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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第7部 【願い屋は血を取る】

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第96話 寿命を売った男



 父親が目を覚ました時、瀬戸雅也は泣き方を忘れていた。


 病室の窓には、昼の光が薄く差している。白いカーテンは少しだけ開いていて、外の空は乾いた青だった。病院特有の消毒液の匂い。点滴の管。心拍を示す機械の規則的な音。数日前まで、その音すら遠く感じていた。


 瀬戸修一は、ベッドの上で目を開けていた。


 頬はまだ痩せている。唇も乾いている。だが、目に光が戻っていた。医師から「今夜が山かもしれない」と言われた夜の、あの蝋のような顔ではなかった。


 修一は天井を見上げ、それからゆっくり首を動かした。


「まだ、生きてるのか」


 声はかすれていた。


 けれど、確かに声だった。


 雅也は、椅子から立ち上がろうとして、膝に力が入らず、ベッドの柵に手をついた。


「よかった」


 それしか言えなかった。


「よかった、親父……」


 修一の指が、少しだけ動いた。


 雅也はその手を握った。数日前まで、握り返す力などなかった手だ。冷たく、薄く、骨ばっていて、握ればそのまま消えてしまいそうだった。


 けれど今、その手が、弱々しくも雅也の指を握り返した。


 雅也は笑った。


 泣きながら笑った。


 父親が生きている。


 その事実だけで、胸の奥に溜まっていたものが崩れた。医師も、看護師も、廊下で待っていた親族も、誰も理由を説明できなかった。検査数値は少しずつ改善し、意識が戻り、短い会話ができるようになった。食事も、流動食から始められるかもしれないと聞かされた。


 奇跡だった。


 誰もがそう言った。


 人間は、説明できない幸運にすぐ奇跡という名前をつける。名前をつければ安心できると思っている。虫に名前をつければ虫嫌いが治るとでも思っているのか。残念ながら、名前をつけた怪異は、だいたいそのあと請求書を持ってくる。


 修一は雅也を見た。


「お前、顔色が悪いぞ」


 雅也は慌てて笑った。


「寝てないだけだよ」


「仕事は」


「休み取った。大丈夫」


「大丈夫って顔じゃない」


 修一は眉を寄せた。


 雅也は父親から手を離し、自分の手の甲を隠すように握った。


 手の皮膚が乾いていた。


 昨日まではなかった細い皺が、指の付け根に増えている。朝、洗面所で鏡を見た時、顔そのものはまだ三十九歳の自分だった。目の下に隈はある。頬もこけている。けれど、老人になったわけではない。


 問題は、身体の中だった。


 立ち上がる時に膝が軋む。


 階段を一階分上がるだけで息が切れる。


 視界が時々かすむ。


 髪をとかした時、櫛に白いものが絡んだ。一本や二本ではない。黒髪の間に、急に冬が入り込んだようだった。


 関節が痛い。


 指先が冷える。


 疲労が抜けない。


 時計の針が、自分の身体の中だけ早回しされているような感覚があった。


「ただの疲れだって」


 雅也は言った。


 嘘だった。


 けれど、修一の顔に戻った光を見たら、本当のことなど言えるはずがなかった。


 修一はじっと息子を見た。


「お前、何か隠してないか」


「隠してない」


「俺のことで無理をするな」


 雅也は笑おうとした。


「親父が言うなよ。昔から、倒れるまで働いてたくせに」


「親より先に老ける息子があるか」


 その言葉に、雅也は一瞬、笑えなくなった。


 修一はまだ知らない。


 自分が生きている理由を。


 瀬戸雅也が、数日前の夜、病院の駐車場に停めた車の中で、震える指でスマホを握っていたことを。


 篠宮カナメの配信を見たことを。


 優しい声に、言葉をほどかれたことを。


 誰にも言えない願いほど、置き場所が必要です。


 本当に叶えたい願いがある人には、特別な窓口を教えます。


 そのあと、画面に現れた古い帳簿のような白い背景。


 黒い文字。


 《願い屋》


 あなたの願いをお書きください。


 雅也は泣きながら入力した。


 父を死なせたくない。


 送信した時、画面には短い通知が出た。


 ご依頼を承りました。


 叶うまで、しばらくお待ちください。


 取り消しはできません。


 雅也は、その時は何も考えられなかった。


 父親を死なせたくなかった。


 それだけだった。


 願いは叶った。


 そして、翌朝から雅也の身体は、静かに老い始めた。


     ◇


 榊が病室に着いた時、瀬戸雅也は廊下の長椅子に座っていた。


 三十九歳と聞いていた。


 だが、目の前の男は、年齢よりずっと疲れて見えた。顔つきそのものは若い。骨格も、目元も、三十代後半の会社員らしさを残している。けれど、立ち上がる動作が遅い。膝に手を置き、呼吸を整えてから、ようやく身体を起こした。


 髪には白いものが目立つ。


 手の甲には細い皺が浮いている。


 そして、左手首に包帯が巻かれていた。


 榊は警察手帳を示した。


「警察庁の榊です。こちらは澪奈。後ろの二人は、今回の件で協力してもらっている」


 雅也は、クラウディオとルストを見て、少し目を見開いた。


 人間は、非日常を前にするとまず姿勢を正す。怪異に対して礼儀正しくしてどうするのか。まあ、失礼よりは長生きする可能性が高い。今の雅也に、その長生きという言葉はずいぶん皮肉だったが。


 澪奈が資料を開いた。


「瀬戸修一さんの容態について、病院側から共有された範囲で確認しています」


 雅也は不安そうに頷く。


「親父は、悪くなったんですか」


「いえ」


 澪奈は首を振った。


「父親の容態は、医学的には説明できないほど回復しています」


 雅也の表情が揺れた。


 喜びと恐怖が、同時に浮かぶ。


 澪奈は続けた。


「危篤状態に近かった数値が改善しています。意識も戻り、短い会話も可能になっている。医師の方も、通常の経過としては説明しづらいと話しています」


 榊は雅也を見た。


「その一方で、あなたの体調が急激に悪化している」


 雅也は視線を落とした。


「寝不足です」


「病院の検査は受けたな」


 雅也は黙った。


 澪奈が静かに言う。


「息子さんの身体だけが、何十年も先へ進んでいるようです」


 雅也の肩が、わずかに震えた。


「老化、という言葉で片づけるには速すぎます。内臓年齢だけが、実年齢から大きく外れています。筋力の低下、傷の治りの遅さ、関節痛、疲労感。通常の病気や加齢として説明しきれません」


「やめてください」


 雅也がかすれた声で言った。


「親父に聞こえる」


 その声に、榊は一瞬、言葉を失った。


 自分の身体がどうなっているかより、父親に知られることを恐れている。愚かではない。鈍くもない。ただ、何を差し出したのか、まだ直視できていないだけだった。


 クラウディオは、廊下の壁に寄りかからず立っていた。病院の白い光の下でも、彼の表情は冷たく整っている。


「《願い屋》を使ったな」


 雅也の顔色が変わった。


 榊が低く言う。


「瀬戸さん」


 雅也は両手を握った。


 包帯の下で、左手首が痛むようだった。


「……親父が、もう長くないって言われたんです」


 声が震える。


「先生は、できることはしてくれました。俺も、金ならなんとかするつもりでした。仕事も休んで、できるだけ来て。でも、どうにもならなくて」


 雅也は笑った。


 笑おうとして失敗した。


「父親とは、仲がいいってほどじゃなかったです。若い頃は喧嘩ばかりで。親父は口が悪いし、頑固で、人に頼れないし。俺も、家を出てからあまり帰らなくなって」


 廊下の窓から、白い光が入る。


「でも、いなくなるって思ったら、駄目でした。まだ何も返してないって思った。謝ってないことも、話してないことも、たくさんあって」


 雅也は左手首を押さえた。


「だから、書いたんです」


 クラウディオの目が細くなる。


 雅也は、ほとんど懺悔のように言った。


「父を死なせたくない」


 廊下の空気が重くなった。


 榊は目を閉じかけ、すぐに開いた。


 父親を助けたい。


 その願いは悪意ではない。


 誰かを傷つけたい願いでもない。


 それなのに、代償は確かに徴収されている。


「願いは叶った」


 クラウディオが言った。


「父親を生かすには、時間が要る」


 雅也が顔を上げる。


「時間はどこから来た」


「……俺から、ですか」


「奇跡は無から出てこない。怪異は優しくない。だが、帳尻だけは合わせる」


 榊が低く吐き出した。


「これも本人が望んだことだと言うのか」


 その声には、篠宮カナメへの怒りが混ざっていた。


 私は案内しただけです。


 灰島への怒りもあった。


 捨てられた代償を拾う者がいてもよろしいでしょう。


 その間で、願った人間が削られている。


「父親を助けたいと思っただけだろう」


 榊の声は静かだった。


 静かだからこそ、怒っていた。


「篠宮なら案内しただけと言う。灰島なら残りを拾っただけと言う。ふざけるな」


 クラウディオは、雅也を見たまま言った。


「だから商売になる」


「人の命で商売するな」


「商売人はいつも、客が差し出したと言う」


「願った本人に責任を押しつければ、何を奪ってもいいのか」


 榊の拳が震えた。


 クラウディオはすぐには答えなかった。


 少しだけ、病室の扉を見た。


 中には、父親がいる。


 何も知らず、生きていることを喜び、息子の顔色を心配している。


「願ったことが罪とは言わない」


 クラウディオは低く言った。


「だが、願い屋は願いを罪に変える。救いたいという願いほど、代償を隠しやすい」


 雅也は膝の上で手を握りしめた。


「俺が払えばいいなら、それでいいと思いました」


「何を払うか知らないまま、そう思ったのだろう」


 クラウディオの声は冷たい。


 だが、馬鹿にしてはいなかった。


「願いとは大抵、他人の命を勘定に入れない形で始まる。だが、怪異は律儀だ。足りない分をどこかから取る」


 雅也の唇が震えた。


「俺は、親父の命を奪いたくなかっただけです」


「知っている」


 クラウディオは言った。


「だから悪質なんだ」


     ◇


 瀬戸修一に、すべてを隠し通すことはできなかった。


 病室へ入ると、修一は上半身を少し起こしていた。看護師に手伝われながら、枕の位置を直してもらったところだった。榊たちを見ると、警戒するように眉を寄せた。


「警察?」


 榊が名乗る。


「少し、お話を伺います」


「俺が何かしたのか」


「いいえ。息子さんの件です」


 修一の目が、すぐに雅也へ向いた。


「雅也」


「大丈夫だって」


 雅也は笑った。


 その笑顔は、父親を安心させるためのものだった。だが、顔色の悪さは隠せない。立っているだけで、わずかに肩が上下している。


 修一はベッドの柵を掴んだ。


「座れ」


「いや、平気」


「座れって言ってるだろ」


 昔の父親の声だった。


 雅也は逆らえなかった。近くの椅子に腰を下ろす。その動きが、また老人のように遅い。修一の顔色が変わった。


「お前、本当にどうした」


 澪奈が慎重に口を開いた。


「瀬戸修一さん。息子さんの身体に、説明しづらい変化が出ています」


「変化?」


「急速な老化に似た状態です。ただし、通常の老化や病気とは一致しません」


 修一はしばらく意味を理解できない顔をしていた。


 それから、雅也を見た。


「俺のせいか」


 雅也は即座に首を振った。


「違う」


「違わない顔してるだろうが」


「親父のせいじゃない」


「じゃあ何だ」


 雅也は答えられなかった。


 修一の目は、まだ病人のものだった。痩せて、弱って、体力も戻っていない。けれど、その奥に父親としての鋭さがあった。


「俺は、もう駄目だと思っていた」


 修一は静かに言った。


「それが急に戻った。医者も首をひねってる。お前は急に老けたみたいな顔してる。何かしたんだろ」


「親父」


「俺のことで無理をするなって言っただろ」


「死なせたくなかったんだよ!」


 雅也の声が、病室に響いた。


 修一が黙る。


 雅也は、自分の声に驚いたように目を見開き、それから俯いた。


「死なせたくなかった。まだ、話したいことがあった。昔のこと、謝りたかった。仕事ばかりして家に帰らなかったことも、母さんが死んだ時にちゃんと支えられなかったことも、親父が病気になってから急にいい息子みたいな顔してることも、全部」


 指が震える。


「だから、願ったんだよ」


 修一の顔が歪んだ。


「願った?」


「父を死なせたくないって」


 病室の機械音だけが、規則的に鳴った。


 修一はしばらく息子を見ていた。


 それから、かすれた声で言った。


「俺の命なら返せ」


 雅也の肩が跳ねた。


「親父」


「俺の命なら返せ。俺は、お前の寿命を食ってまで生きたくない」


「そんな言い方するなよ」


「お前がしたことだろ!」


 修一の声は強くはなかった。


 病み上がりの身体では、怒鳴るだけの力も足りない。けれど、その声は病室の白い壁を震わせるほど痛かった。


「親より先に老ける息子があるか」


 雅也は泣きそうに笑った。


「さっきも言ってた」


「笑うな」


「ごめん」


「謝るな」


 修一の手が震える。


「俺なんかのために、そんなことをするな」


「俺なんかって言うなよ」


 雅也は顔を上げた。


「親父だからだろ」


 修一は言葉を失った。


 榊は、そのやり取りを見ながら、拳を握っていた。


 怒りを向ける相手が、ここにはいない。


 願った息子を責めることはできない。


 生き返ったように回復した父を責めることもできない。


 けれど、確かに誰かがこの二人の間から時間を抜き取った。


 篠宮は言うだろう。


 本人が望んだ。


 灰島は言うだろう。


 残りを拾っただけ。


 その便利な空白の中で、家族だけが壊れていく。


 クラウディオは、その場を冷たく見ていた。


 冷たく。


 だが、完全には切り離していなかった。


 ルストは、彼の横顔を見た。


 前話の鏡。


 覗くなよ、ルスト。


 見られたくないもの。


 守りたいもの。


 クラウディオは、父と息子のやり取りに何も言わなかった。皮肉も挟まなかった。その沈黙は、ルストには分かった。


 痛みに近い。


 ただし、本人は絶対に認めない種類の。


     ◇


 澪奈は、雅也の検査資料と、本人のスマホの記録を確認した。


「《願い屋》のアプリ本体は残っていません。通知履歴だけが一部残っています。使用時刻は、修一さんの容態が変化し始めた時刻と近いです」


 榊が問う。


「老化の開始は」


「同じ夜からです。本人は、翌朝から関節痛と強い疲労を感じています。白髪の増加も、その日から」


 澪奈は資料をめくる。


「父親の回復も、息子さんの老化も、医学的には説明できません」


「手首の痕は」


「それが、気になります」


 澪奈は雅也へ視線を向けた。


「包帯を外してもらえますか」


 雅也は少し躊躇ったが、頷いた。


 包帯をほどく。


 左手首の内側に、赤い輪のような痕があった。


 直径は小さい。


 完全な円ではない。一部だけ欠けている。小さな歯形にも見える。針で何かを囲むように刺した痕にも見える。けれど、傷口らしい傷口はない。赤い輪の周辺だけ、肌の質感が変わっていた。


 乾いている。


 そこだけ時間が先に進んだように、細かい皺が寄っている。


「手首の痕ですが、通常の注射痕でも、噛み痕でもありません」


 澪奈は静かに言った。


「円形に近い赤い痕が残っています。触ると、寒気がするとのことです」


 雅也は頷いた。


「そこだけ、冷たいんです。痛いわけじゃない。でも、触られると、身体の奥がぞっとする」


 ルストが近づいた。


 修一が警戒するように息子を見る。雅也は小さく首を振った。


「大丈夫」


 ルストは雅也の手首に触れなかった。


 指先を近づけ、痕の周囲の空気を読む。


 血の匂いは薄い。


 吸われた血の痕ではない。


 牙が皮膚を破った跡でもない。


 しかし、噛まれたような形をしている。


 誰かが命に歯を立てたような痕。


 契約を食い込ませるための、口の跡。


「吸血痕ではない」


 ルストが言った。


 榊が手首を覗き込む。


「歯形に見えるが」


「似せているだけだ」


「吸血鬼に見せかけるためか」


 ルストは首を横に振った。


「違う。血を吸った痕ではない。寿命が抜けている」


 修一の顔色が変わった。


 雅也は手首を隠そうとした。


 クラウディオが低く言う。


「隠すな。もう隠れる段階ではない」


 雅也の手が止まる。


 クラウディオは、左手首の痕を見た。


 赤い輪。


 一部が欠けた、小さな口。


 歯形にも針痕にも見える曖昧さ。


 吸血鬼の牙ではない。血の穴ではない。血を奪うためではなく、もっと深いものを契約として引き抜くための形。


 クラウディオの表情がわずかに変わった。


 ルストはそれに気づく。


「知っているのか」


「見たことがあるわけではない」


 クラウディオは言った。


「だが、灰島の棚にあった時計。あれは、飾りではなかったらしい」


 榊が言う。


「寿命を売った人間の残りか」


「売ったというより、買い叩かれたな」


 クラウディオは雅也の手首から目を離さない。


「父親を生かすために必要な時間を、ここから引いた。対価は寿命。残りは、時計や手帳や、身につけていたものに滲む。宵待堂に流れるには十分な商品だ」


 榊の顔に怒りが戻る。


「人の命を商品にするな」


「俺に言うな。俺も不快だ」


 クラウディオは冷たく返した。


 そして、ルストの方を見ずに言う。


「お前の噛み癖の方が、まだ誠実だな」


 ルストが一瞬だけ目を細める。


「褒めているのか」


「比較対象が底だ」


「そうか」


 榊が小さく息を吐いた。


 こんな時に何を言っているのか、という顔だった。人間は本当に、事件現場に情緒の交通整理係でも必要だと思っているらしい。残念ながら吸血鬼二人は標識を読まない。


 だが、その短いやり取りで、病室の空気がほんの少しだけ動いた。


 修一は、雅也の手首を見たまま震えていた。


「返せないのか」


 誰に向けた言葉なのか分からない。


 榊か。


 澪奈か。


 クラウディオか。


 怪異か。


 それとも、自分自身か。


「俺の命なら、返せないのか」


 雅也が苦しそうに言う。


「親父、やめてくれ」


「俺が死ねば、お前は戻るのか」


 榊が反射的に声を出した。


「瀬戸さん」


 クラウディオが修一を見る。


「それを願うな」


 修一の動きが止まる。


「何?」


「今、その言葉を願いに変えるな。願い屋は、そういう隙間に来る」


 修一の顔から血の気が引いた。


 雅也も、息を止める。


 クラウディオは淡々と言った。


「怪異は善悪を見ない。願いの形を見る。父親が自分の命を返したいと願えば、次は別の帳尻が来る。家族で命の押し売りを始める気か。やめておけ。救いではなく、泥沼だ」


 言い方はひどかった。


 だが、誰も反論できなかった。


 榊は唇を噛む。


「願いと代償、家族の反応、寿命の移動。観察するには見栄えのいい皿だな」


 クラウディオの声には、濃い嫌悪があった。


 ルストが問う。


「久遠院か」


「まだだ。皿を用意した奴と、料理した奴が同じとは限らない」


 クラウディオは、手首の痕へ視線を戻した。


「だが、これを見て喜ぶ席がどこかにあるのは確かだ」


     ◇


 雅也のスマホは、上着の内ポケットに入っていた。


 澪奈が本人の同意を得て確認すると、画面には《願い屋》のアイコンはなかった。履歴も途切れている。だが、通知の断片だけが残っていた。


 ご依頼を承りました。


 成就を確認しました。


 お支払いを開始します。


 その先は消えている。


 榊が画面を見て、低く言った。


「お支払いを開始します、か」


「支払いが一度で終わっていない」


 クラウディオが言った。


 雅也が青ざめる。


「まだ、続いてるってことですか」


「父親が生きる時間が必要な限り、支払いは続く可能性がある」


 修一が顔を歪める。


「やめろ」


 クラウディオは容赦なく続けた。


「耳を塞いでも時計は進む」


「クラウディオ」


 ルストが短く咎める。


「優しい言い方で寿命が戻るなら、いくらでも言ってやる」


 それは以前、別の病室で言った言葉に似ていた。


 けれど今回は、クラウディオの声にもわずかな硬さがあった。


 父親を救いたいと願った息子。


 息子の寿命を食って生きた父親。


 どちらも悪人ではない。


 だからこそ、怪異の構造だけが際立つ。


 澪奈はスマホの画面を見つめた。


「通知が残っています。完全ではありませんが、時刻は修一さんの回復が始まった記録と重なります。雅也さんの手首に痕が出たのも、その直後です」


「契約が成立した時刻か」


 榊が言う。


 クラウディオは頷かない。


「成立というより、噛み合った時刻だ」


「噛み合った?」


「願いと代償が、だ」


 その時、雅也のスマホが小さく震えた。


 病室にいた全員が、画面を見た。


 何もないはずの画面が、白く灯る。


 古い帳簿のような背景。


 黒い文字。


 《願い屋》


 雅也の呼吸が止まった。


 修一がベッドの上で身を起こそうとする。


 榊が制止し、澪奈が画面を確認する。


 通知は短かった。


 お支払いは継続中です


 その下に、さらに一行が浮かぶ。


 残り時間を確認しますか


 雅也の指が震えた。


 クラウディオの声が落ちる。


「触るな」


 雅也は動きを止めた。


 ルストは雅也の手首に視線を戻す。


 赤い輪の痕が、わずかに濃くなっていた。


 痕の周囲だけ、肌の色が乾いて見える。そこから何かが細く抜けていく。血ではない。熱でもない。もっと長いもの。未来へ続くはずだった時間。


 クラウディオは、雅也の手首を見つめたまま静かに言った。


「これは吸血ではない。契約の口だ」


 榊が眉を寄せる。


「契約の口?」


「願い屋は、血を吸うのではなく、契約として命を噛んでいる」


 病室の機械音が、やけに遠く聞こえた。


 スマホの画面には、まだ通知が残っている。


 お支払いは継続中です。


 残り時間を確認しますか。


 雅也は父親を見た。


 修一は息子を見た。


 二人とも、生きていた。


 だが、その間には、目に見えない口が開いている。


 クラウディオは低く言った。


「なるほど。これは取り立てではない。契約の履行だ」




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