第121話 死んでいるはずの被害者
安全拠点の解析室には、朝の光が入っていなかった。
窓はある。
だがブラインドは下ろされ、外の白い明るさは細く刻まれて壁に落ちるだけだった。部屋の中を支配しているのは、端末の青白い光と、記録媒体の小さな作動音と、徹夜明けの苦い空気だった。
第八部の事件は、表向きには一区切りがついた。
リュシアン・ヴェルネは逮捕手続きに入った。白瀬真帆は拘束され、ナースウォッチの残骸は証拠として保管された。エレーヌの証言は保護され、使用人たちの被害記録もまとめられている。病棟には泣き声が戻り、患者たちは痛みも不安も取り戻した。
それは静かな結末ではなかった。
だが、静かすぎる救いよりはましだった。
澪奈は、端末に表示された名簿の一行を見つめていた。
被害者の会。
願い屋事件後に作られた支援団体の一つ。相談者名簿、連絡履歴、対応者、被害内容、支援資料の配布履歴。白瀬真帆が関わった資料の流通先とも一部が重なっている。
その中に、死んでいるはずの人物の名前があった。
前夜、澪奈がそれに気づいた時、対策室の空気は一瞬で冷えた。
そして今、彼女はその名前をさらに深く照合していた。
「死亡記録があります」
澪奈の声は、端末の光より硬かった。
榊が机の向こうで腕を組む。
「もう一度確認してくれ」
「確認済みです」
澪奈は画面を切り替えた。
死亡届。
過去事件の記録。
遺体確認報告。
家族証言。
当時の捜査概要。
それらが、順に並ぶ。
「遺体確認もされています」
ルストは黙って画面を見た。
クラウディオは壁際に立っている。腕を組み、いつも通り冷めた顔をしていた。ただ、襟元が少しだけ硬い。服の下、肩口にはまだ歯形が残っている。彼は消していない。ルストはそれを知っている。
けれど今、その話をする空気ではなかった。
クラウディオの注意は、死者の名簿へ向いている。
完全に。
「家族の証言も残っています」
澪奈は続けた。
「当時の記録では、疑いようのない被害者として処理されています」
榊が顔をしかめる。
「名前は」
「雨宮紗良。死亡当時、十六歳です」
画面に少女の記録が表示される。
雨宮紗良。
数年前の怪異犯罪で死亡。
記録上は「最初の被害者」。
彼女の死をきっかけに、事件は表面化したとされている。複数の被害者が後に確認され、怪異犯罪として扱われるようになった。だが、最初に発見されたのは雨宮紗良だった。
遺体確認済み。
家族の証言あり。
当時の関係者の証言あり。
事件の報道記録にも、彼女は痛ましい最初の犠牲者として残っていた。
誰も、彼女を疑わなかった。
死者を疑うことは難しい。
まして、最初に死んだ少女であればなおさらだ。
榊は資料を睨んだ。
「それが、どうして今の名簿にいる」
澪奈が別の画面を開く。
《願い屋》事件で押収された被害者名簿。
被害者の会の相談記録。
現在の利用履歴。
そこに、雨宮紗良の名前があった。
「ですが、《願い屋》の名簿には、現在の利用履歴として残っています」
部屋の空気が重くなる。
名前の横には、最近の日付がある。
相談日。
接続履歴。
願い屋残滓への接触を示す記録。
すべて、彼女の死亡後のものだった。
榊が低く言う。
「死者の名前を誰かが使ったのか」
澪奈は頷きかけ、そこで止めた。
「その可能性が高いです。あるいは……」
ルストが続ける。
「死んでいない」
澪奈はゆっくり頷いた。
「記録上は、死んでいます」
その言い方に、全員が一瞬黙った。
記録上は。
つまり、記録の外では分からない。
クラウディオが、ようやく口を開いた。
「死亡確認済み、遺体確認済み、家族証言あり。普通なら閉じた記録だな」
榊が言う。
「普通ならな」
クラウディオは薄く笑った。
「今さら普通を期待する方が愚かだ」
ルストは、クラウディオの横顔を見た。
皮肉はいつも通りだ。
だが、その奥にある苛立ちは、少し質が違う。
リュシアンや真帆に向けた苛立ちとも違う。
死者の名。
最初の被害者という札。
記録上の死亡。
遺体確認。
家族証言。
それらを盾にして、誰かが現在の利用履歴を隠している可能性。
クラウディオは、そこに強い嫌悪を示していた。
「死人を被害者の札として吊るしておけば、誰も裏を見ない。実に人間らしい雑な偽装だ」
その声は冷たかった。
榊が眉を寄せる。
「雑、か」
「雑だろう。死者は反論しない。だから都合よく飾られる」
クラウディオは端末の画面を見下ろす。
「被害者という札は、よく燃えるし、よく隠す。泣き声の次は墓標か。人間は盾にするものを選ばんな」
ルストは、その声に含まれた温度の低さを聞いた。
クラウディオは、死者そのものより、死者の名を使って何かを隠すことに怒っている。
死者の記録を閉じたふりをして、その下に別のものを埋めること。
反論できない者を、疑われにくい札として吊るすこと。
それは、彼にとってただの犯罪以上に不快な行為なのだろう。
クラウディオにとって、人形は失ったものを留める器だ。
記録も、死者を再び殺さないための形であるはずだった。
それを偽装や隠蔽に使うことは、死者の名前を二度汚す行為に近い。
ルストは静かに言った。
「妙に苛立っているな」
クラウディオは目だけで彼を見た。
「死者の名前で遊ぶ趣味はない」
それだけだった。
だが、十分だった。
◇
雨宮紗良の過去事件記録は、妙に整っていた。
整いすぎている、と言ってもよかった。
数年前の怪異犯罪。
仮称は、霧杜北区連続昏睡事件。
当時、複数の若者が原因不明の昏睡状態に陥った。記憶の欠落、夢の中で同じ場所を歩いたという証言、目覚めた者の手首に残る薄い輪の痕。現在の願い屋事件ほど明確ではないが、怪異の関与が疑われた事件だった。
最初に死亡したとされたのが、雨宮紗良。
彼女の死によって、事件は単なる昏睡や集団体調不良ではなく、怪異犯罪として扱われるようになった。
澪奈は記録を読み上げる。
「この少女が最初に亡くなったことで、事件が発覚したとされています」
画面には、当時の報告書の見出しが映っている。
最初の被害者、雨宮紗良。
その文字は、あまりに断定的だった。
「当時の記録では、疑いようのない被害者として扱われています」
クラウディオが静かに返す。
「疑いようがない、という記録ほど疑う価値がある」
榊が息を吐いた。
「死者まで疑えって話じゃないだろ」
「疑えと言っているのは記録だ。死者ではない」
クラウディオは淡々と続ける。
「死者本人は何も喋らない。代わりに喋るのは、周囲の証言と書類だ。そこが汚れていれば、死者の口まで汚される」
澪奈は、わずかに目を伏せた。
「記録に不自然な欠落があります」
榊が身を乗り出す。
「どこだ」
「発見直後から遺体確認までの間に、資料の空白があります。手続きそのものを断定的に問題視できるほどではありません。ただ、添付資料の順番が不自然です。それから、後から追加されたような写真データがあります」
榊の顔が険しくなる。
「写真?」
「はい」
澪奈が画面を切り替えた。
古い写真データが並ぶ。
雨宮紗良の事件現場周辺。
当時の関係者の自宅外観。
病院の搬入口。
古い学校の裏門。
そして、その中に、一枚だけ異質な写真があった。
薄暗い通りに面した、小さな工房の外観。
古い看板。
閉じた窓。
窓辺に置かれた古い人形の影。
木製の扉。
看板には、かすれた文字でこう書かれていた。
《箱庭》。
部屋の空気が変わった。
ルストがクラウディオを見る。
クラウディオの表情は、まだ動いていない。
だが、赤い目の温度が消えた。
澪奈は慎重に言った。
「事件資料の中に、工房《箱庭》の写真が混ざっています」
榊が眉を寄せる。
「箱庭?」
澪奈は画面から目を離さず答える。
「クラウディオさんの工房です」
榊の視線がクラウディオへ向く。
「お前、当時この事件に関わったのか」
クラウディオは短く答えた。
「していない」
その声に、余分な感情はなかった。
ないことが、逆に不穏だった。
澪奈がさらに資料を開く。
写真は一枚ではなかった。
外観。
看板。
閉じた窓。
さらに、工房内の一部らしき写真がある。
作業台の端。
古い人形の腕。
修復道具の棚。
布をかけられた何か。
クラウディオ本人は写っていない。ある写真の端に、人の影のようなものが切れているが、それが誰かは分からない。
ルストはその写真を見て、表情をわずかに硬くした。
《箱庭》は、クラウディオにとってただの工房ではない。
人形師としての仕事場。
壊れたものを修復する場所。
死者や記憶や失われた手触りを、形として留める場所。
勝手に覗かれ、資料にされ、怪異犯罪の記録に紛れ込んでいる。
それは侵入に近い。
いや、侵入そのものだった。
◇
澪奈は写真の横にある記録番号を示した。
「この写真だけ、資料番号の付け方が違います」
榊が画面を覗き込む。
「どう違う」
「事件当時の主記録とは採番の系列が違います。後から参考資料として差し込まれた可能性があります」
クラウディオは黙っている。
榊が問う。
「誰が入れたか分かるか」
「まだです。撮影日時も完全には信用できません。ただ、少なくともこの事件の初期記録とは扱いが違います」
澪奈は、クラウディオへ視線を向けた。
「クラウディオさん、当時この事件に協力しましたか」
「していない」
同じ答え。
迷いのない否定。
澪奈は頷く。
「工房の資料提供を求められたことは」
「ない」
「写真を撮られた覚えは」
「外観なら、通行人でも撮れる。内部は違う」
クラウディオの声は低い。
「内部を撮られた記憶はない」
榊が唸る。
「誰かが勝手に撮ったか、別の資料から引っ張ったか」
「あるいは、当時から誰かが《箱庭》を調べていた」
澪奈がそう言うと、部屋の温度がさらに下がった。
《箱庭》が怪異犯罪の参考資料として扱われていた。
人形修復の記録としてか。
記憶保存の資料としてか。
死者の形を留める技術の参考としてか。
それとも、もっと別の目的か。
分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
クラウディオは、その事件に正式に関わっていない。
それなのに、彼の工房の写真が過去事件の資料に混ざっている。
しかも、死んでいるはずの「最初の被害者」の記録の奥に。
ルストは言った。
「箱庭の写真があるからか」
クラウディオは、初めてルストを見た。
赤い目は冷えている。
「まだそこへ触れるな」
短い言葉だった。
それ以上踏み込めば、今は切られる。
ルストはすぐに引いた。
「分かった。今は聞かない」
「賢明だ」
そのやり取りだけで、二人の距離は十分に伝わった。
からかわない。
踏み込みすぎない。
隣に立つ。
今のルストにできることは、それだった。
◇
榊は資料を手に取った。
「死亡確認済み、遺体確認済み、家族証言あり。普通なら閉じた記録だ」
彼は一枚ずつ確認していく。
「だが、現在の利用履歴がある。名簿には最近の相談記録。過去事件資料には箱庭の写真。しかも後から差し込まれた可能性」
澪奈が頷く。
「当時の担当部署と記録作成者を確認します。写真の追加者も追います。ただ、古い記録なので、すぐには絞れない可能性があります」
「家族証言は」
「残っています。ただし、内容は要確認です。ここで断定はできません」
榊は苦々しい顔をした。
「死者の名前を使った偽装か、本人が死んでいないか、記録がどこかで改ざんされたか」
クラウディオが薄く笑う。
「三択に見える時ほど、四つ目があるものだ」
「やめろ。増やすな」
「事件に言え」
澪奈が、雨宮紗良の写真を一枚表示した。
顔ははっきりとは出していない。記録上の資料として処理され、必要部分だけが表示されている。十六歳。最初の被害者。死亡記録あり。
だが、現在の名簿に名前がある。
彼女は、本当に死んだのか。
誰かが名前を使っているのか。
遺体確認は正しかったのか。
家族証言は本当に信頼できるのか。
それとも、死者の名を使った者が、彼女を「完全な被害者」として飾り続けているのか。
何も断定できない。
できないからこそ、不気味だった。
ルストは、クラウディオの横顔を見た。
クラウディオは、雨宮紗良の記録よりも、《箱庭》の写真を見ていた。
そこに映っている古い扉。
看板。
閉じた窓。
作業台の端。
人形の腕。
それらは、彼の領域だった。
死者を留めるための場所。
壊れたものを直す場所。
失われた記憶を、形にして残す場所。
それを、誰かが覗いた。
記録へ入れた。
怪異犯罪の資料として利用した。
クラウディオの表情から、すべての皮肉が消えていた。
怒鳴らない。
声も荒げない。
ただ、静かになっている。
静かすぎることで、榊も澪奈も自然に黙った。
空気が、刃物を置かれたように冷える。
クラウディオは、ゆっくりと写真から目を離した。
そして、低く言った。
「俺の箱庭を覗いた者がいるな」




