第110話 救う顔をした手
白瀬真帆は、本当に優秀な看護師だった。
それは、誰かが彼女を守るために作った評判ではない。病棟にいる者なら、誰でも一度は見ている。
夜勤明けの朝、顔色の悪い患者へ穏やかに声をかける姿。
食事をほとんど残した老人の前で、無理に食べさせようとせず、何が喉を通りにくいのか丁寧に聞く姿。
泣いている家族の隣へ、押しつけがましくない距離で腰を下ろす姿。
忙しい時間帯でも声を荒げず、患者の名前を間違えず、いつもと違う息の浅さや、眠る前の指先の震えに気づく姿。
誰が水を怖がるか。
誰が夜になると家族の名前を呼ぶか。
誰が「帰りたい」と言いながら、本当は帰る場所を忘れているのか。
真帆は、そういうことをよく覚えていた。
願い屋事件の被害者が入院するようになってから、病棟の空気は変わった。普通の病気だけでは説明できない症状が増え、家族は混乱し、患者本人も、自分が何を失ったのか分からないまま怯えた。
記憶が抜ける。
血が足りなくなる。
急に老け込む。
大切な人の名前だけを忘れる。
眠っても回復しない。
泣きながら、自分が何を願ったのかも思い出せない。
そういう患者たちに、真帆は寄り添った。
「大丈夫ですよ。今、分かるところからでいいんです」
何度も、そう言った。
家族が泣けば、責めなかった。患者が錯乱して点滴台を倒しても、怒鳴らなかった。医師や警察に説明する時も、過度に感情的にならず、必要なことを過不足なく伝えた。
だから家族たちは、彼女に感謝した。
「白瀬さんがいてくれて、本当に助かりました」
「真帆さんは、患者さんのことをよく見ている」
「あの人、天使みたいな人よね」
その言葉を聞いても、真帆は誇らしげには笑わなかった。
ただ、少し困ったように微笑んで、首を横に振る。
「私は、できることをしているだけです」
その声は本当に穏やかだった。
嘘ではなかった。
真帆は、本気で患者を救いたいと思っていた。
そこが、厄介だった。
◇
真帆がまだ新人だった頃、病棟に一人の女性患者がいた。
長く苦しんだ人だった。
病名や治療の細かな経過を、真帆はもう誰かに説明することはない。必要なのはそこではない。ただ、その女性が毎晩同じ記憶に苦しんでいたことだけは、今も覚えている。
火事。
助けられなかった子ども。
自分だけが生き残った夜。
女性は眠るたびに、その夜へ戻った。点滴の管を掴み、喉が裂けるような声で謝り続けた。夫は病室の外で泣き、母親は「もう忘れさせてあげてください」と、誰にともなく言った。
忘れられたら楽なのに。
それを聞いた時、真帆は何も言えなかった。
医療は痛みを和らげる。
熱を下げる。
出血を止める。
眠れるようにする。
けれど、その人の中に焼きついた記憶までは、消してやれない。
その女性はある夜、真帆の手を握って言った。
「この痛みだけ消してほしい」
真帆は、その手を握り返すことしかできなかった。
その後も、似たような場面を何度も見た。
事故で家族を失った人。
自分の願いのせいで誰かが倒れたことに耐えられない人。
恋人の名前を思い出すたびに過呼吸になる人。
子どもの記憶だけを失って、泣いている理由さえ分からなくなった母親。
願い屋事件が起きてから、その数は増えた。
奇妙なことに、記憶の一部が薄れた患者の中には、少し眠れるようになる者がいた。
忘れたことで、呼吸が落ち着く。
悲しみの輪郭が曖昧になったことで、食事を取れる。
喪失の中心だけが抜け落ちたことで、夜に叫ばなくなる。
それを見て、真帆は思った。
苦しむくらいなら、少し忘れた方がいい。
残された家族が壊れるくらいなら、記憶を薄めた方がいい。
痛みが人を壊すなら、その痛みを取り除くのは救いではないのか。
全部を抱えさせることだけが、本当に正しいのだろうか。
本人が耐えられない記憶なら、少しだけ切り取ってもいいのではないか。
悲しみが強すぎるなら、感情を弱めてもいいのではないか。
それで眠れるなら。
それで生きられるなら。
それは、悪ではないのではないか。
願い屋の被害者たちを看る中で、真帆はその考えを少しずつ強くしていった。
最初は、記録だけだった。
患者がどの言葉に反応するか。
どの記憶で混乱するか。
どの家族の名前で泣くか。
血液反応と記憶の混乱が、どの時点で重なるか。
それを紙片に書き、番号で整理した。
名前ではなく番号にするのは、患者を守るためだと自分に言い聞かせた。
やがて、赤い小瓶と同じ保存臭のするものが、病院の片隅に入り込んだ。
記憶反応。
感情反応。
願望残滓。
血液反応。
それらは、灰島の帳簿に似た分類名と、真帆の丁寧な文字で封筒に収められていった。
真帆は、それを奪っているつもりはなかった。
苦痛を少し預かっているだけ。
患者が眠れるように。
家族が壊れないように。
誰かが抱えきれない痛みを、少しだけ遠ざけるために。
それが、彼女の中の言葉だった。
◇
翌日、霧杜市立総合医療センターの一室で、榊と澪奈は提供された記録を確認していた。
病院側が用意した会議室は小さく、窓の外には白い中庭が見える。机の上にはファイルが積まれていた。リュシアンの妹、エリーズ・ヴェルネの資料。願い屋関連患者の経過記録。血液反応の概要。記憶障害の分類表。
白瀬真帆は、いつもの穏やかな顔で説明している。
「願い屋の被害に関わる患者さんは、身体症状だけでなく、記憶や感情の反応にも変動があります。通常の疾患としては整理しづらい部分があるため、反応ごとに記録しています」
澪奈は資料をめくった。
「この分類項目、以前見た帳簿の項目と少し似ています」
真帆は穏やかに頷く。
「願い屋被害の症状は特殊ですから、どうしても分類が似るのかもしれません」
榊が慎重に問う。
「白瀬さん。ここにある『記憶反応』というのは、患者本人への聞き取りを記録したものですか」
「主にそうです。ご家族から聞いた内容も含みます。患者さんによっては、言葉にできない反応もありますので」
クラウディオは、会議室の隅で資料を見ていた。
彼が手にしている封筒には、患者名がない。
番号だけが書かれている。
G-17。
K-22。
M-04。
その横に、小さく分類名。
家族記憶。
願望残滓。
苦痛軽減後の反応。
記憶薄化後の安定。
クラウディオの赤い目が、細くなる。
「患者の名前がないな」
真帆は自然に答えた。
「個人情報保護のためです」
「人間を番号にする理由は、いつも丁寧だな」
真帆は一瞬だけ黙った。
すぐに柔らかい笑みを戻す。
「患者さんを守るためです」
その言葉に、クラウディオの視線が上がる。
「守る」
「はい。名前で呼ばれることで、かえって混乱する患者さんもいます。番号管理は、医療情報を整理するためにも必要です」
「整理。分類。保管。記録。実に清潔な言葉だ」
榊が低く言う。
「クラウディオ、まだ決めつけるな」
「決めつけていない。読んでいるだけだ」
ルストは真帆を見ていた。
彼女は落ち着いている。
患者を大事にしてきたことも、家族を支えてきたことも、嘘には見えない。病棟で彼女に礼を言う家族の声も、本物だった。エリーズが真帆の声で落ち着いたことも事実だ。
だから、ルストはすぐに切り捨てられなかった。
ただ、クラウディオが感じている嫌悪も分かる。
善意の形をした記録。
救済の言葉をまとった分類。
患者を守ると言いながら、患者の内側を番号にしていく手つき。
それは、どこか《宵待堂》の棚に似ていた。
ルストが静かに言う。
「善意があることは分かる」
クラウディオは即座に返した。
「善意は免罪符ではない」
真帆の目が、ほんの少しだけ揺れた。
ルストは続ける。
「彼女が患者を見てきたことも嘘ではない」
クラウディオは封筒を机に置いた。
「見ていた。だから、どこを切れば静かになるか知っていた」
その言葉に、会議室の空気が冷えた。
真帆の笑みが、初めて薄くなった。
◇
真帆は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「苦しみ続けることが、その人らしさなのでしょうか」
声は穏やかだった。
怒りではない。
むしろ、静かな疑問のようだった。
「忘れたことで、ようやく眠れる人もいるんです」
ルストは黙って聞いた。
真帆は続ける。
「願い屋の被害者の方は、ただ身体を傷つけられただけではありません。記憶や感情の一部が歪んで、そこに何度も戻ってしまう方がいます。泣き続ける家族もいます。残されたご家族が壊れていくのを、ただ見ていることが正しいのでしょうか」
榊は険しい顔をしている。
澪奈は、真帆の言葉を記録していた。
真帆の手は膝の上で静かに重ねられている。手指は震えていない。けれど、声にはわずかな熱があった。
「苦しむくらいなら、少し忘れた方がいい」
その言葉は、彼女の中で長く育てられてきたものだった。
「残された家族が壊れるくらいなら、記憶を薄めた方がいい」
クラウディオの目が、はっきり冷えた。
真帆は彼を見る。
「全部を抱えさせることだけが、正しいのでしょうか。耐えられない痛みを、少し遠ざけることが、そんなに罪ですか」
「誰が耐えられないと決めた」
クラウディオの声は低かった。
「本人か、貴様か」
真帆は黙る。
クラウディオは一歩、机の前へ出た。
「記憶は症状ではない。勝手に切除するな」
真帆の顔がわずかに強張る。
「私は、奪っているつもりはありません」
「では何だ」
「預かっているだけです」
その瞬間、クラウディオは笑った。
冷たく。
赤い目だけが、まったく笑っていない。
「預かる、か。返す気のない盗人ほど、言葉を柔らかくする」
真帆の声が少しだけ揺れた。
「患者さんを守るためです」
「本人の痛みを勝手に切り取って、救ったつもりか。医療ではなく窃盗だ」
会議室に、沈黙が落ちた。
クラウディオは続ける。
「痛みは本人のものだ。貴様の管理物ではない」
「でも、その痛みで壊れてしまう人もいます」
「壊れることを恐れて、本人の輪郭を削るな」
「輪郭……」
「記憶も感情も、都合の悪い突起ではない。勝手に削って滑らかにすれば、美しくなると思ったか」
真帆は唇を結ぶ。
怒りではない。
傷ついたようにも見える。
それもまた、本物かもしれなかった。
ルストは、その顔を見ていた。
真帆の善意は嘘ではない。
彼女は本当に患者を思っている。
夜勤で疲れた患者の手を握ることも、家族の不安を聞くことも、エリーズを落ち着かせることも、すべて偽物ではない。
だが、善意が本物であることと、行為が許されることは別だった。
ルストは静かに言った。
「真帆。患者本人の同意は」
真帆は答えない。
その沈黙が、答えだった。
榊が低く息を吐く。
「白瀬さん。あなたは何をどこへ渡した」
真帆はゆっくり顔を上げた。
「渡した、という言い方は……」
「では、流したか」
クラウディオが言う。
「封筒の紙質が灰島の帳簿と似ている。記号も《宵待堂》の分類に近い。処置室には赤い小瓶と同じ保存臭がある。善意はよく流通しているな」
澪奈が端末を見ながら言った。
「この封筒の記号、灰島の帳簿にあった分類と似ています。完全一致ではありませんが、体系が近いです」
榊の顔が険しくなる。
「白瀬さんが流していたってことか」
真帆は、すぐには答えなかった。
やがて、小さく言う。
「私は、患者さんの苦痛を減らしたかっただけです」
「その減らした分はどこへ行った」
クラウディオが問う。
真帆は目を伏せる。
「保管されます」
「誰が」
「必要な場所で」
「灰島か」
真帆の指が、わずかに動いた。
それ以上は言わなかった。
クラウディオは、その沈黙を見た。
灰島のルートへ流れていた。
少なくとも、その一部は。
ただし、真帆が全貌を知っていたかはまだ分からない。
灰島がどう使っていたか。
東都認知生命研究センターへどう流れたか。
リュシアンが何を依頼したか。
エリーズの症状へどこまで関わったか。
まだ、すべては見えない。
だが、善意の顔をした手が、患者の内側へ触れていたことだけは確かだった。
◇
会議室を出た後、病棟は夕方の色に沈んでいた。
窓の外では、空が淡い灰色から群青へ変わり始めている。ナースステーションの照明が少し強く見え、廊下の白さが夜へ向けて冷えていく。
真帆は、何事もなかったように病室へ戻った。
エリーズがベッドの上で小さく呻いている。
真帆はそばへ寄り、手を握った。
「大丈夫ですよ。ここにいます」
エリーズは真帆の声で落ち着いた。
細い指が、真帆の手を弱く握り返す。
「白瀬さん……」
「はい」
「戻さないで」
真帆は一瞬だけ目を伏せた。
「大丈夫です。今は、考えなくていいんです」
その声は、優しかった。
あまりにも優しかった。
廊下では、別の患者の家族が真帆へ頭を下げていた。
「白瀬さんは、本当に天使みたいな人です」
真帆は、いつものように困ったように笑う。
「そんなことはありません。できることをしているだけです」
クラウディオは、少し離れた場所からその様子を見ていた。
ルストが隣に立つ。
「彼女は、本気で救おうとしている」
クラウディオは答えた。
「だから厄介だ」
「悪意だけなら、もっと簡単だった」
「善意の手は、切られるまで温かい」
ルストは、病室の中の真帆を見た。
エリーズの手を握る彼女は、どう見ても優しい看護師だった。
患者を思い、家族を支え、眠れない者に寄り添う人間だった。
だが、その手は、誰かの記憶を預かると言った。
痛みを薄めると言った。
本人の同意を答えられなかった。
善意がある。
支配もある。
その二つは、同じ手の中に収まっていた。
◇
夜、病院の裏口は人目が少なかった。
通用口の上にあるライトが、薄い黄色の円を地面に落としている。搬入口の脇には台車が二台置かれ、空の段ボール箱が積まれていた。正面玄関の明るさとは違い、裏口の空気は少し湿っている。
白瀬真帆は、病棟の制服の上に薄いカーディガンを羽織っていた。
手には、封筒がある。
患者名ではなく、短い番号だけが書かれた封筒。
真帆は裏口の影に立ち、誰かを待っていた。
やがて、黒い車が少し離れた場所に停まる。
降りてきたのは、リュシアン・ヴェルネだった。
昼間、ルストの前で見せていた壊れそうな令息の顔ではない。疲れてはいる。だが、あの泣き出しそうな弱さは少し薄れていた。薄青紫の瞳は、夜の中で静かに真帆を見る。
真帆が先に口を開いた。
「今日は、少し危なかったです」
リュシアンは静かに言う。
「クラウディオ・ルジェリウスですね」
「彼は、匂いに気づいていました」
リュシアンの指が、手袋の手首を押さえる。
「ルスト様は」
真帆は、封筒を胸元に抱えたまま答えた。
「まだ、あなたを疑いきれていません」
リュシアンは小さく息をついた。
「なら、まだ大丈夫です」
真帆の表情は、病棟で見せる穏やかな看護師の顔より、少しだけ硬かった。
「封筒は、いつもの場所へ」
「妹の記憶は」
真帆は一瞬だけ黙る。
「薄めています。壊れない程度に」
リュシアンは目を伏せた。
その表情が、安堵なのか、恐怖なのか、罪悪感なのかは分からない。
病棟で初めて会ったはずの看護師と令息は、裏口の暗がりで、初対面の距離ではない声で話していた。




