第114話 嫉妬と呼ばない王
クラウディオの指が、リュシアンの手首を掴んでいた。
非常灯の赤い光が、淡灰色の手袋に落ちている。ずれた革の下、手首の内側には擦れた跡があり、その近くに薄い赤黒い影が浮かんでいた。契約痕の血に似た、乾いた汚れ。
リュシアンは息を呑んだ。
怯えたように見える。
だが、その怯えを、もう誰もそのまま受け取らなかった。
クラウディオは冷たく言った。
「その手を離せ。芝居が臭い」
非常階段の空気が止まる。
鉄の匂い。
外気の湿り。
遠くで鳴る救急車のサイレン。
白い廊下から切り離された踊り場で、リュシアンの泣き声だけが、急に場違いなものに聞こえた。
ルストは一瞬だけクラウディオを見た。
その目にあったのは驚きではない。制止でもない。ただ、クラウディオが踏み込んだ理由を理解した目だった。
リュシアンの指が、ルストの袖から剥がれる。
クラウディオの手は強すぎなかった。骨を軋ませるような力ではない。だが、逃げられない。王の指は、触れた相手の逃げ道を正確に塞ぐ。
リュシアンは震える声で言った。
「離して……私は、本当に……」
「本当に?」
クラウディオが低く笑う。
「便利な言葉だな。涙と同じで、隙間に流れる」
リュシアンはルストを見ようとした。
その視線を、クラウディオがわずかに身体で遮る。
露骨ではない。
しかし、確かに遮った。
ルストは、それに気づいた。
気づいたが、今は言わない。
「リュシアン」
ルストの声は低かった。
「抵抗するな」
リュシアンは、まだ涙を浮かべている。
「私は……私はただ、守りたかっただけです」
「その話は署で聞く」
非常口の扉が開いた。
榊が階段へ踏み込んでくる。後ろには病院側の警備員と、警察側の捜査員が二人。澪奈の声が、榊の端末から小さく聞こえていた。
『非常階段の映像、確保しています。病院側の記録保全も進めています。ただ、白瀬真帆の現在位置が一時的に不明です』
榊の顔が険しくなる。
「真帆は後だ。まずリュシアンだ」
リュシアンは首を振った。
「私は、騙されたんです」
クラウディオは手首を掴んだまま、冷たく返す。
「騙された人間は、代償を妹に支払わせない」
リュシアンの唇が震えた。
「違う……私は、そんなつもりじゃ」
「つもりがない者ほど、結果だけ他人に払わせる」
榊が捜査員へ短く指示した。
「身柄確保。強く扱うな。ただし逃がすな」
捜査員が近づく。
リュシアンは抵抗らしい抵抗をしなかった。ただ、最後までルストを見ようとした。涙で濡れた目。救いを求めるような角度。今までなら、その目は誰かの良心へ届いたかもしれない。
だが、ルストはもう視線を逸らさなかった。
泣いている。
追い詰められている。
それは事実だ。
だが、その涙の奥にエレーヌの記憶がある。使用人たちの寿命がある。地下の空瓶がある。白瀬真帆の封筒がある。
ルストは言った。
「今度は、事実を話せ」
リュシアンの顔が歪んだ。
「ルスト様……」
クラウディオの手に、ほんのわずかだけ力が入る。
それに気づいたのは、ルストだけだった。
榊がリュシアンを連行させる。
「リュシアン・ヴェルネ。詳しい話は署で聞く」
非常階段からリュシアンが連れていかれる間、彼はまだ泣いていた。自分も被害者だと。家を守りたかっただけだと。妹を守りたかったのだと。願い屋に騙されたのだと。
だが、その言葉はもう、以前ほど滑らかには届かなかった。
非常階段に残ったのは、冷たい外気と、鉄の匂いと、クラウディオの不機嫌だけだった。
◇
リュシアンの身柄確保後、病院内は一時的に騒然とした。
表向きには、逃走中の重要参考人の確保。
実際には、それ以上の意味がある。
願い屋残滓。
真帆の記録。
赤い小瓶と同じ保存臭。
患者の記憶反応を入れた封筒。
リュシアンの台本じみた証言。
エレーヌの断片的な記憶。
まだ、事件は終わっていない。
白瀬真帆の所在は、病棟内にはなかった。処置室も空。裏口の映像には一部欠落がある。澪奈は病院の記録システムと監視映像の保全を進め、榊は病院側へ確認を入れていた。
クラウディオは、病院の廊下で一度もリュシアンの方を振り返らなかった。
その代わり、ルストの袖を一度見た。
リュシアンが掴んだ場所。
白い指が縋った布。
ルストは、それに気づいた。
クラウディオはすぐに視線を逸らした。
「布まで芝居臭くなったな。洗え」
「事件が終わったらな」
「今すぐ焼いてもいい」
「証拠品ではない」
「精神衛生上の汚染物だ」
ルストは返事をしなかった。
クラウディオの声は普段通りの皮肉だった。だが、わずかに硬い。言葉の端が鋭い。廊下を歩く足音も、いつもより少しだけ速い。
怒っている。
間違いなく怒っている。
しかし、何に対して怒っているのかを、クラウディオは絶対に口にしないだろう。
リュシアンの芝居。
逃走。
エレーヌの記憶。
真帆の不在。
それらに苛立っているのは確かだ。
だが、それだけではない。
ルストの袖に触れたリュシアンの手。
すがるように寄せられた額。
ルストがすぐには振り払わなかったこと。
そして、非常階段でルストが言った「黙っていろ」。
クラウディオの胸に刺さったものは、まだ抜けていない。
その刃に名前をつけることだけを、彼は拒んでいた。
◇
安全拠点へ戻った頃には、夜がさらに深くなっていた。
警察側の安全拠点は、昼間の喧騒から離れている。解析室の照明は落とされていないが、隣の休憩スペースは薄暗い。会議室にはまだ資料が積まれ、ホワイトボードには願い屋関連の相関図が残っていた。
榊は澪奈とともに、リュシアンの身柄、白瀬真帆の行方、病院の記録保全について対応を続けている。
クラウディオとルストは、少し離れた廊下にいた。
窓の外は暗い。
廊下の照明は白く、足元の床だけを硬く照らしている。
クラウディオは壁に背を預け、腕を組んでいた。いつもの余裕ある姿勢に見える。だが、無言が長い。資料を受け取る時の手つきも、カップを置く音も、少し硬かった。
ルストは、それを見ていた。
「怒っているのか」
クラウディオは即答した。
「貴様の雑な捕物に呆れているだけだ」
あまりにも早い返答だった。
用意していたような速さ。
ルストは目を細める。
「雑ではなかった」
「泣き崩れた令息に袖を貸す趣味を、捕物と呼ぶならそうだろうな」
「制圧距離を取っただけだ」
「ほう。随分と柔らかい制圧だ。最近のハンターは慈善事業も兼ねるのか」
ルストは一歩近づいた。
「リュシアンが俺に触れたからか」
クラウディオは笑った。
綺麗に。
冷たく。
「自意識が育ちすぎだな、灰銀。剪定してやろうか」
完全なはぐらかしだった。
ルストの眉が、わずかに動く。
「はぐらかすな」
「質問の質が悪い。答えが必要なら、もう少しまともに聞け」
「まともに聞いた」
「なら耳が悪い」
「お前の答えが悪い」
「俺の答えは常に上等だ。受け取る側の器に問題がある」
ルストは黙った。
沈黙は、怒鳴るよりも重かった。
クラウディオは、その沈黙を嫌ったように目を細める。
「何だ。とうとう説教でも始める気か」
「お前は、他人の嘘にはよく気づく」
「褒め言葉として受け取っておく」
「自分の嘘には鈍い」
クラウディオの笑みが薄くなる。
「不愉快な誤診だな」
「診断じゃない。見たままだ」
「なら目が腐っている」
「リュシアンの手袋は見えたのに、自分の機嫌は見えないのか」
「俺の機嫌など事件に関係ない」
「なら、なぜあんなに苛立った」
「芝居臭い手が貴様の袖を汚したからだ。衛生上の問題だな」
「病院で消毒してくるか」
「貴様ごと浸ければ多少はましになる」
ルストの表情が、少し険しくなる。
クラウディオは、他人の嘘を見抜いてきた。
リュシアンの涙。
真帆の善意。
願い屋の市場。
灰島の帳簿。
赤い小瓶。
都合のよい沈黙。
証言の穴を埋める泣き声。
すべて見抜いてきた。
だが、自分の感情には名前をつけない。
目の前で起きたことを、衛生だの芝居だの捕物だのと呼び換える。
嫉妬しているのに、嫉妬とは認めない。
言えば負けだと思っている。
自分の感情をルストに握られるのが嫌なのだ。
王としてのプライドが邪魔をしているのか。
それとも、言葉にした瞬間、その感情が本物になるのが嫌なのか。
ルストには、そこまでは分からない。
だが、不愉快なほど分かることがある。
クラウディオは逃げている。
「リュシアンに触れられたのが不快だったんだろう」
ルストが言った。
クラウディオは赤い目を細める。
「俺が貴様に嫉妬? 冗談にも品格が必要だぞ」
その否定は強かった。
強すぎた。
ルストは返事をしなかった。
代わりに、一歩近づく。
クラウディオが目を細める。
「近い」
「近づいている」
「説明するな。見れば分かる」
「なら、逃げろ」
「誰が」
「お前が」
「なぜ俺が貴様から逃げる」
「逃げないなら、はぐらかすな」
クラウディオは壁に背を預けたまま、動かなかった。
逃げない。
だが、口だけは止まらない。
「嫉妬など、暇な人間の娯楽だ。俺をそこまで安く見積もるな」
「暇ではなかったな」
「当然だ。事件中にくだらん感情へ名札をつけるほど愚かではない」
「事件が終わってもつけないだろう」
「つける必要がない」
「ある」
「ない」
ルストはもう一歩近づいた。
クラウディオの退路が狭まる。
廊下の壁。
資料棚。
薄暗い照明。
外から遠く聞こえる榊の声。
澪奈の端末音。
事件の残響はまだ周囲にある。
だが、この数歩の距離だけ、別の緊張が立ち上がっていた。
クラウディオの瞳が、ルストの動きを追う。
「貴様、距離感をどこに捨ててきた」
「お前が拾っているなら返せ」
「拾った瞬間に焼く」
「なら、ないままでいい」
「よくない。目障りだ」
ルストは止まらない。
怒鳴らない。
ただ静かに近づく。
クラウディオは逃げない。
逃げないが、呼吸がほんの少し浅くなった。
それをルストは見た。
クラウディオも、自分で気づいていた。
だから、さらに口が悪くなる。
「まさか、俺の機嫌を取るつもりか。やめておけ。貴様に繊細な作業は向かない」
「機嫌を取る気はない」
「では何だ。尋問か」
「確認だ」
「またそれか。貴様の確認は怪異より質が悪い」
その言葉で、二人の間に以前の記憶が立ち上がる。
願い屋の取引現場。
血に混じった安堵。
首筋に残った噛み跡。
クラウディオが言った言葉。
貴様は怪異より質が悪い。聞くなと言えば噛む。
ルストが返した言葉。
お前が言えば噛まない。
クラウディオは、検討してやる、と鼻で笑った。
その検討は、まだ終わっていない。
あるいは、終わらせる気がない。
ルストは低く言った。
「言えば噛まないと言った」
クラウディオの目が、わずかに動く。
「言うことなどない」
「なら、黙っている理由を聞く」
「貴様の聞くは、だいたい荒い」
「今日はまだ荒くしていない」
「今後する予定のように言うな」
ルストは、さらに近づいた。
クラウディオとの距離が、ほとんど消える。
クラウディオは動かない。
赤い目が、ルストを見上げるほどではない。二人の距離は近いが、視線はぶつかったままだ。
逃げろと言われれば、クラウディオは怒る。
触れるなと言いたければ、言うはずだ。
だが、言わない。
言わずに、皮肉だけを重ねる。
ルストは、その沈黙の意味を読もうとする。
血ではなく。
怪異でもなく。
本人の顔から。
呼吸から。
肩の硬さから。
言わない言葉の重さから。
クラウディオは低く言った。
「また噛む気か」
言い終えるより先に、ルストが動いた。
彼はクラウディオの肩口へ顔を寄せた。
噛んではいない。
まだ、牙は立てていない。
ただ、近い。
近すぎる。
クラウディオの肩がわずかに強張る。呼吸が止まりかける。言葉が、喉の奥で途切れる。
ルストの声が、肩口のすぐ近くで低く落ちた。
「嫌なら、言え」
クラウディオは何も言わなかった。
「また噛む気か」と言いかけたクラウディオの言葉は、ルストが肩口へ顔を寄せた瞬間、喉の奥で途切れた。




