第97話 記憶の代金
資料室の机には、願いの跡が並べられていた。
霧杜中央署の奥にある小さな資料室は、昼でも薄暗い。窓の外には曇った空が広がり、古いブラインドの隙間から、細く切られた光だけが机の上へ落ちている。
その光の中に、被害者ごとのファイルが置かれていた。
補欠合格した少女。
父親を救った会社員。
恋人と復縁した女性。
憎い相手を失脚させた男性。
人気者になりたいと願った少年。
他にも、まだ名前が伏せられた資料がいくつかある。声が出なくなった者。自分の名前だけが書けなくなった者。眠ったまま起きない者。願いが叶ったあと、何かを差し出すことになった人間たち。
机の端には、《宵待堂》から持ち帰った品々の写真が並べられていた。
血が染みたハンカチ。
記憶が抜けた日記。
寿命を削られた時計。
命と引き換えに残った指輪。
誰かの名前が刻まれた鍵。
写真のない写真立て。
割れた人形。
銀の手鏡。
どれも静かな写真だった。だが、静かであることが、かえって気味悪い。叫び終えたものは、いつも黙って棚に残る。
澪奈は、複数のファイルを並べ替えながら、深く息を吐いた。
昨夜からほとんど眠っていない顔だった。目の下には隈がある。けれど、声は震えていなかった。科学側の人間として、説明できないものを前にしても、せめて整理だけは手放さないという意地がある。
「願いが叶った後、全員に記憶の欠落があります」
榊が顔を上げた。
「全員か」
「はい。ただし、抜け落ちている記憶の種類が偏っています」
澪奈は、ホワイトボードに被害者ごとの願いと代償を書き出した。
合格したい。
父を死なせたくない。
恋人と復縁したい。
あいつを失脚させたい。
人気者になりたい。
それぞれの横に、身体症状や異変が書き足されている。出血、急速な老化、感情の欠落、声の消失、昏睡。さらにその隣に、記憶の欠落。
「無作為な記憶障害ではありません。脳画像上、共通する損傷は見つかっていません。薬物性の記憶障害とも一致しません。被害者ごとに抜けている記憶は違います」
澪奈はペンを止めた。
「でも、すべて願いの動機に関係しています」
榊の眉が寄る。
「動機?」
「願いは叶っています。でも、願った理由が削られているんです」
資料室の空気が、そこで一段冷えた。
クラウディオは、机の反対側に立っていた。
椅子には座らない。腕を組み、資料を見下ろしている。整った顔に浮かぶ表情は薄い。だが、その薄さの下で、赤い瞳だけが冷たく澄んでいた。
ルストは半歩後ろにいる。
前より近い。
クラウディオはそれを鬱陶しがることもあるが、今日は何も言わなかった。言わない時ほど、機嫌がいいわけではない。むしろ逆だ。本人が認めたがらない種類の怒りがある時、彼は余計な言葉を削る。
榊は資料を手に取った。
「願った理由を奪っておいて、本人の望みだと言うのか」
「篠宮も灰島も、そう言うでしょうね」
澪奈の声は硬い。
「篠宮は、必要な人に案内しただけ。灰島は、捨てられた代償を拾っただけ。どちらも、直接奪ったとは言わない」
「これで同意なんて言えるか」
榊の拳が机の端で固まる。
「願いだけ残して理由を消す。悪質すぎる」
クラウディオは低く笑った。
「少なくとも、知らないふりをする準備はできているだろうな」
その声には、いつもの皮肉よりも濃いものが混じっていた。
榊が顔を上げる。
「クラウディオ」
「願いは叶う。だが、願いの根を抜いている」
クラウディオは、ホワイトボードの文字を見た。
「結果だけを残し、そこへ向かった感情を引き抜く。願いを叶えるのではない。願いを標本にしている」
澪奈は、次のファイルを開いた。
「最初に、恋人と復縁した女性です」
◇
女性は、恋人の名前を覚えていた。
顔も分かる。
声も分かる。
付き合っていたことも、別れたことも、連絡が途絶えたことも、そして《願い屋》に復縁を願ったことも、記録としては理解していた。
願いは叶った。
途絶えていた恋人から連絡が来た。二人は会い、話し合い、復縁した。恋人は泣いて謝ったらしい。女性も泣いた。周囲の友人は「よかったね」と言った。
けれど、女性は相談室で、両手を膝の上で握りしめていた。
「好きだったはずなんです」
録音記録の文字起こしには、そう残っている。
澪奈が読み上げた。
「でも、最初に好きだと思った日のことだけ、思い出せない」
恋人が語る思い出に、彼女だけが追いつけない。
初めて二人で寄った喫茶店。
雨の日に傘を貸してもらったこと。
駅前で、急に笑い合って、胸が熱くなった瞬間。
恋人は、その日を覚えている。
女性も、その店の場所は知っている。雨が降っていたことも、傘の色も、帰り道も断片的には分かる。なのに、恋に変わった瞬間だけが抜けている。
なぜ、その人を好きになったのか。
その始まりだけがない。
文字起こしの中で、女性は言っていた。
「戻ってきてほしかったのに、戻ってきた理由が分からない」
榊は資料を机に置いた。
願いは叶った。
だが、願いの根にあった愛情の始まりが奪われている。
クラウディオは、恋人の指輪の写真を見た。
《宵待堂》の棚にあった指輪。
細い銀の輪。内側に刻まれた日付。誰かが忘れたくなかったはずのもの。
「恋人を好きになった日の記憶だけがありません」
澪奈が静かに言った。
「他の記憶は残っています。交際していた事実も、復縁した事実も。けれど、願いの根にあった最初の感情だけが抜けています」
クラウディオは冷たく言った。
「復縁という結果だけを残して、戻ってきてほしかった理由を剥がしたわけだ」
「残酷ですね」
澪奈が呟く。
「残酷というより、雑だ」
クラウディオの声が鋭くなる。
「愛情を始まりの記憶から剥がせば何が残る。名札と事実だけだ。人間はそれで関係を保てるほど単純ではない」
ルストは、クラウディオを見た。
その言い方は冷たい。
だが、冷たいだけではない。
◇
次のファイルは、復讐願望を叶えた男性のものだった。
男性は職場の同僚を憎んでいた。
少なくとも、記録上はそうなっている。
篠宮カナメの個別相談記録には、強い怒りが残っていた。相手が許せない。失脚すればいい。あいつさえいなければ、自分はもっと楽になる。そう語っていた。
《願い屋》に書いた願いも、そこから大きく外れていなかった。
あいつを失脚させたい。
願いは叶った。
相手は内部告発と不正疑惑によって職場を追われた。実際に不正があったかどうかは、まだ調査中だった。けれど、社会的立場は崩れた。男性は一時的に満足していたという。
その後、彼は相談員にこう言った。
「俺は、あいつを憎んでいたはずなんです」
榊がその文字を見て、顔を険しくする。
澪奈は読み上げた。
「でも、何をされたのか思い出せない」
相手の名前は分かる。
失脚した事実も分かる。
自分が願ったことも、端末の履歴から分かる。
だが、怒りの理由だけがない。
何をされたのか。
なぜそこまで憎んだのか。
どの言葉が胸に刺さったのか。
どの出来事が復讐願望へ変わったのか。
そこだけが空白になっている。
記録の最後に、男性の言葉が残っていた。
「理由も分からないのに、人を壊したんですか、俺は」
資料室が静かになる。
榊は低く言った。
「なぜ憎んでいたのか、思い出せないんです」
その一文を、彼はほとんど噛みしめるように繰り返した。
復讐は叶った。
しかし、復讐の根拠は奪われた。
相手が壊れた現実だけが残る。
憎しみが消えた男は、自分のしたことの輪郭だけを見せられ、理由を失ったまま震えている。
「怒りだけを抜いたのか」
榊が言う。
クラウディオは首を横に振った。
「怒りそのものではない。怒りを支えていた記憶だ。火を消したのではなく、薪を抜いた。燃えた跡だけが残っている」
「悪趣味だな」
「悪趣味にも種類がある。これは標本商の趣味だ」
クラウディオは、名前の刻まれた鍵の写真へ視線を落とした。
「憎しみの理由が鍵なら、灰島の棚にあるそれは、誰かの閉じた部屋かもしれないな」
澪奈が顔を上げる。
「鍵に、記憶が?」
クラウディオは答えない。
答えない代わりに、赤い瞳が少しだけ細くなった。
◇
三人目は、少年だった。
十六歳。
学校で孤立していた。
目立つタイプではなかった。成績は悪くないが、特別よくもない。部活でも中心ではない。SNSでは、誰かの投稿に反応する側。グループに入っても、いつの間にか端に寄っている。
篠宮カナメの配信には、何度もコメントしていた。
人気者になりたい。
誰かに名前を呼ばれたい。
誘われる側になりたい。
笑われるのではなく、笑わせる人になりたい。
《願い屋》に入力した願いは、短かった。
人気者になりたい。
願いは叶った。
クラスで急に名前を呼ばれるようになった。彼の何気ない発言が面白がられ、SNSの投稿に反応が集まり、部活でも声をかけられる。休み時間に一人でいることが減った。放課後に誘われる。昼休みに弁当を一緒に食べる相手が増えた。
少年は、最初、笑っていた。
けれど、その変化の中で、一人の友人だけが抜け落ちた。
少年には、もともと一人だけ親しい友人がいた。
同じクラスではない。
派手でもない。
少年が孤独だった頃、一緒に帰ってくれた友人。誰にも見られない階段の踊り場で、貸してくれた本。昼休みに、購買のパンを半分くれたこと。悪口を言われた日に、何も聞かずに隣を歩いてくれたこと。
その友人の存在だけを、少年は忘れていた。
友人は聴取で、泣かずに言ったという。
「人気者になりたいって、言ってたのは知ってる」
澪奈は、読み上げる声を少しだけ低くした。
「でも、僕のことまで忘れる必要、あった?」
少年は答えられなかった。
その友人との記憶がないからだ。
名前を聞いても分からない。
一緒に帰った道も、励まされた言葉も、貸してもらった本も、全部抜けている。
人気者にはなった。
だが、孤独だった自分を支えた唯一の友人を忘れた。
「人気者になったのに、支えてくれた友人のことだけ忘れている」
澪奈の声は抑えられていた。
「孤独から抜けたいという願いの根にあった、孤独だった頃の支えが抜かれています」
榊は片手で目元を押さえた。
「願いだけ残して理由を消す。悪質すぎる」
クラウディオは、写真のない写真立ての画像を見た。
《宵待堂》の棚にあった、空の写真立て。
そこに何が入っていたのかは分からない。
だが、今なら分かる気がした。
誰かと並んで写ったはずの時間。
忘れられた友人。
残された空白。
「結果だけを与え、孤独の輪郭を奪った」
クラウディオが言う。
「人気者になった者は、自分が孤独だった理由を忘れる。そうすれば、願いは軽くなる。軽くなった願いは、棚に並べやすい」
榊がクラウディオを見る。
「棚に並べるために、記憶を抜いているってことか」
「その可能性が高い」
クラウディオの声は、さらに冷えた。
「願いを叶えるためだけなら、ここまで丁寧に根を抜く必要はない。これは回収だ。結果と代償と記憶を分け、扱いやすい形にしている」
◇
澪奈は、第92話と第96話の資料を並べた。
補欠合格した少女。
父親を救った会社員。
「高槻莉央さんは、『どうしても合格したい』と願いました。願いは叶いましたが、受験勉強を支えてくれた母親の記憶を失いました」
クラウディオは、前に病室で見た母親の手を思い出した。
包帯を替えようとして、娘を怖がらせないように途中で止まった手。
覚えていなくてもいい、生きていてくれれば。
その言葉が、資料室の空気の奥から蘇る。
クラウディオは顔に出さなかった。
ただ、机の上に置かれた紙片へ指を伸ばし、端を無意識になぞった。
「合格だけを残して、合格したかった理由の一部を抜いた」
彼は言った。
「努力の記憶ではない。努力を支えた記憶だ」
澪奈は頷く。
「その通りです。本人は受験勉強の内容や大学名、合格通知の意味は覚えています。でも、母親だけが抜けています」
「結果へ至る道を支えた柱を抜いたわけだ」
榊の声は苦かった。
澪奈は次の資料へ視線を移す。
「瀬戸雅也さんにも、父親に関する記憶の一部に欠落が見られます」
榊が顔を上げる。
「もう出ているのか」
「まだ断定はできません。ただ、本人が『父親と最後に本音で話した夜』を思い出せないと言っています。父親を助けたいと思った直接のきっかけも、少し曖昧になっている」
「寿命だけじゃ足りないっていうのか」
榊の声に怒りが滲んだ。
クラウディオは冷たく返す。
「願い屋は、代金を一種類に限るほど慎ましくない」
資料室が重く沈む。
父親は生きた。
息子の寿命を食って。
そして、その息子は父を助けたいと思った根の一部すら削られ始めている。
願いの値段は、まだ終わっていない。
澪奈はホワイトボードに新しい線を引いた。
願い。
結果。
身体代償。
記憶代償。
そして、対応する品物。
「恋愛、憎悪、孤独、家族。抜けている記憶の種類は違います。でも、すべて願いの動機に関係しています」
「医学的には」
榊が問う。
「ここまで選択的な欠落を説明できません」
澪奈は、疲れた目で言った。
「端末の《願い屋》通知履歴と、記憶欠落が始まった時間も近いです。一部の被害者の所持品には、同じ薄い血術痕があります。《宵待堂》の品々にも、似た痕がありました」
ルストが口を開く。
「記憶が抜けた場所には、血の匂いに似た痕がある。だが血ではない。もっと薄い。抜いたものを、どこかへ繋ぐ痕だ」
クラウディオの指が、机の上の紙片から離れた。
「記憶を抜いて願いを残す。悪趣味にも程がある」
榊が彼を見る。
クラウディオは続けた。
「人間は記憶で輪郭を保っている。それを抜けば、願いだけが空洞になる。空洞の願いは扱いやすい。飾りやすい。売りやすい」
澪奈が息を呑む。
「売るために、ですか」
「願いを叶える商売なら、願いそのものが商品になる。だが、願いには余計なものが多い。愛情、怒り、孤独、恩、後悔。人間の感情はべたつく。棚に置くには邪魔だ」
クラウディオの声は低かった。
「だから根を抜く。感情を削る。記憶を剥がす」
ルストが静かに言った。
「怒っているな」
クラウディオは即答した。
「芸術性がない」
榊と澪奈は、その言葉をただの皮肉として受け取った。
だが、ルストは違った。
クラウディオの指先が、机の上の小さな人形の破片に触れていた。証拠品ではない。澪奈が比較用に置いた、宵待堂の割れた人形の写真。その端を、彼は無意識になぞっている。
壊れたもの。
欠けたもの。
残すもの。
作り直すもの。
クラウディオにとって、人形はただの工芸品ではない。失われたものを、形に留めるための手だ。忘れないための器だ。壊れても、欠けても、名前がなくても、手元に置こうとするもの。
その彼の前で、記憶を代金として抜き、残骸を棚に並べる怪異が現れた。
怒らないはずがなかった。
「それだけか」
ルストが問う。
「それだけだ」
「嘘が薄い」
「お前の見る目が悪い」
「なら、悪いままでいい」
クラウディオは舌打ちした。
「近い」
「離れるか」
「邪魔だ」
「なら、邪魔なままいる」
「最悪だな」
「知っている」
榊はそのやり取りを聞きながら、今は止めない方がいいと判断した。人間にしては賢い。事件の最中に吸血鬼二人の距離感まで取り締まっていたら、警察の仕事がさらに増える。行政はすでに過労だ。
クラウディオは、ルストを見ずに言った。
「記憶は支払いではない。形だ」
資料室の空気が、そこで少しだけ変わった。
榊も澪奈も、顔を上げた。
クラウディオは続ける。
「欠けたものは、欠けたまま形に残る。勝手に抜くな。何を奪うかも見せずに、記憶を代金にするな」
その声は低く、冷えていた。
だが、冷たさの下に、はっきりと怒りがあった。
◇
澪奈は、《宵待堂》の棚の写真を一枚ずつ並べ直した。
恋人の指輪。
名前の刻まれた鍵。
写真のない写真立て。
空白のある日記。
寿命を削られた時計。
割れた人形。
血の染みたハンカチ。
銀の手鏡。
彼女は、ホワイトボードの記憶欠落の欄と写真を見比べた。
線が引ける。
嫌なほど、きれいに。
恋人を好きになった日の記憶。
指輪。
憎しみの理由。
鍵。
孤独だった頃の友人の記憶。
写真のない写真立て。
母親の記憶。
空白のある日記。
父との記憶。
寿命を削られた時計。
澪奈はゆっくりと言った。
「欠落した記憶と、《宵待堂》の品物が対応している可能性があります」
榊が彼女を見る。
「記憶が物に入っているってことか」
クラウディオは、写真のない写真立てを見つめた。
「入っている、というより、縛られている」
「縛られている?」
榊が問い返す。
「記憶そのものを箱に移すというより、抜いた記憶の根を品物へ結びつけている。だから持ち主からは消え、品物には痕が残る。血術ではないが、血術に近い。記憶を固定するための糸だ」
ルストが低く言う。
「願いの器」
クラウディオの目が、ひどく冷えた。
「記憶の棺だ」
その言葉で、誰もすぐには口を開かなかった。
棚に並んでいた品々は、ただの残骸ではない。
誰かが願いを叶えた後に抜かれた記憶。
恋の始まり。
憎しみの理由。
孤独を支えた友人。
母親の手。
父と本音で話した夜。
それらが、形を変え、日付だけの札をつけられ、古物商の棚に並んでいたのかもしれない。
榊は、低く吐き出した。
「ふざけるな」
その声は、怒鳴り声ではなかった。
だが、怒鳴るより重かった。
クラウディオは、写真の中の割れた人形を見た。
人形の胸元には、赤い糸の跡がある。
壊された器。
抜かれた記憶。
棚に並べられた人生。
ルストは、クラウディオの横に立った。
問いはしない。
慰めもしない。
ただ、そこにいた。
クラウディオはそれを邪魔だと言わなかった。
資料室の白い光の中で、ホワイトボードに引かれた線だけが、静かに増えていく。
願い。
結果。
代償。
記憶。
品物。
その線の先に、《宵待堂》の棚がある。
さらにその奥に、まだ見えない何かがいる。
クラウディオは低く言った。
「記憶の棺を開けるぞ」




