第116話 善意の裏口
安全拠点の解析室には、夜がまだ残っていた。
窓の外は暗い。霧杜市の街灯が遠くに滲み、雨でもないのに硝子の向こうは薄く濡れて見える。部屋の中では端末の光だけが青白く、机の上に積み上げられた資料と封筒と記録媒体を照らしていた。
白瀬真帆の名前は、いくつもの記録に重なっていた。
リュシアン・ヴェルネの逃走時刻。
病院裏口の出入り記録。
非常階段の解錠ログ。
処置室の封筒。
被害者支援資料の改訂履歴。
願い屋関連患者の記憶反応記録。
灰島の帳簿に似た分類符号。
そして、外部送付先を示す匿名化された略号。
澪奈は端末の前に座り、画面を見つめていた。疲労はある。だが、目は冴えている。怒りで眠気が削がれている目だった。
「白瀬真帆が、リュシアンを助けたわけではありません」
その声は、抑えられていた。
抑えられているからこそ、硬い。
榊が腕を組む。
「利用していた、ということか」
「はい」
澪奈は、画面にリュシアンの記録を表示した。
リュシアン・ヴェルネ。
旧欧州系吸血鬼貴族の血を引く半血の令息。
家を戻す願い。
妹エレーヌの記憶。
使用人たちの寿命。
家に残っていた血族の力。
被害者としての証言。
泣くタイミング。
助けようとしただけ、という言い回し。
怪異に利用された、という逃げ方。
「リュシアンのような“被害者ぶった加害者”は、観察対象として都合がよかったんです」
ルストは画面を見ていた。
表情は静かだ。
だが、静かすぎた。
リュシアンを守ろうとした自分の判断が、エレーヌの苦しみを見落としかけた。第112話からずっと、その重さが彼の中に残っている。第113話でリュシアンに接触し、第114話でクラウディオの不機嫌を見、第115話で肩口に歯形を残した後でも、それは消えていない。
クラウディオは壁際に立っていた。
襟はきちんと整えられている。
だが、その下には歯形がある。
服を着れば隠れる、肩口の痕。
首筋でも手首でもない。他人へ見せるためのものではない。二人だけが知っている隠れた証拠。
クラウディオはそれを治していない。
本人は認めない。
消す価値もない、と言った。
しかし、布が肩に触れるたび、ごく薄い痛みが残る。そのたびに、彼の眉間がわずかに動く。
ルストはそれに気づいていた。
いまは言わない。
言えば、事件より面倒な会話が始まる。人形師の吸血鬼王は、こういう時の口数だけが異様に多い。黙っている方がまだ効率的だった。
クラウディオは端末の画面を見下ろし、薄く笑った。
「泣き顔がよく育つ飼育箱を見つけたわけか」
澪奈は一瞬だけ彼を見た。
否定はしなかった。
むしろ、その言い方が不快なほど近いのだと分かっている顔だった。
「真帆さんは、願い屋事件後の被害者支援の場を使っていました」
画面が切り替わる。
相談記録。
支援資料。
病院の案内。
患者家族への聞き取り。
面談時の反応メモ。
封筒に入れられた記憶反応の紙片。
そこには、本物の被害者もいた。
血を失った者。
記憶を奪われた者。
家族を失った者。
願い屋のせいで人生の一部を削られた者。
だが、そこに混ざっていた。
願った結果、他人を傷つけた者。
自分の願いで誰かを失わせた者。
怪異に騙されたと主張する者。
自分も被害者だと言いながら、誰かを代償にした者。
善意のふりをして他人の記憶を奪った者。
泣きながら責任を逃れようとする者。
真帆は、その全員を「支援する」顔で見ていた。
支援の言葉で座らせ、記録の名で整え、苦しみの名で分類した。
澪奈は続ける。
「記録には、罪悪感、自己弁護、涙、恐怖、開き直り、という項目があります」
画面に文字が並ぶ。
罪悪感反応。
自己弁護反応。
涙反応。
恐怖反応。
開き直り反応。
加害否認時の記憶揺らぎ。
怪異利用主張。
被害者性偽装。
榊の眉が深く寄る。
「“被害者性偽装反応”という項目があります」
「何だ、それは」
「被害者のふりをする時の感情反応を、分類しようとしたものです」
クラウディオが鼻で笑った。
「泣き顔に棚番をつけたわけだ」
澪奈は唇を結ぶ。
怒りを飲み込むように、一度だけ息を整えた。
「被害者性の偽装を数値化する」
その言葉が、部屋の中で妙に冷たく響いた。
榊が低く言う。
「研究目的か」
「送付先の一部に、東都認知生命研究センターへ繋がる略号があります。直接名は伏せられていますが、第98話以降の貸与記録と符号体系が似ています。ただし、まだ全貌は分かりません」
「久遠院は」
「直接の名前はありません。現時点では確定できません」
クラウディオは肩口へ服が擦れるのを感じながら、画面を見ていた。
痛みは薄い。
だが、消えない。
ルストの歯形。
言葉にならなかった答え。
彼はそれを無視する。
無視して、事件だけを見る。
「研究施設は、願いの器だけでは飽き足らず、泣き方まで欲しがったか」
澪奈が硬い声で返す。
「分類できると思ったんでしょう」
「分類した時点で理解した気になる病か。人類の持病だな」
榊は苛立ちを隠さず、机に手を置いた。
「真帆はリュシアンを逃がそうとしていたんじゃないのか」
澪奈は別のファイルを開く。
「逃がすことも目的の一部だった可能性はあります。でも、記録を見る限り、それだけではありません。リュシアンさんが逃げようとした時の反応も、対象に入っています」
榊の顔が歪む。
「逃げる時の反応まで見てたってことか」
「はい。逃走時の恐怖、自己保存反応、責任逃避、保護者への再接触、観察者への回避。そういう項目があります」
クラウディオは低く言った。
「檻の扉を開ければ、獣がどう走るか分かる。飼育係らしい発想だ」
その言葉に、澪奈の指が止まる。
クラウディオは続けた。
「看護師ではなく、飼育係だな。善意の顔で檻を掃除していただけだ」
部屋が静まった。
酷い言い方だった。
だが、間違っているとは誰も言えなかった。
真帆は患者を救うふりをして、反応を取りやすい形に整えていた。苦しみを薄めると言い、記憶を預かると言い、本人が耐えられない痛みを遠ざけると言った。
その結果、患者は落ち着くかもしれない。
家族は泣き止むかもしれない。
証言は整理されるかもしれない。
だが、それは同時に、観察しやすい檻を作ることでもあった。
善意の顔で、檻の汚れを拭き、白いカーテンを掛け、そこにいる者が檻の中にいることを忘れさせる。
クラウディオは、それを嫌悪していた。
◇
澪奈は、画面を閉じずに言った。
「分析すること自体が悪いとは思いません」
その声には、強い感情があった。
彼女は科学捜査側の人間だ。
記録する。
比較する。
数値を見る。
反応を残す。
それらの重要性を誰よりも分かっている。怪異事件ではなおさらだ。目に見えないものを、見える形にしなければならない。証拠がなければ、被害者も加害者も、怪異も人間も、全部が曖昧な霧へ逃げていく。
だからこそ、真帆のやり方が許せなかった。
「記録は必要です。怪異事件では、なおさら。感情反応や記憶反応も、残さなければ検証できません」
澪奈は、真帆の封筒を一つ手に取った。
白い封筒。
短い番号。
患者名はない。
中には、記憶反応と感情反応を記した紙片が入っている。
「でもこれは、救うための記録ではありません」
彼女の声が、少しだけ低くなる。
「苦しむ人たちを支えるふりをして、都合のいい反応を取り出しているだけです」
榊は黙って聞いていた。
澪奈の怒りは、彼にはよく分かった。
科学や記録の名を、逃げ道に使うこと。
支援の場を、観察場に変えること。
本物の被害者の言葉まで疑われるようにしてしまうこと。
それは、事件そのものとは別の意味で許しがたい。
「本物の被害者の言葉まで、汚される」
澪奈は言った。
その一言は、部屋の中に残った。
ルストは静かに頷く。
「救いたかったことまで、嘘ではない」
クラウディオが返す。
「だから質が悪い」
ルストは目を伏せる。
真帆は、患者に寄り添っていた。
家族の話を聞いていた。
夜勤でも疲れた顔を見せず、混乱した患者の手を握っていた。
エレーヌが真帆の声で落ち着いたことも、嘘ではない。
彼女に助けられた人もいた。
それは消えない。
だから、単純な悪人として切り捨てるには、あまりに厄介だった。
だが、善意があることは免罪符ではない。
真帆は、人が何を覚え、何を忘れ、どこまで苦しむかを、自分の手で調整しようとした。
救いを、自分が管理できる形に変えた。
ルストは低く言う。
「彼女は、本当に救いたかったんだろう」
クラウディオは画面を見たまま答えた。
「救いの形を自分の手に収まる大きさへ削った」
「だから厄介だ」
「善意の刃は、抜かれるまで温かい」
ルストは黙った。
クラウディオの肩口の痕が、襟の下に隠れていることを思い出す。
言葉にならないものも、残る。
善意も、支配も。
救いも、檻も。
人は、いつも綺麗な言葉で汚れたものを包む。
真帆は、それが上手かった。
上手すぎた。
◇
真帆の処置室から押収されたものは、すでに安全拠点へ運ばれていた。
現場の病院を悪として扱うわけにはいかない。
医療者全体を疑うわけにもいかない。
だが、真帆が使っていたロッカー、処置室の引き出し、記録棚、封筒の保管場所、個人端末、支援資料の改訂履歴は調べる必要があった。
榊は慎重に言った。
「病院側とは協力関係を維持する。真帆個人と、外部に流れた記録を分ける」
クラウディオは薄く笑う。
「ようやく分別を覚えたか」
「お前は黙ってろ」
「最近、灰銀も貴様も俺に黙れと言う。流行病か」
ルストが横目で見る。
「痛むか」
クラウディオの目が、すぐに赤く冷える。
「誰のせいだと思っている」
「治していない」
「治す価値もないだけだ」
「そうか」
「納得するな。不愉快だ」
榊が二人を見た。
何かを察しかけた顔をしたが、すぐに視線を資料へ戻した。大人の判断だった。事件中に吸血鬼二体の面倒な距離感へ首を突っ込むほど、榊も暇ではない。暇でもやりたくないだろう。賢明である。
澪奈が封筒を一つずつ確認していた。
「これが、リュシアンさんの記録です」
画面に、複数の項目が表示される。
罪悪感反応:高。
自己弁護反応:高。
加害認識:揺らぎ。
涙反応:意図的利用傾向。
救助者接触時反応:顕著。
観察者回避:顕著。
怪異利用主張:反復。
被害者性偽装:適性高。
榊が低く言った。
「適性、だと」
澪奈は唇を引き結んだ。
「リュシアンさんを、支援対象としてだけではなく、観察対象として見ていたんだと思います」
クラウディオが言う。
「理想的だろうな。罪悪感はある。恐怖も本物。だが責任は認めない。泣く。縋る。自分を被害者に置き直す。ルストのような救助者を揺らし、俺のような観察者には嫌われる。反応の品揃えがいい」
ルストはクラウディオを見る。
少しだけ目が細くなる。
「俺を例に出すな」
「事実だ」
「分かっている」
その返答に、クラウディオは一瞬だけ黙った。
ルストは、もうリュシアンの涙に揺らいだことを否定しない。自分の判断が利用されたことも認めている。その上で、見るべきものを見ようとしている。
クラウディオは、そういうところを嫌ってはいない。
嫌ってはいないことを、もちろん口にはしない。
代わりに、別の資料へ目を移した。
「真帆はリュシアンを助けるつもりだったのか」
澪奈が首を横に振る。
「助けるというより、逃げようとする彼の反応も記録したかった可能性があります。非常階段の解錠記録と、封筒内のメモが一致します。ただし、具体的な手順としては伏せます。重要なのは、偶然ではなく、真帆さんの権限とリュシアンさんの動きが重なっていることです」
榊が苦々しく言う。
「支援者の顔で逃走経路を用意したわけか」
クラウディオは肩口の痛みを無視しながら返した。
「檻の裏口を開けて、どこへ逃げるか見たかったのだろう。善意の裏口だな」
その言い方に、誰も笑わなかった。
◇
澪奈は、外部送付記録を開いた。
そこには、患者名の代わりに番号が並んでいる。
願い屋関連。
記憶反応。
感情反応。
被害者性偽装。
加害否認。
観察済。
送付済。
送付先は、完全には明らかになっていない。だが、符号の一部は東都認知生命研究センターの過去の貸与記録と似ている。
第98話以降に浮かび上がっていた、怪異研究施設への影。
願いの器。
記憶の棺。
赤い小瓶。
研究施設へ流れた代償品。
その流れが、病院の記録へ繋がっていた。
「真帆さんの記録は、病院内に留まっていません」
澪奈が言う。
「外部に送られています。対象は、願い屋事件の被害者だけではありません。被害者を装う加害者たちの感情反応も含まれています」
榊が吐き捨てるように言った。
「人の苦しみを、何だと思ってる」
クラウディオは静かに返す。
「材料だろうな。あちらの棚では」
ルストの拳が、わずかに握られる。
彼は第108話で、泣く者を疑いきれなかった。
それは弱さではない。
だが、真帆のような者にとっては、救助者の反応すら観察対象になり得る。
誰が泣き声に近づくか。
誰が手を伸ばすか。
誰が疑うか。
誰が見抜くか。
誰が揺れるか。
全てを記録する。
その発想に、ルストは静かな嫌悪を覚えた。
「救いを、観察できる形に変えた」
ルストが言う。
クラウディオは頷かない。
ただ、言った。
「観察しやすいものは管理しやすい。管理しやすいものは売りやすい。人間は、昔からその順番が好きだ」
「お前は、人間を悪く言いすぎる」
「今回に限っては、やや控えめだと思うが」
ルストは否定しなかった。
否定できなかった。
◇
処置室から運ばれてきた押収品の中に、まだ未確認の小箱があった。
白い紙箱。
病院で使われる備品の箱に紛れていたものだ。
澪奈が手袋をして箱を開ける。
中には、小さな時計が入っていた。
白いナースウォッチだった。
丸い文字盤。
白い外装。
制服の胸ポケットやナース服に留めるためのクリップ。
普通に見れば、清潔な医療道具にしか見えない。
だが、秒針が赤かった。
その赤い針は、普通の時計とは少し違う動きをしていた。規則正しく進んでいるようで、ときおり微かに震える。止まる直前の虫の脚のように、ほんのわずか不自然に跳ねる。
クラウディオが顔を上げた。
「匂うな」
ルストも近づく。
澪奈は時計を透明な証拠袋越しに持ち上げた。
「願い屋の反応があります。小瓶と同じ系統です」
榊の顔が険しくなる。
「ナースウォッチか」
「普通の時計に見えます。でも、裏蓋に痕があります」
澪奈が慎重に裏側を映す。
裏蓋の端に、小さな赤い輪があった。
願い屋の契約痕に似た、細い輪。
赤い小瓶の口に残っていた糸のような色。
白い外装の中に、わずかな赤。
真帆の善意の顔と、願い屋の代償の赤が混ざったような道具だった。
ルストが低く言う。
「これで、記憶を」
クラウディオが答えた。
「抜いた。あるいは、薄めた。どちらにせよ、本人の許可ではない」
澪奈は時計の反応を端末へ記録する。
「患者さんの記憶反応や感情反応に近づけると、秒針が揺れるようです。使い方は断定できません。ただ、処置室の記録、封筒、真帆さんのメモ、願い屋反応と一致します」
クラウディオは白いナースウォッチを見下ろした。
「白い顔をしているな。持ち主に似た道具だ」
榊は険しい声で言う。
「これが真帆の怪異具か」
「少なくとも、彼女の“救い”に使われた道具です」
澪奈の声は硬かった。
白いナースウォッチは、証拠袋の中で静かに揺れていた。
清潔に見える。
どこにでもありそうな道具に見える。
患者の脈を数えるために使うもののように。
時間を測るために使うもののように。
だが、その奥に、赤い小瓶と同じ保存臭がある。
閉じ込められた記憶の匂い。
薄められた感情の匂い。
救いの名で削られた輪郭の匂い。
ルストは、無意識にクラウディオの肩口を見た。
隠れた歯形は見えない。
だが、そこにある。
言葉にならないものが、痕として残る。
真帆は、それを封筒に入れ、番号を振り、時計で測り、施設へ送った。
ルストは、その違いを思った。
残すことと、奪うことは違う。
形にすることと、管理することは違う。
クラウディオが、記憶は材料ではないと言った意味が、また少し重くなる。
白いナースウォッチの秒針が、誰も触れていないのに一度だけ跳ねた。
その赤い針の奥から、《願い屋》の小瓶と同じ、閉じ込められた記憶の匂いがした。




