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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第8部 【被害者を装う者たち】

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第118話 泣き声のない病棟




 白いナースウォッチの赤い秒針が、一秒ずつ進んでいた。


 病棟の空気が変わった。


 最初に消えたのは、音だった。


 夜の病院には、本来なら小さな音が絶えない。空調の低い唸り。遠くで鳴るナースコール。眠れない患者の寝返り。付き添いの家族が椅子を引く音。夜勤の看護師が廊下を歩く足音。誰かの咳。誰かの押し殺した泣き声。


 それらが、一つずつ遠ざかっていく。


 完全な無音ではない。


 機械は動いている。


 照明も灯っている。


 廊下の白さも変わらない。


 だが、人の気配だけが薄くなった。


 病棟全体が、息を忘れたようだった。


 榊が無線へ声を飛ばす。


「病棟の人間を下げろ。患者を移せる範囲で移せ。無理はするな。階段側の導線を開けろ」


 返答が入る。


 だが、その声もどこか遠い。


 澪奈は端末を握り、画面を見つめていた。白いナースウォッチの反応が、病棟の見取り図に薄い赤い線として広がっている。赤い線は血管のように廊下を通り、病室の扉の前で枝分かれし、眠る患者たちの周囲に細い輪を作っていた。


「干渉が広がっています」


 澪奈の声は硬い。


「反応範囲が病棟全体に伸びています。記憶反応だけではありません。痛覚反応、恐怖反応、不安反応、疲労感覚の一部まで薄く引かれています」


 榊が顔をしかめる。


「つまり何が起きてる」


 澪奈は一瞬、言葉を選んだ。


「苦痛に関係する反応が、時計へ吸われています」


 その時、近くの病室から泣き声が途切れた。


 先ほどまで、家族の誰かが小さく泣いていた。願い屋の代償で記憶が欠けた患者のそばに付き添っていた母親だった。すすり泣く声が、廊下までかすかに漏れていた。


 それが止まった。


 扉の隙間から見えた女は、椅子に座ったまま穏やかな顔をしていた。目元には涙の跡が残っている。けれど、新しい涙は落ちていない。


 眠っているわけではない。


 虚ろでもない。


 ただ、不安を忘れた顔だった。


 ベッドの上の患者も、静かに天井を見ている。さきほどまで痛みに顔を歪めていたはずなのに、今は穏やかに呼吸している。目は開いている。だが、その奥にあるはずの恐怖が薄い。


 廊下の向こうで、夜勤の看護師が足を止めた。


 彼女は疲れていたはずだった。目の下に薄い影があり、勤務の長さを示すように肩が重そうだった。


 その肩が、ふっと軽くなったように見えた。


 彼女は不思議そうに自分の手を見た。


「……あれ」


 声は穏やかだった。


「何を急いでいたんだっけ」


 榊が舌打ちする。


「まずいな」


 澪奈が端末を操作する。


「痛みや不安だけではありません。記憶の前後関係が薄れています。苦しみの理由がぼやけると、危機感も落ちます。避難誘導に反応しづらくなる可能性があります」


「くそ」


 榊は無線に向かって声を荒げた。


「患者と職員に声をかけ続けろ。ぼんやりしている者は肩を貸して動かせ。ただし乱暴にするな。怪異干渉だ。本人の意思が鈍っている」


 ルストは廊下の奥を見た。


 白瀬真帆は、病棟の中央に近い処置室前に立っていた。


 静かな顔だった。


 悲しげで、優しい。


 その顔が、いまは病棟全体の異様な静けさとよく似ていた。


 彼女の手元に時計はない。


 押収された白いナースウォッチは証拠袋の中にある。


 それでも、真帆と時計の間には何かが繋がっている。赤い秒針が進むたび、病棟の記憶反応が薄く引かれていく。


 クラウディオが一歩進んだ。


 肩口に服が擦れ、隠れた歯形が微かに痛む。


 彼はその痛みを無視した。


 病棟の静けさの方が、よほど不快だった。


     ◇


 白い廊下に、泣き声がなかった。


 誰も泣かない。


 誰も怒らない。


 誰も苦しまない。


 患者は穏やかに横たわり、家族は静かに椅子に座り、看護師たちは足音を抑えて歩いている。混乱も悲鳴もない。誰かを責める声もない。願い屋の代償に怯える声も、記憶の欠落に叫ぶ声もない。


 一見、理想的な病棟だった。


 痛みがない。


 不安がない。


 疲労がない。


 夜は静かで、すべての人が穏やかに見える。


 だが、それは救いではなかった。


 感情ごと奪われた静けさだった。


 クラウディオは、その静けさに強い嫌悪を示した。


 赤い目が、病室の中をゆっくり見渡す。


 ベッドの上で穏やかに横たわる患者。


 椅子に座ったまま表情を失いかけた家族。


 疲れを忘れた看護師。


 皆、静かだ。


 人形のように。


 その言葉が浮かんだ瞬間、クラウディオの目が冷えた。


 人形は、空洞ではない。


 少なくとも、彼にとっては違う。


 人形は、失ったものを留める器だった。


 喪失の輪郭を、かろうじて形にするもの。


 忘れられた手触り。


 残された布地。


 欠けた目。


 折れた指。


 そういうものを、もう一度この世に繋ぎ止めるための器。


 生きた人間を空っぽにするためのものではない。


 苦しみを抜かれ、記憶を薄められ、反応を失った人間を、人形のように穏やかだなどと呼ぶことを、彼は許せなかった。


「最悪だな」


 クラウディオが低く言った。


 ルストが彼を見る。


 クラウディオは白い病棟を見据えたまま続ける。


「泣き声がない病棟。怒りもない。苦しみもない。見栄えだけは清潔だ。人間は空洞に白布を掛けるのが本当に上手い」


 真帆が静かに言った。


「穏やかでしょう」


 クラウディオの視線が、彼女へ向く。


「死体置き場も静かだ」


 真帆の顔がわずかに強張る。


 ルストは前へ出た。


「白瀬。止めろ」


「止めたら、皆さんはまた思い出してしまいます」


「それを決めるのはお前じゃない」


「でも、苦しいんです」


 真帆の声は揺れていた。


 揺れているのに、まだ穏やかだった。


「痛みを思い出すたびに、患者さんたちは壊れていきます。家族の方も、何度も同じ後悔を繰り返します。どうして止めなかったのか。どうして願わせたのか。どうして気づかなかったのか。そんなことばかりで、眠れなくなるんです」


「だから奪うのか」


 ルストの声が低くなる。


「奪っているんじゃありません」


 真帆は首を横に振る。


「預かっているだけです。少しだけ。苦しみが薄れれば、息ができる。眠れる。明日を迎えられる」


 クラウディオが言った。


「明日を迎えるために昨日を盗むな」


 真帆は痛むような顔をした。


「盗むなんて」


「盗みだ」


 クラウディオの声は静かだった。


「名前を変えても、白い時計に入れても、病室で行っても、盗みは盗みだ」


 白いナースウォッチの秒針が、また進む。


 十七秒。


 十八秒。


 十九秒。


 澪奈が端末を見る。


「秒針の進行と、病棟内の反応低下が同期しています。一周する前に止めないと、現在干渉されている記憶反応がまとめて時計内部へ流れます」


 榊が叫ぶ。


「澪奈、止められるか」


「構造を解析中です。ただ、物理的に壊すだけだと保存済みの反応が散る可能性があります。秒針の進行を止める必要があります」


 クラウディオが白いナースウォッチを見た。


「止める。止められるかどうかではなく、止める」


 ルストが彼の横へ並ぶ。


「俺は真帆を止める」


「いや」


 クラウディオは短く言った。


「貴様は時計を壊す準備をしろ」


「秒針は」


「俺が止める」


 ルストは一瞬だけ、クラウディオの肩口を見た。


 服の下に隠れた歯形。


 そこに痛みがあることを、ルストは知っている。


 だが、クラウディオはそれを一切表に出さない。


 今は、怒りの向きが完全に病棟へ向いていた。


 記憶を奪う時計へ。


 白い善意の顔をした怪異具へ。


 ルストは頷いた。


「分かった」


     ◇


 真帆はなおも動こうとしなかった。


 彼女は、救っているつもりだった。


 少なくとも、その言葉は嘘ではない。


 だから余計に厄介だった。


「私は救っているんです」


 真帆は言った。


「痛みを忘れれば、眠れるんです。家族の不安が薄れれば、支えられるんです。看護師たちの疲労が少しでも遠ざかれば、患者さんに優しくできます。誰も泣かなくて済む。誰も怒らなくて済む。誰も、自分を責め続けなくて済む」


 ルストは彼女へ近づいた。


「それは、感情を奪って作った静けさだ」


「でも、静かです」


「空っぽだからだ」


 真帆の表情が、わずかに崩れる。


 ルストは剣を抜いていない。


 まだだ。


 相手は武器を振り上げているわけではない。病棟全体に怪異具を繋げている危険人物ではある。だが、彼女自身の顔には、本気で救っていると信じている者の脆さがある。


 だから、ルストはもう一度だけ言った。


「白瀬。止めろ」


「止められません」


「止めろ」


「止めたら、皆がまた思い出してしまいます」


「思い出したくない者もいるだろう」


 ルストは言った。


「だが、思い出すか忘れるかを、お前が決めるな」


 真帆の目に涙が浮かぶ。


 それは演技ではなかった。


 本物の涙だった。


「どうして分かってくれないんですか」


「分かる部分はある」


 ルストの声は低い。


「だから止めている」


 真帆は目を見開いた。


 分かるからこそ止める。


 その言葉は、彼女にとって残酷だった。


 完全に否定された方が、まだ楽だったのかもしれない。悪人として切り捨てられた方が、自分の善意を守れたのかもしれない。


 だが、ルストは真帆の善意を見た上で止めようとしている。


 善意があることと、許されることは別だと。


 クラウディオが、白いナースウォッチへ手をかざした。


 血術の気配が、静かに広がる。


 派手な光ではない。


 赤い糸のようなものが、空気の中に細く浮かぶ。願い屋の赤とは違う。もっと古く、もっと重い色。血を飲むためではなく、流れを止めるための術。


 クラウディオの肩口が、また微かに痛んだ。


 歯形。


 残した痕。


 本人の意思で消さなかった痛み。


 その痛みが、今は妙に確かなものに思えた。


 奪われたものではない。


 残すと決めたものだ。


 それだけで、真帆の時計とは違う。


「時計を止めろと言ったな」


 クラウディオが言う。


 真帆は首を横に振る。


「止めません」


「では、止める」


 赤い糸が、ナースウォッチの秒針へ絡みついた。


 証拠袋の中で、白い時計が震える。


 赤い秒針が二十七秒で一瞬鈍った。


 だが、止まらない。


 二十八秒。


 二十九秒。


 澪奈が叫ぶ。


「抵抗しています。時計内部の記憶反応が秒針を押しています」


 榊が歯を食いしばる。


「患者の記憶を燃料にしてるのか」


「正確には、苦痛反応の流れが秒針を進めています」


 クラウディオの目が冷える。


「どこまでも趣味が悪い」


 血術の糸が増える。


 一本ではない。


 二本、三本、四本。


 秒針の周囲に絡み、進行を縛る。


 ナースウォッチの内側から、微かな声がした。


 声ではない。


 記憶の残響。


 泣き声。


 眠れない夜の呼吸。


 願い屋の通知を見た時の恐怖。


 家族を忘れた瞬間の空白。


 守れなかった後悔。


 それらが、赤い秒針の奥でざわめいた。


 クラウディオの表情がわずかに歪む。


 だが、手は下ろさない。


「人形の中に記憶を縛るなと言ったはずだ」


 低い声が漏れた。


 誰へ向けた言葉なのか分からない。


 願い屋へか。


 灰島へか。


 真帆へか。


 それとも、自分自身へか。


「生きた人間を空洞にする道具など、なおさらだ」


 赤い糸が秒針をさらに締める。


 三十四秒。


 三十五秒。


 秒針の進みが遅くなる。


 澪奈が端末を見る。


「干渉の広がりが鈍っています」


 榊が叫ぶ。


「今だ。患者を下げろ。動ける者から廊下の外へ」


 看護師たちがはっとしたように動き始めた。


 疲労を忘れていた顔に、少しずつ焦りが戻る。


 家族が、なぜ自分が泣いていたのか思い出し、口元を押さえる。


 患者が、薄れていた痛みに小さく呻く。


 病棟に、泣き声が戻り始めた。


 不安が戻る。


 痛みが戻る。


 恐怖が戻る。


 だが、それは生きている反応だった。


 クラウディオは、歯を食いしばるでもなく、淡々と秒針を縛った。


 四十秒。


 四十一秒。


 血術の糸が、赤い秒針を軋ませる。


「ルスト」


 クラウディオが呼ぶ。


 ルストはすでに動いていた。


 彼はナースウォッチへ向かう。


 真帆がそれに気づき、叫ぶ。


「やめてください!」


 ルストは止まらない。


 彼女を傷つけるためではない。


 時計を止めるためだ。


 真帆が前へ出ようとした瞬間、榊が彼女の腕を押さえた。


「白瀬、動くな」


「だめです、皆がまた苦しむ」


「苦しむ権利まで奪うな」


 榊の声が低く響く。


 真帆の顔が歪んだ。


 涙が落ちる。


 本物の涙だった。


 それでも、時計は進む。


 四十八秒。


 四十九秒。


 クラウディオの血術が秒針を止めようと軋む。


 ルストは、澪奈の指示を聞きながら、怪異具の中心を見極めた。現実の機械を壊すのではない。願い屋の反応が集中する、赤い輪の奥。時計の白い顔の中に隠れた市場の核。


 澪奈が叫ぶ。


「今です。秒針が止まる瞬間に、赤い輪を断ってください」


 五十二秒。


 五十三秒。


 五十四秒。


 クラウディオの赤い糸が、秒針を締め上げる。


 針が止まりかける。


 五十五秒。


 そこで、針が止まった。


「ルスト」


 クラウディオの声と同時に、ルストが動いた。


 鈍い音がした。


 白いナースウォッチの赤い輪に、亀裂が走る。


 硝子が砕けるような音ではなかった。


 もっと薄い。


 閉じ込められていた息が、細く裂けるような音。


 赤い秒針が震え、止まり、そして折れた。


 病棟全体に広がっていた赤い線が、端末上で一斉に途切れる。


 患者たちが声を上げる。


 誰かが泣く。


 誰かが怒る。


 誰かが名前を呼ぶ。


 看護師が走る。


 家族が患者の手を握る。


 痛みも、不安も、疲労も、戻ってきた。


 穏やかではない。


 静かではない。


 だが、そこには人の反応があった。


     ◇


 真帆は崩れ落ちた。


 榊の手を振りほどいたわけではない。


 逃げようとしたわけでもない。


 糸が切れたように、膝から落ちた。


 白いカーディガンの裾が床に広がる。


 彼女は両手で顔を覆い、泣いた。


「私だって、苦しかったんです」


 その声は、先ほどまでの穏やかさとは違っていた。


 壊れた声だった。


 患者の前で保っていた声ではない。


 支援者として整えた声でもない。


 白瀬真帆という人間の、剥き出しの泣き声だった。


 ルストが一瞬だけ動きを止める。


 それは、彼の古い癖だった。


 泣く者を見れば、足が止まる。


 救助を求める声を聞けば、見捨てない。


 その性質は、何度も利用された。


 リュシアンにも。


 真帆にも。


 それでも、それ自体は間違いではない。


 ルストの足が止まった一瞬を、クラウディオは見た。


 そして、その前に言った。


「苦しければ、他人の記憶を盗んでいいのか」


 真帆の泣き声が、止まった。


 完全には止まらない。


 喉の奥で震えている。


 涙は落ち続けている。


 だが、言葉は出なくなった。


 クラウディオは、真帆を見下ろしていた。


 冷たい。


 けれど、雑に切り捨ててはいない。


 真帆の苦しみを嘘だとは言わなかった。


 彼女の涙を演技だとも言わなかった。


 ただ、その涙が罪を消さないと言った。


 真帆は黙り込んだ。


 涙は本物だった。


 だが、罪も本物だった。



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