第112話 妹の記憶
「兄が願った」
その一言だけで、病室の空気が変わった。
エレーヌ・ヴェルネの声は、かすれていた。水を含ませた布で湿らせても、唇はまだ乾いている。頬は薄く、血の気がない。淡い金髪は枕の上で乱れ、細い指はシーツを掴んだまま震えていた。
それでも、その言葉だけは消えなかった。
兄が願った。
榊はすぐに身を乗り出しかけ、途中で止まった。
彼女は衰弱している。
記憶も壊れている。
証言を取りたい衝動より先に、壊してはいけないという判断が必要だった。
「証言は取る。ただし、無理はさせない」
榊は低く言った。
白瀬真帆はベッド脇に立っていた。いつもの穏やかな顔をしている。だが、その目の奥に、ごく薄い緊張が差していた。エレーヌが何を思い出すのか、すでに知っているのか。それとも、思い出してほしくないのか。
クラウディオは、真帆を見なかった。
彼の赤い目は、エレーヌだけを見ていた。
いつものような皮肉はない。
エレーヌが泣いているからではない。
本当に奪われた者の涙と、涙を道具にした者の涙を、彼は分けていた。
ルストはベッドの横へ一歩近づいた。
声は低く、いつもより慎重だった。
「エレーヌ。言えるところだけでいい」
エレーヌの目が、ルストへ向く。
焦点は揺れている。
彼女は誰を見ているのか、今の一瞬では分からない。ルストを見ているのか、病室ではない別の場所を見ているのか。薄い瞳の奥で、記憶の断片が割れた鏡のように光っていた。
「私じゃ、ありません」
エレーヌは、息を吸うたびに苦しそうだった。
「願ったのは……兄です」
澪奈が、端末の録音を確認する。
榊は頷き、声を落とした。
「兄というのは、リュシアン・ヴェルネのことですか」
エレーヌの目に、涙が浮かんだ。
恐怖だけではなかった。
愛情と、裏切られた痛みと、まだ憎みきれない苦しみが混ざった涙だった。
「リュシアン兄様……」
その呼び方に、ルストの拳がわずかに握られる。
彼女は、まだ兄を兄として呼んでいる。
その声が、彼には重かった。
リュシアンは涙ながらに妹を語った。
妹が願い屋に巻き込まれた。
自分は助けようとしただけ。
妹を救えなかった兄だと。
だが、その妹は今、壊れかけた記憶の底から、別の事実を掬い上げようとしている。
クラウディオが静かに言った。
「無理に全部を戻そうとするな。欠けていることを責める必要はない」
エレーヌは、少しだけ彼を見た。
赤い目を怖がるように、しかし不思議そうに。
クラウディオはそれ以上、近づかなかった。
「言えるところだけでいい」
その声は、驚くほど静かだった。
◇
エレーヌの記憶は、糸の切れた首飾りのように散らばっていた。
すべてを順番通りに拾うことはできない。
拾おうとするたびに、彼女の顔が苦痛で歪む。額に薄く汗が滲み、呼吸が浅くなり、細い指先が冷たくなっていく。
真帆が一度、声をかけようとした。
「エレーヌさん、無理をしなくても――」
「白瀬さん」
ルストが遮った。
短い声だった。
真帆は口を閉じる。
その横顔には、穏やかさがまだ残っていた。だが、さきほどよりも少しだけ硬い。
エレーヌは、目を閉じた。
「夜でした」
途切れた声。
「洋館の……地下ではなくて、書斎。兄様の部屋。古いカーテンが閉まっていて、スマホの画面だけ赤くて」
澪奈が静かに頷く。
「赤い通知ですか」
「願い屋……」
エレーヌの喉が震える。
「兄様が、見ていました。ずっと。最初は、ただの噂だと言っていた。でも、笑っていなかった。手袋をしていて……新しい手袋じゃなくて、古い白い手袋。手首のところを、何度も押さえて」
クラウディオの目が細くなる。
手袋。
手首の内側の擦れ。
契約痕の血。
すでに見えていた糸が、エレーヌの言葉で結び直されていく。
「兄は、家を戻したかった」
エレーヌは、震えながら言った。
「でも、家だけじゃない」
榊が声を落とす。
「どういう意味ですか」
エレーヌは唇を噛んだ。
思い出すこと自体が痛いようだった。
「ヴェルネ家が……笑われていました。古い会合で。旧貴族の人たちが、兄様を見て……可哀想に、って。昔はあんなに綺麗な家だったのに、って。リュシアン様も、もう終わりね、って」
涙が目尻から落ちる。
「兄様は、笑っていました。いつものように、綺麗に。でも、帰ってから、鏡を割って……」
彼女の声が乱れた。
「私は、兄様に怪我はないかって聞きました。兄様は、私には分からないって」
ルストは黙って聞いている。
その目に、抑えた怒りが沈んでいた。
エレーヌは続けた。
「兄は、哀れな人じゃなくて……称賛される人に戻りたかった」
病室の空気が重くなる。
「昔みたいに、皆に見られたかったんです。綺麗で、正しくて、ヴェルネ家の令息として、誰にも憐れまれない人に」
クラウディオが、低く息を吐いた。
嘲笑ではない。
ただ、理解したという息だった。
リュシアンの涙。
弱さ。
守られるべき令息の姿。
それは、没落した旧家の中で作り上げられた仮面だった。
哀れまれることを嫌いながら、哀れまれる姿を武器にした男。
称賛されたい欲望を隠すために、被害者の顔を磨き上げた男。
エレーヌは震える手でシーツを掴んだ。
「兄様は、願いました」
声が細くなる。
「家を元に戻したい、って」
彼女の目が、恐怖で見開かれる。
「でも、その時……赤い文字が、代償を聞いて」
真帆の指が、わずかに動いた。
クラウディオは見逃さない。
だが、今は口を挟まなかった。
エレーヌの証言を遮るべきではない。
「私は止めようとしました。こんなの駄目だって。願ったら、何か取られるって。兄様は言いました。君には分からない、って。ヴェルネを終わらせるわけにはいかないって」
エレーヌの声が、泣き声に近づく。
「私の記憶を、差し出した」
榊の顔が険しくなる。
「あなたの記憶を?」
エレーヌは頷く。
「家の記憶。兄様の記憶。私が覚えている、家が壊れていく時のこと。兄様が泣いていたこと。笑われたこと。全部……邪魔だからって」
涙が落ちる。
「みんなの寿命も」
病室の誰もが息を止めた。
「使用人たちが……長くヴェルネに仕えてくれた人たち。家の一部だからって。家を戻すために、家に残っているものを使うしかないって」
エレーヌは苦しそうに目を閉じる。
「家に残っていた血の力も」
ルストが低く問う。
「血族の力か」
エレーヌはうまく頷けない。
ただ、かすれた声で続ける。
「昔から、ヴェルネには少しだけ残っているって……古い吸血鬼貴族の血。もう弱いけど、家を繋いできたもの。兄様は、それも差し出した」
澪奈の端末が静かに記録を続けている。
彼女は声を抑えて言った。
「エレーヌさんの証言は、手袋の血痕と地下の空瓶の状況と矛盾しません」
榊が彼女を見る。
澪奈は続ける。
「ただし、記憶の欠損があります。断定には補強が必要です。リュシアンさんの手袋、地下の空瓶、使用人の症状、病院側の記録、真帆さんの封筒。照合します」
クラウディオが短く言う。
「なら補強しろ。泣き声ではなく、証拠で」
その声は冷たいが、エレーヌへ向けたものではなかった。
◇
エレーヌは、泣いていた。
声を上げる力はない。
ただ、涙だけがこぼれている。
「兄は、昔は……優しかったんです」
その一言が、いちばん痛そうだった。
「私が怖い夢を見た時、ずっとそばにいてくれました。父が怒鳴ると、私を図書室に隠してくれた。使用人が減って、家の中が暗くなっても、兄様は笑って、まだ大丈夫だって」
彼女の声が震える。
「私を売ったのに」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
「それでも、嫌いになりきれない」
エレーヌは、顔を歪めた。
「それが、いちばん苦しい」
そこにある涙は、演技ではなかった。
証言の穴を埋めるためのものでも、責任を逃れるためのものでもない。
奪われ、裏切られ、それでも愛情の残骸を捨てきれない者の涙だった。
クラウディオは何も言わなかった。
皮肉も、冷笑も、投げなかった。
ルストはそれを見た。
クラウディオは本物の被害者に冷たいわけではない。
泣くことを嫌っているのではない。
泣き声を証拠の代わりに使う者を嫌っている。
その違いを、ルストは今さらのように見た。
エレーヌは、真帆へ視線を向けた。
その目に、怯えが混じる。
「白瀬さんは、優しかった」
真帆は静かに立っている。
表情は大きく変わらない。
けれど、手元の指が少しだけ強張っていた。
「優しい声で、忘れていいと言った」
エレーヌの声が細くなる。
「苦しいところは、少し薄めましょうね、って」
真帆の唇が、ほんのわずかに動いた。
何か言おうとしたのか。
言えなかったのか。
「忘れたくないのに」
エレーヌは涙をこぼした。
「兄様がしたことも、兄様が昔は優しかったことも、どっちも……私のものなのに」
クラウディオの赤い目が真帆へ向く。
声は低い。
「本人の輪郭を削ったな」
真帆は答えなかった。
ルストは、真帆を見た。
彼女が本物の善意を持っていたとしても。
患者を大切にしていたとしても。
この一言だけで、彼女の「救い」が何を削っていたのかが分かる。
忘れたくない痛みもある。
苦しみであっても、自分のものとして抱えるしかない記憶がある。
それを勝手に薄めることは、救いではない。
少なくとも、本人が望んでいないなら。
◇
エレーヌの呼吸が乱れ始めたため、榊はそこで聴取を止めた。
「ここまでにする」
真帆がエレーヌの状態を確認しようと近づく。
ルストが一歩、間に入った。
「別の看護師を呼べ」
真帆の表情が、初めてはっきり変わった。
傷ついたような顔。
けれど、ルストは動かなかった。
「今は、お前に任せられない」
静かな拒絶だった。
真帆は何も言わず、ナースコールを押した。
榊は端末を取り出す。
「リュシアンを押さえる」
彼は病室の外へ出ながら指示を飛ばした。
「ヴェルネ家の洋館、病院周辺、リュシアンの滞在先。全部確認しろ。手袋を持っている可能性がある。逃がすな」
澪奈も端末を操作する。
「リュシアンさんの現在位置、確認します。昨日の面会記録、病院裏口の映像、真帆さんとの接触も照合します」
ルストは、しばらくエレーヌを見ていた。
そして、低く言った。
「……俺は、見ていなかった」
クラウディオは隣に立つ。
「見せられたものを見ていた」
「それでも、見落とした」
ルストの拳が、静かに握られる。
怒りがある。
リュシアンへの怒り。
真帆への怒り。
そして、自分自身への怒り。
泣いて助けを求める者を疑いきれなかった。
守ろうとした。
それ自体は間違いではない。
だが、その向こうにいた本物の被害者を、リュシアンの涙の奥に置き去りにしかけた。
それが、ルストには重かった。
クラウディオは、わずかに目を伏せる。
「守る相手を間違えかけただけだ」
「軽く言うな」
「重く言えば、あの娘の記憶が戻るのか」
ルストは黙った。
クラウディオも、それ以上は続けなかった。
代わりに、病室の外で指示を飛ばす榊の声へ視線を向ける。
「被害者の顔をした加害者ほど、よく喋る。喋らなければ、ただの犯人だからな」
その声は、リュシアンへ向けられていた。
エレーヌへではない。
ルストは、静かに頷いた。
◇
リュシアン・ヴェルネは、病院内の家族待機室にいるはずだった。
榊が身柄確保を指示した時、待機室の椅子には誰もいなかった。
残されていたのは、片方だけの淡灰色の手袋。
新しい革。
手首の内側だけが古く擦れた手袋。
指先には、薄い赤黒い染み。
その横に、白いハンカチが落ちている。
涙を拭ったように湿っていた。
榊はそれを見て、低く舌打ちした。
「逃げたか」
澪奈の声が端末から返る。
『病院裏口のカメラに動きがあります。リュシアンさんらしき人物が、数分前に通用口方向へ移動しています』
「真帆は」
『病室前から離れています。現在位置、確認中です』
クラウディオは、病院の廊下を歩き出した。
ルストが隣へ並ぶ。
消毒液の匂い。
夜間照明の白い光。
病室のカーテンの影。
その奥に、また薄く保存された血の匂いが漂っている。
裏口へ続く廊下は、人通りが少なかった。
搬入口のライトが、曇った窓越しに滲んでいる。
その頃、リュシアンは病院の裏口にいた。
淡い金髪が夜風に揺れている。
片手は裸のまま。
もう片方には、まだ手袋が嵌められている。
彼は、昼間ルストに見せたような泣きそうな顔ではなかった。顔色は悪い。追い詰められている。だが、その目にはまだ計算が残っていた。
通用口の影に、白瀬真帆が立っている。
カーディガンの裾が、夜風にかすかに揺れた。
彼女は、驚かなかった。
リュシアンが来ることを、どこかで知っていたように。
「白瀬さん」
リュシアンの声は、細く震えていた。
真帆は穏やかに言った。
「落ち着いてください」
「もう、隠せない」
「まだ、記憶は整えられます」
その言葉は優しかった。
あまりにも優しかった。
リュシアン・ヴェルネが逃げ込んだ先は、被害者を守るはずの病院だった。
そしてその裏口で、白瀬真帆が、まるで来ることを知っていたように待っていた。




