第124話 破られた箱庭
布が、硝子ケースを覆った。
淡い灰色の布の向こうで、ロウェナに似た人形の柔らかな目元が隠れる。焼き菓子を差し出すような手も、古い服の襟元も、曖昧なまま留められた顔も、薄い布の奥へ沈んだ。
クラウディオの指が、布の端から離れる。
その直後だった。
音のない亀裂が、工房の外側を走った。
聞こえたわけではない。耳ではなく、床下の血術の線が震えたことで分かった。壁の奥に隠された赤い糸が一瞬だけ引き攣り、棚の上で眠っていた人形たちの硝子の目が、いっせいに細く開く。
外部結界が、一枚破れた。
前話の試し切りとは違う。
針でなぞったような傷ではない。
薄い膜を、一枚、静かに裂かれた感触だった。
ルストが先に動いた。
彼は硝子ケースとクラウディオのあいだではなく、工房の入口側へ身体を向けた。そこから来る。直感ではない。工房の空気の流れ、血術の線の震え、人形の目が向いた方向。すべてが同じ一点を示していた。
クラウディオは、ゆっくり振り返った。
表情はない。
怒りが消えたのではない。
深すぎて、顔に出る場所を失っていた。
「来たか」
声は低かった。
待っていたと言うには冷たく、驚いたと言うには静かすぎた。
ルストが言う。
「下がれ」
クラウディオの赤い目が、わずかに細くなる。
「ここで俺に下がれと言うのか」
「なら隣にいろ」
「命令が雑だ」
「今は丁寧に言っている暇がない」
その返答が終わるより早く、工房の入口側で二枚目の結界が軋んだ。
今度は音がした。
硝子を爪で擦るような、細く不快な音。
次の瞬間、壁の奥に隠れていた血術の線が赤く浮かび、すぐに鈍った。
何かが、その上に薄い膜を張ったようだった。
クラウディオの眉が、初めて動く。
扉は破壊されなかった。
開いたわけでもない。
ただ、工房の境目に立っていた影が、ひとつ、二つ、三つと滲むように現れた。
顔は見えない。
黒い覆い。
加工された声。
人間の形をしているが、気配の一部に怪異の濁りがある。完全な怪異でもない。完全な人間でもない。少なくとも、ただの強盗ではなかった。
彼らは、棚の多さに迷わなかった。
部屋に入ってすぐ、高価そうな人形や金属道具を物色することもない。
最初から、どこに何があるかを知っている動きだった。
一人が短く言う。
「保管棚、確認」
別の一人が、左の壁際へ向かう。
「封印箱、開封」
三人目の影が、さらに奥を見る。
「奥のケースへ」
ルストの目が鋭くなった。
クラウディオの声が、床を這うように落ちる。
「壊す場所を選んでいるな」
侵入者は答えない。
答えない代わりに、最初の一人が保管棚へ腕を伸ばした。
その棚には、事件で使った人形が眠っている。
眠っているように見えるが、記録は起きている。
クラウディオが、数刻前にそう言った棚だった。
侵入者は、迷わず棚の留め具へ手をかける。
「そこに触るな」
怒鳴り声ではなかった。
むしろ、囁きに近いほど低い声だった。
だからこそ危険だった。
空気が沈む。
人形の目がいっせいにクラウディオを見る。
ルストは、クラウディオの気配が変わったことを感じた。王の気配。人形師の怒り。血術が立ち上がる前の、赤い静寂。
だが、侵入者は止まらなかった。
棚が倒れた。
木材が床に打ちつけられる音が、《箱庭》の中で鈍く響く。
ただの棚が倒れた音ではない。
そこに並んでいたものは商品ではなかった。飾りでも、趣味の道具でもない。事件で拾われ、封じられ、残された記憶の器だった。捨てられなかった証拠。終わっていない声。クラウディオが壊れたまま放置せず、形として保管していたもの。
白布をかけられた小さな人形が床へ滑り落ちる。
古い人形の指が、棚板の下で折れた。
乾いた、細い音。
クラウディオの視線が、その指を追った。
ルストはそれを見た。
敵ではなく、折れた指を見る。
その一瞬が危険だった。
ルストは前へ出た。
侵入者の一人が放った黒い糸のようなものを、腕で払い落とす。怪異反応を帯びた拘束だった。触れれば動きを鈍らせる類のものだろう。だが、ルストの身体はそれを受けても沈まない。最古の吸血鬼王の気配が、黒い糸を押し潰す。
「クラウディオ、こっちを見ろ」
「見ている」
「敵を見ろ」
クラウディオは、倒れた棚の向こうで踏み砕かれた未完成の顔を見ていた。
目も鼻もまだ作られていない、白い顔。
誰にもならないために、まだ名前を持たせず置かれていた器。
それを、侵入者の靴が砕いた。
白い破片が床へ散る。
「壊したものを見ている」
「今は生きているものを守れ」
ルストの声が低くなる。
その言葉に、クラウディオの目がわずかに動いた。
生きているもの。
ルスト。
工房の外にいるかもしれない榊や澪奈。
まだ記録の中で名前を取り戻せていない被害者たち。
守るべきものは、壊された人形だけではない。
それでも、クラウディオの視線は、床に散った義眼へ引き寄せられる。
小瓶が割れていた。
青い硝子の目。
緑の硝子の目。
薄茶の硝子の目。
赤みを帯びた灰色の硝子の目。
それらが、床に転がっている。
人形は目で嘘をつく。
彼はそう言った。
その目が、今は割れた小瓶の中で散っている。
別の侵入者が、古いレースを掴んで引き裂いた。
布が裂ける音は、奇妙なほど大きかった。
手首だけの試作品が作業台から落ち、床を滑る。細い指がひとつ、衝撃で歪んだ。
名前のない器が蹴られ、箱ごと横転する。
中身が出ないように封じてあった蓋が、わずかにずれる。
工房の空気が冷えた。
封印箱の方からも、嫌な音がした。
侵入者の一人が、そこに辿り着いていた。
位置を知っている。
迷わない。
封印箱へ直接向かい、無理やりこじ開ける。
方法は見えない。
だが、術式への干渉がある。
血術の線が反応しようとして、鈍る。
赤い糸が空中に浮かびかけ、何かに絡め取られたように遅れた。
クラウディオの目が冷える。
「……この臭い」
ルストが振り向く。
「何だ」
「警察庁の時の樹脂だ」
「証拠偽装の」
「ああ」
クラウディオの声が低く沈む。
「俺の血術の癖を読んでいる」
警察庁の証拠偽装事件で使われた特殊樹脂と同じ反応。
成分も仕組みも、ここで口にする必要はなかった。
ただ、血術の流れに薄い膜を張り、反応をわずかに遅らせる。完全に封じるほどではない。だが、怒りに任せて血術を展開しようとした瞬間、その一拍を奪うには十分だった。
侵入者たちは、その一拍を狙っている。
クラウディオが血術を出す癖。
どこから糸を伸ばすか。
どの反応を先に拾うか。
どの箱を守るか。
どの人形に目が行くか。
読まれている。
いや、読まされている。
誰かが教えた。
誰かが《箱庭》を見た。
誰かがクラウディオの記憶の置き方を調べた。
「誰に教わった」
クラウディオが言った。
侵入者は答えない。
ただ、封印箱の蓋が歪む。
中から、薄い記憶反応が漏れた。
焦げた布の匂い。
濡れた路地の気配。
誰かが叫んだ夜。
願い屋の赤い小瓶に似た保存臭。
いくつもの事件の断片が、薄い霧のように工房へ滲む。
クラウディオの指が動く。
血術が走る。
しかし、赤い線はいつもよりわずかに遅い。
侵入者はその隙に後退し、別の棚へ手を伸ばす。
ルストがその前へ入った。
衝突音。
人間の拳ではない。
怪異反応を帯びた刃のようなものが、ルストの腕に弾かれる。
彼はクラウディオの前に立つのではない。
隣に立ちながら、空いた隙を埋める。
クラウディオを弱者扱いしない。
ただ、今だけ、クラウディオの視線が工房に奪われていることを知っている。
だから守る。
隣で。
「クラウディオ」
「分かっている」
「分かっているなら敵を見ろ」
「見ていると言った」
「壊したものを見ている」
クラウディオは一瞬だけ黙った。
図星だった。
その沈黙の間にも、侵入者は動く。
彼らは無差別に壊していない。
壊す場所を選んでいる。
保管棚。
未完成の器。
封印箱。
義眼。
記憶反応を封じた小箱。
クラウディオが意味を置いた場所ばかり。
「俺の箱庭で、俺の記憶を踏むな」
声は、さらに低くなった。
床下の血術が震える。
樹脂の膜を押し破るように、赤い糸が数本、空中へ浮いた。
侵入者の一人がそれを見て後退する。
遅れたとはいえ、クラウディオの血術が弱いわけではない。
王の怒りは、鈍らされてもなお重い。
赤い糸が一人の足元を絡め取り、床へ叩きつける。
だが、倒れた侵入者は呻かない。
痛みを感じていないのか、声を抑えているのか、加工された存在なのか分からない。
すぐに別の者が補う。
統制されている。
そして、その一人が奥へ向かった。
硝子ケースのある方へ。
ルストが気づく。
息を呑むより早く、身体が動いた。
「クラウディオ」
呼びかける。
だがクラウディオも気づいていた。
布をかけたばかりの硝子ケース。
ロウェナに似た人形が眠る場所。
侵入者は迷っていない。
そこに特別なものがあると知っている。
クラウディオの反応を見るように、あえてそちらへ向かっている。
ルストが前へ出る。
だが、別の侵入者が彼の進路を塞いだ。
黒い影が左右から重なる。
特殊樹脂の膜が、血術の線だけでなく、工房の反応そのものを鈍らせている。ルストは力で押し切れる。だが、一瞬遅れる。
その一瞬が、敵の狙いだった。
侵入者の手が、硝子ケースにかけられた布を掴む。
クラウディオの声が落ちる。
「それに触るな」
布が剥がされた。
ロウェナに似た人形が露わになる。
工房の薄い灯りの下で、柔らかな目元が見えた。曖昧な顔。少し古い服の襟元。焼き菓子を差し出すような手。
完全な再現ではない。
正確な顔ではない。
忘れたのではなく、覚えきれなかったものを無理に完成させずに留めた器。
クラウディオの表情が変わった。
その変化は大きくない。
目が見開かれたわけでも、叫んだわけでもない。
ただ、顔から最後の温度が抜けた。
ルストは、その瞬間を見た。
ただの人形ではない。
ただの記憶でもない。
クラウディオの奥にあるものが、そこに置かれている。
「クラウディオ、見るな」
ルストが言った。
クラウディオは、硝子ケースを見たまま返す。
「見るなと言うなら、止めろ」
ルストは動いた。
だが、敵の妨害が重なる。
赤い糸が鈍る。
黒い影が絡む。
割れた義眼が足元で転がる。
古いレースが裂けたまま床に引っかかる。
そのすべてが、ほんの一瞬を奪った。
侵入者の手が、硝子ケースの中へ伸びた。
布が床に落ちる。
柔らかな目元の人形が、夜の工房の灯りに晒される。
クラウディオの指が血術を掴む。
赤い糸が、遅れて走る。
次の瞬間、人形はケースから引きずり出され、床へ落とされた。
硝子が割れる音が、《箱庭》の奥で白く弾けた。




