第117話 ナースウォッチの秒針
白いナースウォッチは、証拠袋の中で静かに揺れていた。
清潔な白い外装。
小さな文字盤。
丸い硝子。
制服の胸元に留めるためのクリップ。
遠目に見れば、病院のどこにでもある道具にしか見えない。脈を測るためのもの。時間を確認するためのもの。白い廊下、消毒液の匂い、夜勤の足音。その中に紛れていれば、誰も疑わない。
だが、秒針だけが赤かった。
血のような赤ではない。
もっと細く、もっと乾いた赤。
願い屋の小瓶の底に残っていた糸の色に似ていた。
その赤い秒針は、規則正しく進んでいるようで、ときおり微かに震える。時計ではなく、何かの脈を数えているようだった。あるいは、誰かの記憶の奥で閉じ込められた泣き声が、硝子の内側を叩いているようにも見えた。
澪奈は端末を操作しながら、慎重に反応を確認していた。
「願い屋の反応があります」
声は硬い。
解析室の青白い光が、彼女の横顔を照らしている。
「小瓶と同じ系統です」
榊が証拠袋越しに時計を見る。
「ただの記録媒体じゃないのか」
「違います」
澪奈は画面を拡大した。
ナースウォッチの内部反応が、淡い線で表示される。
その線は一つではなかった。細い層がいくつも重なっている。濃淡の違う記憶反応。感情反応。願望残滓。まるで、薄い紙を何枚も重ねて押し込んだように、白い時計の内側に人の痛みが層になっていた。
「記憶反応が内部に保存されています」
ルストは、白いナースウォッチを見下ろした。
白瀬真帆が病室で身につけていた姿を思い出す。
穏やかな声。
患者の手を握る指。
夜勤明けでも疲れた顔を見せない看護師。
家族の話を最後まで聞く人。
白い時計は、その善意の胸元で静かに揺れていたのだろう。
そして、その秒針が一周するたびに、誰かの痛みを薄めていた。
クラウディオは、証拠袋の中の時計を見て、低く言った。
「白い顔をしているな。持ち主に似た道具だ」
その声は淡々としていた。
だが、ルストには分かった。
クラウディオは怒っている。
静かに。
深く。
声を荒げない分だけ、怒りは冷たかった。
肩口の歯形が、服の下でまだ残っているはずだった。第115話でルストがつけた痕。クラウディオは治せるのに治さなかった。今も襟の下に隠れている。時計へ身を乗り出した拍子に布が肩に触れたのか、クラウディオの眉間がほんのわずか動いた。
ルストはそれに気づいたが、何も言わなかった。
今は、時計の方が先だ。
◇
ナースウォッチの機能は、真帆の記録と照合することで少しずつ見えてきた。
秒針一周。
一分。
苦痛反応の低下。
記憶輪郭の薄化。
感情波形の平坦化。
対象者の睡眠安定。
反応保存。
送付準備。
澪奈は、画面上の記録を読み上げながら、声を低くした。
「患者の苦痛の記憶を、一分単位で切り取っていたようです」
榊の顔が険しくなる。
「一分単位?」
「はい。秒針が一周する間に、対象の苦痛の記憶が薄れる。完全に消えるわけではありません。輪郭がぼやけます。話そうとしても、痛みの中心に触れにくくなる」
ルストが問う。
「記憶はどこへ行く」
「時計の中です」
澪奈は端末を操作する。
「消えるのではなく、保存されています。そして保存された記憶反応は、封筒の分類や灰島の帳簿に似た符号を通じて、《願い屋》の代償市場へ流されていた可能性があります」
榊が机を叩きかけ、途中で止めた。
証拠が散ると分かって、怒りを拳の中へ押し込めたのだ。
「楽にするふりをして、商品にしてたのか」
澪奈は頷かない。
頷く代わりに、さらに硬い声で言う。
「この時計は、記録ではなく回収装置です」
その言葉に、解析室の空気が変わった。
記録ではない。
回収。
患者が苦痛から一時的に楽になる。
家族は落ち着いたように見える。
夜は静かになる。
泣き声は減る。
看護師は感謝される。
だが、その裏で、苦痛の記憶は本人から離れ、時計の内側へ保存される。保存された記憶は、願い屋の市場へ流れる。
善意の白い道具の中で、赤い市場が回っていた。
クラウディオは目を細める。
「白い道具の中で、赤い市場を回していたわけだ」
ルストは、時計の赤い秒針を見た。
針が一度だけ、震える。
誰かの眠りに反応するように。
誰かの痛みを探すように。
その動きは、ただの機械ではない。
怪異具だ。
医療道具の顔をした、願い屋の器。
◇
真帆が見つかったのは、病棟の奥にある一時保管室だった。
逃げようとしていたわけではなかった。
少なくとも、表面上は。
彼女は白いカーディガンを羽織り、いつもの穏やかな顔で立っていた。手元に時計はない。時計はすでに押収されている。だが、その顔には焦りよりも、どこか哀しげな静けさがあった。
榊が前へ出る。
「白瀬真帆。話を聞かせてもらう」
真帆は目を伏せた。
「患者さんたちは」
「今は保護している。お前が心配する立場じゃない」
榊の声は冷たい。
それでも、真帆は怒らなかった。
むしろ、困ったように微笑んだ。
「私は、患者さんたちを傷つけたかったわけではありません」
その言葉に、クラウディオが静かに笑う。
「それを言う者の手元ほど、よく汚れている」
真帆はクラウディオを見る。
怯えてはいない。
悲しげではある。
そして、その悲しげな表情すら、どこまで本物で、どこから管理されたものなのか、もう判断しづらかった。
「苦しみを減らしていただけです」
真帆は言った。
声は穏やかだった。
患者の家族へ説明する時と同じ、柔らかく、受け止めるような声。
「忘れた方が楽なこともあります」
ルストは黙って聞いていた。
その言葉には一理ある。
忘れたい痛みはある。
抱えているだけで眠れなくなる記憶もある。
泣き続けることで、心が割れていく人間もいる。
記憶をすべて抱えていることが、必ずしも美しいわけではない。
忘却が救いになる夜も、あるのだろう。
だからこそ、怖い。
真帆は、その一理を使って、本人の選択を奪っていた。
「全部覚えていることが、本当に幸せなんですか」
その問いに、誰もすぐには答えなかった。
答えられない問いだった。
榊も、澪奈も、ルストも、沈黙した。
痛みを忘れたいと願う人間はいる。
思い出せなくなったことで眠れる人もいる。
記憶が薄れたことで、ようやく食事が喉を通る者もいる。
真帆は、それを見てきたのだろう。
彼女が何も感じない悪人なら、もっと簡単だった。
だが、そうではない。
彼女は本当に、患者の苦しみを見ていた。
そして、救いたかった。
だからこそ、救いを自分の手で管理しようとした。
クラウディオが一歩前へ出る。
赤い目は、静かに冷えていた。
「忘れるかどうかを決めるのは本人だ。貴様ではない」
その声に、真帆の表情がわずかに強張る。
クラウディオの目の奥で、古い火が揺れた。
焦げた砂糖の匂い。
祈りの声。
火刑台。
誰かの名前。
ロウェナ。
忘れた方が楽だった記憶など、いくつもある。
忘れられれば、穏やかに眠れた夜もあったかもしれない。焦げた甘い匂いに目を覚ますことも、祈りながら断罪する群衆の声を耳の奥で聞くことも、なくなったかもしれない。
だが、それを誰かに勝手に切り取られることを、彼は救いとは呼ばない。
記憶は痛い。
呪いにもなる。
人を縛る。
それでも、所有者は本人だ。
「痛みは本人のものだ」
クラウディオは続けた。
「記憶が呪いでも、所有者は本人だ」
真帆は唇を結んだ。
「でも、抱えきれない人もいます」
「救いを名乗るなら、まず本人に選ばせろ」
クラウディオの声は低い。
「貴様は救ったのではない。選択を奪った」
真帆の顔に、初めて明確な痛みが浮かんだ。
怒りではない。
悲しみでもない。
自分の善意の中心を、正確に裂かれた者の表情だった。
◇
ルストは、クラウディオの横顔を見た。
彼は、忘れることを軽蔑しているわけではない。
忘れたいほどの記憶を、知っている。
記憶を美化しているわけでもない。
痛みを抱えることを、正義のように語っているわけでもない。
ただ、誰かが勝手に奪うことを許さない。
本人のものを、救いの顔で切り取ることを許さない。
クラウディオがただ冷たいのではないことを、ルストは改めて見た。
「お前は、忘れることを否定しているわけじゃないんだな」
ルストが言った。
クラウディオは、真帆から視線を外さずに返す。
「当然だ。忘れたい記憶の一つや二つで済むなら、俺はもっと穏やかに生きている」
「なら」
「だが、忘れるか抱えるかを決める権利まで他人に渡す気はない」
ルストは黙った。
クラウディオの肩口の噛み跡が、襟の下に隠れていることを思う。
痛みも、記憶も、痕も、本人のものだ。
勝手に奪われるものではない。
残すか、消すか。
それを決めるのは、本人だ。
クラウディオがあの歯形を治していないことも、彼自身の選択なのだと、ルストは今さらのように思った。
真帆は静かに首を横へ振る。
「私は、預かっていただけです」
クラウディオの表情が、さらに冷える。
「返す気のない預かり物を、世間では盗みと呼ぶ」
「違います」
「違わない」
「患者さんたちは、眠れたんです」
真帆の声に、初めて少しだけ強さが混ざる。
「泣き続けていた人が、眠れるようになりました。家族の名前を呼びながら壊れていく人が、少しだけ落ち着きました。願い屋の代償で、毎晩同じ記憶に戻されていた人が、ようやく朝まで眠れたんです」
榊が低く言う。
「その記憶を、時計に入れて市場へ流した」
真帆は目を伏せる。
「私は、苦痛を預かっていただけです」
澪奈が硬い声で言った。
「預かった記憶反応が、外部へ送られています」
「研究のためです」
「救うための記録ではありません」
「記録しなければ、誰も理解しません」
「理解するために、本人の選択を奪っていい理由にはなりません」
澪奈の声には怒りがあった。
分析すること自体を否定しない者の怒り。
だからこそ、真帆の言葉を許せない。
真帆は、少しだけ笑った。
その笑みは疲れていた。
「皆さんは、見たことがないんです。毎日、人の痛みを見続けることを。家族の泣き声を聞き続けることを。何もできないまま、患者さんが壊れていくのを見ることを」
ルストの目が細くなる。
真帆は続ける。
「私も、壊されたんです」
部屋の空気が、静かに動いた。
「毎日、人の痛みを見てきました。救えない苦しみに、私も削られました。患者を救おうとして、こうなったんです」
榊は何も言わない。
澪奈も黙っている。
真帆は、クラウディオを見る。
「私も、被害者です」
クラウディオは一瞬だけ黙った。
真帆の苦しみ自体は、嘘ではないのかもしれない。
苦しむ患者を見続け、泣く家族を支え、救えない夜を積み重ねて壊れた部分は、本当にあったのだろう。
だが。
「被害を受けたことと、加害を選んだことは別だ」
クラウディオは切り捨てた。
声は荒くない。
だからこそ、逃げ道がなかった。
「壊れたことは、誰かを壊す許可証ではない」
真帆の表情が凍る。
「苦しんだ人間が、次の加害者にならない保証はない。貴様は被害を理由に、加害を選んだ」
真帆の指先が、わずかに震えた。
その震えが、怒りなのか、悲しみなのか、恐怖なのかは分からない。
ただ、彼女の中で何かが折れかけたことだけは分かった。
◇
その時、澪奈の端末が短く警告音を鳴らした。
彼女の顔色が変わる。
「待ってください」
画面に、赤い線が走る。
ナースウォッチの反応。
時計は証拠袋の中にあるはずだった。
だが、反応範囲が広がっている。
「病棟全体に、薄い干渉が出ています」
榊が振り向く。
「どういうことだ」
「時計の反応が、病棟内の記憶反応に広がっています。一人分ではありません。複数の患者に、薄く干渉が出ています」
真帆は静かに目を閉じていた。
そして、ゆっくり開ける。
「なら、私が全部預かります」
その声は、穏やかだった。
穏やかすぎた。
「苦しむ必要なんて、ないんです」
榊が怒鳴る。
「白瀬、時計を止めろ」
真帆は証拠袋の中のナースウォッチを見る。
触れていない。
だが、赤い秒針が動いている。
一秒。
二秒。
三秒。
病棟のどこかで、眠っていた患者が小さく呻いた。
遠くのナースステーションがざわつく。
誰かの記憶が、細い糸で引かれるように揺れた。
家族の顔。
願い屋の通知。
血の匂い。
後悔。
恐怖。
名前。
失ったもの。
それらが、眠りの底から薄く引き上げられていく。
澪奈が端末を操作しながら叫ぶ。
「干渉が広がっています。秒針が一周する前に止めないと、広範囲の記憶反応が時計へ流れます」
榊が無線へ指示を飛ばす。
「病棟の人間を下げろ。患者を巻き込むな。白瀬を確保しろ」
クラウディオが一歩出る。
肩口の布が擦れ、歯形の痛みが一瞬だけ走った。
彼はそれを無視した。
赤い目が、白いナースウォッチを射抜く。
「時計を止めろ」
真帆は微笑んだ。
悲しげで、優しい笑みだった。
「止めたら、皆がまた思い出してしまいます」
ルストが低く言う。
「思い出すかどうかも、本人が決めることだ」
真帆は首を横に振る。
「一分だけでいい。痛みは薄れます」
クラウディオの声が冷える。
「その一分を、貴様が奪うな」
白いナースウォッチの赤い秒針が、病棟中の眠りへ向かって、一秒ずつ進み始めた。




