第111話 被害者の台本
解析室には、泣き声が並んでいた。
正確には、音声データだった。
けれど、端末に表示された波形の列は、紙に閉じ込められた泣き声の標本のように見えた。願い屋関連相談。面談記録。通話録音。メール文面。被害届。病院から提供された支援資料。家族証言。そこに付箋と番号が貼られ、澪奈の端末上で時系列順に並べられている。
霧杜中央署の安全拠点は、朝から静かだった。
静かすぎて、録音データの中に入っている震える息が、かえって生々しく響く。
女性のすすり泣き。
男の長い沈黙。
「話せません」と繰り返す声。
「怖かった」と言う前に入る、妙に長い間。
「自分は何も知らなかった」と震える声。
「助けようとしただけ」と言い直す声。
「怪異に利用された」と、同じ場所へ逃げる言葉。
澪奈は、そのすべてを無表情で聞いていた。
無表情に見えるだけで、内側まで冷えているわけではない。むしろ、彼女の声はいつもより硬かった。冷静であろうとする者の声だった。
榊は、腕を組んで端末の画面を睨んでいる。
机の上には、複数の相談記録が開かれていた。血を奪われた者、寿命が削れた者、記憶が抜けた者、家族を失った者。その中に、本物の被害者もいる。だが同時に、願いの恩恵だけを受け取り、代償が問題になった途端に「自分も被害者です」と泣き始めた者も混ざっている。
クラウディオは、壁際に寄りかかったまま、端末の波形を眺めていた。
ルストはその隣に立っている。
白い蛍光灯の下で、灰銀の髪だけが少し冷たく見えた。
澪奈が、ひとつ目の音声を止める。
「証言の内容だけではなく、構成が似ています」
榊が眉をひそめる。
「構成?」
「はい。話す順番です」
澪奈は画面を切り替えた。
そこには、複数の証言が色分けされて表示されている。
最初に自分の苦痛。
次に記憶の欠落。
その後に、助けようとしただけ、という言い回し。
願いの内容を聞かれたところで沈黙。
責任を問われたところで涙。
最後に、怪異に利用された、という結論。
澪奈は続けた。
「泣き出すタイミングまで、複数件で近いです」
端末に、各音声の波形が重ねられる。
質問から沈黙までの秒数。
息を吸う音。
声が詰まる位置。
泣き始める場所。
完全に同じではない。けれど、似ている。
似すぎている。
「言葉の選び方も一致しています」
澪奈は、抽出された語句の一覧を表示した。
自分は何も知らなかった。
助けようとしただけ。
怪異に利用された。
巻き込まれただけ。
責められるのが怖い。
話すのがつらい。
誰も信じてくれない。
榊が低く呻いた。
「気味が悪いな」
「複数の証言で、同じ流れが使われています。最初に自分の苦痛を話し、次に記憶の欠落を訴え、その後で“助けようとしただけ”と続けています。願いの内容を聞かれた場合の返答も似ています」
澪奈は、画面の中の一文を指した。
「“怪異に利用された”という表現が、不自然に多いです」
クラウディオが薄く笑う。
「怪異も忙しいな。人間の責任まで背負わされる」
榊は言い返さなかった。
澪奈は、さらに資料を開く。
「これは、被害者が自分の体験を語っているというより、語り方を学んでいる印象です」
その言葉に、ルストの目が細くなった。
語り方を学んでいる。
それはつまり、誰かが教えているということだ。
榊が低く言う。
「まさか、本当に台本があるのか」
澪奈は、少しだけ間を置いて答えた。
「あります。少なくとも、元になった資料は」
画面が切り替わる。
表示されたのは、病院名と支援団体名が入った資料だった。
願い屋被害相談支援ガイド。
副題には、被害者と家族が状況を安全に伝えるために、とある。
表向きには、何もおかしくない。
願い屋事件の被害者が、警察や病院へ状況を伝える際に、混乱しないよう作られた支援資料。記憶障害がある者でも必要事項を整理できるように、家族が被害状況を説明できるように、二次被害を防ぐために。
目的だけを見れば、必要な資料だった。
実際に、それで救われた者もいる。
錯乱していた被害者が、資料の項目に沿って少しずつ話せた。
家族が、責められていると感じずに状況を説明できた。
警察の前で固まってしまった少女が、「話せる範囲でいい」という言葉に救われた。
それは事実だった。
だが、澪奈が次に表示したページを見て、榊の表情が変わった。
話すのが苦しい時は、無理に詳細を述べなくてよい。
自分の感じた恐怖を先に伝えてよい。
責められていると感じたら、休止を申し出てよい。
自分が助けようとした経緯を整理して伝える。
怪異による影響を受けた可能性を伝える。
知らなかったことは、知らなかったとはっきり伝える。
そのひとつひとつは、支援の言葉だった。
本物の被害者には必要な配慮だった。
けれど、それを加害者が使えば、別の顔になる。
クラウディオは資料を見て、低く言った。
「支援資料にしては、逃げ道が多いな」
榊が険しい顔をする。
「本物の被害者を守るための配慮だろ」
「配慮は使い方を間違えると、加害者の防弾衣になる」
その言葉に、誰もすぐには反論できなかった。
澪奈は資料の最終ページを開く。
作成協力者。
病院関係者。
支援相談員。
警察協力者。
その欄に、名前があった。
白瀬真帆。
澪奈が言った。
「作成協力者の欄に、白瀬真帆の名前があります」
榊の顔が、さらに険しくなる。
「被害者支援用の資料だぞ」
クラウディオは返した。
「だから使いやすい。誰も疑わない」
◇
澪奈の解析は、資料と証言の照合へ進んだ。
画面には、複数の相談記録と支援資料の文例が並べられる。
文例。
自分は何も知らなかったと感じている場合、その時点で知っていた情報と、知らなかった情報を分けて伝えましょう。
証言。
自分は何も知らなかったんです。本当に、何も。
文例。
助けようとした行動があれば、その気持ちと行動を分けて説明しましょう。
証言。
私は、助けようとしただけなんです。止めたかったんです。
文例。
怪異の影響を受けた可能性がある場合、その時の記憶や感覚を無理に断定する必要はありません。
証言。
怪異に利用されたんです。私の意思ではなかったんです。
榊の口元が歪んだ。
「そのままじゃないか」
「そのままではありません。少しずつ言い換えられています。ただ、順番と使い方が似ています」
澪奈は声を抑えていた。
怒っている。
だが、怒鳴ることはしない。
「泣くタイミング、黙る間、責任を問われた時に先に苦しみを見せる構成。これも複数件で一致しています。相手が強く聞いた時に、“これ以上話すのが怖い”と返す位置も似ています」
ルストは画面を見つめた。
そこに表示されている言葉は、リュシアンの声で再生できた。
妹が……妹が、願い屋に。
私は、助けようとしただけなんです。
誰を信じればいいのか分からないんです。
今夜、一人では眠れない。
あの時、自分はそれを救助対象の声として聞いた。
完全に信じたわけではない。
疑いがなかったわけでもない。
けれど、揺らいだ。
泣いて助けを求める者を、疑いきれなかった。
長い年月、そういう声を聞いてきた。
助けを求める声が嘘であることもあった。
けれど、本物の声もあった。
疑っているうちに助けられなかった者もいた。
その記憶が、ルストを止めた。
守る方へ立たせた。
その性質を、リュシアンは見抜いていたのかもしれない。
あるいは、誰かが見抜かせたのかもしれない。
澪奈が別の資料を開いた。
「リュシアンさんの証言は、この資料の流れとほぼ一致します」
榊が画面へ身を乗り出す。
「どこがだ」
「最初に妹さんの苦しみを語っています。次に、自分の行動は“助けようとしただけ”と説明しています。願いの主体は曖昧にしたまま、代償の苦しみを先に見せる。手袋の契約痕を指摘された瞬間、一拍固まり、その後で涙を見せる。クラウディオさんへは怯え、ルストさんへは頼る。保護される立場へ移動する流れも、この資料の安全確保項目と似ています」
ルストの表情が険しくなった。
クラウディオは資料を見ていた。
そして、低く笑った。
「なるほど。涙にも脚本家がいたわけだ」
その笑いは冷たかった。
派手な怒りではない。
もっと低い。
本物の被害者の言葉が、加害者の衣装に使われていることへの嫌悪。
支援の言葉が、責任逃れの盾になっていることへの怒り。
泣き声が、証拠の代わりに差し出されていることへの軽蔑。
ルストは、苦い顔で言った。
「俺は、見誤ったのか」
クラウディオは、すぐには答えなかった。
端末の画面を見たまま、少しだけ肩を竦める。
「見誤ったというより、相手が見せたいものを見せられた」
ルストはクラウディオを見る。
責められると思っていたわけではない。
だが、責められても仕方がないとは思っていた。
クラウディオは、責めなかった。
代わりに、いつものように軽く刺した。
「次からは泣き顔に注釈をつけろ。『演技の可能性あり』とな」
ルストは目を伏せた。
「……覚えておく」
「覚えるだけなら安い」
「お前の方が正しかったな」
「珍しくない」
「慰める気は」
「ない」
「だろうな」
クラウディオは、そこでようやくルストを見た。
「ただ、次は泣いている手元も見ろ」
ルストは短く頷いた。
「見る」
その返答に、クラウディオはそれ以上何も言わなかった。
ルストの「まず守る」性質を、彼は嫌っているわけではない。
それがなければ、助からなかった者もいるだろう。
ただ、その性質が利用されることに腹を立てている。
それをルストも、少しだけ分かっていた。
◇
榊は、支援資料の配布経路を確認していた。
病院。
支援団体。
相談窓口。
警察の一部協力者。
願い屋事件後、混乱した被害者や家族へ配られた資料。
そして、その一部が、被害者を装う者たちの手にも渡っていた可能性。
「本物の被害者まで疑うわけにはいかない」
榊が言った。
その声には、怒りと疲労が混ざっている。
クラウディオは静かに返した。
「疑うんじゃない。分けるんだ」
榊は黙った。
やがて、ゆっくり頷く。
「分ける、か」
澪奈が続けた。
「支援と検証を分ける必要があります」
彼女は端末に視線を落とす。
「この資料で救われた方もいます。混乱した状態で、何から話せばいいか分からなかった被害者が、項目に沿って必要なことを伝えられた例もあります。家族が責められていると感じずに、落ち着いて証言できたケースもあります」
ルストが頷く。
「この資料で救われた者もいる」
「だろうな」
クラウディオは否定しなかった。
ルストが彼を見る。
「なら」
「救える刃物でも、人は刺せる」
澪奈は、画面の資料を閉じずに言った。
「本物の被害者用の配慮と、責任逃れの言葉が隣り合っています。そこが問題です」
榊は、苦々しく息を吐いた。
「最悪だな」
クラウディオは薄く笑う。
「最悪は、人間がよく使う形に限って見栄えがいい」
榊は反論しなかった。
彼自身も分かっていた。
泣いている人間全員を疑えば、支援は壊れる。
だが、泣いている人間全員を信じれば、加害者が紛れる。
守りながら、見る。
助けながら、検証する。
その面倒な二つを同時にやらなければならない。
怪異より、人間の方がよほど厄介だった。
◇
澪奈は、さらにリュシアンの証言記録を開いた。
画面に、彼の言葉が並ぶ。
妹が……妹が、願い屋に。
私は、助けようとしただけなんです。
妹は私のことを忘れました。
家の者たちも、次々に倒れて。
私には、何もできなかった。
どうか、妹を助けてください。
今夜、一人では眠れない。
それらの横に、支援資料の文例が表示されていく。
苦痛の提示。
記憶欠落の説明。
救助意思の強調。
願い主体の曖昧化。
保護要求。
責任回避の沈黙。
完全に一致しているわけではない。
だが、流れは重なる。
まるで、同じ型へ流し込まれた別の声のように。
「泣き方、黙る間、責任を避ける言葉。随分と丁寧な演技指導だ」
クラウディオの声は低い。
澪奈は淡々と補足した。
「資料そのものには、演技指導とは書かれていません。ただ、結果として、被害者らしく見える振る舞いの型になっています」
「誰がその型を使うかで、支援にも偽装にもなる」
ルストが言う。
澪奈は頷いた。
「はい」
榊が白瀬真帆の名前を見つめる。
「真帆は意図していたのか」
誰もすぐには答えなかった。
第110話で、真帆は言った。
苦しむくらいなら、少し忘れた方がいい。
残された家族が壊れるくらいなら、記憶を薄めた方がいい。
彼女は本物の善意を持っていた。
患者に寄り添い、家族を支え、夜勤でも疲れた顔を見せず、誰かの手を握る人間だった。
同時に、記憶や感情を「預かる」と言った。
患者の痛みを勝手に切り取って、救いと呼んだ。
その善意が、支援資料にも滲んでいる。
苦痛を無理に語らせない。
責められていると感じたら休む。
話せる範囲で。
本物の被害者には必要な言葉だ。
だが、加害者にとっては逃げ道になる。
真帆が意図していたのか。
それとも、彼女の善意がリュシアンのような者に利用されたのか。
まだ断定はできない。
ただ、第110話の夜、リュシアンと真帆が裏口で会っていた。
初対面ではない声で話していた。
その事実は重かった。
榊が低く言う。
「白瀬真帆とリュシアンの接点を洗う。病院の記録、面会記録、裏口のカメラ、資料の配布経路。全部だ」
澪奈が頷く。
「リュシアンさんがこの資料を入手していたか確認します。病院経由か、支援団体経由か、それとも真帆さんから直接か」
クラウディオは窓の外を見た。
「直接なら、演技指導は随分と熱心だな」
ルストは、静かに目を伏せた。
自分がその演技に揺らいだことを、まだ苦く感じている。
だが、クラウディオはそれ以上刺さなかった。
珍しく。
たぶん、珍しく。
◇
病院から連絡が入ったのは、その直後だった。
澪奈の端末が短く鳴る。
表示されたのは、霧杜市立総合医療センターからの連絡だった。
「エリーズ・ヴェルネさんの意識が戻っています」
澪奈が顔を上げる。
「ただ、状態は不安定。短時間なら話せるかもしれないそうです」
榊はすぐに立ち上がった。
「行くぞ」
クラウディオは、資料を閉じた。
「証言台が病室とは、最近の事件は設備が整っているな」
ルストは何も言わない。
ただ、クラウディオの隣を歩いた。
◇
病院の廊下は、夕方よりさらに白かった。
夜間照明に切り替わり、昼間よりも影が少ない。少ないはずなのに、病室の奥はどこか暗く見えた。消毒液の匂いが薄く漂い、その奥に、クラウディオにはまだ保存された血の匂いがわずかに感じられる。
白瀬真帆は、病室の前にいた。
いつもの穏やかな顔。
ただ、目の下に少し疲れがある。
「短時間でお願いします。エリーズさんは、まだ混乱しています」
榊が頷く。
「分かっています」
クラウディオは、真帆を一瞥した。
「今日は封筒を持っていないのか」
真帆の目が、一瞬だけ揺れる。
「患者さんの前です」
「そうだな。棚の話はあとにしよう」
ルストがクラウディオを見た。
クラウディオはそれ以上言わなかった。
病室の中で、エリーズ・ヴェルネは目を開けていた。
枕に沈む金髪。
血色の薄い頬。
乾いた唇。
細い手はシーツの上で小さく握られている。
彼女の目は、どこか遠い。
ここではない場所を見ているようだった。
真帆がベッド脇に寄る。
「エリーズさん。少しだけ、お話できますか」
エリーズは、真帆の声に反応した。
だが、今日はすぐには落ち着かなかった。
視線が真帆から、榊、澪奈、ルスト、クラウディオへと移る。
クラウディオを見た時、彼女の目が少しだけ見開かれた。
「赤い……」
クラウディオは静かに言う。
「怖いなら見なくていい」
エリーズは首を小さく横へ動かした。
「赤い瓶……」
室内の空気が、わずかに硬くなる。
榊が身を乗り出す。
「赤い瓶を見たのか」
エリーズの唇が震える。
「地下……家……戻す……」
真帆がすぐに声をかける。
「無理に話さなくて大丈夫です」
その言葉は優しい。
しかし今は、止める言葉にも聞こえた。
クラウディオの目が冷える。
ルストが低く言う。
「真帆。少し待て」
真帆は口を閉じた。
エリーズは、息を浅くしながら天井を見た。
「戻さないで」
かすれた声だった。
「戻すと、みんな……なくなる」
澪奈が静かに録音を確認する。
榊は声を柔らかくした。
「誰が戻そうとした」
エリーズの目が揺れる。
記憶が壊れている。
真帆が薄めた可能性もある。
願い屋の代償で欠けている可能性もある。
彼女の言葉が、どこまで正しいのかは分からない。
それでも、その場の全員が息を詰めた。
エリーズの乾いた唇が、かすかに動いた。
「兄が願った」
その一言だけで、病室の空気が、証言台のように冷えた。




