、消してやれない。


 その女性はある夜、真帆の手を握って言った。


「この痛みだけ消してほしい」


 真帆は、その手を握り返すことしかできなかった。


 その後も、似たような場面を何度も見た。


 事故で家族を失った人。


 自分の願いのせいで誰かが倒れたことに耐えられない人。


 恋人の名前を思い出すたびに過呼吸になる人。


 子どもの記憶だけを失って、泣いている理由さえ分からなくなった母親。


 願い屋事件が起きてから、その数は増えた。


 奇妙なことに、記憶の一部が薄れた患者の中には、少し眠れるようになる者がいた。


 忘れたことで、呼吸が落ち着く。


 悲しみの輪郭が曖昧になったことで、食事を取れる。


 喪失の中心だけが抜け落ちたことで、夜に叫ばなくなる。


 それを見て、真帆は思った。


 苦しむくらいなら、少し忘れた方がいい。


 残された家族が壊れるくらいなら、記憶を薄めた方がいい。


 痛みが人を壊すなら、その痛みを取り除くのは救いではないのか。


 全部を抱えさせることだけが、本当に正しいのだろうか。


 本人が耐えられない記憶なら、少しだけ切り取ってもいいのではないか。


 悲しみが強すぎるなら、感情を弱めてもいいのではないか。


 それで眠れるなら。


 それで生きられるなら。


 それは、悪ではないのではないか。


 願い屋の被害者たちを看る中で、真帆はその考えを少しずつ強くしていった。


 最初は、記録だけだった。


 患者がどの言葉に反応するか。


 どの記憶で混乱するか。


 どの家族の名前で泣くか。


 血液反応と記憶の混乱が、どの時点で重なるか。


 それを紙片に書き、番号で整理した。


 名前ではなく番号にするのは、患者を守るためだと自分に言い聞かせた。


 やがて、赤い小瓶と同じ保存臭のするものが、病院の片隅に入り込んだ。


 記憶反応。


 感情反応。


 願望残滓。


 血液反応。


 それらは、灰島の帳簿に似た分類名と、真帆の丁寧な文字で封筒に収められていった。


 真帆は、それを奪っているつもりはなかった。


 苦痛を少し預かっているだけ。


 患者が眠れるように。


 家族が壊れないように。


 誰かが抱えきれない痛みを、少しだけ遠ざけるために。


 それが、彼女の中の言葉だった。


     ◇


 翌日、霧杜市立総合医療センターの一室で、榊と澪奈は提供された記録を確認していた。


 病院側が用意した会議室は小さく、窓の外には白い中庭が見える。机の上にはファイルが積まれていた。リュシアンの妹、エリーズ・ヴェルネの資料。願い屋関連患者の経過記録。血液反応の概要。記憶障害の分類表。


 白瀬真帆は、いつもの穏やかな顔で説明している。


「願い屋の被害に関わる患者さんは、身体症状だけでなく、記憶や感情の反応にも変動があります。通常の疾患としては整理しづらい部分があるため、反応ごとに記録しています」


 澪奈は資料をめくった。


「この分類項目、以前見た帳簿の項目と少し似ています」


 真帆は穏やかに頷く。


「願い屋被害の症状は特殊ですから、どうしても分類が似るのかもしれません」


 榊が慎重に問う。


「白瀬さん。ここにある『記憶反応』というのは、患者本人への聞き取りを記録したものですか」


「主にそうです。ご家族から聞いた内容も含みます。患者さんによっては、言葉にできない反応もありますので」


 クラウディオは、会議室の隅で資料を見ていた。


 彼が手にしている封筒には、患者名がない。


 番号だけが書かれている。


 G-17。


 K-22。


 M-04。


 その横に、小さく分類名。


 家族記憶。


 願望残滓。


 苦痛軽減後の反応。


 記憶薄化後の安定。


 クラウディオの赤い目が、細くなる。


「患者の名前がないな」


 真帆は自然に答えた。


「個人情報保護のためです」


「人間を番号にする理由は、いつも丁寧だな」


 真帆は一瞬だけ黙った。


 すぐに柔らかい笑みを戻す。


「患者さんを守るためです」


 その言葉に、クラウディオの視線が上がる。


「守る」


「はい。名前で呼ばれることで、かえって混乱する患者さんもいます。番号管理は、医療情報を整理するためにも必要です」


「整理。分類。保管。記録。実に清潔な言葉だ」


 榊が低く言う。


「クラウディオ、まだ決めつけるな」


「決めつけていない。読んでいるだけだ」


 ルストは真帆を見ていた。


 彼女は落ち着いている。


 患者を大事にしてきたことも、家族を支えてきたことも、嘘には見えない。病棟で彼女に礼を言う家族の声も、本物だった。エリーズが真帆の声で落ち着いたことも事実だ。


 だから、ルストはすぐに切り捨てられなかった。


 ただ、クラウディオが感じている嫌悪も分かる。


 善意の形をした記録。


 救済の言葉をまとった分類。


 患者を守ると言いながら、患者の内側を番号にしていく手つき。


 それは、どこか《宵待堂》の棚に似ていた。


 ルストが静かに言う。


「善意があることは分かる」


 クラウディオは即座に返した。


「善意は免罪符ではない」


 真帆の目が、ほんの少しだけ揺れた。


 ルストは続ける。


「彼女が患者を見てきたことも嘘ではない」


 クラウディオは封筒を机に置いた。


「見ていた。だから、どこを切れば静かになるか知っていた」


 その言葉に、会議室の空気が冷えた。


 真帆の笑みが、初めて薄くなった。


     ◇


 真帆は、しばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと口を開いた。


「苦しみ続けることが、その人らしさなのでしょうか」


 声は穏やかだった。


 怒りではない。


 むしろ、静かな疑問のようだった。


「忘れたことで、ようやく眠れる人もいるんです」


 ルストは黙って聞いた。


 真帆は続ける。


「願い屋の被害者の方は、ただ身体を傷つけられただけではありません。記憶や感情の一部が歪んで、そこに何度も戻ってしまう方がいます。泣き続ける家族もいます。残されたご家族が壊れていくのを、ただ見ていることが正しいのでしょうか」


 榊は険しい顔をしている。


 澪奈は、真帆の言葉を記録していた。


 真帆の手は膝の上で静かに重ねられている。手指は震えていない。けれど、声にはわずかな熱があった。


「苦しむくらいなら、少し忘れた方がいい」


 その言葉は、彼女の中で長く育てられてきたものだった。


「残された家族が壊れるくらいなら、記憶を薄めた方がいい」


 クラウディオの目が、はっきり冷えた。


 真帆は彼を見る。


「全部を抱えさせることだけが、正しいのでしょうか。耐えられない痛みを、少し遠ざけることが、そんなに罪ですか」


「誰が耐えられないと決めた」


 クラウディオの声は低かった。


「本人か、貴様か」


 真帆は黙る。


 クラウディオは一歩、机の前へ出た。


「記憶は症状ではない。勝手に切除するな」


 真帆の顔がわずかに強張る。


「私は、奪っているつもりはありません」


「では何だ」


「預かっているだけです」


 その瞬間、クラウディオは笑った。


 冷たく。


 赤い目だけが、まったく笑っていない。


「預かる、か。返す気のない盗人ほど、言葉を柔らかくする」


 真帆の声が少しだけ揺れた。


「患者さんを守るためです」


「本人の痛みを勝手に切り取って、救ったつもりか。医療ではなく窃盗だ」


 会議室に、沈黙が落ちた。


 クラウディオは続ける。


「痛みは本人のものだ。貴様の管理物ではない」


「でも、その痛みで壊れてしまう人もいます」


「壊れることを恐れて、本人の輪郭を削るな」


「輪郭……」


「記憶も感情も、都合の悪い突起ではない。勝手に削って滑らかにすれば、美しくなると思ったか」


 真帆は唇を結ぶ。


 怒りではない。


 傷ついたようにも見える。


 それもまた、本物かもしれなかった。


 ルストは、その顔を見ていた。


 真帆の善意は嘘ではない。


 彼女は本当に患者を思っている。


 夜勤で疲れた患者の手を握ることも、家族の不安を聞くことも、エリーズを落ち着かせることも、すべて偽物ではない。


 だが、善意が本物であることと、行為が許されることは別だった。


 ルストは静かに言った。


「真帆。患者本人の同意は」


 真帆は答えない。


 その沈黙が、答えだった。


 榊が低く息を吐く。


「白瀬さん。あなたは何をどこへ渡した」


 真帆はゆっくり顔を上げた。


「渡した、という言い方は……」


「では、流したか」


 クラウディオが言う。


「封筒の紙質が灰島の帳簿と似ている。記号も《宵待堂》の分類に近い。処置室には赤い小瓶と同じ保存臭がある。善意はよく流通しているな」


 澪奈が端末を見ながら言った。


「この封筒の記号、灰島の帳簿にあった分類と似ています。完全一致ではありませんが、体系が近いです」


 榊の顔が険しくなる。


「白瀬さんが流していたってことか」


 真帆は、すぐには答えなかった。


 やがて、小さく言う。


「私は、患者さんの苦痛を減らしたかっただけです」


「その減らした分はどこへ行った」


 クラウディオが問う。


 真帆は目を伏せる。


「保管されます」


「誰が」


「必要な場所で」


「灰島か」


 真帆の指が、わずかに動いた。


 それ以上は言わなかった。


 クラウディオは、その沈黙を見た。


 灰島のルートへ流れていた。


 少なくとも、その一部は。


 ただし、真帆が全貌を知っていたかはまだ分からない。


 灰島がどう使っていたか。


 東都認知生命研究センターへどう流れたか。


 リュシアンが何を依頼したか。


 エリーズの症状へどこまで関わったか。


 まだ、すべては見えない。


 だが、善意の顔をした手が、患者の内側へ触れていたことだけは確かだった。


     ◇


 会議室を出た後、病棟は夕方の色に沈んでいた。


 窓の外では、空が淡い灰色から群青へ変わり始めている。ナースステーションの照明が少し強く見え、廊下の白さが夜へ向けて冷えていく。


 真帆は、何事もなかったように病室へ戻った。


 エリーズがベッドの上で小さく呻いている。


 真帆はそばへ寄り、手を握った。


「大丈夫ですよ。ここにいます」


 エリーズは真帆の声で落ち着いた。


 細い指が、真帆の手を弱く握り返す。


「白瀬さん……」


「はい」


「戻さないで」


 真帆は一瞬だけ目を伏せた。


「大丈夫です。今は、考えなくていいんです」


 その声は、優しかった。


 あまりにも優しかった。


 廊下では、別の患者の家族が真帆へ頭を下げていた。


「白瀬さんは、本当に天使みたいな人です」


 真帆は、いつものように困ったように笑う。


「そんなことはありません。できることをしているだけです」


 クラウディオは、少し離れた場所からその様子を見ていた。


 ルストが隣に立つ。


「彼女は、本気で救おうとしている」


 クラウディオは答えた。


「だから厄介だ」


「悪意だけなら、もっと簡単だった」


「善意の手は、切られるまで温かい」


 ルストは、病室の中の真帆を見た。


 エリーズの手を握る彼女は、どう見ても優しい看護師だった。


 患者を思い、家族を支え、眠れない者に寄り添う人間だった。


 だが、その手は、誰かの記憶を預かると言った。


 痛みを薄めると言った。


 本人の同意を答えられなかった。


 善意がある。


 支配もある。


 その二つは、同じ手の中に収まっていた。


     ◇


 夜、病院の裏口は人目が少なかった。


 通用口の上にあるライトが、薄い黄色の円を地面に落としている。搬入口の脇には台車が二台置かれ、空の段ボール箱が積まれていた。正面玄関の明るさとは違い、裏口の空気は少し湿っている。


 白瀬真帆は、病棟の制服の上に薄いカーディガンを羽織っていた。


 手には、封筒がある。


 患者名ではなく、短い番号だけが書かれた封筒。


 真帆は裏口の影に立ち、誰かを待っていた。


 やがて、黒い車が少し離れた場所に停まる。


 降りてきたのは、リュシアン・ヴェルネだった。


 昼間、ルストの前で見せていた壊れそうな令息の顔ではない。疲れてはいる。だが、あの泣き出しそうな弱さは少し薄れていた。薄青紫の瞳は、夜の中で静かに真帆を見る。


 真帆が先に口を開いた。


「今日は、少し危なかったです」


 リュシアンは静かに言う。


「クラウディオ・ルジェリウスですね」


「彼は、匂いに気づいていました」


 リュシアンの指が、手袋の手首を押さえる。


「ルスト様は」


 真帆は、封筒を胸元に抱えたまま答えた。


「まだ、あなたを疑いきれていません」


 リュシアンは小さく息をついた。


「なら、まだ大丈夫です」


 真帆の表情は、病棟で見せる穏やかな看護師の顔より、少しだけ硬かった。


「封筒は、いつもの場所へ」


「妹の記憶は」


 真帆は一瞬だけ黙る。


「薄めています。壊れない程度に」


 リュシアンは目を伏せた。


 その表情が、安堵なのか、恐怖なのか、罪悪感なのかは分からない。


 病棟で初めて会ったはずの看護師と令息は、裏口の暗がりで、初対面の距離ではない声で話していた。




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