第123話 襲撃前夜
夜の街は、雨上がりの匂いを残していた。
舗道の隙間に溜まった水が、街灯の光を細く裂いている。表通りの店はもうほとんど灯りを落とし、遅い時間まで開いている飲食店の看板だけが、遠くでぼんやりと滲んでいた。
そこからさらに外れた古い区画へ入ると、人の気配は急に薄くなる。
霧杜市には、再開発から取り残された場所がいくつもある。古い洋館、閉鎖された店舗、役目を終えた看板、誰も座らなくなったベンチ。表通りから見れば、ただの古い街並みだ。だが夜になると、その古さは少しだけ別の顔を見せる。
記憶が、建物の隙間に残っているような場所。
クラウディオは、その奥へ迷いなく歩いていた。
黒い外套の裾が、湿った夜気を切る。歩調は普段と変わらないように見える。だが、ルストはわずかな違いに気づいていた。
早くはない。
遅くもない。
ただ、余分な揺れがない。
まるで、何かを抑え込むために、足音まで整えているようだった。
「一人で行く気だったのか」
ルストが聞くと、クラウディオは前を向いたまま答えた。
「貴様を連れて行く方が面倒だ」
「なら置いていけばよかった」
「置いていったら、後で面倒な顔をするだろう」
「する」
「だから面倒だと言っている」
言葉だけ聞けば、いつもの調子だった。
しかし、いつもの軽薄な棘よりも、今夜の声は少し冷たい。
《箱庭》の外部結界に入った微細な傷。
過去事件資料に混ざっていた写真。
工房の構造に触れた記録。
警戒術式へ近づこうとした痕跡。
それらは、クラウディオにとってただの捜査情報ではなかった。
彼の奥にある場所へ、誰かの指が伸びている。
ルストは、それを理解していた。
だから、それ以上は聞かなかった。
古い洋館が見えた。
蔦の絡んだ壁。
閉じた窓。
灯りの消えた表口。
表向きは、ずっと前に閉鎖された人形修復店だった。小さな看板には、かすれた文字が残っている。
人形修復。
硝子目。
古布。
修理。
そして、隅の方に《箱庭》の文字。
普通の人間が見れば、忘れられた店にしか見えないだろう。表の扉には古い鍵穴があり、窓の内側には暗い布が引かれている。人が出入りしている気配もない。
クラウディオは表の扉の前で足を止めた。
「表の扉は客用だ。今は客を取っていない」
ルストが扉を見る。
「なら俺は」
「荷物だ」
「扱いが悪いな」
「貴様に値札をつける趣味はない」
クラウディオは、鍵穴には触れなかった。
代わりに、扉の横を通り過ぎる。洋館の影が、わずかに動いた。月明かりも街灯も届かない壁際に、細い隙間が生まれる。
鍵ではない。
血の気配。
古い吸血鬼王の術式。
それに応えるように、影が開いた。
地下へ続く階段が現れる。
空気が変わった。
木と布と硝子と蝋、金属、そして乾いた血術の匂い。
外から見れば、ただの古い洋館。
だが、その地下に《箱庭》はあった。
◇
階段を降りるたび、空気の温度がわずかに下がった。
壁には灯りがない。
だが、暗闇ではなかった。
床の奥、壁の継ぎ目、階段の縁に、細い血術の線が眠っている。光るわけではない。ただ、そこにあることだけが分かる。クラウディオの気配に触れるたび、線は息をするように静かに反応した。
途中、階段脇に置かれた小さな人形の目が、一瞬だけ開いた。
硝子の目。
古い焦げ茶の髪。
眠っているような顔。
だが、ルストが通り過ぎると、その目は確かに彼を見た。
クラウディオが言う。
「見張りだ。噛まない」
「噛むものもいるのか」
「貴様が不用意に触れば考えるだろうな」
「触らない」
「当然だ」
地下の扉の前で、クラウディオは立ち止まった。
扉は重い木製だった。だが、鍵穴はない。古い金具がついているだけで、人間の手で開くための扉ではないように見える。
クラウディオが近づくと、扉の奥で細い音がした。
糸がほどけるような音。
眠っていたものが、主人を認める音。
扉が開く。
工房《箱庭》の内部は、静かだった。
静かで、古く、清潔だった。
だが、人間の生活空間ではない。
木製の棚が、壁一面に並んでいる。
白布をかけられた人形。
修復台。
古い椅子。
硝子の目が入った箱。
義眼の小瓶。
細い筆。
古いレース。
糸巻き。
手首だけの試作品。
未完成の顔。
名前のない器。
記憶反応を封じた小箱。
事件に使われた人形の残骸。
床や壁の奥には、血術の細い線が隠れている。目には見えにくいが、気配だけで分かる。人形たちは眠っているようで、同時に見ているようでもあった。
他人が見れば、不気味な部屋だったかもしれない。
手首だけの試作品。
硝子の目。
白布をかけられた人形。
名前のない器。
けれど、クラウディオの視線は、それらを怖がるものとしてではなく、配置を確かめるものとしてなぞっていた。
そこには、彼だけが読める秩序があった。
クラウディオは工房へ入ると、すぐに棚の一つへ視線を向けた。
「その棚には触るな。事件で使った人形だ。眠っているように見えるが、記録は起きている」
ルストは足を止める。
棚の中には、いくつもの人形が座っていた。小さなもの、大きなもの、腕だけ、頭部だけのものもある。どれも丁寧に保管されているが、どこかに事件の気配がある。
血の跡ではない。
記憶の跡。
誰かの証言、怪異の反応、残された願い。
それらが、眠っているように見えて、まだ起きている。
クラウディオは別の箱を開ける。
「義眼は右と左を間違えるな。人形は目で嘘をつく」
小瓶の中には、硝子の目が並んでいた。
青。
緑。
薄茶。
赤みを帯びた灰色。
生きた目ではないのに、光を受けると一瞬だけ表情が生まれる。
「そのレースは古い。破るな。貴様の外套より価値がある」
「俺の外套を比較に出す必要があるか」
「分かりやすい低基準が必要だった」
クラウディオは言いながら、別の作業台へ移る。
そこには、手首だけの試作品が置かれていた。細い指。関節。爪。まだ肌色も入っていない白い素材。誰かの手になりかけたまま、途中で止まっている。
「手首だけの試作品を哀れむな。完成していないことにも意味がある」
ルストはその手首を見た。
触らない。
不用意に憐れまない。
クラウディオがそう言うなら、そこには理由がある。
次に、布をかけられた箱の前でクラウディオは足を止めた。
「名前のない器は、名前を持たせないために置いてある」
ルストは箱を見た。
中身は見えない。
だが、その言葉だけで十分だった。
名前を持たせないための器。
誰かになる前に止められたもの。
誰かの代わりにされないよう、あえて未完成で留められたもの。
ルストは黙って頷いた。
「触らない」
クラウディオがちらりと彼を見る。
「当然だ」
「聞かない」
「……それも当然だ」
「覚えておく」
その言葉で、クラウディオは一瞬だけ黙った。
工房の中の時計も、人形も、血術の線も、その沈黙を壊さない。
クラウディオは、やがて視線を逸らした。
「勝手に覚えるな」
「覚える」
「貴様は本当に言うことを聞かないな」
「触っていない」
「今のところはな」
声はいつも通りに戻りかけていた。
だが、ルストには分かる。
クラウディオは普段より饒舌だった。
説明しているようで、自分で確認している。
棚の位置。
人形の状態。
器の沈黙。
義眼の向き。
レースの皺。
何も変わっていないか。
まだ荒らされていないか。
言葉にすることで、不安を隠している。
◇
《箱庭》の奥は、さらに静かだった。
入り口側の工房よりも、空気が古い。
白布をかけられた人形が増え、棚には小箱が整然と並び、壁際には修復途中の人形の頭部がいくつか置かれていた。
血術反応を封じた器。
過去事件で使った人形の残骸。
願い屋事件から回収された赤い小瓶の反応を隔離した容器。
どれも、ただ保管されているのではない。
記憶が、証拠が、反応が、壊れたまま暴れないように押さえられている。
人形たちは、怪物ではなかった。
証拠の器。
記憶の器。
失われたものを留める器。
クラウディオの人形師としての倫理が、この部屋全体にあった。
捨てない。
なかったことにしない。
しかし、勝手に誰かへ成り代わらせもしない。
ルストは、それを黙って見ていた。
問い詰めない。
勝手に触らない。
不用意に慰めない。
ここで軽々しく言葉を置けば、何かを踏むと分かっていた。
これはただの工房ではない。
クラウディオの記憶の棚だ。
ここで不用意に触れることは、彼の傷へ触れることと同じだった。
だから触らない。
聞かない。
覚える。
奥の壁際で、クラウディオの足が止まった。
硝子ケースがあった。
その一体だけは、他のどの人形とも違って置かれていた。
ケースの内側に埃はない。硝子は丁寧に磨かれている。台座には古い布が敷かれ、人形はそこに静かに立っていた。
女性を模した人形だった。
古い時代の服を着ている。
少し高い襟元。
やわらかな色の布。
片手は、何かを差し出す形で止まっていた。
焼き菓子でも載せるような、やわらかな手だった。
目元は穏やかだった。
けれど、顔は奇妙なほど曖昧だった。
美しいのに、輪郭が決まりきっていない。正確な顔を再現した人形ではない。覚えている部分と、思い出せない部分が、同じ顔の中で静かにせめぎ合っている。
忘れたのではない。
覚えきれなかったものを、無理に作ろうとした跡だった。
ルストは、それを見て分かった。
菓子屋の女性。
ロウェナ。
クラウディオが数百年、忘れずにいる名。
だが、完全な再現ではない。
クラウディオ自身も、正確な顔を覚えているわけではないのだろう。だから、あえて未完成にしている部分がある。曖昧な記憶を、無理に完成させて嘘にしないために。
焼き菓子を差し出す手。
柔らかな目元。
少し古い服の襟元。
そこにだけ、彼の記憶が滲んでいた。
クラウディオは、さっきまでの饒舌さを失っていた。
何も説明しない。
手も触れない。
ただ、硝子ケースの前に立ち、一瞬だけ人形を見た。
ルストも何も言わなかった。
聞けば、名前を引きずり出すことになる。
この場所でそれをする気にはなれなかった。
だからルストは、硝子ケースの中の人形を見て、何も言わなかった。
ただ、その手の形だけを覚えた。
クラウディオが、低く言う。
「見るな」
ルストは視線を少しだけ下げた。
「見ている」
「なら、見るな」
「それには触らない」
「当然だ」
「聞かない」
クラウディオは黙った。
ルストは続ける。
「聞かれたくない顔をしている」
クラウディオの赤い目が、わずかに動く。
「貴様の目は余計なものばかり見る」
「見るだけにしておく」
クラウディオは返さなかった。
その沈黙が、答えの代わりだった。
◇
硝子ケースの横には、薄い布が畳まれていた。
白ではない。
淡い灰色。
光を通すが、中までは見えなくなる布。
クラウディオはそれを手に取った。
動作は丁寧だった。
冷たいほどに。
布を広げる前に、人形をもう一度だけ見る。
焼き菓子を差し出す手。
柔らかな目元。
曖昧な顔。
完全ではない記憶。
クラウディオの指が、ほんのわずか止まった。
それでも、彼は何も言わない。
ルストも聞かない。
聞かないことが、この場ではもっとも近い距離だった。
布が硝子ケースを覆う。
ロウェナに似た人形の顔が見えなくなる。
柔らかな目元が隠れる。
差し出された手も、薄い布の向こうへ沈む。
クラウディオの手が、布から離れた。
その瞬間だった。
音はしなかった。
少なくとも、人間の耳に届くような音ではなかった。
ただ、工房の外側で何かが裂けた。
空気の奥に、細い亀裂が走る。
床下の血術の線が、一斉に震えた。
棚の人形たちの硝子の目が、わずかに動く。
白布の下で、眠っていた人形の指が小さく軋む。
ルストは即座に振り返った。
クラウディオも振り返る。
その顔から、すべての表情が消えていた。
工房の外で、結界が一枚破れている。
侵入ではない。
まだ、誰かが中へ踏み込んだわけではない。
だが、前の試し切りより一段深い。
結界の一層が、音もなく裂かれていた。
襲撃はまだ始まっていない。
だが《箱庭》は、もう触れられていた。




