表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第8部 【被害者を装う者たち】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

118/125

第117話 ナースウォッチの秒針



 白いナースウォッチは、証拠袋の中で静かに揺れていた。


 清潔な白い外装。


 小さな文字盤。


 丸い硝子。


 制服の胸元に留めるためのクリップ。


 遠目に見れば、病院のどこにでもある道具にしか見えない。脈を測るためのもの。時間を確認するためのもの。白い廊下、消毒液の匂い、夜勤の足音。その中に紛れていれば、誰も疑わない。


 だが、秒針だけが赤かった。


 血のような赤ではない。


 もっと細く、もっと乾いた赤。


 願い屋の小瓶の底に残っていた糸の色に似ていた。


 その赤い秒針は、規則正しく進んでいるようで、ときおり微かに震える。時計ではなく、何かの脈を数えているようだった。あるいは、誰かの記憶の奥で閉じ込められた泣き声が、硝子の内側を叩いているようにも見えた。


 澪奈は端末を操作しながら、慎重に反応を確認していた。


「願い屋の反応があります」


 声は硬い。


 解析室の青白い光が、彼女の横顔を照らしている。


「小瓶と同じ系統です」


 榊が証拠袋越しに時計を見る。


「ただの記録媒体じゃないのか」


「違います」


 澪奈は画面を拡大した。


 ナースウォッチの内部反応が、淡い線で表示される。


 その線は一つではなかった。細い層がいくつも重なっている。濃淡の違う記憶反応。感情反応。願望残滓。まるで、薄い紙を何枚も重ねて押し込んだように、白い時計の内側に人の痛みが層になっていた。


「記憶反応が内部に保存されています」


 ルストは、白いナースウォッチを見下ろした。


 白瀬真帆が病室で身につけていた姿を思い出す。


 穏やかな声。


 患者の手を握る指。


 夜勤明けでも疲れた顔を見せない看護師。


 家族の話を最後まで聞く人。


 白い時計は、その善意の胸元で静かに揺れていたのだろう。


 そして、その秒針が一周するたびに、誰かの痛みを薄めていた。


 クラウディオは、証拠袋の中の時計を見て、低く言った。


「白い顔をしているな。持ち主に似た道具だ」


 その声は淡々としていた。


 だが、ルストには分かった。


 クラウディオは怒っている。


 静かに。


 深く。


 声を荒げない分だけ、怒りは冷たかった。


 肩口の歯形が、服の下でまだ残っているはずだった。第115話でルストがつけた痕。クラウディオは治せるのに治さなかった。今も襟の下に隠れている。時計へ身を乗り出した拍子に布が肩に触れたのか、クラウディオの眉間がほんのわずか動いた。


 ルストはそれに気づいたが、何も言わなかった。


 今は、時計の方が先だ。


     ◇


 ナースウォッチの機能は、真帆の記録と照合することで少しずつ見えてきた。


 秒針一周。


 一分。


 苦痛反応の低下。


 記憶輪郭の薄化。


 感情波形の平坦化。


 対象者の睡眠安定。


 反応保存。


 送付準備。


 澪奈は、画面上の記録を読み上げながら、声を低くした。


「患者の苦痛の記憶を、一分単位で切り取っていたようです」


 榊の顔が険しくなる。


「一分単位?」


「はい。秒針が一周する間に、対象の苦痛の記憶が薄れる。完全に消えるわけではありません。輪郭がぼやけます。話そうとしても、痛みの中心に触れにくくなる」


 ルストが問う。


「記憶はどこへ行く」


「時計の中です」


 澪奈は端末を操作する。


「消えるのではなく、保存されています。そして保存された記憶反応は、封筒の分類や灰島の帳簿に似た符号を通じて、《願い屋》の代償市場へ流されていた可能性があります」


 榊が机を叩きかけ、途中で止めた。


 証拠が散ると分かって、怒りを拳の中へ押し込めたのだ。


「楽にするふりをして、商品にしてたのか」


 澪奈は頷かない。


 頷く代わりに、さらに硬い声で言う。


「この時計は、記録ではなく回収装置です」


 その言葉に、解析室の空気が変わった。


 記録ではない。


 回収。


 患者が苦痛から一時的に楽になる。


 家族は落ち着いたように見える。


 夜は静かになる。


 泣き声は減る。


 看護師は感謝される。


 だが、その裏で、苦痛の記憶は本人から離れ、時計の内側へ保存される。保存された記憶は、願い屋の市場へ流れる。


 善意の白い道具の中で、赤い市場が回っていた。


 クラウディオは目を細める。


「白い道具の中で、赤い市場を回していたわけだ」


 ルストは、時計の赤い秒針を見た。


 針が一度だけ、震える。


 誰かの眠りに反応するように。


 誰かの痛みを探すように。


 その動きは、ただの機械ではない。


 怪異具だ。


 医療道具の顔をした、願い屋の器。


     ◇


 真帆が見つかったのは、病棟の奥にある一時保管室だった。


 逃げようとしていたわけではなかった。


 少なくとも、表面上は。


 彼女は白いカーディガンを羽織り、いつもの穏やかな顔で立っていた。手元に時計はない。時計はすでに押収されている。だが、その顔には焦りよりも、どこか哀しげな静けさがあった。


 榊が前へ出る。


「白瀬真帆。話を聞かせてもらう」


 真帆は目を伏せた。


「患者さんたちは」


「今は保護している。お前が心配する立場じゃない」


 榊の声は冷たい。


 それでも、真帆は怒らなかった。


 むしろ、困ったように微笑んだ。


「私は、患者さんたちを傷つけたかったわけではありません」


 その言葉に、クラウディオが静かに笑う。


「それを言う者の手元ほど、よく汚れている」


 真帆はクラウディオを見る。


 怯えてはいない。


 悲しげではある。


 そして、その悲しげな表情すら、どこまで本物で、どこから管理されたものなのか、もう判断しづらかった。


「苦しみを減らしていただけです」


 真帆は言った。


 声は穏やかだった。


 患者の家族へ説明する時と同じ、柔らかく、受け止めるような声。


「忘れた方が楽なこともあります」


 ルストは黙って聞いていた。


 その言葉には一理ある。


 忘れたい痛みはある。


 抱えているだけで眠れなくなる記憶もある。


 泣き続けることで、心が割れていく人間もいる。


 記憶をすべて抱えていることが、必ずしも美しいわけではない。


 忘却が救いになる夜も、あるのだろう。


 だからこそ、怖い。


 真帆は、その一理を使って、本人の選択を奪っていた。


「全部覚えていることが、本当に幸せなんですか」


 その問いに、誰もすぐには答えなかった。


 答えられない問いだった。


 榊も、澪奈も、ルストも、沈黙した。


 痛みを忘れたいと願う人間はいる。


 思い出せなくなったことで眠れる人もいる。


 記憶が薄れたことで、ようやく食事が喉を通る者もいる。


 真帆は、それを見てきたのだろう。


 彼女が何も感じない悪人なら、もっと簡単だった。


 だが、そうではない。


 彼女は本当に、患者の苦しみを見ていた。


 そして、救いたかった。


 だからこそ、救いを自分の手で管理しようとした。


 クラウディオが一歩前へ出る。


 赤い目は、静かに冷えていた。


「忘れるかどうかを決めるのは本人だ。貴様ではない」


 その声に、真帆の表情がわずかに強張る。


 クラウディオの目の奥で、古い火が揺れた。


 焦げた砂糖の匂い。


 祈りの声。


 火刑台。


 誰かの名前。


 ロウェナ。


 忘れた方が楽だった記憶など、いくつもある。


 忘れられれば、穏やかに眠れた夜もあったかもしれない。焦げた甘い匂いに目を覚ますことも、祈りながら断罪する群衆の声を耳の奥で聞くことも、なくなったかもしれない。


 だが、それを誰かに勝手に切り取られることを、彼は救いとは呼ばない。


 記憶は痛い。


 呪いにもなる。


 人を縛る。


 それでも、所有者は本人だ。


「痛みは本人のものだ」


 クラウディオは続けた。


「記憶が呪いでも、所有者は本人だ」


 真帆は唇を結んだ。


「でも、抱えきれない人もいます」


「救いを名乗るなら、まず本人に選ばせろ」


 クラウディオの声は低い。


「貴様は救ったのではない。選択を奪った」


 真帆の顔に、初めて明確な痛みが浮かんだ。


 怒りではない。


 悲しみでもない。


 自分の善意の中心を、正確に裂かれた者の表情だった。


     ◇


 ルストは、クラウディオの横顔を見た。


 彼は、忘れることを軽蔑しているわけではない。


 忘れたいほどの記憶を、知っている。


 記憶を美化しているわけでもない。


 痛みを抱えることを、正義のように語っているわけでもない。


 ただ、誰かが勝手に奪うことを許さない。


 本人のものを、救いの顔で切り取ることを許さない。


 クラウディオがただ冷たいのではないことを、ルストは改めて見た。


「お前は、忘れることを否定しているわけじゃないんだな」


 ルストが言った。


 クラウディオは、真帆から視線を外さずに返す。


「当然だ。忘れたい記憶の一つや二つで済むなら、俺はもっと穏やかに生きている」


「なら」


「だが、忘れるか抱えるかを決める権利まで他人に渡す気はない」


 ルストは黙った。


 クラウディオの肩口の噛み跡が、襟の下に隠れていることを思う。


 痛みも、記憶も、痕も、本人のものだ。


 勝手に奪われるものではない。


 残すか、消すか。


 それを決めるのは、本人だ。


 クラウディオがあの歯形を治していないことも、彼自身の選択なのだと、ルストは今さらのように思った。


 真帆は静かに首を横へ振る。


「私は、預かっていただけです」


 クラウディオの表情が、さらに冷える。


「返す気のない預かり物を、世間では盗みと呼ぶ」


「違います」


「違わない」


「患者さんたちは、眠れたんです」


 真帆の声に、初めて少しだけ強さが混ざる。


「泣き続けていた人が、眠れるようになりました。家族の名前を呼びながら壊れていく人が、少しだけ落ち着きました。願い屋の代償で、毎晩同じ記憶に戻されていた人が、ようやく朝まで眠れたんです」


 榊が低く言う。


「その記憶を、時計に入れて市場へ流した」


 真帆は目を伏せる。


「私は、苦痛を預かっていただけです」


 澪奈が硬い声で言った。


「預かった記憶反応が、外部へ送られています」


「研究のためです」


「救うための記録ではありません」


「記録しなければ、誰も理解しません」


「理解するために、本人の選択を奪っていい理由にはなりません」


 澪奈の声には怒りがあった。


 分析すること自体を否定しない者の怒り。


 だからこそ、真帆の言葉を許せない。


 真帆は、少しだけ笑った。


 その笑みは疲れていた。


「皆さんは、見たことがないんです。毎日、人の痛みを見続けることを。家族の泣き声を聞き続けることを。何もできないまま、患者さんが壊れていくのを見ることを」


 ルストの目が細くなる。


 真帆は続ける。


「私も、壊されたんです」


 部屋の空気が、静かに動いた。


「毎日、人の痛みを見てきました。救えない苦しみに、私も削られました。患者を救おうとして、こうなったんです」


 榊は何も言わない。


 澪奈も黙っている。


 真帆は、クラウディオを見る。


「私も、被害者です」


 クラウディオは一瞬だけ黙った。


 真帆の苦しみ自体は、嘘ではないのかもしれない。


 苦しむ患者を見続け、泣く家族を支え、救えない夜を積み重ねて壊れた部分は、本当にあったのだろう。


 だが。


「被害を受けたことと、加害を選んだことは別だ」


 クラウディオは切り捨てた。


 声は荒くない。


 だからこそ、逃げ道がなかった。


「壊れたことは、誰かを壊す許可証ではない」


 真帆の表情が凍る。


「苦しんだ人間が、次の加害者にならない保証はない。貴様は被害を理由に、加害を選んだ」


 真帆の指先が、わずかに震えた。


 その震えが、怒りなのか、悲しみなのか、恐怖なのかは分からない。


 ただ、彼女の中で何かが折れかけたことだけは分かった。


     ◇


 その時、澪奈の端末が短く警告音を鳴らした。


 彼女の顔色が変わる。


「待ってください」


 画面に、赤い線が走る。


 ナースウォッチの反応。


 時計は証拠袋の中にあるはずだった。


 だが、反応範囲が広がっている。


「病棟全体に、薄い干渉が出ています」


 榊が振り向く。


「どういうことだ」


「時計の反応が、病棟内の記憶反応に広がっています。一人分ではありません。複数の患者に、薄く干渉が出ています」


 真帆は静かに目を閉じていた。


 そして、ゆっくり開ける。


「なら、私が全部預かります」


 その声は、穏やかだった。


 穏やかすぎた。


「苦しむ必要なんて、ないんです」


 榊が怒鳴る。


「白瀬、時計を止めろ」


 真帆は証拠袋の中のナースウォッチを見る。


 触れていない。


 だが、赤い秒針が動いている。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 病棟のどこかで、眠っていた患者が小さく呻いた。


 遠くのナースステーションがざわつく。


 誰かの記憶が、細い糸で引かれるように揺れた。


 家族の顔。


 願い屋の通知。


 血の匂い。


 後悔。


 恐怖。


 名前。


 失ったもの。


 それらが、眠りの底から薄く引き上げられていく。


 澪奈が端末を操作しながら叫ぶ。


「干渉が広がっています。秒針が一周する前に止めないと、広範囲の記憶反応が時計へ流れます」


 榊が無線へ指示を飛ばす。


「病棟の人間を下げろ。患者を巻き込むな。白瀬を確保しろ」


 クラウディオが一歩出る。


 肩口の布が擦れ、歯形の痛みが一瞬だけ走った。


 彼はそれを無視した。


 赤い目が、白いナースウォッチを射抜く。


「時計を止めろ」


 真帆は微笑んだ。


 悲しげで、優しい笑みだった。


「止めたら、皆がまた思い出してしまいます」


 ルストが低く言う。


「思い出すかどうかも、本人が決めることだ」


 真帆は首を横に振る。


「一分だけでいい。痛みは薄れます」


 クラウディオの声が冷える。


「その一分を、貴様が奪うな」


 白いナースウォッチの赤い秒針が、病棟中の眠りへ向かって、一秒ずつ進み始めた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ