第113話 近づきすぎた距離
夜の病院は、昼間よりも白かった。
廊下の照明は落とされているはずなのに、壁も床も薄く光を返している。病室の扉は閉じられ、カーテンの隙間から漏れる微かな灯りだけが、患者たちの眠りを示していた。
消毒液の匂い。
静かな空調音。
遠くのナースコール。
誰かの寝返りで軋むベッドの音。
そのすべてが抑えられている。
病院という場所は、人間が壊れないように静かにしている。だが、その静けさの中に、願い屋の残滓は入り込んでいた。
リュシアン・ヴェルネは逃げた。
エレーヌの証言が出た直後だった。
兄が願った。
その一言で、彼の泣き声も、震えも、守られるべき令息の顔も、すべて崩れ始めた。
榊は病院内と周辺に連絡を回し、澪奈は監視映像と病院の入退室記録を追っていた。白瀬真帆の所在も同時に確認されている。病院の裏口、処置室、非常階段、搬入口。逃走経路になりそうな場所が次々に洗われていく。
ルストは、白い廊下の奥を歩いていた。
クラウディオが少し後ろに続く。
非常口の緑色の表示が、廊下の端で薄く光っていた。そこだけ、病院の白さから外れている。鉄扉の向こうに、冷たい外気と夜の湿りがある。
ルストは足を止めた。
扉の向こうから、かすかな声が聞こえた。
泣く声。
それは、何度も聞いた声だった。
弱く、震え、助けを求め、相手の良心へ爪を立てる声。
クラウディオも聞いていた。
赤い目が、薄く細くなる。
「まだ泣けるのか。体力だけは旧家の誇りだな」
ルストは返さず、非常口の扉を押した。
鉄扉が重く開く。
冷たい空気が流れ込んだ。
◇
非常階段は、半分外で、半分病院の内側だった。
コンクリートの壁。
鉄の手すり。
赤い非常灯。
外気の湿り。
遠くで鳴る救急車のサイレン。
下の階から上がってくる薄い排気の匂い。
消毒液の匂いはここでは弱くなり、代わりに鉄と雨の気配があった。病室の白い静けさから切り離された場所。逃げ場のようであり、同時に行き止まりにも見える場所。
踊り場の壁際に、リュシアンがいた。
彼は膝をつき、壁に背を預けるようにして崩れていた。淡い金髪は乱れ、頬には涙の跡がある。手袋は乱れ、片方は手首のところでずれていた。もう片方の手は裸に近く、指先が冷えで白くなっている。
追い詰められている。
それは事実だった。
だが、ルストが扉を開けた瞬間、リュシアンの目がわずかに動いた。
ルストを見る。
その奥に続くクラウディオを見る。
そして、ほんの一拍だけ、二人の距離を測るような光が走る。
泣き崩れていても、まだ見ている。
まだ選んでいる。
クラウディオは、それを見た。
ルストも、今度は見逃さなかった。
「リュシアン、立て」
ルストの声は低かった。
怒鳴らない。
剣も抜かない。
リュシアンは武器を持っていないように見える。膝をつき、泣き、手袋も乱れ、息を切らしている。病院の非常階段で、無抵抗に見える相手へ刃を向ける必要はない。
ただし、逃がす気もない。
ルストの右手は、いつでも制圧に移れる位置にあった。視線はリュシアンの顔だけではなく、指先、足元、手袋のずれ、ポケットの膨らみまで捉えている。
「逃げるな」
リュシアンは涙で濡れた顔を上げた。
「私は……追い詰められていただけです」
声は震えていた。
かつてなら、ルストの中の古い反射が動いたかもしれない。泣いて助けを求める者を放っておけない癖。弱い者を守るために、一歩踏み込む性質。
だが今は、エレーヌの乾いた声が残っている。
兄が願った。
リュシアンの涙の向こうに、本物の被害者がいた。
ルストは動かず、ただ言った。
「立て。話は署で聞く」
リュシアンは首を横に振った。
「家を守りたかった」
彼の声が、非常階段の壁に反響した。
「ヴェルネ家が終われば、妹も、使用人たちも、みんな行き場を失うと思ったんです。私は……私は、ただ」
息が詰まる。
涙が落ちる。
「妹を守りたかった」
クラウディオの目が冷えた。
だが、まだ口を出さない。
リュシアンはルストだけを見ている。
クラウディオからは逃げるように。
ルストへは縋るように。
「願い屋に騙されたんです」
リュシアンは震える手で胸元を掴んだ。
「代償が、あんな形で来るなんて知らなかった。私は、使用人たちを犠牲にしたかったわけじゃない。エレーヌの記憶を壊したかったわけでもない。ただ、家を……家族を……」
ルストの視線が鋭くなる。
「エレーヌは、お前が差し出したと言った」
リュシアンの顔が歪んだ。
「エレーヌは、記憶が壊れています」
「都合がいいな」
クラウディオが低く言った。
リュシアンは怯えたように肩を震わせる。
その震えは、クラウディオへ向けたものだった。
だが、ルストへ視線を戻す時には、声が少し柔らかくなる。
「私も、被害者なんです」
ルストは、目を細めた。
その言葉を、彼はもう以前のようには聞けなかった。
私も被害者。
自分は何も知らなかった。
助けようとしただけ。
怪異に利用された。
真帆の支援資料と、澪奈の解析が脳裏に重なる。
泣き出すタイミング。
沈黙の長さ。
責任を問われた時に苦しみを先に見せる順番。
リュシアンはまだ、その台本を捨てていない。
「今なら、まだ自分の口で話せる」
ルストは言った。
「逃げるな。リュシアン。立て」
リュシアンは、壁に手をついて立ち上がろうとした。
だが、途中で崩れる。
膝が床を打つ音がした。
ルストが一歩近づく。
剣は抜かない。
相手は泣き崩れている。
病院内だ。
非常階段の上下には患者や職員がいる可能性もある。ここで力ずくに暴れさせるより、近づいて制圧できる距離を取る方がいい。
その判断は、間違っていない。
だが、リュシアンはその一歩を待っていた。
白い指が、ルストの袖を掴んだ。
ほんの一瞬。
だが、確かに掴んだ。
そのまま、すがるように額を寄せる。
ルストの身体が硬くなる。
彼は受け入れているわけではない。肩には緊張が走り、手はいつでもリュシアンの腕を捻って押さえられる位置にある。視線もリュシアンから外していない。
だが、外から見れば違う。
泣き崩れた令息を、ルストが近くで受け止めているように見えた。
クラウディオは、その瞬間を見た。
理解はしていた。
ルストが油断しているわけではないことも、甘やかしているだけではないことも、制圧のための距離であることも。
分かっている。
分かっているのに、リュシアンの指がルストの袖を掴んだ瞬間、胸の奥を細い刃で撫でられたような不快感が走った。
ルストが振り払わない。
その事実だけが、やけに目につく。
リュシアンがそれを利用していることも見える。
それ以上に、その距離が不快だった。
名前をつけたくない感情が、喉元まで上がる。
だから、クラウディオは笑った。
笑わなければ、その不快感に名前がついてしまう。
「随分と親切だな。次は膝枕でもしてやるのか」
声は軽い。
刺すように冷たい。
リュシアンへの攻撃でもあり、ルストへの苛立ちでもあった。
ルストはリュシアンから視線を外さずに言った。
「黙っていろ」
短い一言だった。
状況を優先した言葉。
リュシアンから目を離せないから出た言葉。
本気でクラウディオを拒絶したわけではない。
だが、クラウディオの神経には、そのまま触れた。
笑みが薄くなる。
赤い目の温度が、さらに下がる。
「命令が増えたな。泣く令息の前だと騎士にでも戻るのか」
ルストは返さない。
リュシアンの肩にかかった手の位置を確認している。
逃げるか。
隠し持ったものがあるか。
手袋の中に契約痕が残っているか。
そのすべてを見ている。
リュシアンは、そこに気づいた。
いや、違う。
彼が気づいたのは、ルストの警戒ではない。
クラウディオとルストの間の空気だった。
クラウディオの皮肉。
ルストの「黙っていろ」。
その一言で、赤い目が冷えたこと。
リュシアンの薄青紫の瞳に、一瞬だけ計算する光が走った。
恐怖ではない。
自分が、二人の間に爪を入れられていると理解した光だった。
次の瞬間、リュシアンはさらにルストへしがみついた。
「怖いんです」
震える声。
ルストの袖を掴む白い指。
額が、さらに近づく。
「どうか、今だけ……離れないでください」
クラウディオの目が、細くなる。
リュシアンはクラウディオを見る。
怯えたように。
怯えを見せる角度を選んで。
「クラウディオ様は、私を殺す目をしている」
クラウディオは薄く笑った。
「目だけで済ませてやっている寛大さに感謝しろ」
ルストが低く言う。
「リュシアン、離れろ。話は聞く」
「信じてください、ルスト様」
リュシアンは泣きながら言った。
「私は、間違えたかもしれない。でも、最初から誰かを傷つけたかったわけじゃない。家を守りたかった。妹を守りたかった。願い屋に騙されたんです。私も、被害者なんです」
同じ言葉。
同じ順番。
苦しみを先に見せ、責任をぼかし、怪異へ逃げる。
だが、今回はルストも見ていた。
袖を掴む指。
額を寄せる距離。
クラウディオの反応を確認する目。
泣きながらも、二人の間の空気を測る呼吸。
ルストの声が低くなる。
「抵抗するな」
「お願いです、今だけ」
「離れろ」
「離れたら、もう何も話せません」
それも台本の一部のように聞こえた。
これ以上聞くのは酷だと思わせる言葉。
保護する側へ罪悪感を抱かせる言葉。
リュシアンは、追い詰められている。
それは本当だ。
逃げ場が狭まり、エレーヌの証言が出て、手袋も空瓶も支援資料も繋がり始めている。彼は確かに怯えている。だが、その追い詰められ方すら利用している。
追い詰められた人間の悪知恵は、時に余裕ある嘘より鋭い。
ルストは、リュシアンの手首を掴もうとした。
制圧のために。
その前に、リュシアンがまた顔を伏せる。
ルストの袖へ、額が触れそうな距離。
その瞬間、クラウディオが動いた。
足音は小さかった。
だが、空気が変わった。
クラウディオは一歩で距離を詰めると、リュシアンの手首を掴んだ。
強すぎない。
骨を軋ませるような力ではない。
だが、逃げられない。
リュシアンの指がルストの袖から引き剥がされる。ずれた手袋の下、手首の擦れた跡と、契約痕に似た薄い赤黒い影が非常灯の赤に浮かんだ。
ルストが一瞬、クラウディオを見る。
リュシアンが息を呑む。
クラウディオの赤い目は、冷たかった。
「その手を離せ。芝居が臭い」




