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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第8部 【被害者を装う者たち】

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第116話 善意の裏口



 安全拠点の解析室には、夜がまだ残っていた。


 窓の外は暗い。霧杜市の街灯が遠くに滲み、雨でもないのに硝子の向こうは薄く濡れて見える。部屋の中では端末の光だけが青白く、机の上に積み上げられた資料と封筒と記録媒体を照らしていた。


 白瀬真帆の名前は、いくつもの記録に重なっていた。


 リュシアン・ヴェルネの逃走時刻。


 病院裏口の出入り記録。


 非常階段の解錠ログ。


 処置室の封筒。


 被害者支援資料の改訂履歴。


 願い屋関連患者の記憶反応記録。


 灰島の帳簿に似た分類符号。


 そして、外部送付先を示す匿名化された略号。


 澪奈は端末の前に座り、画面を見つめていた。疲労はある。だが、目は冴えている。怒りで眠気が削がれている目だった。


「白瀬真帆が、リュシアンを助けたわけではありません」


 その声は、抑えられていた。


 抑えられているからこそ、硬い。


 榊が腕を組む。


「利用していた、ということか」


「はい」


 澪奈は、画面にリュシアンの記録を表示した。


 リュシアン・ヴェルネ。


 旧欧州系吸血鬼貴族の血を引く半血の令息。


 家を戻す願い。


 妹エレーヌの記憶。


 使用人たちの寿命。


 家に残っていた血族の力。


 被害者としての証言。


 泣くタイミング。


 助けようとしただけ、という言い回し。


 怪異に利用された、という逃げ方。


「リュシアンのような“被害者ぶった加害者”は、観察対象として都合がよかったんです」


 ルストは画面を見ていた。


 表情は静かだ。


 だが、静かすぎた。


 リュシアンを守ろうとした自分の判断が、エレーヌの苦しみを見落としかけた。第112話からずっと、その重さが彼の中に残っている。第113話でリュシアンに接触し、第114話でクラウディオの不機嫌を見、第115話で肩口に歯形を残した後でも、それは消えていない。


 クラウディオは壁際に立っていた。


 襟はきちんと整えられている。


 だが、その下には歯形がある。


 服を着れば隠れる、肩口の痕。


 首筋でも手首でもない。他人へ見せるためのものではない。二人だけが知っている隠れた証拠。


 クラウディオはそれを治していない。


 本人は認めない。


 消す価値もない、と言った。


 しかし、布が肩に触れるたび、ごく薄い痛みが残る。そのたびに、彼の眉間がわずかに動く。


 ルストはそれに気づいていた。


 いまは言わない。


 言えば、事件より面倒な会話が始まる。人形師の吸血鬼王は、こういう時の口数だけが異様に多い。黙っている方がまだ効率的だった。


 クラウディオは端末の画面を見下ろし、薄く笑った。


「泣き顔がよく育つ飼育箱を見つけたわけか」


 澪奈は一瞬だけ彼を見た。


 否定はしなかった。


 むしろ、その言い方が不快なほど近いのだと分かっている顔だった。


「真帆さんは、願い屋事件後の被害者支援の場を使っていました」


 画面が切り替わる。


 相談記録。


 支援資料。


 病院の案内。


 患者家族への聞き取り。


 面談時の反応メモ。


 封筒に入れられた記憶反応の紙片。


 そこには、本物の被害者もいた。


 血を失った者。


 記憶を奪われた者。


 家族を失った者。


 願い屋のせいで人生の一部を削られた者。


 だが、そこに混ざっていた。


 願った結果、他人を傷つけた者。


 自分の願いで誰かを失わせた者。


 怪異に騙されたと主張する者。


 自分も被害者だと言いながら、誰かを代償にした者。


 善意のふりをして他人の記憶を奪った者。


 泣きながら責任を逃れようとする者。


 真帆は、その全員を「支援する」顔で見ていた。


 支援の言葉で座らせ、記録の名で整え、苦しみの名で分類した。


 澪奈は続ける。


「記録には、罪悪感、自己弁護、涙、恐怖、開き直り、という項目があります」


 画面に文字が並ぶ。


 罪悪感反応。


 自己弁護反応。


 涙反応。


 恐怖反応。


 開き直り反応。


 加害否認時の記憶揺らぎ。


 怪異利用主張。


 被害者性偽装。


 榊の眉が深く寄る。


「“被害者性偽装反応”という項目があります」


「何だ、それは」


「被害者のふりをする時の感情反応を、分類しようとしたものです」


 クラウディオが鼻で笑った。


「泣き顔に棚番をつけたわけだ」


 澪奈は唇を結ぶ。


 怒りを飲み込むように、一度だけ息を整えた。


「被害者性の偽装を数値化する」


 その言葉が、部屋の中で妙に冷たく響いた。


 榊が低く言う。


「研究目的か」


「送付先の一部に、東都認知生命研究センターへ繋がる略号があります。直接名は伏せられていますが、第98話以降の貸与記録と符号体系が似ています。ただし、まだ全貌は分かりません」


「久遠院は」


「直接の名前はありません。現時点では確定できません」


 クラウディオは肩口へ服が擦れるのを感じながら、画面を見ていた。


 痛みは薄い。


 だが、消えない。


 ルストの歯形。


 言葉にならなかった答え。


 彼はそれを無視する。


 無視して、事件だけを見る。


「研究施設は、願いの器だけでは飽き足らず、泣き方まで欲しがったか」


 澪奈が硬い声で返す。


「分類できると思ったんでしょう」


「分類した時点で理解した気になる病か。人類の持病だな」


 榊は苛立ちを隠さず、机に手を置いた。


「真帆はリュシアンを逃がそうとしていたんじゃないのか」


 澪奈は別のファイルを開く。


「逃がすことも目的の一部だった可能性はあります。でも、記録を見る限り、それだけではありません。リュシアンさんが逃げようとした時の反応も、対象に入っています」


 榊の顔が歪む。


「逃げる時の反応まで見てたってことか」


「はい。逃走時の恐怖、自己保存反応、責任逃避、保護者への再接触、観察者への回避。そういう項目があります」


 クラウディオは低く言った。


「檻の扉を開ければ、獣がどう走るか分かる。飼育係らしい発想だ」


 その言葉に、澪奈の指が止まる。


 クラウディオは続けた。


「看護師ではなく、飼育係だな。善意の顔で檻を掃除していただけだ」


 部屋が静まった。


 酷い言い方だった。


 だが、間違っているとは誰も言えなかった。


 真帆は患者を救うふりをして、反応を取りやすい形に整えていた。苦しみを薄めると言い、記憶を預かると言い、本人が耐えられない痛みを遠ざけると言った。


 その結果、患者は落ち着くかもしれない。


 家族は泣き止むかもしれない。


 証言は整理されるかもしれない。


 だが、それは同時に、観察しやすい檻を作ることでもあった。


 善意の顔で、檻の汚れを拭き、白いカーテンを掛け、そこにいる者が檻の中にいることを忘れさせる。


 クラウディオは、それを嫌悪していた。


     ◇


 澪奈は、画面を閉じずに言った。


「分析すること自体が悪いとは思いません」


 その声には、強い感情があった。


 彼女は科学捜査側の人間だ。


 記録する。


 比較する。


 数値を見る。


 反応を残す。


 それらの重要性を誰よりも分かっている。怪異事件ではなおさらだ。目に見えないものを、見える形にしなければならない。証拠がなければ、被害者も加害者も、怪異も人間も、全部が曖昧な霧へ逃げていく。


 だからこそ、真帆のやり方が許せなかった。


「記録は必要です。怪異事件では、なおさら。感情反応や記憶反応も、残さなければ検証できません」


 澪奈は、真帆の封筒を一つ手に取った。


 白い封筒。


 短い番号。


 患者名はない。


 中には、記憶反応と感情反応を記した紙片が入っている。


「でもこれは、救うための記録ではありません」


 彼女の声が、少しだけ低くなる。


「苦しむ人たちを支えるふりをして、都合のいい反応を取り出しているだけです」


 榊は黙って聞いていた。


 澪奈の怒りは、彼にはよく分かった。


 科学や記録の名を、逃げ道に使うこと。


 支援の場を、観察場に変えること。


 本物の被害者の言葉まで疑われるようにしてしまうこと。


 それは、事件そのものとは別の意味で許しがたい。


「本物の被害者の言葉まで、汚される」


 澪奈は言った。


 その一言は、部屋の中に残った。


 ルストは静かに頷く。


「救いたかったことまで、嘘ではない」


 クラウディオが返す。


「だから質が悪い」


 ルストは目を伏せる。


 真帆は、患者に寄り添っていた。


 家族の話を聞いていた。


 夜勤でも疲れた顔を見せず、混乱した患者の手を握っていた。


 エレーヌが真帆の声で落ち着いたことも、嘘ではない。


 彼女に助けられた人もいた。


 それは消えない。


 だから、単純な悪人として切り捨てるには、あまりに厄介だった。


 だが、善意があることは免罪符ではない。


 真帆は、人が何を覚え、何を忘れ、どこまで苦しむかを、自分の手で調整しようとした。


 救いを、自分が管理できる形に変えた。


 ルストは低く言う。


「彼女は、本当に救いたかったんだろう」


 クラウディオは画面を見たまま答えた。


「救いの形を自分の手に収まる大きさへ削った」


「だから厄介だ」


「善意の刃は、抜かれるまで温かい」


 ルストは黙った。


 クラウディオの肩口の痕が、襟の下に隠れていることを思い出す。


 言葉にならないものも、残る。


 善意も、支配も。


 救いも、檻も。


 人は、いつも綺麗な言葉で汚れたものを包む。


 真帆は、それが上手かった。


 上手すぎた。


     ◇


 真帆の処置室から押収されたものは、すでに安全拠点へ運ばれていた。


 現場の病院を悪として扱うわけにはいかない。


 医療者全体を疑うわけにもいかない。


 だが、真帆が使っていたロッカー、処置室の引き出し、記録棚、封筒の保管場所、個人端末、支援資料の改訂履歴は調べる必要があった。


 榊は慎重に言った。


「病院側とは協力関係を維持する。真帆個人と、外部に流れた記録を分ける」


 クラウディオは薄く笑う。


「ようやく分別を覚えたか」


「お前は黙ってろ」


「最近、灰銀も貴様も俺に黙れと言う。流行病か」


 ルストが横目で見る。


「痛むか」


 クラウディオの目が、すぐに赤く冷える。


「誰のせいだと思っている」


「治していない」


「治す価値もないだけだ」


「そうか」


「納得するな。不愉快だ」


 榊が二人を見た。


 何かを察しかけた顔をしたが、すぐに視線を資料へ戻した。大人の判断だった。事件中に吸血鬼二体の面倒な距離感へ首を突っ込むほど、榊も暇ではない。暇でもやりたくないだろう。賢明である。


 澪奈が封筒を一つずつ確認していた。


「これが、リュシアンさんの記録です」


 画面に、複数の項目が表示される。


 罪悪感反応:高。


 自己弁護反応:高。


 加害認識:揺らぎ。


 涙反応:意図的利用傾向。


 救助者接触時反応:顕著。


 観察者回避:顕著。


 怪異利用主張:反復。


 被害者性偽装:適性高。


 榊が低く言った。


「適性、だと」


 澪奈は唇を引き結んだ。


「リュシアンさんを、支援対象としてだけではなく、観察対象として見ていたんだと思います」


 クラウディオが言う。


「理想的だろうな。罪悪感はある。恐怖も本物。だが責任は認めない。泣く。縋る。自分を被害者に置き直す。ルストのような救助者を揺らし、俺のような観察者には嫌われる。反応の品揃えがいい」


 ルストはクラウディオを見る。


 少しだけ目が細くなる。


「俺を例に出すな」


「事実だ」


「分かっている」


 その返答に、クラウディオは一瞬だけ黙った。


 ルストは、もうリュシアンの涙に揺らいだことを否定しない。自分の判断が利用されたことも認めている。その上で、見るべきものを見ようとしている。


 クラウディオは、そういうところを嫌ってはいない。


 嫌ってはいないことを、もちろん口にはしない。


 代わりに、別の資料へ目を移した。


「真帆はリュシアンを助けるつもりだったのか」


 澪奈が首を横に振る。


「助けるというより、逃げようとする彼の反応も記録したかった可能性があります。非常階段の解錠記録と、封筒内のメモが一致します。ただし、具体的な手順としては伏せます。重要なのは、偶然ではなく、真帆さんの権限とリュシアンさんの動きが重なっていることです」


 榊が苦々しく言う。


「支援者の顔で逃走経路を用意したわけか」


 クラウディオは肩口の痛みを無視しながら返した。


「檻の裏口を開けて、どこへ逃げるか見たかったのだろう。善意の裏口だな」


 その言い方に、誰も笑わなかった。


     ◇


 澪奈は、外部送付記録を開いた。


 そこには、患者名の代わりに番号が並んでいる。


 願い屋関連。


 記憶反応。


 感情反応。


 被害者性偽装。


 加害否認。


 観察済。


 送付済。


 送付先は、完全には明らかになっていない。だが、符号の一部は東都認知生命研究センターの過去の貸与記録と似ている。


 第98話以降に浮かび上がっていた、怪異研究施設への影。


 願いの器。


 記憶の棺。


 赤い小瓶。


 研究施設へ流れた代償品。


 その流れが、病院の記録へ繋がっていた。


「真帆さんの記録は、病院内に留まっていません」


 澪奈が言う。


「外部に送られています。対象は、願い屋事件の被害者だけではありません。被害者を装う加害者たちの感情反応も含まれています」


 榊が吐き捨てるように言った。


「人の苦しみを、何だと思ってる」


 クラウディオは静かに返す。


「材料だろうな。あちらの棚では」


 ルストの拳が、わずかに握られる。


 彼は第108話で、泣く者を疑いきれなかった。


 それは弱さではない。


 だが、真帆のような者にとっては、救助者の反応すら観察対象になり得る。


 誰が泣き声に近づくか。


 誰が手を伸ばすか。


 誰が疑うか。


 誰が見抜くか。


 誰が揺れるか。


 全てを記録する。


 その発想に、ルストは静かな嫌悪を覚えた。


「救いを、観察できる形に変えた」


 ルストが言う。


 クラウディオは頷かない。


 ただ、言った。


「観察しやすいものは管理しやすい。管理しやすいものは売りやすい。人間は、昔からその順番が好きだ」


「お前は、人間を悪く言いすぎる」


「今回に限っては、やや控えめだと思うが」


 ルストは否定しなかった。


 否定できなかった。


     ◇


 処置室から運ばれてきた押収品の中に、まだ未確認の小箱があった。


 白い紙箱。


 病院で使われる備品の箱に紛れていたものだ。


 澪奈が手袋をして箱を開ける。


 中には、小さな時計が入っていた。


 白いナースウォッチだった。


 丸い文字盤。


 白い外装。


 制服の胸ポケットやナース服に留めるためのクリップ。


 普通に見れば、清潔な医療道具にしか見えない。


 だが、秒針が赤かった。


 その赤い針は、普通の時計とは少し違う動きをしていた。規則正しく進んでいるようで、ときおり微かに震える。止まる直前の虫の脚のように、ほんのわずか不自然に跳ねる。


 クラウディオが顔を上げた。


「匂うな」


 ルストも近づく。


 澪奈は時計を透明な証拠袋越しに持ち上げた。


「願い屋の反応があります。小瓶と同じ系統です」


 榊の顔が険しくなる。


「ナースウォッチか」


「普通の時計に見えます。でも、裏蓋に痕があります」


 澪奈が慎重に裏側を映す。


 裏蓋の端に、小さな赤い輪があった。


 願い屋の契約痕に似た、細い輪。


 赤い小瓶の口に残っていた糸のような色。


 白い外装の中に、わずかな赤。


 真帆の善意の顔と、願い屋の代償の赤が混ざったような道具だった。


 ルストが低く言う。


「これで、記憶を」


 クラウディオが答えた。


「抜いた。あるいは、薄めた。どちらにせよ、本人の許可ではない」


 澪奈は時計の反応を端末へ記録する。


「患者さんの記憶反応や感情反応に近づけると、秒針が揺れるようです。使い方は断定できません。ただ、処置室の記録、封筒、真帆さんのメモ、願い屋反応と一致します」


 クラウディオは白いナースウォッチを見下ろした。


「白い顔をしているな。持ち主に似た道具だ」


 榊は険しい声で言う。


「これが真帆の怪異具か」


「少なくとも、彼女の“救い”に使われた道具です」


 澪奈の声は硬かった。


 白いナースウォッチは、証拠袋の中で静かに揺れていた。


 清潔に見える。


 どこにでもありそうな道具に見える。


 患者の脈を数えるために使うもののように。


 時間を測るために使うもののように。


 だが、その奥に、赤い小瓶と同じ保存臭がある。


 閉じ込められた記憶の匂い。


 薄められた感情の匂い。


 救いの名で削られた輪郭の匂い。


 ルストは、無意識にクラウディオの肩口を見た。


 隠れた歯形は見えない。


 だが、そこにある。


 言葉にならないものが、痕として残る。


 真帆は、それを封筒に入れ、番号を振り、時計で測り、施設へ送った。


 ルストは、その違いを思った。


 残すことと、奪うことは違う。


 形にすることと、管理することは違う。


 クラウディオが、記憶は材料ではないと言った意味が、また少し重くなる。


 白いナースウォッチの秒針が、誰も触れていないのに一度だけ跳ねた。


 その赤い針の奥から、《願い屋》の小瓶と同じ、閉じ込められた記憶の匂いがした。




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