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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第9部 【箱庭襲撃】

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第121話 死んでいるはずの被害者


 安全拠点の解析室には、朝の光が入っていなかった。


 窓はある。


 だがブラインドは下ろされ、外の白い明るさは細く刻まれて壁に落ちるだけだった。部屋の中を支配しているのは、端末の青白い光と、記録媒体の小さな作動音と、徹夜明けの苦い空気だった。


 第八部の事件は、表向きには一区切りがついた。


 リュシアン・ヴェルネは逮捕手続きに入った。白瀬真帆は拘束され、ナースウォッチの残骸は証拠として保管された。エレーヌの証言は保護され、使用人たちの被害記録もまとめられている。病棟には泣き声が戻り、患者たちは痛みも不安も取り戻した。


 それは静かな結末ではなかった。


 だが、静かすぎる救いよりはましだった。


 澪奈は、端末に表示された名簿の一行を見つめていた。


 被害者の会。


 願い屋事件後に作られた支援団体の一つ。相談者名簿、連絡履歴、対応者、被害内容、支援資料の配布履歴。白瀬真帆が関わった資料の流通先とも一部が重なっている。


 その中に、死んでいるはずの人物の名前があった。


 前夜、澪奈がそれに気づいた時、対策室の空気は一瞬で冷えた。


 そして今、彼女はその名前をさらに深く照合していた。


「死亡記録があります」


 澪奈の声は、端末の光より硬かった。


 榊が机の向こうで腕を組む。


「もう一度確認してくれ」


「確認済みです」


 澪奈は画面を切り替えた。


 死亡届。


 過去事件の記録。


 遺体確認報告。


 家族証言。


 当時の捜査概要。


 それらが、順に並ぶ。


「遺体確認もされています」


 ルストは黙って画面を見た。


 クラウディオは壁際に立っている。腕を組み、いつも通り冷めた顔をしていた。ただ、襟元が少しだけ硬い。服の下、肩口にはまだ歯形が残っている。彼は消していない。ルストはそれを知っている。


 けれど今、その話をする空気ではなかった。


 クラウディオの注意は、死者の名簿へ向いている。


 完全に。


「家族の証言も残っています」


 澪奈は続けた。


「当時の記録では、疑いようのない被害者として処理されています」


 榊が顔をしかめる。


「名前は」


「雨宮紗良。死亡当時、十六歳です」


 画面に少女の記録が表示される。


 雨宮紗良。


 数年前の怪異犯罪で死亡。


 記録上は「最初の被害者」。


 彼女の死をきっかけに、事件は表面化したとされている。複数の被害者が後に確認され、怪異犯罪として扱われるようになった。だが、最初に発見されたのは雨宮紗良だった。


 遺体確認済み。


 家族の証言あり。


 当時の関係者の証言あり。


 事件の報道記録にも、彼女は痛ましい最初の犠牲者として残っていた。


 誰も、彼女を疑わなかった。


 死者を疑うことは難しい。


 まして、最初に死んだ少女であればなおさらだ。


 榊は資料を睨んだ。


「それが、どうして今の名簿にいる」


 澪奈が別の画面を開く。


 《願い屋》事件で押収された被害者名簿。


 被害者の会の相談記録。


 現在の利用履歴。


 そこに、雨宮紗良の名前があった。


「ですが、《願い屋》の名簿には、現在の利用履歴として残っています」


 部屋の空気が重くなる。


 名前の横には、最近の日付がある。


 相談日。


 接続履歴。


 願い屋残滓への接触を示す記録。


 すべて、彼女の死亡後のものだった。


 榊が低く言う。


「死者の名前を誰かが使ったのか」


 澪奈は頷きかけ、そこで止めた。


「その可能性が高いです。あるいは……」


 ルストが続ける。


「死んでいない」


 澪奈はゆっくり頷いた。


「記録上は、死んでいます」


 その言い方に、全員が一瞬黙った。


 記録上は。


 つまり、記録の外では分からない。


 クラウディオが、ようやく口を開いた。


「死亡確認済み、遺体確認済み、家族証言あり。普通なら閉じた記録だな」


 榊が言う。


「普通ならな」


 クラウディオは薄く笑った。


「今さら普通を期待する方が愚かだ」


 ルストは、クラウディオの横顔を見た。


 皮肉はいつも通りだ。


 だが、その奥にある苛立ちは、少し質が違う。


 リュシアンや真帆に向けた苛立ちとも違う。


 死者の名。


 最初の被害者という札。


 記録上の死亡。


 遺体確認。


 家族証言。


 それらを盾にして、誰かが現在の利用履歴を隠している可能性。


 クラウディオは、そこに強い嫌悪を示していた。


「死人を被害者の札として吊るしておけば、誰も裏を見ない。実に人間らしい雑な偽装だ」


 その声は冷たかった。


 榊が眉を寄せる。


「雑、か」


「雑だろう。死者は反論しない。だから都合よく飾られる」


 クラウディオは端末の画面を見下ろす。


「被害者という札は、よく燃えるし、よく隠す。泣き声の次は墓標か。人間は盾にするものを選ばんな」


 ルストは、その声に含まれた温度の低さを聞いた。


 クラウディオは、死者そのものより、死者の名を使って何かを隠すことに怒っている。


 死者の記録を閉じたふりをして、その下に別のものを埋めること。


 反論できない者を、疑われにくい札として吊るすこと。


 それは、彼にとってただの犯罪以上に不快な行為なのだろう。


 クラウディオにとって、人形は失ったものを留める器だ。


 記録も、死者を再び殺さないための形であるはずだった。


 それを偽装や隠蔽に使うことは、死者の名前を二度汚す行為に近い。


 ルストは静かに言った。


「妙に苛立っているな」


 クラウディオは目だけで彼を見た。


「死者の名前で遊ぶ趣味はない」


 それだけだった。


 だが、十分だった。


     ◇


 雨宮紗良の過去事件記録は、妙に整っていた。


 整いすぎている、と言ってもよかった。


 数年前の怪異犯罪。


 仮称は、霧杜北区連続昏睡事件。


 当時、複数の若者が原因不明の昏睡状態に陥った。記憶の欠落、夢の中で同じ場所を歩いたという証言、目覚めた者の手首に残る薄い輪の痕。現在の願い屋事件ほど明確ではないが、怪異の関与が疑われた事件だった。


 最初に死亡したとされたのが、雨宮紗良。


 彼女の死によって、事件は単なる昏睡や集団体調不良ではなく、怪異犯罪として扱われるようになった。


 澪奈は記録を読み上げる。


「この少女が最初に亡くなったことで、事件が発覚したとされています」


 画面には、当時の報告書の見出しが映っている。


 最初の被害者、雨宮紗良。


 その文字は、あまりに断定的だった。


「当時の記録では、疑いようのない被害者として扱われています」


 クラウディオが静かに返す。


「疑いようがない、という記録ほど疑う価値がある」


 榊が息を吐いた。


「死者まで疑えって話じゃないだろ」


「疑えと言っているのは記録だ。死者ではない」


 クラウディオは淡々と続ける。


「死者本人は何も喋らない。代わりに喋るのは、周囲の証言と書類だ。そこが汚れていれば、死者の口まで汚される」


 澪奈は、わずかに目を伏せた。


「記録に不自然な欠落があります」


 榊が身を乗り出す。


「どこだ」


「発見直後から遺体確認までの間に、資料の空白があります。手続きそのものを断定的に問題視できるほどではありません。ただ、添付資料の順番が不自然です。それから、後から追加されたような写真データがあります」


 榊の顔が険しくなる。


「写真?」


「はい」


 澪奈が画面を切り替えた。


 古い写真データが並ぶ。


 雨宮紗良の事件現場周辺。


 当時の関係者の自宅外観。


 病院の搬入口。


 古い学校の裏門。


 そして、その中に、一枚だけ異質な写真があった。


 薄暗い通りに面した、小さな工房の外観。


 古い看板。


 閉じた窓。


 窓辺に置かれた古い人形の影。


 木製の扉。


 看板には、かすれた文字でこう書かれていた。


 《箱庭》。


 部屋の空気が変わった。


 ルストがクラウディオを見る。


 クラウディオの表情は、まだ動いていない。


 だが、赤い目の温度が消えた。


 澪奈は慎重に言った。


「事件資料の中に、工房《箱庭》の写真が混ざっています」


 榊が眉を寄せる。


「箱庭?」


 澪奈は画面から目を離さず答える。


「クラウディオさんの工房です」


 榊の視線がクラウディオへ向く。


「お前、当時この事件に関わったのか」


 クラウディオは短く答えた。


「していない」


 その声に、余分な感情はなかった。


 ないことが、逆に不穏だった。


 澪奈がさらに資料を開く。


 写真は一枚ではなかった。


 外観。


 看板。


 閉じた窓。


 さらに、工房内の一部らしき写真がある。


 作業台の端。


 古い人形の腕。


 修復道具の棚。


 布をかけられた何か。


 クラウディオ本人は写っていない。ある写真の端に、人の影のようなものが切れているが、それが誰かは分からない。


 ルストはその写真を見て、表情をわずかに硬くした。


 《箱庭》は、クラウディオにとってただの工房ではない。


 人形師としての仕事場。


 壊れたものを修復する場所。


 死者や記憶や失われた手触りを、形として留める場所。


 勝手に覗かれ、資料にされ、怪異犯罪の記録に紛れ込んでいる。


 それは侵入に近い。


 いや、侵入そのものだった。


     ◇


 澪奈は写真の横にある記録番号を示した。


「この写真だけ、資料番号の付け方が違います」


 榊が画面を覗き込む。


「どう違う」


「事件当時の主記録とは採番の系列が違います。後から参考資料として差し込まれた可能性があります」


 クラウディオは黙っている。


 榊が問う。


「誰が入れたか分かるか」


「まだです。撮影日時も完全には信用できません。ただ、少なくともこの事件の初期記録とは扱いが違います」


 澪奈は、クラウディオへ視線を向けた。


「クラウディオさん、当時この事件に協力しましたか」


「していない」


 同じ答え。


 迷いのない否定。


 澪奈は頷く。


「工房の資料提供を求められたことは」


「ない」


「写真を撮られた覚えは」


「外観なら、通行人でも撮れる。内部は違う」


 クラウディオの声は低い。


「内部を撮られた記憶はない」


 榊が唸る。


「誰かが勝手に撮ったか、別の資料から引っ張ったか」


「あるいは、当時から誰かが《箱庭》を調べていた」


 澪奈がそう言うと、部屋の温度がさらに下がった。


 《箱庭》が怪異犯罪の参考資料として扱われていた。


 人形修復の記録としてか。


 記憶保存の資料としてか。


 死者の形を留める技術の参考としてか。


 それとも、もっと別の目的か。


 分からない。


 だが、一つだけ確かなことがある。


 クラウディオは、その事件に正式に関わっていない。


 それなのに、彼の工房の写真が過去事件の資料に混ざっている。


 しかも、死んでいるはずの「最初の被害者」の記録の奥に。


 ルストは言った。


「箱庭の写真があるからか」


 クラウディオは、初めてルストを見た。


 赤い目は冷えている。


「まだそこへ触れるな」


 短い言葉だった。


 それ以上踏み込めば、今は切られる。


 ルストはすぐに引いた。


「分かった。今は聞かない」


「賢明だ」


 そのやり取りだけで、二人の距離は十分に伝わった。


 からかわない。


 踏み込みすぎない。


 隣に立つ。


 今のルストにできることは、それだった。


     ◇


 榊は資料を手に取った。


「死亡確認済み、遺体確認済み、家族証言あり。普通なら閉じた記録だ」


 彼は一枚ずつ確認していく。


「だが、現在の利用履歴がある。名簿には最近の相談記録。過去事件資料には箱庭の写真。しかも後から差し込まれた可能性」


 澪奈が頷く。


「当時の担当部署と記録作成者を確認します。写真の追加者も追います。ただ、古い記録なので、すぐには絞れない可能性があります」


「家族証言は」


「残っています。ただし、内容は要確認です。ここで断定はできません」


 榊は苦々しい顔をした。


「死者の名前を使った偽装か、本人が死んでいないか、記録がどこかで改ざんされたか」


 クラウディオが薄く笑う。


「三択に見える時ほど、四つ目があるものだ」


「やめろ。増やすな」


「事件に言え」


 澪奈が、雨宮紗良の写真を一枚表示した。


 顔ははっきりとは出していない。記録上の資料として処理され、必要部分だけが表示されている。十六歳。最初の被害者。死亡記録あり。


 だが、現在の名簿に名前がある。


 彼女は、本当に死んだのか。


 誰かが名前を使っているのか。


 遺体確認は正しかったのか。


 家族証言は本当に信頼できるのか。


 それとも、死者の名を使った者が、彼女を「完全な被害者」として飾り続けているのか。


 何も断定できない。


 できないからこそ、不気味だった。


 ルストは、クラウディオの横顔を見た。


 クラウディオは、雨宮紗良の記録よりも、《箱庭》の写真を見ていた。


 そこに映っている古い扉。


 看板。


 閉じた窓。


 作業台の端。


 人形の腕。


 それらは、彼の領域だった。


 死者を留めるための場所。


 壊れたものを直す場所。


 失われた記憶を、形にして残す場所。


 それを、誰かが覗いた。


 記録へ入れた。


 怪異犯罪の資料として利用した。


 クラウディオの表情から、すべての皮肉が消えていた。


 怒鳴らない。


 声も荒げない。


 ただ、静かになっている。


 静かすぎることで、榊も澪奈も自然に黙った。


 空気が、刃物を置かれたように冷える。


 クラウディオは、ゆっくりと写真から目を離した。


 そして、低く言った。


「俺の箱庭を覗いた者がいるな」



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