第115話 肩口の歯形
クラウディオの言葉は、途中で止まった。
また噛む気か。
そう言いかけた声は、喉の奥で途切れていた。
ルストが、肩口へ顔を寄せたからだ。
安全拠点の廊下は静かだった。榊と澪奈が解析室の方で動いている気配はある。端末の通知音、資料をめくる音、低く交わされる報告の声。それらは薄い壁一枚の向こうにあり、こちら側には白い照明と、夜の硬い空気だけが残っていた。
クラウディオは壁に背を預けたまま、逃げなかった。
逃げなかったことに、自分で気づいていた。
だからこそ、眉間の皺が深くなる。
「近いと言っただろう」
声は低い。
まだ皮肉を保っている。
ルストは返事をしない。
彼の手はクラウディオの肩を強く押さえつけてはいなかった。ただ、逃げ道を塞ぐほどの距離にいる。腕も、身体も、乱暴ではない。だが、退かない。
クラウディオは赤い目を細めた。
「灰銀。聞こえなかったのか。貴様の耳は飾りか」
ルストの息が、肩口の近くでかすかに落ちた。
「嫌なら言え」
その一言だけが、廊下に沈む。
クラウディオの唇が、わずかに動いた。
言える。
拒むなら、言えばいい。
ルストは止まる。
それは分かっている。
だからこそ、余計に腹立たしかった。
拒む言葉を出せば、それは拒絶になる。
出さなければ、許したことになる。
どちらを選んでも、自分の反応に名前がつくようで不快だった。
クラウディオは、笑った。
「命令されるのは趣味ではない」
「命令じゃない」
「では何だ。確認か。貴様の確認は本当に野蛮だな」
「お前が言わないからだ」
その言葉と同時に、ルストは肩口へ歯を立てた。
首筋ではない。
手首でもない。
襟の端をわずかにずらした、服を着れば隠れる位置。
肩の線に近い、他人には見えない場所。
牙は深く入らなかった。吸血ではない。血を飲むためでもない。だが、布越しに誤魔化せるほど軽くもなかった。確かに痛みが走る。皮膚の下へ、鈍く鋭い熱が残る。
クラウディオの呼吸が、一瞬止まった。
肩が強張る。
指先が動く。
彼の手は、ルストの肩を押し返せる位置にあった。実際、押し返すだけなら容易かった。今の距離を崩すことも、壁際から抜けることもできる。
だが、その手は動かなかった。
動かないことに気づいた瞬間、クラウディオの眉間の皺がさらに深くなった。
ルストの歯が離れる。
けれど顔はまだ肩口の近くにあった。
クラウディオはようやく息を吸い、低く吐いた。
「貴様、話し合いという概念をどこへ捨ててきた」
ルストは肩口から口を離しきらないまま、低く言った。
「お前が話さないからだ」
「だから噛む? 野蛮にも程がある」
「言えば噛まないと言った」
「言うことなどないとも言った」
「嘘だ」
クラウディオの目が冷える。
「貴様、俺を嘘つき呼ばわりする趣味に目覚めたのか」
「他人の嘘は見抜くのに、自分の嘘は認めない」
「それは昨日も聞いた。繰り返すほど価値のある指摘ではない」
「価値がないなら、なぜ怒る」
「貴様が噛んだからだ」
ルストはようやく顔を上げた。
灰銀の瞳が、真正面からクラウディオを見る。
「その前からだ」
クラウディオは笑った。
薄く、冷たく。
「噛んでおいて責任を過去へ逃がすな。最低の言い訳だぞ」
「リュシアンが俺に触れた時から怒っていた」
「まだそれを言うか。よほど自意識を育てたいらしい」
「嫉妬したなら、そう言え」
廊下の空気が、また硬くなった。
クラウディオは即答した。
「していない」
早すぎる否定だった。
第114話で、ルストが「怒っているのか」と聞いた時と同じだった。用意していたような速さ。切り捨てるための言葉。考える前に口に出した否定。
ルストはその速度を見た。
クラウディオも、自分の返答が早すぎたことに気づいていた。
だから、さらに口を開こうとした。
その前に、ルストがもう一度肩口へ顔を寄せた。
今度は浅く噛んだ。
短い。
深くはない。
だが、先ほどの歯形の近くに、もう一つ、確かに痕が残る強さだった。
クラウディオの目が本気で鋭くなる。
「二度目はさすがに無礼だぞ」
ルストは顔を上げる。
「一度で認めないからだ」
「認めるものがない」
「なら、なぜ怒っている」
「貴様が噛んだからだ」
「その前からだ」
「しつこい」
「お前が逃げるからだ」
「逃げていない」
「逃げている」
「壁際に追い込んでおいて、逃げているとは大した言い草だな」
クラウディオの声には怒りがある。
だが、彼はまだルストを突き飛ばしていない。
その事実が、二人の間に重く残る。
ルストは、強く押さえつけてはいない。
クラウディオが本気で退けと言えば、退く。
嫌だと言えば、止まる。
それを分かった上で、クラウディオは言わない。
言わないまま、皮肉で噛み返す。
ルストは低く言った。
「嫉妬を責めているんじゃない」
「していないものを責められても困る」
「隠すなと言っている」
「隠すものがない」
「お前が言わないから、全部歪む」
「歪ませているのは貴様の歯だ」
「言葉にしないなら、また別のものが残る」
クラウディオの視線が、肩口へ落ちかけた。
自分では見えない位置。
鏡を使わなければ確認しにくい場所。
首筋のように、誰かの目に触れる位置ではない。
手首のように、自分で容易に見せつけることもできない。
服を整えれば隠れる。
だが、痛みは残る。
布が触れるたびに思い出す。
そこを選んだ意味に、クラウディオは気づいていた。
他人へ見せるための痕ではない。
二人だけが知るための痕。
言葉で認めない感情の、隠れた証拠。
それが分かったから、腹立たしかった。
腹立たしいのに、退けとは言わない自分が、さらに腹立たしかった。
「俺の肩を尋問台にするな」
クラウディオが言う。
ルストは静かに返す。
「お前が証言しないからだ」
「貴様の中では会話と傷害が同じ棚に並んでいるのか」
「傷害にはしていない」
「加減したことを誇るな」
「嫌なら止めた」
「言わなかった俺が悪いと?」
「言えば止める」
クラウディオは黙った。
短い沈黙。
その沈黙こそが、何より面倒だった。
ルストはクラウディオに無理やり告白させたいわけではない。嫉妬したことを責めたいわけでもない。ただ、なかったことにされるのが嫌だった。
リュシアンの時、自分も利用された。
クラウディオの不快感も見えた。
それなのに、クラウディオが「していない」「関係ない」「雑な捕物に呆れただけだ」と切り捨てる。
そのたびに、何かが歪む。
言葉にしないものは消えるわけではない。
別の場所に残る。
血に。
噛み跡に。
皮肉に。
距離に。
ルストはそれを知っている。
クラウディオも、知っているはずだった。
「お前が嫉妬したことを、俺は責めない」
ルストは言った。
クラウディオの赤い目が、鋭く上がる。
「だから、していないと言っている」
「リュシアンに触れられて、何も思わなかったのか」
「思ったとも。芝居臭い、薄汚い、手袋ごと焼きたい。以上だ」
「俺に触れたことは」
「貴様の袖の衛生状態を憂慮した」
「クラウディオ」
名前を呼ばれて、クラウディオの口が一瞬止まった。
ルストは、押しつけるようには言わない。
ただ、近い距離で見る。
「俺は、リュシアンを受け入れたわけじゃない」
「知っている」
クラウディオの返答は早かった。
それは、これまでの否定とは違う速さだった。
本当に知っているから出た速さ。
ルストは続けた。
「振り払わなかったのは、制圧のためだ」
「知っている」
「なら、なぜ怒った」
クラウディオは黙る。
今度は即答しなかった。
その沈黙が、先ほどまでの否定よりも正直だった。
ルストは視線を外さない。
クラウディオは、やがて冷たく笑った。
「貴様の捕物が雑だったからだ」
「またそれか」
「事実は何度聞いても事実だ」
「嘘だ」
「噛むぞと言われる側より、噛んだ側がその台詞を吐くのは図々しいな」
「俺は、もう噛んだ」
「最悪の開き直りだ」
ルストの口元が、わずかに動いた。
笑ったわけではない。
ただ、怒りの輪郭が少しだけ変わった。
クラウディオはそれを見た。
見てしまった。
そして、余計に機嫌が悪くなった。
「満足したか、灰銀。王の肩に歯形をつけるという蛮行を成し遂げて」
「満足はしていない」
「では何だ。次は骨にでも署名する気か」
「名前を聞きたいだけだ」
「しつこい」
「お前が認めないからだ」
「認めるものがない」
ルストは、もう噛まなかった。
代わりに、肩口から少し離れた。
距離が完全に戻ったわけではない。まだ近い。だが、クラウディオが息を整えられるだけの空間はできた。
クラウディオはすぐに襟元を直した。
乱れていたわけではない。
噛み跡を隠すためだ。
その動作が、逆に痕の存在を強調していることに、本人も気づいていた。
ルストが言う。
「治すのか」
「当然だろう。貴様の歯形を保存する趣味はない」
「そうか」
クラウディオはルストを睨んだ。
「何だ、その顔は」
「別に」
「腹立たしい顔をするな」
「していない」
「している」
「お前もさっき同じことを言った」
「俺の否定と貴様の否定を同列に並べるな。格が違う」
ルストは返事をしなかった。
ただ、肩口を一度見た。
襟の下に隠れた痕は、もう外からは見えない。
二人だけが知っている。
隠れているのに、確かに残っている。
◇
クラウディオが肩口の痕を見たのは、その数分後だった。
安全拠点の洗面台の前。
古い鏡の下に、白い照明が落ちている。廊下よりもさらに冷たい光だった。
クラウディオは扉を閉め、襟を少しずらした。
肩口に、赤い歯形が残っていた。
深い傷ではない。
血が流れているわけでもない。
だが、皮膚にはっきりと痕がある。先に噛まれた位置と、そのすぐ近くに浅く重ねられた二度目の痕。服で隠れる。首筋や手首のように、誰かに見せるものではない。鏡を使わなければ、自分でも確認しづらい。
だからこそ、腹が立つ。
治せる。
吸血鬼王である彼にとって、この程度の痕を消すのは難しくない。魔力を流せば、皮膚はすぐに戻る。痛みも消える。布が触れた時に思い出すこともなくなる。
治さない理由はない。
だが、クラウディオの指先は傷に触れただけで止まった。
治癒の魔力を流さなかった。
鏡の中の自分が、ひどく不機嫌な顔をしている。
「馬鹿馬鹿しい」
低く呟く。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
ルストへか。
自分へか。
肩口の痕へか。
あるいは、それを消さない選択へか。
クラウディオはもう一度、歯形を見た。
痛みは薄い。
だが残っている。
服が触れれば、思い出すだろう。
リュシアンの白い指がルストの袖を掴んだ瞬間。
ルストが振り払わなかったこと。
自分が笑ったこと。
黙っていろ、と言われたこと。
そして、その後にルストが距離を詰めたこと。
嫉妬ではない。
クラウディオは鏡の中の自分へ、ほとんど反射のようにそう言い聞かせた。
嫉妬ではない。
芝居臭い手が嫌いなだけだ。
リュシアンの泣き声が不愉快だっただけだ。
ルストの捕物が雑だっただけだ。
安全上の問題だ。
衛生上の問題だ。
証拠管理上の問題だ。
理由なら、いくらでも並べられる。
しかし、肩口の歯形は、それらの言葉を聞かなかった。
ただ、そこに残っていた。
クラウディオは舌打ちをし、襟を戻す。
治さなかった。
治さなかった事実に腹を立てながら、何事もなかったように扉を開けた。
◇
廊下へ戻ると、ルストが壁際に立っていた。
待っていたのか。
偶然か。
クラウディオはそれを聞かなかった。
聞けば、また面倒な会話になる。
「治したのか」
ルストが問う。
クラウディオは即答した。
「消す価値もない」
ルストは少しだけ黙る。
「残したのか」
「耳まで悪くなったか。消す価値がないと言った」
「残したんだな」
クラウディオは赤い目で睨む。
「貴様の解釈は、いつも野蛮な方向へ伸びるな。剪定が必要だ」
「さっきも言っていた」
「何度でも言う。貴様には効きが悪い」
ルストは、クラウディオの襟元を見た。
痕は見えない。
隠れている。
けれど、そこにある。
クラウディオが消さなかったなら、そこにある。
それ以上、ルストは追及しなかった。
言葉にしないなら、別のものが残る。
今は、それで十分だった。
クラウディオは、それが気に入らないという顔をしていた。
だが、やはり否定しきれなかった。
その時、澪奈から通信が入った。
端末が鳴る。
ルストが応答すると、画面に澪奈の顔が映った。背後には解析室の青白い光が見える。彼女の表情は硬い。
『白瀬真帆が、リュシアンの逃走を手引きしようとしていた証拠が出ました』
空気が切り替わった。
クラウディオの目から、先ほどまでの個人的な苛立ちが一段引く。
代わりに、事件を見る冷たい目になる。
ルストも端末へ視線を落とした。
「何が出た」
『病院の裏口と非常階段の記録が繋がりました。真帆さんの権限で一時的に通れる状態になっていた扉があります。処置室から見つかった封筒の中にも、リュシアンさんの移動と一致する記録がありました。あと、削除された映像断片の復元が進んでいます』
榊の声も遠くから入る。
『逃走手引きの具体はまだ確認中だ。ただ、偶然では済まない』
クラウディオは襟元を直した。
肩口の痛みが、布の下でわずかに主張する。
彼はそれを無視した。
「善意の看護師は、逃走経路の処方までしていたわけか」
澪奈が画面越しに眉を寄せる。
『まだ断定は避けます。ただ、真帆さんがリュシアンさんを逃がそうとしていた可能性は高いです』
ルストは静かに言った。
「行くぞ」
クラウディオは端末に映る資料を見下ろした。
白瀬真帆の名前。
非常階段の記録。
処置室の封筒。
リュシアンの逃走経路。
それらが、静かに重なっていく。
肩口の痛みを襟の下に隠したまま、クラウディオは端末に映る澪奈の報告を見下ろした。
白瀬真帆の名前が、リュシアンの逃走経路の上に、静かに重なっていた。




