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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第8部 【被害者を装う者たち】

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第120話 涙の仮面



 病棟に泣き声が戻った翌朝、事件はようやく人間の手続きに戻り始めていた。


 泣く者がいる。


 怒る者がいる。


 責める者がいる。


 黙り込む者がいる。


 ベッドの上で記憶の戻りに怯える患者がいた。椅子に座り、戻ってきた後悔に両手で顔を覆う家族がいた。夜勤明けの看護師が、疲れた顔のまま患者へ水を差し出していた。病棟は騒がしく、不安定で、痛みのある場所へ戻っていた。


 だが、白瀬真帆のナースウォッチが作った静けさよりは、ずっと生きていた。


 泣き声のない病棟は、穏やかではなかった。


 感情を抜かれた空洞だった。


 クラウディオは、廊下の片隅で一度だけ病棟を見渡した。人の声が戻っている。すすり泣きも、焦った足音も、誰かを呼ぶ声も、何もかもが耳障りなほど混ざっている。


 だが、その耳障りさを、彼は嫌わなかった。


 人間は静かすぎると、死者に似る。


 生きている者は、たいてい不格好にうるさい。


 榊は病院側との確認を終え、警察側の一時対策室へ戻ってきた。徹夜の疲れが顔に出ている。だが、目だけはまだ鋭かった。彼の手には供述関係の資料、押収記録、病院側の協力文書が挟まれている。


 澪奈は端末の前に座り、ナースウォッチの残骸と、被害者支援資料と、被害者の会の名簿を照合していた。割れた白い時計は、透明な証拠袋の中で静かに眠っている。赤い秒針は折れていたが、内部に残った記憶反応は完全には消えていなかった。


 ルストは窓際に立っていた。


 病棟の方を見ているわけではない。


 ただ、戻ってきた泣き声を聞いていた。


 彼は、泣く者へ手を伸ばす性質を捨てられない。リュシアンにも、真帆にも、それを利用された。それでも、あの病棟に戻った泣き声を聞けば、泣くこと自体を疑うことはできなかった。


 泣く者全てが、嘘つきではない。


 泣く者の中に、嘘を混ぜる者がいるだけだ。


 その違いを見誤れば、また誰かが犠牲になる。


 クラウディオは壁際に背を預けていた。


 襟元はきちんと整えられている。


 その下、肩口にはまだ歯形が残っている。吸血鬼王である彼なら、治そうと思えばいくらでも治せる。だが消していない。服で隠れる場所だから、誰かに見せつけるためのものではない。ルストだけが知っている、隠れた証拠だった。


 もっとも、本人は証拠だなどとは認めないだろう。


 認めるくらいなら、たぶん時計より先に相手を壊す。


     ◇


「リュシアン・ヴェルネは逮捕手続きに入った」


 榊は資料を机に置いた。


「容疑の整理はまだ続く。願い屋関連の怪異事案だから通常の枠だけじゃ収まらないが、少なくとも妹の記憶、使用人たちの寿命、血族の力を代償にした件については、エレーヌの証言、地下の空瓶、手袋の血痕、願い屋反応の記録、真帆との接触記録が揃ってきている」


 澪奈が画面にリュシアンの供述記録を表示する。


 そこには、何度も似た言葉が並んでいた。


 家を守りたかった。


 妹を守りたかった。


 願い屋に騙された。


 自分も被害者だった。


 私は止めようとした。


 助けようとしただけだった。


 榊は苦い顔をした。


「まだ言ってる。自分も被害者だってな」


 ルストは画面を見た。


 リュシアンの顔が浮かぶ。


 淡い金髪。


 涙で濡れた薄青紫の瞳。


 非常階段でルストの袖に縋った手。


 彼の恐怖は、たぶん本物だった。


 没落していく家への恐怖。


 旧貴族社会で憐れまれる屈辱。


 かつて称賛された自分が、哀れな令息として扱われることへの怒り。


 それらは、完全な嘘ではなかった。


 だが。


「私は……本当に、家を守りたかっただけで」


 記録映像の中のリュシアンが呟く。


 榊は淡々と返していた。


「その話は記録に残す。だが、代償にされた人間がいる」


 リュシアンは泣いた。


 泣いて、沈黙し、また言った。


「私も、願い屋に……」


 そこで映像は一度止められた。


 クラウディオが低く言う。


「泣くなとは言わん。泣いたところで、代償の所有者は変わらないだけだ」


 リュシアンがどれほど没落を恐れていようと、エレーヌの記憶はリュシアンのものではなかった。


 使用人たちの寿命も、家に残っていた血族の力も、彼一人が差し出していいものではなかった。


 自分の恐怖で支払うならまだしも、彼は他人を財布にした。


 それが事実だった。


 榊は椅子に深く座り直した。


「白瀬真帆も拘束された。こっちは医療者としての立場も絡むから慎重に進める。病院全体が悪いわけじゃない。真帆個人と、外部へ流れた記録、それに怪異具の使用を分ける」


 澪奈が頷く。


「ナースウォッチの残骸、記憶反応の記録、封筒、被害者支援資料、外部送付記録は押さえています。真帆さんは、まだ“救いたかった”と話しています」


 端末に、白瀬真帆の供述映像が映る。


 白い顔。


 疲れた目。


 涙の跡。


「私は、助けたかったんです」


 彼女はそう言っていた。


「苦しみを減らしたかっただけなんです。忘れた方が楽なこともあるんです。皆さん、眠れなくて、壊れそうで……私は」


 澪奈の声が映像に重なる。


「助けることと、本人の記憶を本人に黙って切り取ることは違います」


 真帆はそこで黙った。


 泣いていた。


 その涙も、嘘ではなかったのだろう。


 患者の痛みを見続け、家族の泣き声を聞き続け、救えない記憶に削られた部分は確かにあったのかもしれない。


 だが、盗まれた記憶も本物だった。


 ナースウォッチに保存された痛みも本物だった。


 市場へ流された代償も本物だった。


 クラウディオは映像を見ながら言った。


「涙は便利だな。自分の手元を見ずに済む」


 ルストが静かに返す。


「それでも、真帆の涙も本物だった」


「だろうな」


 クラウディオは否定しなかった。


「本物の涙と本物の罪は、同じ顔に同居できる。人間の顔は案外広い」


 その皮肉は冷たかったが、乱暴ではなかった。


 真帆の涙を偽物とは言わない。


 ただ、その涙で罪を薄めることも許さない。


     ◇


 澪奈が別の資料を開いた。


「リュシアンさんと真帆さんの供述、それから残された記録を合わせると、願い屋の残滓を利用している人たちは、まだ他にもいます」


 榊が顔を上げる。


「リュシアンと真帆だけじゃないな」


「はい」


 澪奈は画面を切り替える。


 被害者の会の名簿。


 支援団体の相談記録。


 願い屋被害者向けの匿名掲示板。


 灰島の古物商ルートの残り。


 赤い小瓶の未回収リスト。


 東都認知生命研究センターへ繋がる可能性のある送付記録。


 匿名化された感情反応データ。


 そこには、いくつもの枝が伸びていた。


「供述と記録が一致しません。むしろ、外部に枝が伸びています。願い屋アプリ本体が表に出た時点では、すでに複数の道具や記録へ分散していた可能性があります。赤い小瓶、ナースウォッチ、支援資料、被害者の会、研究施設の記録。全部が、残滓の受け皿になっている」


 榊が低く呟く。


「アプリを潰して終わり、じゃないわけか」


 クラウディオは薄く笑った。


「願い屋は潰した。市場は残った。よくある話だ」


 その声に、部屋が冷える。


 市場。


 それは第103話で見えた構造だった。


 願い屋は単なるアプリではなかった。


 願いを売り、代償を回収し、その代償を別の誰かへ流通させる市場だった。


 灰島は店主。


 篠宮は客引き。


 怪異は決済機構。


 研究施設は、買った品を分解する者。


 そして今、そこに被害者の会や支援資料や病院の記録が絡んでいる。


 被害者を装えば、疑われにくい。


 泣けば、同情される。


 善意を掲げれば、追及されにくい。


 怪異に操られたと言えば、自分の選択を曖昧にできる。


 その構造が、もう出来上がっていた。


 榊は拳を握る。


「被害者支援は止められない。止めれば本物の被害者が孤立する。だが、その場を使って逃げる奴らがいる」


 澪奈が静かに頷いた。


「泣いている人全員を疑うことはできません。でも、泣いているから証拠を見ない、というわけにもいきません」


 クラウディオが赤い目を細める。


「涙は証拠ではない。善意は免罪符ではない。被害者の顔をしていても、手が血で濡れていれば犯人だ」


 その言葉が、対策室に落ちた。


 誰もすぐには返さなかった。


 榊は黙って資料を見た。


 澪奈は端末に目を落としたまま、わずかに唇を結んだ。


 ルストは、その言葉を受け止めた。


 涙を否定しているわけではない。


 善意を否定しているわけでもない。


 被害者支援を否定しているわけでもない。


 ただ、涙や善意や被害者の顔で、加害の事実を隠してはいけない。


 それがこの事件の結論だった。


     ◇


 ルストは窓の外を見た。


 朝の光はまだ弱い。病棟の窓に、薄く灰色の空が映っている。


「俺は、これからも最初に疑うことはできない」


 彼は静かに言った。


 榊も澪奈も、何も言わなかった。


 クラウディオだけが、壁際から彼を見る。


「知っている。貴様は昔から、泣いているものに手を出す」


「悪いか」


「悪い」


 即答だった。


 だが、クラウディオはそこで終わらせなかった。


「だが、役に立つこともある」


 ルストが少しだけ眉を動かす。


 クラウディオは、わざとらしく視線を資料へ戻した。


「貴様の甘さも、たまには役に立つ。たまにはな」


「褒めているのか」


「解釈は任せる」


 またそれか、と榊が小さく息を吐いた。


 澪奈は何も言わなかったが、画面を見る目が少しだけ柔らかくなった。


 ルストは、クラウディオを見る。


 まず信じる者。


 まず見る者。


 ルストは、助けを求める者を放っておけない。泣いている人間を見れば、疑うより先に生かそうとする。それは弱点でもある。リュシアンにも真帆にも、そこを使われた。


 クラウディオは、まず見る。


 涙より手元を見る。


 善意より記録を見る。


 証言より矛盾を見る。


 泣く者が何を隠しているか、手袋の染み、言葉の癖、視線の動き、資料の改訂履歴まで見逃さない。


 それは冷たさにも見える。


 だが、加害者の仮面を剥がす力でもある。


 片方だけでは危うい。


 ルストだけでは、被害者を装う者の涙に揺らぐ危険がある。


 クラウディオだけでは、本物の被害者の声まで疑い、救う前に切り捨てる危うさがある。


 二人でいるから、涙の裏にある刃まで届く。


 ルストはそう思った。


 口には出さなかった。


 出せば、クラウディオが十倍の皮肉で返してくる。


 しかも、たぶん照れ隠し込みで面倒になる。


 それは事件後でいい。


     ◇


 安全拠点の控室には、小さな洗面台と古い鏡があった。


 事件処理が一区切りついた後、クラウディオはそこで襟を少しずらした。


 肩口の歯形は、まだ残っていた。


 深い傷ではない。


 出血もほとんどない。


 だが、赤い痕が皮膚に残っている。先に噛まれた痕と、浅く重ねられた二度目の痕。服を着れば見えない。首筋や手首のように誰かへ見せつけるものでもない。


 二人だけが知っている。


 クラウディオは鏡の中の自分を睨んだ。


 治せる。


 今すぐ消せる。


 消せば、布が触れた時の薄い痛みもなくなる。ルストの視線がそこへ落ちることもなくなる。自分が消さなかった理由について考える必要もなくなる。


 だが、治癒の魔力は流れなかった。


 指先は傷に触れただけで止まる。


 鏡の中の自分が、腹立たしいほど不機嫌な顔をしていた。


「消さないのか」


 背後から声がした。


 ルストだった。


 入ってくる足音はしていた。クラウディオが気づかないはずはない。気づいていて、追い払わなかっただけだ。


 クラウディオは襟を戻さず、鏡越しに睨む。


「傷の管理まで貴様に報告する義務はない」


 ルストは少しだけ笑った。


「嫉妬の証拠だからか」


 鏡の中で、クラウディオの赤い目が冷えた。


「噛み殺されたいなら、そう言え」


「否定が物騒だな」


「貴様の質問が無礼だからだ」


「消さない理由にはなっていない」


「消す価値もないだけだ」


「前も聞いた」


「何度でも聞け。理解が遅いようだからな」


 ルストは近づかなかった。


 ただ、鏡越しにクラウディオを見る。


 肩口の痕は、襟を戻せば隠れる。


 クラウディオは、結局そうした。


 痕は見えなくなる。


 だが、消えたわけではない。


 ルストはそれを知っている。


 クラウディオも、知っている。


 それだけで十分だった。


 クラウディオは洗面台から離れ、何事もなかったように言った。


「事件はまだ終わっていない。貴様の無駄話に付き合う時間はない」


「無駄か」


「現時点ではな」


「後なら有益になるのか」


「ならん。未来永劫無駄だ」


 ルストは少しだけ口元を緩めた。


「解釈は任せる」


 クラウディオが足を止めた。


 ゆっくり振り返る。


「それを俺に使うな」


「お前の言葉だ」


「だから使うなと言っている」


 ルストは返事をしなかった。


 その無言が、少しだけ柔らかかった。


     ◇


 対策室へ戻ると、澪奈が新しい資料を開いていた。


 表情が硬い。


 榊もすでに画面を覗き込んでいる。


「名簿の死者について、記録が出ました」


 澪奈の声に、ルストとクラウディオの空気が変わった。


 事件後のわずかな緩みが消える。


 榊が問う。


「誰だ」


 澪奈は画面を拡大した。


 名簿に混ざっていた、すでに死んでいるはずの人物。


 その名前は、まだ伏せられている。


 表示されているのは、過去事件の分類と、当時の処理記録だけだった。


「過去の怪異犯罪で、完全な被害者として扱われた人物です」


 ルストが眉を寄せる。


「完全な被害者?」


「当時は、そう記録されています」


 クラウディオが目を細める。


「当時は、か」


 澪奈は頷いた。


「涙、被害状況、周囲の証言、死亡という結果。疑う余地がないと判断されていました。捜査記録上も、加害性は検討されていません」


 榊の顔が険しくなる。


「死んでいたなら、当然そうなるだろう」


「はい」


 澪奈は画面を切り替える。


「ただ、今回の被害者の会の名簿には、最近の相談記録が残っています。しかも、願い屋事件が表に出た後ではありません。表に出る前から、断続的に記録がある」


「誰かが名前を使ったのか」


「その可能性もあります。ただ……」


 澪奈の指が、ある記録の端で止まる。


「記録の奥に、別の可能性があります」


 クラウディオの赤い目が、画面の文字列を追った。


 過去の怪異犯罪。


 完全な被害者。


 最初に泣いた者。


 最初に守られた者。


 最初に疑われなかった者。


 そこに、いま、別の影が差している。


 被害者を装う者たち。


 その構造が、本当に最近始まったものなのか。


 あるいは、もっと前からあったのか。


 最初の被害者と記録された人物は、本当に最初の被害者だったのか。


 それとも。


 最初に仮面を被った者だったのか。


 澪奈は、画面上の名前の横に赤い印を置いた。


 最初の被害者。


 そう記録されていた名前の横に、澪奈は赤い印を置いた。


 だがその記録の奥で、別の可能性が、静かに息をし始めていた。


 「最初の被害者」が、本当に被害者だったとは限らない。



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