表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第8部 【被害者を装う者たち】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

114/125

第113話 近づきすぎた距離


 夜の病院は、昼間よりも白かった。


 廊下の照明は落とされているはずなのに、壁も床も薄く光を返している。病室の扉は閉じられ、カーテンの隙間から漏れる微かな灯りだけが、患者たちの眠りを示していた。


 消毒液の匂い。


 静かな空調音。


 遠くのナースコール。


 誰かの寝返りで軋むベッドの音。


 そのすべてが抑えられている。


 病院という場所は、人間が壊れないように静かにしている。だが、その静けさの中に、願い屋の残滓は入り込んでいた。


 リュシアン・ヴェルネは逃げた。


 エレーヌの証言が出た直後だった。


 兄が願った。


 その一言で、彼の泣き声も、震えも、守られるべき令息の顔も、すべて崩れ始めた。


 榊は病院内と周辺に連絡を回し、澪奈は監視映像と病院の入退室記録を追っていた。白瀬真帆の所在も同時に確認されている。病院の裏口、処置室、非常階段、搬入口。逃走経路になりそうな場所が次々に洗われていく。


 ルストは、白い廊下の奥を歩いていた。


 クラウディオが少し後ろに続く。


 非常口の緑色の表示が、廊下の端で薄く光っていた。そこだけ、病院の白さから外れている。鉄扉の向こうに、冷たい外気と夜の湿りがある。


 ルストは足を止めた。


 扉の向こうから、かすかな声が聞こえた。


 泣く声。


 それは、何度も聞いた声だった。


 弱く、震え、助けを求め、相手の良心へ爪を立てる声。


 クラウディオも聞いていた。


 赤い目が、薄く細くなる。


「まだ泣けるのか。体力だけは旧家の誇りだな」


 ルストは返さず、非常口の扉を押した。


 鉄扉が重く開く。


 冷たい空気が流れ込んだ。


     ◇


 非常階段は、半分外で、半分病院の内側だった。


 コンクリートの壁。


 鉄の手すり。


 赤い非常灯。


 外気の湿り。


 遠くで鳴る救急車のサイレン。


 下の階から上がってくる薄い排気の匂い。


 消毒液の匂いはここでは弱くなり、代わりに鉄と雨の気配があった。病室の白い静けさから切り離された場所。逃げ場のようであり、同時に行き止まりにも見える場所。


 踊り場の壁際に、リュシアンがいた。


 彼は膝をつき、壁に背を預けるようにして崩れていた。淡い金髪は乱れ、頬には涙の跡がある。手袋は乱れ、片方は手首のところでずれていた。もう片方の手は裸に近く、指先が冷えで白くなっている。


 追い詰められている。


 それは事実だった。


 だが、ルストが扉を開けた瞬間、リュシアンの目がわずかに動いた。


 ルストを見る。


 その奥に続くクラウディオを見る。


 そして、ほんの一拍だけ、二人の距離を測るような光が走る。


 泣き崩れていても、まだ見ている。


 まだ選んでいる。


 クラウディオは、それを見た。


 ルストも、今度は見逃さなかった。


「リュシアン、立て」


 ルストの声は低かった。


 怒鳴らない。


 剣も抜かない。


 リュシアンは武器を持っていないように見える。膝をつき、泣き、手袋も乱れ、息を切らしている。病院の非常階段で、無抵抗に見える相手へ刃を向ける必要はない。


 ただし、逃がす気もない。


 ルストの右手は、いつでも制圧に移れる位置にあった。視線はリュシアンの顔だけではなく、指先、足元、手袋のずれ、ポケットの膨らみまで捉えている。


「逃げるな」


 リュシアンは涙で濡れた顔を上げた。


「私は……追い詰められていただけです」


 声は震えていた。


 かつてなら、ルストの中の古い反射が動いたかもしれない。泣いて助けを求める者を放っておけない癖。弱い者を守るために、一歩踏み込む性質。


 だが今は、エレーヌの乾いた声が残っている。


 兄が願った。


 リュシアンの涙の向こうに、本物の被害者がいた。


 ルストは動かず、ただ言った。


「立て。話は署で聞く」


 リュシアンは首を横に振った。


「家を守りたかった」


 彼の声が、非常階段の壁に反響した。


「ヴェルネ家が終われば、妹も、使用人たちも、みんな行き場を失うと思ったんです。私は……私は、ただ」


 息が詰まる。


 涙が落ちる。


「妹を守りたかった」


 クラウディオの目が冷えた。


 だが、まだ口を出さない。


 リュシアンはルストだけを見ている。


 クラウディオからは逃げるように。


 ルストへは縋るように。


「願い屋に騙されたんです」


 リュシアンは震える手で胸元を掴んだ。


「代償が、あんな形で来るなんて知らなかった。私は、使用人たちを犠牲にしたかったわけじゃない。エレーヌの記憶を壊したかったわけでもない。ただ、家を……家族を……」


 ルストの視線が鋭くなる。


「エレーヌは、お前が差し出したと言った」


 リュシアンの顔が歪んだ。


「エレーヌは、記憶が壊れています」


「都合がいいな」


 クラウディオが低く言った。


 リュシアンは怯えたように肩を震わせる。


 その震えは、クラウディオへ向けたものだった。


 だが、ルストへ視線を戻す時には、声が少し柔らかくなる。


「私も、被害者なんです」


 ルストは、目を細めた。


 その言葉を、彼はもう以前のようには聞けなかった。


 私も被害者。


 自分は何も知らなかった。


 助けようとしただけ。


 怪異に利用された。


 真帆の支援資料と、澪奈の解析が脳裏に重なる。


 泣き出すタイミング。


 沈黙の長さ。


 責任を問われた時に苦しみを先に見せる順番。


 リュシアンはまだ、その台本を捨てていない。


「今なら、まだ自分の口で話せる」


 ルストは言った。


「逃げるな。リュシアン。立て」


 リュシアンは、壁に手をついて立ち上がろうとした。


 だが、途中で崩れる。


 膝が床を打つ音がした。


 ルストが一歩近づく。


 剣は抜かない。


 相手は泣き崩れている。


 病院内だ。


 非常階段の上下には患者や職員がいる可能性もある。ここで力ずくに暴れさせるより、近づいて制圧できる距離を取る方がいい。


 その判断は、間違っていない。


 だが、リュシアンはその一歩を待っていた。


 白い指が、ルストの袖を掴んだ。


 ほんの一瞬。


 だが、確かに掴んだ。


 そのまま、すがるように額を寄せる。


 ルストの身体が硬くなる。


 彼は受け入れているわけではない。肩には緊張が走り、手はいつでもリュシアンの腕を捻って押さえられる位置にある。視線もリュシアンから外していない。


 だが、外から見れば違う。


 泣き崩れた令息を、ルストが近くで受け止めているように見えた。


 クラウディオは、その瞬間を見た。


 理解はしていた。


 ルストが油断しているわけではないことも、甘やかしているだけではないことも、制圧のための距離であることも。


 分かっている。


 分かっているのに、リュシアンの指がルストの袖を掴んだ瞬間、胸の奥を細い刃で撫でられたような不快感が走った。


 ルストが振り払わない。


 その事実だけが、やけに目につく。


 リュシアンがそれを利用していることも見える。


 それ以上に、その距離が不快だった。


 名前をつけたくない感情が、喉元まで上がる。


 だから、クラウディオは笑った。


 笑わなければ、その不快感に名前がついてしまう。


「随分と親切だな。次は膝枕でもしてやるのか」


 声は軽い。


 刺すように冷たい。


 リュシアンへの攻撃でもあり、ルストへの苛立ちでもあった。


 ルストはリュシアンから視線を外さずに言った。


「黙っていろ」


 短い一言だった。


 状況を優先した言葉。


 リュシアンから目を離せないから出た言葉。


 本気でクラウディオを拒絶したわけではない。


 だが、クラウディオの神経には、そのまま触れた。


 笑みが薄くなる。


 赤い目の温度が、さらに下がる。


「命令が増えたな。泣く令息の前だと騎士にでも戻るのか」


 ルストは返さない。


 リュシアンの肩にかかった手の位置を確認している。


 逃げるか。


 隠し持ったものがあるか。


 手袋の中に契約痕が残っているか。


 そのすべてを見ている。


 リュシアンは、そこに気づいた。


 いや、違う。


 彼が気づいたのは、ルストの警戒ではない。


 クラウディオとルストの間の空気だった。


 クラウディオの皮肉。


 ルストの「黙っていろ」。


 その一言で、赤い目が冷えたこと。


 リュシアンの薄青紫の瞳に、一瞬だけ計算する光が走った。


 恐怖ではない。


 自分が、二人の間に爪を入れられていると理解した光だった。


 次の瞬間、リュシアンはさらにルストへしがみついた。


「怖いんです」


 震える声。


 ルストの袖を掴む白い指。


 額が、さらに近づく。


「どうか、今だけ……離れないでください」


 クラウディオの目が、細くなる。


 リュシアンはクラウディオを見る。


 怯えたように。


 怯えを見せる角度を選んで。


「クラウディオ様は、私を殺す目をしている」


 クラウディオは薄く笑った。


「目だけで済ませてやっている寛大さに感謝しろ」


 ルストが低く言う。


「リュシアン、離れろ。話は聞く」


「信じてください、ルスト様」


 リュシアンは泣きながら言った。


「私は、間違えたかもしれない。でも、最初から誰かを傷つけたかったわけじゃない。家を守りたかった。妹を守りたかった。願い屋に騙されたんです。私も、被害者なんです」


 同じ言葉。


 同じ順番。


 苦しみを先に見せ、責任をぼかし、怪異へ逃げる。


 だが、今回はルストも見ていた。


 袖を掴む指。


 額を寄せる距離。


 クラウディオの反応を確認する目。


 泣きながらも、二人の間の空気を測る呼吸。


 ルストの声が低くなる。


「抵抗するな」


「お願いです、今だけ」


「離れろ」


「離れたら、もう何も話せません」


 それも台本の一部のように聞こえた。


 これ以上聞くのは酷だと思わせる言葉。


 保護する側へ罪悪感を抱かせる言葉。


 リュシアンは、追い詰められている。


 それは本当だ。


 逃げ場が狭まり、エレーヌの証言が出て、手袋も空瓶も支援資料も繋がり始めている。彼は確かに怯えている。だが、その追い詰められ方すら利用している。


 追い詰められた人間の悪知恵は、時に余裕ある嘘より鋭い。


 ルストは、リュシアンの手首を掴もうとした。


 制圧のために。


 その前に、リュシアンがまた顔を伏せる。


 ルストの袖へ、額が触れそうな距離。


 その瞬間、クラウディオが動いた。


 足音は小さかった。


 だが、空気が変わった。


 クラウディオは一歩で距離を詰めると、リュシアンの手首を掴んだ。


 強すぎない。


 骨を軋ませるような力ではない。


 だが、逃げられない。


 リュシアンの指がルストの袖から引き剥がされる。ずれた手袋の下、手首の擦れた跡と、契約痕に似た薄い赤黒い影が非常灯の赤に浮かんだ。


 ルストが一瞬、クラウディオを見る。


 リュシアンが息を呑む。


 クラウディオの赤い目は、冷たかった。


「その手を離せ。芝居が臭い」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ