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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第8部 【被害者を装う者たち】

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第119話 被害者を装う者たち



 泣き声が戻っていた。


 病棟の廊下には、もうあの不気味な静けさはなかった。


 患者の呻き声がする。付き添いの家族が、押し殺すように泣いている。看護師が疲れた顔で廊下を行き来し、それでも一人一人へ声をかけていた。夜勤の足音は重い。処置の声は低い。誰かが不安を訴え、誰かが名前を呼び、誰かが「大丈夫ですか」と聞き返す。


 騒がしい。


 不安定だ。


 痛みも、疲労も、後悔も、戻っている。


 だが、クラウディオは、その騒がしさの方をまだ人間らしいと思った。


 白瀬真帆のナースウォッチが作り出した静けさは、救いではなかった。痛みを遠ざけたのではない。痛みを持つ者の輪郭ごと削っていた。泣かない病棟。怒らない家族。苦しまない患者。疲れを忘れた看護師。


 それは平穏ではない。


 反応を抜かれた空洞だった。


 割れたナースウォッチは、透明な証拠袋に入れられている。白い外装はひび割れ、赤い秒針は折れて止まっていた。それでも、硝子の奥にはまだ薄く記憶反応が残っている。願い屋の小瓶と同じ、閉じ込められた記憶の匂いがわずかに漂っていた。


 真帆は確保された。


 リュシアンも身柄を押さえられている。


 だが、事件が終わったとは誰も思っていなかった。


 願い屋の残滓。


 怪異研究施設。


 東都認知生命研究センターへ繋がる略号。


 被害者支援資料の改訂履歴。


 白瀬真帆の封筒。


 まだ、影は残っている。


 病棟の一時対策室には、榊、澪奈、ルスト、クラウディオが集まっていた。机の上には、リュシアン・ヴェルネに関する資料と、白瀬真帆の記録、ナースウォッチの解析結果、被害者支援資料が並べられている。


 榊は、疲れた顔で椅子に座った。


 それでも、目だけは眠っていない。


「整理するぞ」


 声は低かった。


「リュシアン・ヴェルネは、没落の恐怖から《願い屋》を利用した。旧貴族社会で憐れまれ、見下され、称賛を失うことを恐れていた。そこまでは分かる。恐怖自体は、たぶん本物だったんだろう」


 ルストは黙っている。


 クラウディオは壁際に立ち、資料を見下ろしていた。


 榊は続ける。


「だが、リュシアンはその恐怖を理由に、妹エレーヌの記憶、使用人たちの寿命、家に残っていた血族の力を代償にした。事件化すると、妹が願ったことにし、自分は止められなかった兄を演じた。被害者支援資料の台本を使って、“助けようとしただけ”と繰り返した」


 澪奈が端末を操作し、リュシアンの証言記録を表示する。


 泣くタイミング。


 沈黙の長さ。


 責任を問われた時の言い回し。


 怪異に利用された、という逃げ方。


 全てが、真帆の支援資料の流れと重なっていた。


 クラウディオが薄く笑う。


「リュシアンの恐怖は本物だっただろうな」


 ルストが彼を見る。


「なら」


「恐怖が本物でも、差し出した代償は他人のものだ」


 クラウディオの声は冷たい。


「自分の恐怖を支払うなら勝手にしろ。だが奴は、妹の記憶と使用人の寿命で支払った。貴族の誇りとやらは、ずいぶん他人の財布に手を突っ込むらしい」


 榊は苦い顔で頷いた。


「被害者だった部分があるからって、犯人じゃなくなるわけじゃない」


 その言葉は、部屋の中に重く落ちた。


 榊は、リュシアンを完全な怪物として片づける気はなかった。


 没落への恐怖。


 旧家の中で押し潰されていく焦り。


 憐れまれる屈辱。


 それらはおそらく本物だ。


 だが、だからといって妹の記憶を差し出していい理由にはならない。使用人たちの寿命を削っていい理由にもならない。自分が壊れかけていたからといって、他人を代償にしていい理由にはならない。


 澪奈は、次に白瀬真帆の記録を開いた。


「真帆さんについても同じです」


 画面に、ナースウォッチの解析結果が表示される。


 記憶反応。


 感情反応。


 苦痛反応。


 保存層。


 外部送付記録。


「真帆さんは、救済の名で患者さんたちの記憶を切り取りました。苦しみを薄めることで救っているつもりだった。実際、彼女に救われたと感じた人もいます。眠れるようになった患者さんも、話せるようになった家族もいた」


 澪奈の声は冷静だった。


 だが、その奥には怒りがあった。


「でも、切り取った記憶はナースウォッチに保存され、《願い屋》の代償市場へ流されていました。さらに、加害者と被害者の境界が曖昧な人たちの感情反応を記録し、怪異研究施設へ送っていました」


 榊が低く言う。


「救うふりをして観察してた」


「はい」


 澪奈は頷く。


「分析は必要です。怪異事件では、記録しなければ何も検証できません。でも、分析される側の人間を消費していいわけじゃありません」


 彼女は少しだけ目を伏せた。


「真帆さんは、救うふりをして観察していました。リュシアンさんは、苦しみを見せて責任を隠していました。どちらも、自分の痛みを盾にしていました」


 そして、澪奈ははっきりと言った。


「痛みは免罪符じゃない」


 ルストの指が、わずかに動いた。


 彼はその言葉を、黙って受け止めた。


     ◇


 真帆の涙は、嘘ではなかった。


 あの病棟で、ナースウォッチを破壊された後、真帆は崩れ落ちて泣いた。


 私だって、苦しかったんです。


 その声に、ルストは一瞬だけ動きを止めた。


 それは、彼の古い癖だった。


 泣く者を見れば、疑うより先に手が動く。


 助けを求める声を聞けば、見捨てない。


 それで救えた者もいる。


 それで利用されたこともある。


 ルストは、机の上の資料を見つめたまま言った。


「真帆の涙も、嘘ではなかった」


 クラウディオがすぐに返す。


「嘘ではない涙ほど、扱いが面倒だ」


 ルストは目を伏せた。


「それでも、罪は消えない」


「ようやく学習したか」


 クラウディオの皮肉は薄かった。


 いつもなら、もう少し鋭く刺しただろう。


 だが、今日はそこで止まった。


 ルストはそれにも気づいた。


 責められていない。


 完全には。


 クラウディオは、ルストが揺らいだことを知っている。リュシアンの涙に、真帆の涙に、一瞬でも足を止めたことを知っている。


 だが、それをただの愚かさとして切り捨てない。


 ルストは小さく息を吐いた。


「俺は、また揺らいだ」


 榊と澪奈は、黙って聞いていた。


 ルストは続ける。


「リュシアンの時も、真帆の時も。苦しんでいる人間を見ると、疑うより先に手が出る。そのせいで、見落としかけた」


 リュシアンの向こうにいたエレーヌ。


 真帆の向こうにいた患者たち。


 泣く者を見て、手を伸ばす。


 それ自体は間違いではない。


 だが、手を伸ばした先にいる相手が、誰かの記憶や寿命を踏んで立っていることもある。


 それを見落とせば、守るべき者を間違える。


 クラウディオは、少しだけ視線を外した。


「貴様の甘さも、たまには役に立つ。たまにはな」


 ルストが顔を上げる。


「褒めているのか」


「解釈は任せる」


 即答だった。


 あまりにもクラウディオらしい逃げ方だった。


 榊が小さく息を吐く。


 澪奈は端末から目を離さず、しかし口元だけ少し緩めた。


 ルストは、しばらくクラウディオを見ていた。


 クラウディオは素直には言わない。


 ルストの信じやすさが弱点であることも、彼が人を守れる理由であることも、おそらく分かっている。


 だが、そのまま言えば負けだと思っている。


 だから、たまには、などと余計な棘をつける。


 ルストは、少しだけ表情を緩めた。


 その視線が、自然とクラウディオの肩口へ落ちる。


 襟の下。


 服を着れば隠れる場所。


 第115話で、ルストが残した歯形。


 クラウディオはすぐに気づいた。


 わざとらしく襟を直す。


 噛み跡は見えない。


 だが、消してはいない。


 ルストが言う。


「治していないんだな」


「治す価値もないと言っただろう」


「言っていない」


「今言った」


 クラウディオは赤い目で睨む。


「事件中に俺の肩を見るな。礼儀が死んでいるぞ」


「隠したから見えない」


「見ようとするなと言っている」


 ルストはそれ以上言わなかった。


 噛み跡は隠れている。


 他人には見えない。


 けれど、そこにある。


 クラウディオが消さずに残している。


 その事実だけで、今は十分だった。


     ◇


 榊は資料をまとめ直した。


「本物の被害者まで疑うわけにはいかない」


 彼ははっきり言った。


「エレーヌは本物の被害者だ。使用人たちもそうだ。真帆に記憶を切り取られた患者たちも、家族も、被害者だ。被害者支援そのものは止められない」


 澪奈が頷く。


「支援資料で救われた人もいます。混乱している人が、話す順番を整理できた例もあります。警察や病院に責められていると感じずに話せた人もいます」


「だからこそ、真帆の罪は重い」


 榊は苦い声で言った。


「支援は止められない。だが、台本にされた部分は潰す」


 クラウディオが薄く笑う。


「泣いている人間を叩けと言っているわけではない。泣き声で証拠を塞ぐなと言っている」


 澪奈が端末上に、支援資料と証言記録を並べる。


「本物の被害者まで疑われるようにしたことも、真帆さんの罪です」


 その言葉に、ルストは静かに頷いた。


 被害者を装う者たち。


 泣く証言者の嘘。


 善意を装う者。


 だが、泣いている者全員が嘘つきではない。


 善意を持つ者全員が加害者ではない。


 支援する者全員が管理者ではない。


 それを分けなければならない。


 守りながら、見る。


 信じながら、検証する。


 疑いながら、切り捨てない。


 それは、単純に断罪するよりずっと難しい。


 榊が苦々しく言う。


「面倒だな」


 クラウディオは即座に返した。


「人間が関わる事件が面倒でなかった試しがあるのか」


「たまには励ませ」


「期待する相手を間違えている」


 榊は呆れたように息を吐いた。


 それでも、そのやり取りで少しだけ部屋の空気が戻った。


 病棟には泣き声が戻っている。


 安全拠点には疲労が戻っている。


 苦痛も、不安も、怒りも戻っている。


 だが、それは生きている反応だった。


 白瀬真帆が作った静けさより、ずっとましだった。


     ◇


 澪奈が、次の資料を開いた。


「《願い屋》の残滓について、被害者の会の名簿を照合しています」


 榊が顔を上げる。


「被害者の会?」


「願い屋事件後に作られた支援団体の一つです。相談者名簿、参加記録、連絡履歴があります。真帆さんの支援資料の配布先とも一部重なっています」


 画面に名簿が表示される。


 名前。


 相談日。


 被害内容。


 連絡先。


 対応者。


 中には本物の被害者もいる。願い屋に記憶を奪われた者。寿命を削られた者。家族が代償になった者。誰かの願いに巻き込まれた者。


 その中に、被害者を装う者が混ざっていた。


 そして、真帆の記録では、その境界線を観察対象として扱っていた。


 澪奈は、名簿と死亡記録を照合していた。


 淡々と画面を切り替えていた指が、不意に止まる。


「待ってください」


 榊が反応する。


「どうした」


 澪奈は画面を拡大した。


 名前の一行。


 被害者の会の参加者。


 相談記録あり。


 最新相談日、昨日。


 その横に、別の記録が重なる。


 死亡記録。


 ルストが低く聞く。


「いつだ」


 澪奈の声が硬くなる。


「願い屋事件が表に出る前です」


 榊が身を乗り出す。


「別人じゃないのか」


「生年月日、旧住所、照合できる範囲の記録が一致しています。少なくとも、同一人物として登録されています」


 クラウディオが目を細める。


「死人が被害者の会に参加しているわけか」


 部屋の空気が、一瞬で冷えた。


 リュシアンと真帆の事件は整理された。


 だが、《願い屋》の残滓はまだ終わっていない。


 死んでいるはずの人物。


 願い屋事件が表に出る前に死亡していた記録。


 それなのに、被害者の会の名簿には最近の相談履歴が残っている。


 誰かが名を使ったのか。


 記録が改ざんされたのか。


 あるいは、願い屋がまた別の形で、死者の輪郭を利用しているのか。


 澪奈の端末の光が、青白く彼女の顔を照らしていた。


 被害者の会の名簿の一行に、すでに死んでいるはずの人物の名前があった。


 そしてその名前の横には、最新の相談日が、昨日の日付で記されていた。



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