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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第9部 【箱庭襲撃】

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第122話 箱庭の鍵


 画面の中の《箱庭》は、古い写真の色をしていた。


 くすんだ灰色。


 曇った硝子。


 閉じた窓。


 雨が降った後のように湿った石畳。


 細い路地に面した、小さな工房の外観。


 看板には、かすれた文字で《箱庭》とある。


 クラウディオの工房。


 人形師としての仕事場。


 そして、彼が失ったものを、捨てずに置いている場所。


 解析室の空気は、先ほどからずっと冷えていた。


 第121話の終わりに、雨宮紗良という死んでいるはずの少女の記録から《箱庭》の写真が見つかった。数年前の怪異犯罪で「最初の被害者」として扱われた少女。記録上では死亡。遺体確認もされ、家族の証言も残っていた。


 だが、《願い屋》の被害者名簿には、彼女の名前が現在の利用履歴として残っていた。


 誰かが死者の名を使っているのか。


 あるいは、彼女は死んでいないのか。


 どちらもまだ断定できない。


 しかし、問題はそれだけではなかった。


 その過去事件の資料の中に、クラウディオの《箱庭》の写真が混ざっていた。


 澪奈は端末を操作し、写真データの情報を確認している。


 榊は腕を組んで画面を睨み、ルストは黙ってクラウディオを見ていた。


 クラウディオは、表情を消したまま写真を見ている。


 怒鳴らない。


 皮肉も少ない。


 それが余計に危険だった。


「この写真は、事件当時の主記録にはありません」


 澪奈が言った。


「後から参考資料として差し込まれた可能性があります」


 榊が低く聞く。


「誰が入れた」


 澪奈は、少しだけ眉を寄せる。


「記録上は、担当者名が消えています」


 クラウディオが静かに言った。


「消したのではなく、最初から書かなかったんだろう」


 その声は平坦だった。


 だが、平坦すぎた。


 榊が一瞬、クラウディオを見る。


「どういう意味だ」


「消せば痕が残る。最初から書かなければ、空白は空白の顔をして座っていられる」


 クラウディオは、画面の中の古い工房を見ている。


「実に丁寧な雑さだ」


 いつもの皮肉に似ている。


 だが、どこか違う。


 笑っていない。


 ルストは、それを見逃さなかった。


     ◇


 《箱庭》は工房だった。


 ただの工房ではない。


 人形を作る場所であり、壊れたものを捨てずに置いておく場所であり、クラウディオが失った者たちに、形だけでも席を残しておく場所だった。


 そこには、事件で使う人形がある。


 修復途中の人形がある。


 怪異事件の記録を封じた人形がある。


 壊れた怪異具の残骸が、布に包まれて眠っている。


 古い硝子の目。


 折れた指。


 血術反応を封じた小さな器。


 記憶の破片を納めた箱。


 名前のない未完成の人形。


 誰かを模したが、最後まで完成させられなかった人形。


 古い菓子包み紙に似た紙片。


 黒ずんだ布片。


 火刑の記憶と結びついた、焦げた匂いの残る欠片。


 ロウェナに関わる古い記録の断片。


 クラウディオ自身も整理しきれていない記憶の残骸。


 王城でもない。


 警察庁でもない。


 外向きの権力や、捜査の場所ではない。


 もっと奥にある。


 胸の奥に近い場所。


 ルストは、それを知っている。


 クラウディオは失ったものを軽く扱わない。人形は、彼にとって空洞の飾りではなかった。人形は、失ったものを留める器だった。壊れた記憶を、この世から完全に消さないための形だった。


 その《箱庭》が、過去の怪異犯罪資料の中に混ざっている。


 勝手に撮られた。


 勝手に記録された。


 勝手に参考資料として扱われた。


 それは、ただ工房を覗かれたという話ではない。


 クラウディオの内側へ、誰かの手が入ったということだった。


 ルストは低く言う。


「箱庭に近づいた者がいるなら、放置できない」


 クラウディオは画面から目を離さない。


「放置すると思ったのか」


「思っていない。だから警戒している」


「貴様が警戒すると、だいたい過保護になる」


「今回は過保護でいい」


 クラウディオが、そこで初めてルストを見た。


 赤い目が冷たい。


 だが、いつものように即座に刺す言葉は出なかった。


 ルストの視線が一瞬だけ、クラウディオの肩口へ落ちる。


 襟の下。


 消していない歯形。


 いつもならクラウディオは、その視線を拾って皮肉を返す。だが、今は何も言わなかった。


 その沈黙だけで、ルストには分かった。


 《箱庭》の写真の方が、はるかに深く刺さっている。


     ◇


 澪奈は、写真データを並べ直した。


 外観だけではない。


 看板。


 閉じた窓。


 路地。


 そして、工房内と思われる写真。


 作業台の端。


 古い人形の腕。


 道具棚。


 白布をかけられた何か。


 記録としては荒い。画角も不自然だ。内部全体が分かるような写真ではない。だが、クラウディオの領域に無断で入り込んだ気配だけは、十分すぎるほどあった。


 榊が資料をさらにめくる。


「写真だけじゃない」


 澪奈が顔を上げる。


「はい」


 榊は別の資料を示した。


「工房の構造に触れた記録がある」


 ルストの目が鋭くなる。


 クラウディオは黙っている。


 榊は言葉を選びながら続けた。


「間取り図そのものではない。だが、近い」


 澪奈が補足する。


「入口、作業場、保管領域と思われる記述があります。正確な図面ではありません。ただ、複数の写真や反応記録を合わせると、構造を推測しようとしている形跡があります」


 榊が低く言う。


「誰かが調べている」


 その言葉で、部屋の空気がさらに重くなった。


 誰かが《箱庭》を調べている。


 外観だけではない。


 内部の一部。


 保管物。


 作業場。


 記憶を封じた人形の反応。


 そして、警戒術式。


 澪奈は端末を操作し、別の記録番号を表示した。


「この管理番号、東都認知生命研究センターの資料形式に似ています」


 榊が即座に聞く。


「似ているだけか」


「現時点では、断定できません」


 澪奈は慎重だった。


「ただ、第98話以降に出てきた“願いの器”の貸与記録と、符号の付け方が近いです。直接の施設名はありません。久遠院の名前もありません。ですが、完全に無関係とも言い切れません」


 クラウディオがようやく口を開いた。


「断定できないものほど、丁寧に隠されている」


 その声には、苛立ちよりも冷えがある。


 榊が息を吐く。


「工房の構造だけじゃなく、警戒術式まで調べている可能性があるってことか」


 ルストが低く言う。


「警戒術式まで見られているのか」


 クラウディオは、画面に表示された曖昧な記録を見た。


「構造だけならまだ笑えた」


 笑っていない声だった。


「外から見えるものを集め、内部の反応を拾い、保管領域に近い言葉を並べている。警戒層、外部反応、記憶封止領域。言葉だけはそれらしく揃っている」


 澪奈が画面を確認する。


「はい。正確な術式記録ではありません。ただ、外から観察して、近い概念を拾おうとした痕跡があります」


「見たつもりでいるだけだ」


 クラウディオは低く言った。


「そこまで出来がよければ、今ごろ生きていない」


 それは強がりにも聞こえた。


 実際、《箱庭》へ簡単に入れるはずはない。


 血術、人形術、古い吸血鬼王の術式。いくつもの層が重なり、ただの人間が触れられる場所ではない。内部構造も警戒術式も、外から覗いただけで分かるものではない。


 だが、誰かはそれをしようとしている。


 外から測り、記録し、推測し、資料に混ぜ込んでいる。


 その事実が不快だった。


 クラウディオは薄く笑った。


「入れるものなら入ってみればいい。生きて出られるかは知らん」


 その言葉は危険な冗談の形をしていた。


 だが、ルストには分かった。


 余裕の笑みではない。


 刃物をしまうための鞘のような笑みだった。


 クラウディオは怒っている。


 ただし、怒鳴るより先に静かになっている。


 その静けさが危ない。


     ◇


 榊は資料を机に置いた。


「当時の押収記録、研究施設系の資料、願い屋事件で押収された名簿、真帆の送信記録を洗う。箱庭の写真がどこから入ったのか、誰が参考資料にしたのか、当時の担当者にも当たる」


 澪奈が頷く。


「資料の追加履歴を追います。ただ、担当者名が空白です。途中で消されたというより、最初から記録されなかった可能性が高いです」


「意図的か」


「はい」


 榊はクラウディオを見た。


「お前の工房について、警察側に提出した資料は」


「ない」


「外部機関への協力は」


「していない」


「写真の提供は」


「していない」


 即答だった。


 迷いはない。


 榊は顔をしかめる。


「なら、誰かが勝手に集めた」


「そうだろうな」


 クラウディオは静かに返す。


 その静かさに、榊は少しだけ言葉を止めた。


 普段のクラウディオなら、ここで三つは皮肉を重ねる。人間社会の記録管理を罵り、警察の脆さを刺し、研究施設の品性を腐す。


 だが、今は少ない。


 少なすぎる。


 ルストが一歩近づいた。


「クラウディオ」


「何だ」


「静かすぎる」


 クラウディオは、ゆっくりとルストを見た。


「騒げば満足か」


「そうじゃない」


「なら何だ。慰めのつもりか」


「警戒だ」


「貴様の警戒は、やはり過保護に寄るな」


「今回は過保護でいいと言った」


 クラウディオは、ほんのわずかだけ目を細めた。


 それ以上は何も言わない。


 ルストも踏み込みすぎなかった。


 ここで肩へ触れるようなことはしない。噛み跡の話もしない。《箱庭》の話は、ルストが踏み込める場所と踏み込めない場所の境界を、いつもよりはっきり見せていた。


 隣に立つ。


 今はそれだけでいい。


     ◇


 クラウディオは、画面に映る《箱庭》の写真を見続けていた。


 外観。


 看板。


 窓。


 内部の作業台。


 古い人形の腕。


 そのどれもが、彼の記憶に繋がっている。


 《箱庭》には、事件で使う人形だけがあるわけではない。


 修復途中の人形。


 未完成の器。


 怪異事件の記録を封じた小さな人形。


 壊れた記憶の破片。


 古い菓子包み紙。


 ロウェナの名前を直接記さずに残した古い記録。


 火刑の匂いと結びついた黒ずんだ布。


 誰かを模したが、完成させられなかった人形。


 クラウディオが、自分でも整理しきれていないもの。


 それらは、他人に見せるために置いてあるのではない。


 失ったものを、もう一度失わないために置いてある。


 忘れるためではなく、忘れないために閉じ込めている。


 だから、《箱庭》を覗かれることは、ただの物理的な侵入ではない。


 心臓の内側に指を入れられることに近い。


 ルストは、クラウディオの横顔を見た。


 王城を荒らされても、クラウディオは笑うだろう。


 警察庁で証拠を積まれても、皮肉で返すだろう。


 だが、《箱庭》は違う。


 権力の場所ではなく、記憶の場所だからだ。


 そこを狙われることは、クラウディオ自身の胸の中を荒らされることに等しい。


 その時だった。


 小さな音が鳴った。


 端末の通知音ではない。


 無線の警告でもない。


 もっと細く、硬い音。


 まるで、硝子の目が内側から爪で叩かれたような音だった。


 クラウディオの指が止まる。


 彼の懐に収められていた小さな人形の目が、一瞬だけ開いた。


 赤い糸が、空気の中で微かに震える。


 澪奈が端末へ視線を戻した。


「反応が出ました」


 榊が即座に立ち上がる。


「どこだ」


 澪奈の顔が硬くなる。


「《箱庭》の外部結界です」


 ルストが動いた。


 一歩、クラウディオの横へ。


 クラウディオはもう画面を見ていない。


 目が冷え切っている。


「侵入か」


 榊が聞く。


 澪奈は端末を確認する。


「侵入反応ではありません」


「じゃあ何だ」


 クラウディオが低く言った。


「試し切りだ」


 部屋の空気が凍る。


 澪奈が表示した反応図には、結界の外側にごく細い線が走っていた。内部へ入ったものではない。表面に、針でなぞったような微細な傷が一本だけ残っている。


 侵入ではない。


 破壊でもない。


 ただ、触れた。


 硬さを測るように。


 どこに刃が通るかを探るように。


 ルストが低く言う。


「結界を測ったのか」


 クラウディオは、人形の目を閉じさせるように指を添えた。


「俺の箱庭の鍵穴を探している」


 警報は、すぐに止まった。


 侵入ではない。


 ただ、外部結界に、針でなぞったような微細な傷が一本残っていた。


 誰かが《箱庭》を開けようとしている。


 まだ扉を叩いただけではない。


 鍵穴の位置を、測っている。



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