第120話 涙の仮面
病棟に泣き声が戻った翌朝、事件はようやく人間の手続きに戻り始めていた。
泣く者がいる。
怒る者がいる。
責める者がいる。
黙り込む者がいる。
ベッドの上で記憶の戻りに怯える患者がいた。椅子に座り、戻ってきた後悔に両手で顔を覆う家族がいた。夜勤明けの看護師が、疲れた顔のまま患者へ水を差し出していた。病棟は騒がしく、不安定で、痛みのある場所へ戻っていた。
だが、白瀬真帆のナースウォッチが作った静けさよりは、ずっと生きていた。
泣き声のない病棟は、穏やかではなかった。
感情を抜かれた空洞だった。
クラウディオは、廊下の片隅で一度だけ病棟を見渡した。人の声が戻っている。すすり泣きも、焦った足音も、誰かを呼ぶ声も、何もかもが耳障りなほど混ざっている。
だが、その耳障りさを、彼は嫌わなかった。
人間は静かすぎると、死者に似る。
生きている者は、たいてい不格好にうるさい。
榊は病院側との確認を終え、警察側の一時対策室へ戻ってきた。徹夜の疲れが顔に出ている。だが、目だけはまだ鋭かった。彼の手には供述関係の資料、押収記録、病院側の協力文書が挟まれている。
澪奈は端末の前に座り、ナースウォッチの残骸と、被害者支援資料と、被害者の会の名簿を照合していた。割れた白い時計は、透明な証拠袋の中で静かに眠っている。赤い秒針は折れていたが、内部に残った記憶反応は完全には消えていなかった。
ルストは窓際に立っていた。
病棟の方を見ているわけではない。
ただ、戻ってきた泣き声を聞いていた。
彼は、泣く者へ手を伸ばす性質を捨てられない。リュシアンにも、真帆にも、それを利用された。それでも、あの病棟に戻った泣き声を聞けば、泣くこと自体を疑うことはできなかった。
泣く者全てが、嘘つきではない。
泣く者の中に、嘘を混ぜる者がいるだけだ。
その違いを見誤れば、また誰かが犠牲になる。
クラウディオは壁際に背を預けていた。
襟元はきちんと整えられている。
その下、肩口にはまだ歯形が残っている。吸血鬼王である彼なら、治そうと思えばいくらでも治せる。だが消していない。服で隠れる場所だから、誰かに見せつけるためのものではない。ルストだけが知っている、隠れた証拠だった。
もっとも、本人は証拠だなどとは認めないだろう。
認めるくらいなら、たぶん時計より先に相手を壊す。
◇
「リュシアン・ヴェルネは逮捕手続きに入った」
榊は資料を机に置いた。
「容疑の整理はまだ続く。願い屋関連の怪異事案だから通常の枠だけじゃ収まらないが、少なくとも妹の記憶、使用人たちの寿命、血族の力を代償にした件については、エレーヌの証言、地下の空瓶、手袋の血痕、願い屋反応の記録、真帆との接触記録が揃ってきている」
澪奈が画面にリュシアンの供述記録を表示する。
そこには、何度も似た言葉が並んでいた。
家を守りたかった。
妹を守りたかった。
願い屋に騙された。
自分も被害者だった。
私は止めようとした。
助けようとしただけだった。
榊は苦い顔をした。
「まだ言ってる。自分も被害者だってな」
ルストは画面を見た。
リュシアンの顔が浮かぶ。
淡い金髪。
涙で濡れた薄青紫の瞳。
非常階段でルストの袖に縋った手。
彼の恐怖は、たぶん本物だった。
没落していく家への恐怖。
旧貴族社会で憐れまれる屈辱。
かつて称賛された自分が、哀れな令息として扱われることへの怒り。
それらは、完全な嘘ではなかった。
だが。
「私は……本当に、家を守りたかっただけで」
記録映像の中のリュシアンが呟く。
榊は淡々と返していた。
「その話は記録に残す。だが、代償にされた人間がいる」
リュシアンは泣いた。
泣いて、沈黙し、また言った。
「私も、願い屋に……」
そこで映像は一度止められた。
クラウディオが低く言う。
「泣くなとは言わん。泣いたところで、代償の所有者は変わらないだけだ」
リュシアンがどれほど没落を恐れていようと、エレーヌの記憶はリュシアンのものではなかった。
使用人たちの寿命も、家に残っていた血族の力も、彼一人が差し出していいものではなかった。
自分の恐怖で支払うならまだしも、彼は他人を財布にした。
それが事実だった。
榊は椅子に深く座り直した。
「白瀬真帆も拘束された。こっちは医療者としての立場も絡むから慎重に進める。病院全体が悪いわけじゃない。真帆個人と、外部へ流れた記録、それに怪異具の使用を分ける」
澪奈が頷く。
「ナースウォッチの残骸、記憶反応の記録、封筒、被害者支援資料、外部送付記録は押さえています。真帆さんは、まだ“救いたかった”と話しています」
端末に、白瀬真帆の供述映像が映る。
白い顔。
疲れた目。
涙の跡。
「私は、助けたかったんです」
彼女はそう言っていた。
「苦しみを減らしたかっただけなんです。忘れた方が楽なこともあるんです。皆さん、眠れなくて、壊れそうで……私は」
澪奈の声が映像に重なる。
「助けることと、本人の記憶を本人に黙って切り取ることは違います」
真帆はそこで黙った。
泣いていた。
その涙も、嘘ではなかったのだろう。
患者の痛みを見続け、家族の泣き声を聞き続け、救えない記憶に削られた部分は確かにあったのかもしれない。
だが、盗まれた記憶も本物だった。
ナースウォッチに保存された痛みも本物だった。
市場へ流された代償も本物だった。
クラウディオは映像を見ながら言った。
「涙は便利だな。自分の手元を見ずに済む」
ルストが静かに返す。
「それでも、真帆の涙も本物だった」
「だろうな」
クラウディオは否定しなかった。
「本物の涙と本物の罪は、同じ顔に同居できる。人間の顔は案外広い」
その皮肉は冷たかったが、乱暴ではなかった。
真帆の涙を偽物とは言わない。
ただ、その涙で罪を薄めることも許さない。
◇
澪奈が別の資料を開いた。
「リュシアンさんと真帆さんの供述、それから残された記録を合わせると、願い屋の残滓を利用している人たちは、まだ他にもいます」
榊が顔を上げる。
「リュシアンと真帆だけじゃないな」
「はい」
澪奈は画面を切り替える。
被害者の会の名簿。
支援団体の相談記録。
願い屋被害者向けの匿名掲示板。
灰島の古物商ルートの残り。
赤い小瓶の未回収リスト。
東都認知生命研究センターへ繋がる可能性のある送付記録。
匿名化された感情反応データ。
そこには、いくつもの枝が伸びていた。
「供述と記録が一致しません。むしろ、外部に枝が伸びています。願い屋アプリ本体が表に出た時点では、すでに複数の道具や記録へ分散していた可能性があります。赤い小瓶、ナースウォッチ、支援資料、被害者の会、研究施設の記録。全部が、残滓の受け皿になっている」
榊が低く呟く。
「アプリを潰して終わり、じゃないわけか」
クラウディオは薄く笑った。
「願い屋は潰した。市場は残った。よくある話だ」
その声に、部屋が冷える。
市場。
それは第103話で見えた構造だった。
願い屋は単なるアプリではなかった。
願いを売り、代償を回収し、その代償を別の誰かへ流通させる市場だった。
灰島は店主。
篠宮は客引き。
怪異は決済機構。
研究施設は、買った品を分解する者。
そして今、そこに被害者の会や支援資料や病院の記録が絡んでいる。
被害者を装えば、疑われにくい。
泣けば、同情される。
善意を掲げれば、追及されにくい。
怪異に操られたと言えば、自分の選択を曖昧にできる。
その構造が、もう出来上がっていた。
榊は拳を握る。
「被害者支援は止められない。止めれば本物の被害者が孤立する。だが、その場を使って逃げる奴らがいる」
澪奈が静かに頷いた。
「泣いている人全員を疑うことはできません。でも、泣いているから証拠を見ない、というわけにもいきません」
クラウディオが赤い目を細める。
「涙は証拠ではない。善意は免罪符ではない。被害者の顔をしていても、手が血で濡れていれば犯人だ」
その言葉が、対策室に落ちた。
誰もすぐには返さなかった。
榊は黙って資料を見た。
澪奈は端末に目を落としたまま、わずかに唇を結んだ。
ルストは、その言葉を受け止めた。
涙を否定しているわけではない。
善意を否定しているわけでもない。
被害者支援を否定しているわけでもない。
ただ、涙や善意や被害者の顔で、加害の事実を隠してはいけない。
それがこの事件の結論だった。
◇
ルストは窓の外を見た。
朝の光はまだ弱い。病棟の窓に、薄く灰色の空が映っている。
「俺は、これからも最初に疑うことはできない」
彼は静かに言った。
榊も澪奈も、何も言わなかった。
クラウディオだけが、壁際から彼を見る。
「知っている。貴様は昔から、泣いているものに手を出す」
「悪いか」
「悪い」
即答だった。
だが、クラウディオはそこで終わらせなかった。
「だが、役に立つこともある」
ルストが少しだけ眉を動かす。
クラウディオは、わざとらしく視線を資料へ戻した。
「貴様の甘さも、たまには役に立つ。たまにはな」
「褒めているのか」
「解釈は任せる」
またそれか、と榊が小さく息を吐いた。
澪奈は何も言わなかったが、画面を見る目が少しだけ柔らかくなった。
ルストは、クラウディオを見る。
まず信じる者。
まず見る者。
ルストは、助けを求める者を放っておけない。泣いている人間を見れば、疑うより先に生かそうとする。それは弱点でもある。リュシアンにも真帆にも、そこを使われた。
クラウディオは、まず見る。
涙より手元を見る。
善意より記録を見る。
証言より矛盾を見る。
泣く者が何を隠しているか、手袋の染み、言葉の癖、視線の動き、資料の改訂履歴まで見逃さない。
それは冷たさにも見える。
だが、加害者の仮面を剥がす力でもある。
片方だけでは危うい。
ルストだけでは、被害者を装う者の涙に揺らぐ危険がある。
クラウディオだけでは、本物の被害者の声まで疑い、救う前に切り捨てる危うさがある。
二人でいるから、涙の裏にある刃まで届く。
ルストはそう思った。
口には出さなかった。
出せば、クラウディオが十倍の皮肉で返してくる。
しかも、たぶん照れ隠し込みで面倒になる。
それは事件後でいい。
◇
安全拠点の控室には、小さな洗面台と古い鏡があった。
事件処理が一区切りついた後、クラウディオはそこで襟を少しずらした。
肩口の歯形は、まだ残っていた。
深い傷ではない。
出血もほとんどない。
だが、赤い痕が皮膚に残っている。先に噛まれた痕と、浅く重ねられた二度目の痕。服を着れば見えない。首筋や手首のように誰かへ見せつけるものでもない。
二人だけが知っている。
クラウディオは鏡の中の自分を睨んだ。
治せる。
今すぐ消せる。
消せば、布が触れた時の薄い痛みもなくなる。ルストの視線がそこへ落ちることもなくなる。自分が消さなかった理由について考える必要もなくなる。
だが、治癒の魔力は流れなかった。
指先は傷に触れただけで止まる。
鏡の中の自分が、腹立たしいほど不機嫌な顔をしていた。
「消さないのか」
背後から声がした。
ルストだった。
入ってくる足音はしていた。クラウディオが気づかないはずはない。気づいていて、追い払わなかっただけだ。
クラウディオは襟を戻さず、鏡越しに睨む。
「傷の管理まで貴様に報告する義務はない」
ルストは少しだけ笑った。
「嫉妬の証拠だからか」
鏡の中で、クラウディオの赤い目が冷えた。
「噛み殺されたいなら、そう言え」
「否定が物騒だな」
「貴様の質問が無礼だからだ」
「消さない理由にはなっていない」
「消す価値もないだけだ」
「前も聞いた」
「何度でも聞け。理解が遅いようだからな」
ルストは近づかなかった。
ただ、鏡越しにクラウディオを見る。
肩口の痕は、襟を戻せば隠れる。
クラウディオは、結局そうした。
痕は見えなくなる。
だが、消えたわけではない。
ルストはそれを知っている。
クラウディオも、知っている。
それだけで十分だった。
クラウディオは洗面台から離れ、何事もなかったように言った。
「事件はまだ終わっていない。貴様の無駄話に付き合う時間はない」
「無駄か」
「現時点ではな」
「後なら有益になるのか」
「ならん。未来永劫無駄だ」
ルストは少しだけ口元を緩めた。
「解釈は任せる」
クラウディオが足を止めた。
ゆっくり振り返る。
「それを俺に使うな」
「お前の言葉だ」
「だから使うなと言っている」
ルストは返事をしなかった。
その無言が、少しだけ柔らかかった。
◇
対策室へ戻ると、澪奈が新しい資料を開いていた。
表情が硬い。
榊もすでに画面を覗き込んでいる。
「名簿の死者について、記録が出ました」
澪奈の声に、ルストとクラウディオの空気が変わった。
事件後のわずかな緩みが消える。
榊が問う。
「誰だ」
澪奈は画面を拡大した。
名簿に混ざっていた、すでに死んでいるはずの人物。
その名前は、まだ伏せられている。
表示されているのは、過去事件の分類と、当時の処理記録だけだった。
「過去の怪異犯罪で、完全な被害者として扱われた人物です」
ルストが眉を寄せる。
「完全な被害者?」
「当時は、そう記録されています」
クラウディオが目を細める。
「当時は、か」
澪奈は頷いた。
「涙、被害状況、周囲の証言、死亡という結果。疑う余地がないと判断されていました。捜査記録上も、加害性は検討されていません」
榊の顔が険しくなる。
「死んでいたなら、当然そうなるだろう」
「はい」
澪奈は画面を切り替える。
「ただ、今回の被害者の会の名簿には、最近の相談記録が残っています。しかも、願い屋事件が表に出た後ではありません。表に出る前から、断続的に記録がある」
「誰かが名前を使ったのか」
「その可能性もあります。ただ……」
澪奈の指が、ある記録の端で止まる。
「記録の奥に、別の可能性があります」
クラウディオの赤い目が、画面の文字列を追った。
過去の怪異犯罪。
完全な被害者。
最初に泣いた者。
最初に守られた者。
最初に疑われなかった者。
そこに、いま、別の影が差している。
被害者を装う者たち。
その構造が、本当に最近始まったものなのか。
あるいは、もっと前からあったのか。
最初の被害者と記録された人物は、本当に最初の被害者だったのか。
それとも。
最初に仮面を被った者だったのか。
澪奈は、画面上の名前の横に赤い印を置いた。
最初の被害者。
そう記録されていた名前の横に、澪奈は赤い印を置いた。
だがその記録の奥で、別の可能性が、静かに息をし始めていた。
「最初の被害者」が、本当に被害者だったとは限らない。




