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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第9部 【箱庭襲撃】

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第123話 襲撃前夜



 夜の街は、雨上がりの匂いを残していた。


 舗道の隙間に溜まった水が、街灯の光を細く裂いている。表通りの店はもうほとんど灯りを落とし、遅い時間まで開いている飲食店の看板だけが、遠くでぼんやりと滲んでいた。


 そこからさらに外れた古い区画へ入ると、人の気配は急に薄くなる。


 霧杜市には、再開発から取り残された場所がいくつもある。古い洋館、閉鎖された店舗、役目を終えた看板、誰も座らなくなったベンチ。表通りから見れば、ただの古い街並みだ。だが夜になると、その古さは少しだけ別の顔を見せる。


 記憶が、建物の隙間に残っているような場所。


 クラウディオは、その奥へ迷いなく歩いていた。


 黒い外套の裾が、湿った夜気を切る。歩調は普段と変わらないように見える。だが、ルストはわずかな違いに気づいていた。


 早くはない。


 遅くもない。


 ただ、余分な揺れがない。


 まるで、何かを抑え込むために、足音まで整えているようだった。


「一人で行く気だったのか」


 ルストが聞くと、クラウディオは前を向いたまま答えた。


「貴様を連れて行く方が面倒だ」


「なら置いていけばよかった」


「置いていったら、後で面倒な顔をするだろう」


「する」


「だから面倒だと言っている」


 言葉だけ聞けば、いつもの調子だった。


 しかし、いつもの軽薄な棘よりも、今夜の声は少し冷たい。


 《箱庭》の外部結界に入った微細な傷。


 過去事件資料に混ざっていた写真。


 工房の構造に触れた記録。


 警戒術式へ近づこうとした痕跡。


 それらは、クラウディオにとってただの捜査情報ではなかった。


 彼の奥にある場所へ、誰かの指が伸びている。


 ルストは、それを理解していた。


 だから、それ以上は聞かなかった。


 古い洋館が見えた。


 蔦の絡んだ壁。


 閉じた窓。


 灯りの消えた表口。


 表向きは、ずっと前に閉鎖された人形修復店だった。小さな看板には、かすれた文字が残っている。


 人形修復。


 硝子目。


 古布。


 修理。


 そして、隅の方に《箱庭》の文字。


 普通の人間が見れば、忘れられた店にしか見えないだろう。表の扉には古い鍵穴があり、窓の内側には暗い布が引かれている。人が出入りしている気配もない。


 クラウディオは表の扉の前で足を止めた。


「表の扉は客用だ。今は客を取っていない」


 ルストが扉を見る。


「なら俺は」


「荷物だ」


「扱いが悪いな」


「貴様に値札をつける趣味はない」


 クラウディオは、鍵穴には触れなかった。


 代わりに、扉の横を通り過ぎる。洋館の影が、わずかに動いた。月明かりも街灯も届かない壁際に、細い隙間が生まれる。


 鍵ではない。


 血の気配。


 古い吸血鬼王の術式。


 それに応えるように、影が開いた。


 地下へ続く階段が現れる。


 空気が変わった。


 木と布と硝子と蝋、金属、そして乾いた血術の匂い。


 外から見れば、ただの古い洋館。


 だが、その地下に《箱庭》はあった。


     ◇


 階段を降りるたび、空気の温度がわずかに下がった。


 壁には灯りがない。


 だが、暗闇ではなかった。


 床の奥、壁の継ぎ目、階段の縁に、細い血術の線が眠っている。光るわけではない。ただ、そこにあることだけが分かる。クラウディオの気配に触れるたび、線は息をするように静かに反応した。


 途中、階段脇に置かれた小さな人形の目が、一瞬だけ開いた。


 硝子の目。


 古い焦げ茶の髪。


 眠っているような顔。


 だが、ルストが通り過ぎると、その目は確かに彼を見た。


 クラウディオが言う。


「見張りだ。噛まない」


「噛むものもいるのか」


「貴様が不用意に触れば考えるだろうな」


「触らない」


「当然だ」


 地下の扉の前で、クラウディオは立ち止まった。


 扉は重い木製だった。だが、鍵穴はない。古い金具がついているだけで、人間の手で開くための扉ではないように見える。


 クラウディオが近づくと、扉の奥で細い音がした。


 糸がほどけるような音。


 眠っていたものが、主人を認める音。


 扉が開く。


 工房《箱庭》の内部は、静かだった。


 静かで、古く、清潔だった。


 だが、人間の生活空間ではない。


 木製の棚が、壁一面に並んでいる。


 白布をかけられた人形。


 修復台。


 古い椅子。


 硝子の目が入った箱。


 義眼の小瓶。


 細い筆。


 古いレース。


 糸巻き。


 手首だけの試作品。


 未完成の顔。


 名前のない器。


 記憶反応を封じた小箱。


 事件に使われた人形の残骸。


 床や壁の奥には、血術の細い線が隠れている。目には見えにくいが、気配だけで分かる。人形たちは眠っているようで、同時に見ているようでもあった。


 他人が見れば、不気味な部屋だったかもしれない。


 手首だけの試作品。


 硝子の目。


 白布をかけられた人形。


 名前のない器。


 けれど、クラウディオの視線は、それらを怖がるものとしてではなく、配置を確かめるものとしてなぞっていた。


 そこには、彼だけが読める秩序があった。


 クラウディオは工房へ入ると、すぐに棚の一つへ視線を向けた。


「その棚には触るな。事件で使った人形だ。眠っているように見えるが、記録は起きている」


 ルストは足を止める。


 棚の中には、いくつもの人形が座っていた。小さなもの、大きなもの、腕だけ、頭部だけのものもある。どれも丁寧に保管されているが、どこかに事件の気配がある。


 血の跡ではない。


 記憶の跡。


 誰かの証言、怪異の反応、残された願い。


 それらが、眠っているように見えて、まだ起きている。


 クラウディオは別の箱を開ける。


「義眼は右と左を間違えるな。人形は目で嘘をつく」


 小瓶の中には、硝子の目が並んでいた。


 青。


 緑。


 薄茶。


 赤みを帯びた灰色。


 生きた目ではないのに、光を受けると一瞬だけ表情が生まれる。


「そのレースは古い。破るな。貴様の外套より価値がある」


「俺の外套を比較に出す必要があるか」


「分かりやすい低基準が必要だった」


 クラウディオは言いながら、別の作業台へ移る。


 そこには、手首だけの試作品が置かれていた。細い指。関節。爪。まだ肌色も入っていない白い素材。誰かの手になりかけたまま、途中で止まっている。


「手首だけの試作品を哀れむな。完成していないことにも意味がある」


 ルストはその手首を見た。


 触らない。


 不用意に憐れまない。


 クラウディオがそう言うなら、そこには理由がある。


 次に、布をかけられた箱の前でクラウディオは足を止めた。


「名前のない器は、名前を持たせないために置いてある」


 ルストは箱を見た。


 中身は見えない。


 だが、その言葉だけで十分だった。


 名前を持たせないための器。


 誰かになる前に止められたもの。


 誰かの代わりにされないよう、あえて未完成で留められたもの。


 ルストは黙って頷いた。


「触らない」


 クラウディオがちらりと彼を見る。


「当然だ」


「聞かない」


「……それも当然だ」


「覚えておく」


 その言葉で、クラウディオは一瞬だけ黙った。


 工房の中の時計も、人形も、血術の線も、その沈黙を壊さない。


 クラウディオは、やがて視線を逸らした。


「勝手に覚えるな」


「覚える」


「貴様は本当に言うことを聞かないな」


「触っていない」


「今のところはな」


 声はいつも通りに戻りかけていた。


 だが、ルストには分かる。


 クラウディオは普段より饒舌だった。


 説明しているようで、自分で確認している。


 棚の位置。


 人形の状態。


 器の沈黙。


 義眼の向き。


 レースの皺。


 何も変わっていないか。


 まだ荒らされていないか。


 言葉にすることで、不安を隠している。


     ◇


 《箱庭》の奥は、さらに静かだった。


 入り口側の工房よりも、空気が古い。


 白布をかけられた人形が増え、棚には小箱が整然と並び、壁際には修復途中の人形の頭部がいくつか置かれていた。


 血術反応を封じた器。


 過去事件で使った人形の残骸。


 願い屋事件から回収された赤い小瓶の反応を隔離した容器。


 どれも、ただ保管されているのではない。


 記憶が、証拠が、反応が、壊れたまま暴れないように押さえられている。


 人形たちは、怪物ではなかった。


 証拠の器。


 記憶の器。


 失われたものを留める器。


 クラウディオの人形師としての倫理が、この部屋全体にあった。


 捨てない。


 なかったことにしない。


 しかし、勝手に誰かへ成り代わらせもしない。


 ルストは、それを黙って見ていた。


 問い詰めない。


 勝手に触らない。


 不用意に慰めない。


 ここで軽々しく言葉を置けば、何かを踏むと分かっていた。


 これはただの工房ではない。


 クラウディオの記憶の棚だ。


 ここで不用意に触れることは、彼の傷へ触れることと同じだった。


 だから触らない。


 聞かない。


 覚える。


 奥の壁際で、クラウディオの足が止まった。


 硝子ケースがあった。


 その一体だけは、他のどの人形とも違って置かれていた。


 ケースの内側に埃はない。硝子は丁寧に磨かれている。台座には古い布が敷かれ、人形はそこに静かに立っていた。


 女性を模した人形だった。


 古い時代の服を着ている。


 少し高い襟元。


 やわらかな色の布。


 片手は、何かを差し出す形で止まっていた。


 焼き菓子でも載せるような、やわらかな手だった。


 目元は穏やかだった。


 けれど、顔は奇妙なほど曖昧だった。


 美しいのに、輪郭が決まりきっていない。正確な顔を再現した人形ではない。覚えている部分と、思い出せない部分が、同じ顔の中で静かにせめぎ合っている。


 忘れたのではない。


 覚えきれなかったものを、無理に作ろうとした跡だった。


 ルストは、それを見て分かった。


 菓子屋の女性。


 ロウェナ。


 クラウディオが数百年、忘れずにいる名。


 だが、完全な再現ではない。


 クラウディオ自身も、正確な顔を覚えているわけではないのだろう。だから、あえて未完成にしている部分がある。曖昧な記憶を、無理に完成させて嘘にしないために。


 焼き菓子を差し出す手。


 柔らかな目元。


 少し古い服の襟元。


 そこにだけ、彼の記憶が滲んでいた。


 クラウディオは、さっきまでの饒舌さを失っていた。


 何も説明しない。


 手も触れない。


 ただ、硝子ケースの前に立ち、一瞬だけ人形を見た。


 ルストも何も言わなかった。


 聞けば、名前を引きずり出すことになる。


 この場所でそれをする気にはなれなかった。


 だからルストは、硝子ケースの中の人形を見て、何も言わなかった。


 ただ、その手の形だけを覚えた。


 クラウディオが、低く言う。


「見るな」


 ルストは視線を少しだけ下げた。


「見ている」


「なら、見るな」


「それには触らない」


「当然だ」


「聞かない」


 クラウディオは黙った。


 ルストは続ける。


「聞かれたくない顔をしている」


 クラウディオの赤い目が、わずかに動く。


「貴様の目は余計なものばかり見る」


「見るだけにしておく」


 クラウディオは返さなかった。


 その沈黙が、答えの代わりだった。


     ◇


 硝子ケースの横には、薄い布が畳まれていた。


 白ではない。


 淡い灰色。


 光を通すが、中までは見えなくなる布。


 クラウディオはそれを手に取った。


 動作は丁寧だった。


 冷たいほどに。


 布を広げる前に、人形をもう一度だけ見る。


 焼き菓子を差し出す手。


 柔らかな目元。


 曖昧な顔。


 完全ではない記憶。


 クラウディオの指が、ほんのわずか止まった。


 それでも、彼は何も言わない。


 ルストも聞かない。


 聞かないことが、この場ではもっとも近い距離だった。


 布が硝子ケースを覆う。


 ロウェナに似た人形の顔が見えなくなる。


 柔らかな目元が隠れる。


 差し出された手も、薄い布の向こうへ沈む。


 クラウディオの手が、布から離れた。


 その瞬間だった。


 音はしなかった。


 少なくとも、人間の耳に届くような音ではなかった。


 ただ、工房の外側で何かが裂けた。


 空気の奥に、細い亀裂が走る。


 床下の血術の線が、一斉に震えた。


 棚の人形たちの硝子の目が、わずかに動く。


 白布の下で、眠っていた人形の指が小さく軋む。


 ルストは即座に振り返った。


 クラウディオも振り返る。


 その顔から、すべての表情が消えていた。


 工房の外で、結界が一枚破れている。


 侵入ではない。


 まだ、誰かが中へ踏み込んだわけではない。


 だが、前の試し切りより一段深い。


 結界の一層が、音もなく裂かれていた。


 襲撃はまだ始まっていない。


 だが《箱庭》は、もう触れられていた。



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