第96話 寿命を売った男
父親が目を覚ました時、瀬戸雅也は泣き方を忘れていた。
病室の窓には、昼の光が薄く差している。白いカーテンは少しだけ開いていて、外の空は乾いた青だった。病院特有の消毒液の匂い。点滴の管。心拍を示す機械の規則的な音。数日前まで、その音すら遠く感じていた。
瀬戸修一は、ベッドの上で目を開けていた。
頬はまだ痩せている。唇も乾いている。だが、目に光が戻っていた。医師から「今夜が山かもしれない」と言われた夜の、あの蝋のような顔ではなかった。
修一は天井を見上げ、それからゆっくり首を動かした。
「まだ、生きてるのか」
声はかすれていた。
けれど、確かに声だった。
雅也は、椅子から立ち上がろうとして、膝に力が入らず、ベッドの柵に手をついた。
「よかった」
それしか言えなかった。
「よかった、親父……」
修一の指が、少しだけ動いた。
雅也はその手を握った。数日前まで、握り返す力などなかった手だ。冷たく、薄く、骨ばっていて、握ればそのまま消えてしまいそうだった。
けれど今、その手が、弱々しくも雅也の指を握り返した。
雅也は笑った。
泣きながら笑った。
父親が生きている。
その事実だけで、胸の奥に溜まっていたものが崩れた。医師も、看護師も、廊下で待っていた親族も、誰も理由を説明できなかった。検査数値は少しずつ改善し、意識が戻り、短い会話ができるようになった。食事も、流動食から始められるかもしれないと聞かされた。
奇跡だった。
誰もがそう言った。
人間は、説明できない幸運にすぐ奇跡という名前をつける。名前をつければ安心できると思っている。虫に名前をつければ虫嫌いが治るとでも思っているのか。残念ながら、名前をつけた怪異は、だいたいそのあと請求書を持ってくる。
修一は雅也を見た。
「お前、顔色が悪いぞ」
雅也は慌てて笑った。
「寝てないだけだよ」
「仕事は」
「休み取った。大丈夫」
「大丈夫って顔じゃない」
修一は眉を寄せた。
雅也は父親から手を離し、自分の手の甲を隠すように握った。
手の皮膚が乾いていた。
昨日まではなかった細い皺が、指の付け根に増えている。朝、洗面所で鏡を見た時、顔そのものはまだ三十九歳の自分だった。目の下に隈はある。頬もこけている。けれど、老人になったわけではない。
問題は、身体の中だった。
立ち上がる時に膝が軋む。
階段を一階分上がるだけで息が切れる。
視界が時々かすむ。
髪をとかした時、櫛に白いものが絡んだ。一本や二本ではない。黒髪の間に、急に冬が入り込んだようだった。
関節が痛い。
指先が冷える。
疲労が抜けない。
時計の針が、自分の身体の中だけ早回しされているような感覚があった。
「ただの疲れだって」
雅也は言った。
嘘だった。
けれど、修一の顔に戻った光を見たら、本当のことなど言えるはずがなかった。
修一はじっと息子を見た。
「お前、何か隠してないか」
「隠してない」
「俺のことで無理をするな」
雅也は笑おうとした。
「親父が言うなよ。昔から、倒れるまで働いてたくせに」
「親より先に老ける息子があるか」
その言葉に、雅也は一瞬、笑えなくなった。
修一はまだ知らない。
自分が生きている理由を。
瀬戸雅也が、数日前の夜、病院の駐車場に停めた車の中で、震える指でスマホを握っていたことを。
篠宮カナメの配信を見たことを。
優しい声に、言葉をほどかれたことを。
誰にも言えない願いほど、置き場所が必要です。
本当に叶えたい願いがある人には、特別な窓口を教えます。
そのあと、画面に現れた古い帳簿のような白い背景。
黒い文字。
《願い屋》
あなたの願いをお書きください。
雅也は泣きながら入力した。
父を死なせたくない。
送信した時、画面には短い通知が出た。
ご依頼を承りました。
叶うまで、しばらくお待ちください。
取り消しはできません。
雅也は、その時は何も考えられなかった。
父親を死なせたくなかった。
それだけだった。
願いは叶った。
そして、翌朝から雅也の身体は、静かに老い始めた。
◇
榊が病室に着いた時、瀬戸雅也は廊下の長椅子に座っていた。
三十九歳と聞いていた。
だが、目の前の男は、年齢よりずっと疲れて見えた。顔つきそのものは若い。骨格も、目元も、三十代後半の会社員らしさを残している。けれど、立ち上がる動作が遅い。膝に手を置き、呼吸を整えてから、ようやく身体を起こした。
髪には白いものが目立つ。
手の甲には細い皺が浮いている。
そして、左手首に包帯が巻かれていた。
榊は警察手帳を示した。
「警察庁の榊です。こちらは澪奈。後ろの二人は、今回の件で協力してもらっている」
雅也は、クラウディオとルストを見て、少し目を見開いた。
人間は、非日常を前にするとまず姿勢を正す。怪異に対して礼儀正しくしてどうするのか。まあ、失礼よりは長生きする可能性が高い。今の雅也に、その長生きという言葉はずいぶん皮肉だったが。
澪奈が資料を開いた。
「瀬戸修一さんの容態について、病院側から共有された範囲で確認しています」
雅也は不安そうに頷く。
「親父は、悪くなったんですか」
「いえ」
澪奈は首を振った。
「父親の容態は、医学的には説明できないほど回復しています」
雅也の表情が揺れた。
喜びと恐怖が、同時に浮かぶ。
澪奈は続けた。
「危篤状態に近かった数値が改善しています。意識も戻り、短い会話も可能になっている。医師の方も、通常の経過としては説明しづらいと話しています」
榊は雅也を見た。
「その一方で、あなたの体調が急激に悪化している」
雅也は視線を落とした。
「寝不足です」
「病院の検査は受けたな」
雅也は黙った。
澪奈が静かに言う。
「息子さんの身体だけが、何十年も先へ進んでいるようです」
雅也の肩が、わずかに震えた。
「老化、という言葉で片づけるには速すぎます。内臓年齢だけが、実年齢から大きく外れています。筋力の低下、傷の治りの遅さ、関節痛、疲労感。通常の病気や加齢として説明しきれません」
「やめてください」
雅也がかすれた声で言った。
「親父に聞こえる」
その声に、榊は一瞬、言葉を失った。
自分の身体がどうなっているかより、父親に知られることを恐れている。愚かではない。鈍くもない。ただ、何を差し出したのか、まだ直視できていないだけだった。
クラウディオは、廊下の壁に寄りかからず立っていた。病院の白い光の下でも、彼の表情は冷たく整っている。
「《願い屋》を使ったな」
雅也の顔色が変わった。
榊が低く言う。
「瀬戸さん」
雅也は両手を握った。
包帯の下で、左手首が痛むようだった。
「……親父が、もう長くないって言われたんです」
声が震える。
「先生は、できることはしてくれました。俺も、金ならなんとかするつもりでした。仕事も休んで、できるだけ来て。でも、どうにもならなくて」
雅也は笑った。
笑おうとして失敗した。
「父親とは、仲がいいってほどじゃなかったです。若い頃は喧嘩ばかりで。親父は口が悪いし、頑固で、人に頼れないし。俺も、家を出てからあまり帰らなくなって」
廊下の窓から、白い光が入る。
「でも、いなくなるって思ったら、駄目でした。まだ何も返してないって思った。謝ってないことも、話してないことも、たくさんあって」
雅也は左手首を押さえた。
「だから、書いたんです」
クラウディオの目が細くなる。
雅也は、ほとんど懺悔のように言った。
「父を死なせたくない」
廊下の空気が重くなった。
榊は目を閉じかけ、すぐに開いた。
父親を助けたい。
その願いは悪意ではない。
誰かを傷つけたい願いでもない。
それなのに、代償は確かに徴収されている。
「願いは叶った」
クラウディオが言った。
「父親を生かすには、時間が要る」
雅也が顔を上げる。
「時間はどこから来た」
「……俺から、ですか」
「奇跡は無から出てこない。怪異は優しくない。だが、帳尻だけは合わせる」
榊が低く吐き出した。
「これも本人が望んだことだと言うのか」
その声には、篠宮カナメへの怒りが混ざっていた。
私は案内しただけです。
灰島への怒りもあった。
捨てられた代償を拾う者がいてもよろしいでしょう。
その間で、願った人間が削られている。
「父親を助けたいと思っただけだろう」
榊の声は静かだった。
静かだからこそ、怒っていた。
「篠宮なら案内しただけと言う。灰島なら残りを拾っただけと言う。ふざけるな」
クラウディオは、雅也を見たまま言った。
「だから商売になる」
「人の命で商売するな」
「商売人はいつも、客が差し出したと言う」
「願った本人に責任を押しつければ、何を奪ってもいいのか」
榊の拳が震えた。
クラウディオはすぐには答えなかった。
少しだけ、病室の扉を見た。
中には、父親がいる。
何も知らず、生きていることを喜び、息子の顔色を心配している。
「願ったことが罪とは言わない」
クラウディオは低く言った。
「だが、願い屋は願いを罪に変える。救いたいという願いほど、代償を隠しやすい」
雅也は膝の上で手を握りしめた。
「俺が払えばいいなら、それでいいと思いました」
「何を払うか知らないまま、そう思ったのだろう」
クラウディオの声は冷たい。
だが、馬鹿にしてはいなかった。
「願いとは大抵、他人の命を勘定に入れない形で始まる。だが、怪異は律儀だ。足りない分をどこかから取る」
雅也の唇が震えた。
「俺は、親父の命を奪いたくなかっただけです」
「知っている」
クラウディオは言った。
「だから悪質なんだ」
◇
瀬戸修一に、すべてを隠し通すことはできなかった。
病室へ入ると、修一は上半身を少し起こしていた。看護師に手伝われながら、枕の位置を直してもらったところだった。榊たちを見ると、警戒するように眉を寄せた。
「警察?」
榊が名乗る。
「少し、お話を伺います」
「俺が何かしたのか」
「いいえ。息子さんの件です」
修一の目が、すぐに雅也へ向いた。
「雅也」
「大丈夫だって」
雅也は笑った。
その笑顔は、父親を安心させるためのものだった。だが、顔色の悪さは隠せない。立っているだけで、わずかに肩が上下している。
修一はベッドの柵を掴んだ。
「座れ」
「いや、平気」
「座れって言ってるだろ」
昔の父親の声だった。
雅也は逆らえなかった。近くの椅子に腰を下ろす。その動きが、また老人のように遅い。修一の顔色が変わった。
「お前、本当にどうした」
澪奈が慎重に口を開いた。
「瀬戸修一さん。息子さんの身体に、説明しづらい変化が出ています」
「変化?」
「急速な老化に似た状態です。ただし、通常の老化や病気とは一致しません」
修一はしばらく意味を理解できない顔をしていた。
それから、雅也を見た。
「俺のせいか」
雅也は即座に首を振った。
「違う」
「違わない顔してるだろうが」
「親父のせいじゃない」
「じゃあ何だ」
雅也は答えられなかった。
修一の目は、まだ病人のものだった。痩せて、弱って、体力も戻っていない。けれど、その奥に父親としての鋭さがあった。
「俺は、もう駄目だと思っていた」
修一は静かに言った。
「それが急に戻った。医者も首をひねってる。お前は急に老けたみたいな顔してる。何かしたんだろ」
「親父」
「俺のことで無理をするなって言っただろ」
「死なせたくなかったんだよ!」
雅也の声が、病室に響いた。
修一が黙る。
雅也は、自分の声に驚いたように目を見開き、それから俯いた。
「死なせたくなかった。まだ、話したいことがあった。昔のこと、謝りたかった。仕事ばかりして家に帰らなかったことも、母さんが死んだ時にちゃんと支えられなかったことも、親父が病気になってから急にいい息子みたいな顔してることも、全部」
指が震える。
「だから、願ったんだよ」
修一の顔が歪んだ。
「願った?」
「父を死なせたくないって」
病室の機械音だけが、規則的に鳴った。
修一はしばらく息子を見ていた。
それから、かすれた声で言った。
「俺の命なら返せ」
雅也の肩が跳ねた。
「親父」
「俺の命なら返せ。俺は、お前の寿命を食ってまで生きたくない」
「そんな言い方するなよ」
「お前がしたことだろ!」
修一の声は強くはなかった。
病み上がりの身体では、怒鳴るだけの力も足りない。けれど、その声は病室の白い壁を震わせるほど痛かった。
「親より先に老ける息子があるか」
雅也は泣きそうに笑った。
「さっきも言ってた」
「笑うな」
「ごめん」
「謝るな」
修一の手が震える。
「俺なんかのために、そんなことをするな」
「俺なんかって言うなよ」
雅也は顔を上げた。
「親父だからだろ」
修一は言葉を失った。
榊は、そのやり取りを見ながら、拳を握っていた。
怒りを向ける相手が、ここにはいない。
願った息子を責めることはできない。
生き返ったように回復した父を責めることもできない。
けれど、確かに誰かがこの二人の間から時間を抜き取った。
篠宮は言うだろう。
本人が望んだ。
灰島は言うだろう。
残りを拾っただけ。
その便利な空白の中で、家族だけが壊れていく。
クラウディオは、その場を冷たく見ていた。
冷たく。
だが、完全には切り離していなかった。
ルストは、彼の横顔を見た。
前話の鏡。
覗くなよ、ルスト。
見られたくないもの。
守りたいもの。
クラウディオは、父と息子のやり取りに何も言わなかった。皮肉も挟まなかった。その沈黙は、ルストには分かった。
痛みに近い。
ただし、本人は絶対に認めない種類の。
◇
澪奈は、雅也の検査資料と、本人のスマホの記録を確認した。
「《願い屋》のアプリ本体は残っていません。通知履歴だけが一部残っています。使用時刻は、修一さんの容態が変化し始めた時刻と近いです」
榊が問う。
「老化の開始は」
「同じ夜からです。本人は、翌朝から関節痛と強い疲労を感じています。白髪の増加も、その日から」
澪奈は資料をめくる。
「父親の回復も、息子さんの老化も、医学的には説明できません」
「手首の痕は」
「それが、気になります」
澪奈は雅也へ視線を向けた。
「包帯を外してもらえますか」
雅也は少し躊躇ったが、頷いた。
包帯をほどく。
左手首の内側に、赤い輪のような痕があった。
直径は小さい。
完全な円ではない。一部だけ欠けている。小さな歯形にも見える。針で何かを囲むように刺した痕にも見える。けれど、傷口らしい傷口はない。赤い輪の周辺だけ、肌の質感が変わっていた。
乾いている。
そこだけ時間が先に進んだように、細かい皺が寄っている。
「手首の痕ですが、通常の注射痕でも、噛み痕でもありません」
澪奈は静かに言った。
「円形に近い赤い痕が残っています。触ると、寒気がするとのことです」
雅也は頷いた。
「そこだけ、冷たいんです。痛いわけじゃない。でも、触られると、身体の奥がぞっとする」
ルストが近づいた。
修一が警戒するように息子を見る。雅也は小さく首を振った。
「大丈夫」
ルストは雅也の手首に触れなかった。
指先を近づけ、痕の周囲の空気を読む。
血の匂いは薄い。
吸われた血の痕ではない。
牙が皮膚を破った跡でもない。
しかし、噛まれたような形をしている。
誰かが命に歯を立てたような痕。
契約を食い込ませるための、口の跡。
「吸血痕ではない」
ルストが言った。
榊が手首を覗き込む。
「歯形に見えるが」
「似せているだけだ」
「吸血鬼に見せかけるためか」
ルストは首を横に振った。
「違う。血を吸った痕ではない。寿命が抜けている」
修一の顔色が変わった。
雅也は手首を隠そうとした。
クラウディオが低く言う。
「隠すな。もう隠れる段階ではない」
雅也の手が止まる。
クラウディオは、左手首の痕を見た。
赤い輪。
一部が欠けた、小さな口。
歯形にも針痕にも見える曖昧さ。
吸血鬼の牙ではない。血の穴ではない。血を奪うためではなく、もっと深いものを契約として引き抜くための形。
クラウディオの表情がわずかに変わった。
ルストはそれに気づく。
「知っているのか」
「見たことがあるわけではない」
クラウディオは言った。
「だが、灰島の棚にあった時計。あれは、飾りではなかったらしい」
榊が言う。
「寿命を売った人間の残りか」
「売ったというより、買い叩かれたな」
クラウディオは雅也の手首から目を離さない。
「父親を生かすために必要な時間を、ここから引いた。対価は寿命。残りは、時計や手帳や、身につけていたものに滲む。宵待堂に流れるには十分な商品だ」
榊の顔に怒りが戻る。
「人の命を商品にするな」
「俺に言うな。俺も不快だ」
クラウディオは冷たく返した。
そして、ルストの方を見ずに言う。
「お前の噛み癖の方が、まだ誠実だな」
ルストが一瞬だけ目を細める。
「褒めているのか」
「比較対象が底だ」
「そうか」
榊が小さく息を吐いた。
こんな時に何を言っているのか、という顔だった。人間は本当に、事件現場に情緒の交通整理係でも必要だと思っているらしい。残念ながら吸血鬼二人は標識を読まない。
だが、その短いやり取りで、病室の空気がほんの少しだけ動いた。
修一は、雅也の手首を見たまま震えていた。
「返せないのか」
誰に向けた言葉なのか分からない。
榊か。
澪奈か。
クラウディオか。
怪異か。
それとも、自分自身か。
「俺の命なら、返せないのか」
雅也が苦しそうに言う。
「親父、やめてくれ」
「俺が死ねば、お前は戻るのか」
榊が反射的に声を出した。
「瀬戸さん」
クラウディオが修一を見る。
「それを願うな」
修一の動きが止まる。
「何?」
「今、その言葉を願いに変えるな。願い屋は、そういう隙間に来る」
修一の顔から血の気が引いた。
雅也も、息を止める。
クラウディオは淡々と言った。
「怪異は善悪を見ない。願いの形を見る。父親が自分の命を返したいと願えば、次は別の帳尻が来る。家族で命の押し売りを始める気か。やめておけ。救いではなく、泥沼だ」
言い方はひどかった。
だが、誰も反論できなかった。
榊は唇を噛む。
「願いと代償、家族の反応、寿命の移動。観察するには見栄えのいい皿だな」
クラウディオの声には、濃い嫌悪があった。
ルストが問う。
「久遠院か」
「まだだ。皿を用意した奴と、料理した奴が同じとは限らない」
クラウディオは、手首の痕へ視線を戻した。
「だが、これを見て喜ぶ席がどこかにあるのは確かだ」
◇
雅也のスマホは、上着の内ポケットに入っていた。
澪奈が本人の同意を得て確認すると、画面には《願い屋》のアイコンはなかった。履歴も途切れている。だが、通知の断片だけが残っていた。
ご依頼を承りました。
成就を確認しました。
お支払いを開始します。
その先は消えている。
榊が画面を見て、低く言った。
「お支払いを開始します、か」
「支払いが一度で終わっていない」
クラウディオが言った。
雅也が青ざめる。
「まだ、続いてるってことですか」
「父親が生きる時間が必要な限り、支払いは続く可能性がある」
修一が顔を歪める。
「やめろ」
クラウディオは容赦なく続けた。
「耳を塞いでも時計は進む」
「クラウディオ」
ルストが短く咎める。
「優しい言い方で寿命が戻るなら、いくらでも言ってやる」
それは以前、別の病室で言った言葉に似ていた。
けれど今回は、クラウディオの声にもわずかな硬さがあった。
父親を救いたいと願った息子。
息子の寿命を食って生きた父親。
どちらも悪人ではない。
だからこそ、怪異の構造だけが際立つ。
澪奈はスマホの画面を見つめた。
「通知が残っています。完全ではありませんが、時刻は修一さんの回復が始まった記録と重なります。雅也さんの手首に痕が出たのも、その直後です」
「契約が成立した時刻か」
榊が言う。
クラウディオは頷かない。
「成立というより、噛み合った時刻だ」
「噛み合った?」
「願いと代償が、だ」
その時、雅也のスマホが小さく震えた。
病室にいた全員が、画面を見た。
何もないはずの画面が、白く灯る。
古い帳簿のような背景。
黒い文字。
《願い屋》
雅也の呼吸が止まった。
修一がベッドの上で身を起こそうとする。
榊が制止し、澪奈が画面を確認する。
通知は短かった。
お支払いは継続中です
その下に、さらに一行が浮かぶ。
残り時間を確認しますか
雅也の指が震えた。
クラウディオの声が落ちる。
「触るな」
雅也は動きを止めた。
ルストは雅也の手首に視線を戻す。
赤い輪の痕が、わずかに濃くなっていた。
痕の周囲だけ、肌の色が乾いて見える。そこから何かが細く抜けていく。血ではない。熱でもない。もっと長いもの。未来へ続くはずだった時間。
クラウディオは、雅也の手首を見つめたまま静かに言った。
「これは吸血ではない。契約の口だ」
榊が眉を寄せる。
「契約の口?」
「願い屋は、血を吸うのではなく、契約として命を噛んでいる」
病室の機械音が、やけに遠く聞こえた。
スマホの画面には、まだ通知が残っている。
お支払いは継続中です。
残り時間を確認しますか。
雅也は父親を見た。
修一は息子を見た。
二人とも、生きていた。
だが、その間には、目に見えない口が開いている。
クラウディオは低く言った。
「なるほど。これは取り立てではない。契約の履行だ」




