第119話 被害者を装う者たち
泣き声が戻っていた。
病棟の廊下には、もうあの不気味な静けさはなかった。
患者の呻き声がする。付き添いの家族が、押し殺すように泣いている。看護師が疲れた顔で廊下を行き来し、それでも一人一人へ声をかけていた。夜勤の足音は重い。処置の声は低い。誰かが不安を訴え、誰かが名前を呼び、誰かが「大丈夫ですか」と聞き返す。
騒がしい。
不安定だ。
痛みも、疲労も、後悔も、戻っている。
だが、クラウディオは、その騒がしさの方をまだ人間らしいと思った。
白瀬真帆のナースウォッチが作り出した静けさは、救いではなかった。痛みを遠ざけたのではない。痛みを持つ者の輪郭ごと削っていた。泣かない病棟。怒らない家族。苦しまない患者。疲れを忘れた看護師。
それは平穏ではない。
反応を抜かれた空洞だった。
割れたナースウォッチは、透明な証拠袋に入れられている。白い外装はひび割れ、赤い秒針は折れて止まっていた。それでも、硝子の奥にはまだ薄く記憶反応が残っている。願い屋の小瓶と同じ、閉じ込められた記憶の匂いがわずかに漂っていた。
真帆は確保された。
リュシアンも身柄を押さえられている。
だが、事件が終わったとは誰も思っていなかった。
願い屋の残滓。
怪異研究施設。
東都認知生命研究センターへ繋がる略号。
被害者支援資料の改訂履歴。
白瀬真帆の封筒。
まだ、影は残っている。
病棟の一時対策室には、榊、澪奈、ルスト、クラウディオが集まっていた。机の上には、リュシアン・ヴェルネに関する資料と、白瀬真帆の記録、ナースウォッチの解析結果、被害者支援資料が並べられている。
榊は、疲れた顔で椅子に座った。
それでも、目だけは眠っていない。
「整理するぞ」
声は低かった。
「リュシアン・ヴェルネは、没落の恐怖から《願い屋》を利用した。旧貴族社会で憐れまれ、見下され、称賛を失うことを恐れていた。そこまでは分かる。恐怖自体は、たぶん本物だったんだろう」
ルストは黙っている。
クラウディオは壁際に立ち、資料を見下ろしていた。
榊は続ける。
「だが、リュシアンはその恐怖を理由に、妹エレーヌの記憶、使用人たちの寿命、家に残っていた血族の力を代償にした。事件化すると、妹が願ったことにし、自分は止められなかった兄を演じた。被害者支援資料の台本を使って、“助けようとしただけ”と繰り返した」
澪奈が端末を操作し、リュシアンの証言記録を表示する。
泣くタイミング。
沈黙の長さ。
責任を問われた時の言い回し。
怪異に利用された、という逃げ方。
全てが、真帆の支援資料の流れと重なっていた。
クラウディオが薄く笑う。
「リュシアンの恐怖は本物だっただろうな」
ルストが彼を見る。
「なら」
「恐怖が本物でも、差し出した代償は他人のものだ」
クラウディオの声は冷たい。
「自分の恐怖を支払うなら勝手にしろ。だが奴は、妹の記憶と使用人の寿命で支払った。貴族の誇りとやらは、ずいぶん他人の財布に手を突っ込むらしい」
榊は苦い顔で頷いた。
「被害者だった部分があるからって、犯人じゃなくなるわけじゃない」
その言葉は、部屋の中に重く落ちた。
榊は、リュシアンを完全な怪物として片づける気はなかった。
没落への恐怖。
旧家の中で押し潰されていく焦り。
憐れまれる屈辱。
それらはおそらく本物だ。
だが、だからといって妹の記憶を差し出していい理由にはならない。使用人たちの寿命を削っていい理由にもならない。自分が壊れかけていたからといって、他人を代償にしていい理由にはならない。
澪奈は、次に白瀬真帆の記録を開いた。
「真帆さんについても同じです」
画面に、ナースウォッチの解析結果が表示される。
記憶反応。
感情反応。
苦痛反応。
保存層。
外部送付記録。
「真帆さんは、救済の名で患者さんたちの記憶を切り取りました。苦しみを薄めることで救っているつもりだった。実際、彼女に救われたと感じた人もいます。眠れるようになった患者さんも、話せるようになった家族もいた」
澪奈の声は冷静だった。
だが、その奥には怒りがあった。
「でも、切り取った記憶はナースウォッチに保存され、《願い屋》の代償市場へ流されていました。さらに、加害者と被害者の境界が曖昧な人たちの感情反応を記録し、怪異研究施設へ送っていました」
榊が低く言う。
「救うふりをして観察してた」
「はい」
澪奈は頷く。
「分析は必要です。怪異事件では、記録しなければ何も検証できません。でも、分析される側の人間を消費していいわけじゃありません」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「真帆さんは、救うふりをして観察していました。リュシアンさんは、苦しみを見せて責任を隠していました。どちらも、自分の痛みを盾にしていました」
そして、澪奈ははっきりと言った。
「痛みは免罪符じゃない」
ルストの指が、わずかに動いた。
彼はその言葉を、黙って受け止めた。
◇
真帆の涙は、嘘ではなかった。
あの病棟で、ナースウォッチを破壊された後、真帆は崩れ落ちて泣いた。
私だって、苦しかったんです。
その声に、ルストは一瞬だけ動きを止めた。
それは、彼の古い癖だった。
泣く者を見れば、疑うより先に手が動く。
助けを求める声を聞けば、見捨てない。
それで救えた者もいる。
それで利用されたこともある。
ルストは、机の上の資料を見つめたまま言った。
「真帆の涙も、嘘ではなかった」
クラウディオがすぐに返す。
「嘘ではない涙ほど、扱いが面倒だ」
ルストは目を伏せた。
「それでも、罪は消えない」
「ようやく学習したか」
クラウディオの皮肉は薄かった。
いつもなら、もう少し鋭く刺しただろう。
だが、今日はそこで止まった。
ルストはそれにも気づいた。
責められていない。
完全には。
クラウディオは、ルストが揺らいだことを知っている。リュシアンの涙に、真帆の涙に、一瞬でも足を止めたことを知っている。
だが、それをただの愚かさとして切り捨てない。
ルストは小さく息を吐いた。
「俺は、また揺らいだ」
榊と澪奈は、黙って聞いていた。
ルストは続ける。
「リュシアンの時も、真帆の時も。苦しんでいる人間を見ると、疑うより先に手が出る。そのせいで、見落としかけた」
リュシアンの向こうにいたエレーヌ。
真帆の向こうにいた患者たち。
泣く者を見て、手を伸ばす。
それ自体は間違いではない。
だが、手を伸ばした先にいる相手が、誰かの記憶や寿命を踏んで立っていることもある。
それを見落とせば、守るべき者を間違える。
クラウディオは、少しだけ視線を外した。
「貴様の甘さも、たまには役に立つ。たまにはな」
ルストが顔を上げる。
「褒めているのか」
「解釈は任せる」
即答だった。
あまりにもクラウディオらしい逃げ方だった。
榊が小さく息を吐く。
澪奈は端末から目を離さず、しかし口元だけ少し緩めた。
ルストは、しばらくクラウディオを見ていた。
クラウディオは素直には言わない。
ルストの信じやすさが弱点であることも、彼が人を守れる理由であることも、おそらく分かっている。
だが、そのまま言えば負けだと思っている。
だから、たまには、などと余計な棘をつける。
ルストは、少しだけ表情を緩めた。
その視線が、自然とクラウディオの肩口へ落ちる。
襟の下。
服を着れば隠れる場所。
第115話で、ルストが残した歯形。
クラウディオはすぐに気づいた。
わざとらしく襟を直す。
噛み跡は見えない。
だが、消してはいない。
ルストが言う。
「治していないんだな」
「治す価値もないと言っただろう」
「言っていない」
「今言った」
クラウディオは赤い目で睨む。
「事件中に俺の肩を見るな。礼儀が死んでいるぞ」
「隠したから見えない」
「見ようとするなと言っている」
ルストはそれ以上言わなかった。
噛み跡は隠れている。
他人には見えない。
けれど、そこにある。
クラウディオが消さずに残している。
その事実だけで、今は十分だった。
◇
榊は資料をまとめ直した。
「本物の被害者まで疑うわけにはいかない」
彼ははっきり言った。
「エレーヌは本物の被害者だ。使用人たちもそうだ。真帆に記憶を切り取られた患者たちも、家族も、被害者だ。被害者支援そのものは止められない」
澪奈が頷く。
「支援資料で救われた人もいます。混乱している人が、話す順番を整理できた例もあります。警察や病院に責められていると感じずに話せた人もいます」
「だからこそ、真帆の罪は重い」
榊は苦い声で言った。
「支援は止められない。だが、台本にされた部分は潰す」
クラウディオが薄く笑う。
「泣いている人間を叩けと言っているわけではない。泣き声で証拠を塞ぐなと言っている」
澪奈が端末上に、支援資料と証言記録を並べる。
「本物の被害者まで疑われるようにしたことも、真帆さんの罪です」
その言葉に、ルストは静かに頷いた。
被害者を装う者たち。
泣く証言者の嘘。
善意を装う者。
だが、泣いている者全員が嘘つきではない。
善意を持つ者全員が加害者ではない。
支援する者全員が管理者ではない。
それを分けなければならない。
守りながら、見る。
信じながら、検証する。
疑いながら、切り捨てない。
それは、単純に断罪するよりずっと難しい。
榊が苦々しく言う。
「面倒だな」
クラウディオは即座に返した。
「人間が関わる事件が面倒でなかった試しがあるのか」
「たまには励ませ」
「期待する相手を間違えている」
榊は呆れたように息を吐いた。
それでも、そのやり取りで少しだけ部屋の空気が戻った。
病棟には泣き声が戻っている。
安全拠点には疲労が戻っている。
苦痛も、不安も、怒りも戻っている。
だが、それは生きている反応だった。
白瀬真帆が作った静けさより、ずっとましだった。
◇
澪奈が、次の資料を開いた。
「《願い屋》の残滓について、被害者の会の名簿を照合しています」
榊が顔を上げる。
「被害者の会?」
「願い屋事件後に作られた支援団体の一つです。相談者名簿、参加記録、連絡履歴があります。真帆さんの支援資料の配布先とも一部重なっています」
画面に名簿が表示される。
名前。
相談日。
被害内容。
連絡先。
対応者。
中には本物の被害者もいる。願い屋に記憶を奪われた者。寿命を削られた者。家族が代償になった者。誰かの願いに巻き込まれた者。
その中に、被害者を装う者が混ざっていた。
そして、真帆の記録では、その境界線を観察対象として扱っていた。
澪奈は、名簿と死亡記録を照合していた。
淡々と画面を切り替えていた指が、不意に止まる。
「待ってください」
榊が反応する。
「どうした」
澪奈は画面を拡大した。
名前の一行。
被害者の会の参加者。
相談記録あり。
最新相談日、昨日。
その横に、別の記録が重なる。
死亡記録。
ルストが低く聞く。
「いつだ」
澪奈の声が硬くなる。
「願い屋事件が表に出る前です」
榊が身を乗り出す。
「別人じゃないのか」
「生年月日、旧住所、照合できる範囲の記録が一致しています。少なくとも、同一人物として登録されています」
クラウディオが目を細める。
「死人が被害者の会に参加しているわけか」
部屋の空気が、一瞬で冷えた。
リュシアンと真帆の事件は整理された。
だが、《願い屋》の残滓はまだ終わっていない。
死んでいるはずの人物。
願い屋事件が表に出る前に死亡していた記録。
それなのに、被害者の会の名簿には最近の相談履歴が残っている。
誰かが名を使ったのか。
記録が改ざんされたのか。
あるいは、願い屋がまた別の形で、死者の輪郭を利用しているのか。
澪奈の端末の光が、青白く彼女の顔を照らしていた。
被害者の会の名簿の一行に、すでに死んでいるはずの人物の名前があった。
そしてその名前の横には、最新の相談日が、昨日の日付で記されていた。




