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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第8部 【被害者を装う者たち】

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第111話 被害者の台本



 解析室には、泣き声が並んでいた。


 正確には、音声データだった。


 けれど、端末に表示された波形の列は、紙に閉じ込められた泣き声の標本のように見えた。願い屋関連相談。面談記録。通話録音。メール文面。被害届。病院から提供された支援資料。家族証言。そこに付箋と番号が貼られ、澪奈の端末上で時系列順に並べられている。


 霧杜中央署の安全拠点は、朝から静かだった。


 静かすぎて、録音データの中に入っている震える息が、かえって生々しく響く。


 女性のすすり泣き。


 男の長い沈黙。


 「話せません」と繰り返す声。


 「怖かった」と言う前に入る、妙に長い間。


 「自分は何も知らなかった」と震える声。


 「助けようとしただけ」と言い直す声。


 「怪異に利用された」と、同じ場所へ逃げる言葉。


 澪奈は、そのすべてを無表情で聞いていた。


 無表情に見えるだけで、内側まで冷えているわけではない。むしろ、彼女の声はいつもより硬かった。冷静であろうとする者の声だった。


 榊は、腕を組んで端末の画面を睨んでいる。


 机の上には、複数の相談記録が開かれていた。血を奪われた者、寿命が削れた者、記憶が抜けた者、家族を失った者。その中に、本物の被害者もいる。だが同時に、願いの恩恵だけを受け取り、代償が問題になった途端に「自分も被害者です」と泣き始めた者も混ざっている。


 クラウディオは、壁際に寄りかかったまま、端末の波形を眺めていた。


 ルストはその隣に立っている。


 白い蛍光灯の下で、灰銀の髪だけが少し冷たく見えた。


 澪奈が、ひとつ目の音声を止める。


「証言の内容だけではなく、構成が似ています」


 榊が眉をひそめる。


「構成?」


「はい。話す順番です」


 澪奈は画面を切り替えた。


 そこには、複数の証言が色分けされて表示されている。


 最初に自分の苦痛。


 次に記憶の欠落。


 その後に、助けようとしただけ、という言い回し。


 願いの内容を聞かれたところで沈黙。


 責任を問われたところで涙。


 最後に、怪異に利用された、という結論。


 澪奈は続けた。


「泣き出すタイミングまで、複数件で近いです」


 端末に、各音声の波形が重ねられる。


 質問から沈黙までの秒数。


 息を吸う音。


 声が詰まる位置。


 泣き始める場所。


 完全に同じではない。けれど、似ている。


 似すぎている。


「言葉の選び方も一致しています」


 澪奈は、抽出された語句の一覧を表示した。


 自分は何も知らなかった。


 助けようとしただけ。


 怪異に利用された。


 巻き込まれただけ。


 責められるのが怖い。


 話すのがつらい。


 誰も信じてくれない。


 榊が低く呻いた。


「気味が悪いな」


「複数の証言で、同じ流れが使われています。最初に自分の苦痛を話し、次に記憶の欠落を訴え、その後で“助けようとしただけ”と続けています。願いの内容を聞かれた場合の返答も似ています」


 澪奈は、画面の中の一文を指した。


「“怪異に利用された”という表現が、不自然に多いです」


 クラウディオが薄く笑う。


「怪異も忙しいな。人間の責任まで背負わされる」


 榊は言い返さなかった。


 澪奈は、さらに資料を開く。


「これは、被害者が自分の体験を語っているというより、語り方を学んでいる印象です」


 その言葉に、ルストの目が細くなった。


 語り方を学んでいる。


 それはつまり、誰かが教えているということだ。


 榊が低く言う。


「まさか、本当に台本があるのか」


 澪奈は、少しだけ間を置いて答えた。


「あります。少なくとも、元になった資料は」


 画面が切り替わる。


 表示されたのは、病院名と支援団体名が入った資料だった。


 願い屋被害相談支援ガイド。


 副題には、被害者と家族が状況を安全に伝えるために、とある。


 表向きには、何もおかしくない。


 願い屋事件の被害者が、警察や病院へ状況を伝える際に、混乱しないよう作られた支援資料。記憶障害がある者でも必要事項を整理できるように、家族が被害状況を説明できるように、二次被害を防ぐために。


 目的だけを見れば、必要な資料だった。


 実際に、それで救われた者もいる。


 錯乱していた被害者が、資料の項目に沿って少しずつ話せた。


 家族が、責められていると感じずに状況を説明できた。


 警察の前で固まってしまった少女が、「話せる範囲でいい」という言葉に救われた。


 それは事実だった。


 だが、澪奈が次に表示したページを見て、榊の表情が変わった。


 話すのが苦しい時は、無理に詳細を述べなくてよい。


 自分の感じた恐怖を先に伝えてよい。


 責められていると感じたら、休止を申し出てよい。


 自分が助けようとした経緯を整理して伝える。


 怪異による影響を受けた可能性を伝える。


 知らなかったことは、知らなかったとはっきり伝える。


 そのひとつひとつは、支援の言葉だった。


 本物の被害者には必要な配慮だった。


 けれど、それを加害者が使えば、別の顔になる。


 クラウディオは資料を見て、低く言った。


「支援資料にしては、逃げ道が多いな」


 榊が険しい顔をする。


「本物の被害者を守るための配慮だろ」


「配慮は使い方を間違えると、加害者の防弾衣になる」


 その言葉に、誰もすぐには反論できなかった。


 澪奈は資料の最終ページを開く。


 作成協力者。


 病院関係者。


 支援相談員。


 警察協力者。


 その欄に、名前があった。


 白瀬真帆。


 澪奈が言った。


「作成協力者の欄に、白瀬真帆の名前があります」


 榊の顔が、さらに険しくなる。


「被害者支援用の資料だぞ」


 クラウディオは返した。


「だから使いやすい。誰も疑わない」


     ◇


 澪奈の解析は、資料と証言の照合へ進んだ。


 画面には、複数の相談記録と支援資料の文例が並べられる。


 文例。


 自分は何も知らなかったと感じている場合、その時点で知っていた情報と、知らなかった情報を分けて伝えましょう。


 証言。


 自分は何も知らなかったんです。本当に、何も。


 文例。


 助けようとした行動があれば、その気持ちと行動を分けて説明しましょう。


 証言。


 私は、助けようとしただけなんです。止めたかったんです。


 文例。


 怪異の影響を受けた可能性がある場合、その時の記憶や感覚を無理に断定する必要はありません。


 証言。


 怪異に利用されたんです。私の意思ではなかったんです。


 榊の口元が歪んだ。


「そのままじゃないか」


「そのままではありません。少しずつ言い換えられています。ただ、順番と使い方が似ています」


 澪奈は声を抑えていた。


 怒っている。


 だが、怒鳴ることはしない。


「泣くタイミング、黙る間、責任を問われた時に先に苦しみを見せる構成。これも複数件で一致しています。相手が強く聞いた時に、“これ以上話すのが怖い”と返す位置も似ています」


 ルストは画面を見つめた。


 そこに表示されている言葉は、リュシアンの声で再生できた。


 妹が……妹が、願い屋に。


 私は、助けようとしただけなんです。


 誰を信じればいいのか分からないんです。


 今夜、一人では眠れない。


 あの時、自分はそれを救助対象の声として聞いた。


 完全に信じたわけではない。


 疑いがなかったわけでもない。


 けれど、揺らいだ。


 泣いて助けを求める者を、疑いきれなかった。


 長い年月、そういう声を聞いてきた。


 助けを求める声が嘘であることもあった。


 けれど、本物の声もあった。


 疑っているうちに助けられなかった者もいた。


 その記憶が、ルストを止めた。


 守る方へ立たせた。


 その性質を、リュシアンは見抜いていたのかもしれない。


 あるいは、誰かが見抜かせたのかもしれない。


 澪奈が別の資料を開いた。


「リュシアンさんの証言は、この資料の流れとほぼ一致します」


 榊が画面へ身を乗り出す。


「どこがだ」


「最初に妹さんの苦しみを語っています。次に、自分の行動は“助けようとしただけ”と説明しています。願いの主体は曖昧にしたまま、代償の苦しみを先に見せる。手袋の契約痕を指摘された瞬間、一拍固まり、その後で涙を見せる。クラウディオさんへは怯え、ルストさんへは頼る。保護される立場へ移動する流れも、この資料の安全確保項目と似ています」


 ルストの表情が険しくなった。


 クラウディオは資料を見ていた。


 そして、低く笑った。


「なるほど。涙にも脚本家がいたわけだ」


 その笑いは冷たかった。


 派手な怒りではない。


 もっと低い。


 本物の被害者の言葉が、加害者の衣装に使われていることへの嫌悪。


 支援の言葉が、責任逃れの盾になっていることへの怒り。


 泣き声が、証拠の代わりに差し出されていることへの軽蔑。


 ルストは、苦い顔で言った。


「俺は、見誤ったのか」


 クラウディオは、すぐには答えなかった。


 端末の画面を見たまま、少しだけ肩を竦める。


「見誤ったというより、相手が見せたいものを見せられた」


 ルストはクラウディオを見る。


 責められると思っていたわけではない。


 だが、責められても仕方がないとは思っていた。


 クラウディオは、責めなかった。


 代わりに、いつものように軽く刺した。


「次からは泣き顔に注釈をつけろ。『演技の可能性あり』とな」


 ルストは目を伏せた。


「……覚えておく」


「覚えるだけなら安い」


「お前の方が正しかったな」


「珍しくない」


「慰める気は」


「ない」


「だろうな」


 クラウディオは、そこでようやくルストを見た。


「ただ、次は泣いている手元も見ろ」


 ルストは短く頷いた。


「見る」


 その返答に、クラウディオはそれ以上何も言わなかった。


 ルストの「まず守る」性質を、彼は嫌っているわけではない。


 それがなければ、助からなかった者もいるだろう。


 ただ、その性質が利用されることに腹を立てている。


 それをルストも、少しだけ分かっていた。


     ◇


 榊は、支援資料の配布経路を確認していた。


 病院。


 支援団体。


 相談窓口。


 警察の一部協力者。


 願い屋事件後、混乱した被害者や家族へ配られた資料。


 そして、その一部が、被害者を装う者たちの手にも渡っていた可能性。


「本物の被害者まで疑うわけにはいかない」


 榊が言った。


 その声には、怒りと疲労が混ざっている。


 クラウディオは静かに返した。


「疑うんじゃない。分けるんだ」


 榊は黙った。


 やがて、ゆっくり頷く。


「分ける、か」


 澪奈が続けた。


「支援と検証を分ける必要があります」


 彼女は端末に視線を落とす。


「この資料で救われた方もいます。混乱した状態で、何から話せばいいか分からなかった被害者が、項目に沿って必要なことを伝えられた例もあります。家族が責められていると感じずに、落ち着いて証言できたケースもあります」


 ルストが頷く。


「この資料で救われた者もいる」


「だろうな」


 クラウディオは否定しなかった。


 ルストが彼を見る。


「なら」


「救える刃物でも、人は刺せる」


 澪奈は、画面の資料を閉じずに言った。


「本物の被害者用の配慮と、責任逃れの言葉が隣り合っています。そこが問題です」


 榊は、苦々しく息を吐いた。


「最悪だな」


 クラウディオは薄く笑う。


「最悪は、人間がよく使う形に限って見栄えがいい」


 榊は反論しなかった。


 彼自身も分かっていた。


 泣いている人間全員を疑えば、支援は壊れる。


 だが、泣いている人間全員を信じれば、加害者が紛れる。


 守りながら、見る。


 助けながら、検証する。


 その面倒な二つを同時にやらなければならない。


 怪異より、人間の方がよほど厄介だった。


     ◇


 澪奈は、さらにリュシアンの証言記録を開いた。


 画面に、彼の言葉が並ぶ。


 妹が……妹が、願い屋に。


 私は、助けようとしただけなんです。


 妹は私のことを忘れました。


 家の者たちも、次々に倒れて。


 私には、何もできなかった。


 どうか、妹を助けてください。


 今夜、一人では眠れない。


 それらの横に、支援資料の文例が表示されていく。


 苦痛の提示。


 記憶欠落の説明。


 救助意思の強調。


 願い主体の曖昧化。


 保護要求。


 責任回避の沈黙。


 完全に一致しているわけではない。


 だが、流れは重なる。


 まるで、同じ型へ流し込まれた別の声のように。


「泣き方、黙る間、責任を避ける言葉。随分と丁寧な演技指導だ」


 クラウディオの声は低い。


 澪奈は淡々と補足した。


「資料そのものには、演技指導とは書かれていません。ただ、結果として、被害者らしく見える振る舞いの型になっています」


「誰がその型を使うかで、支援にも偽装にもなる」


 ルストが言う。


 澪奈は頷いた。


「はい」


 榊が白瀬真帆の名前を見つめる。


「真帆は意図していたのか」


 誰もすぐには答えなかった。


 第110話で、真帆は言った。


 苦しむくらいなら、少し忘れた方がいい。


 残された家族が壊れるくらいなら、記憶を薄めた方がいい。


 彼女は本物の善意を持っていた。


 患者に寄り添い、家族を支え、夜勤でも疲れた顔を見せず、誰かの手を握る人間だった。


 同時に、記憶や感情を「預かる」と言った。


 患者の痛みを勝手に切り取って、救いと呼んだ。


 その善意が、支援資料にも滲んでいる。


 苦痛を無理に語らせない。


 責められていると感じたら休む。


 話せる範囲で。


 本物の被害者には必要な言葉だ。


 だが、加害者にとっては逃げ道になる。


 真帆が意図していたのか。


 それとも、彼女の善意がリュシアンのような者に利用されたのか。


 まだ断定はできない。


 ただ、第110話の夜、リュシアンと真帆が裏口で会っていた。


 初対面ではない声で話していた。


 その事実は重かった。


 榊が低く言う。


「白瀬真帆とリュシアンの接点を洗う。病院の記録、面会記録、裏口のカメラ、資料の配布経路。全部だ」


 澪奈が頷く。


「リュシアンさんがこの資料を入手していたか確認します。病院経由か、支援団体経由か、それとも真帆さんから直接か」


 クラウディオは窓の外を見た。


「直接なら、演技指導は随分と熱心だな」


 ルストは、静かに目を伏せた。


 自分がその演技に揺らいだことを、まだ苦く感じている。


 だが、クラウディオはそれ以上刺さなかった。


 珍しく。


 たぶん、珍しく。


     ◇


 病院から連絡が入ったのは、その直後だった。


 澪奈の端末が短く鳴る。


 表示されたのは、霧杜市立総合医療センターからの連絡だった。


「エリーズ・ヴェルネさんの意識が戻っています」


 澪奈が顔を上げる。


「ただ、状態は不安定。短時間なら話せるかもしれないそうです」


 榊はすぐに立ち上がった。


「行くぞ」


 クラウディオは、資料を閉じた。


「証言台が病室とは、最近の事件は設備が整っているな」


 ルストは何も言わない。


 ただ、クラウディオの隣を歩いた。


     ◇


 病院の廊下は、夕方よりさらに白かった。


 夜間照明に切り替わり、昼間よりも影が少ない。少ないはずなのに、病室の奥はどこか暗く見えた。消毒液の匂いが薄く漂い、その奥に、クラウディオにはまだ保存された血の匂いがわずかに感じられる。


 白瀬真帆は、病室の前にいた。


 いつもの穏やかな顔。


 ただ、目の下に少し疲れがある。


「短時間でお願いします。エリーズさんは、まだ混乱しています」


 榊が頷く。


「分かっています」


 クラウディオは、真帆を一瞥した。


「今日は封筒を持っていないのか」


 真帆の目が、一瞬だけ揺れる。


「患者さんの前です」


「そうだな。棚の話はあとにしよう」


 ルストがクラウディオを見た。


 クラウディオはそれ以上言わなかった。


 病室の中で、エリーズ・ヴェルネは目を開けていた。


 枕に沈む金髪。


 血色の薄い頬。


 乾いた唇。


 細い手はシーツの上で小さく握られている。


 彼女の目は、どこか遠い。


 ここではない場所を見ているようだった。


 真帆がベッド脇に寄る。


「エリーズさん。少しだけ、お話できますか」


 エリーズは、真帆の声に反応した。


 だが、今日はすぐには落ち着かなかった。


 視線が真帆から、榊、澪奈、ルスト、クラウディオへと移る。


 クラウディオを見た時、彼女の目が少しだけ見開かれた。


「赤い……」


 クラウディオは静かに言う。


「怖いなら見なくていい」


 エリーズは首を小さく横へ動かした。


「赤い瓶……」


 室内の空気が、わずかに硬くなる。


 榊が身を乗り出す。


「赤い瓶を見たのか」


 エリーズの唇が震える。


「地下……家……戻す……」


 真帆がすぐに声をかける。


「無理に話さなくて大丈夫です」


 その言葉は優しい。


 しかし今は、止める言葉にも聞こえた。


 クラウディオの目が冷える。


 ルストが低く言う。


「真帆。少し待て」


 真帆は口を閉じた。


 エリーズは、息を浅くしながら天井を見た。


「戻さないで」


 かすれた声だった。


「戻すと、みんな……なくなる」


 澪奈が静かに録音を確認する。


 榊は声を柔らかくした。


「誰が戻そうとした」


 エリーズの目が揺れる。


 記憶が壊れている。


 真帆が薄めた可能性もある。


 願い屋の代償で欠けている可能性もある。


 彼女の言葉が、どこまで正しいのかは分からない。


 それでも、その場の全員が息を詰めた。


 エリーズの乾いた唇が、かすかに動いた。


「兄が願った」


 その一言だけで、病室の空気が、証言台のように冷えた。




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