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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第7部 【願い屋は血を取る】

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第95話 映らない本心



 銀の手鏡は、クラウディオ・ルジェリウスを映さなかった。


 《宵待堂》の奥棚に置かれたそれは、古びた銀で縁取られていた。蔦のような細工が鏡面を囲み、持ち手には何度も握られた痕がある。細かな傷は、長い年月の摩耗にも見えたし、誰かが爪を立てた痕にも見えた。


 鏡面は曇っている。


 だが、覗けば妙に鮮明だった。


 棚に並ぶ古い指輪、止まった時計、赤黒い染みのある布、写真のない写真立て、名前の刻まれた鍵、割れた人形。


 榊の硬い横顔。


 澪奈の疲れた目。


 ルストの灰色の瞳。


 店主である灰島の柔らかな笑み。


 それらはすべて、曇った銀の中に映っている。


 ただ一人。


 そこに立っているはずのクラウディオだけが、映っていなかった。


 吸血鬼だからではない。ルストは映っている。だから、鏡が拒んでいるのは吸血鬼ではなく、クラウディオ個人だった。


「映っていない」


 ルストの声は低かった。


 榊が鏡とクラウディオを見比べる。


「どういうことだ」


「鏡にも好みがあるらしい」


 クラウディオは軽く言った。


 軽く言ったが、その声はほんのわずかに硬かった。榊は気づかなかった。澪奈も、鏡そのものへ意識を取られていた。だがルストは気づいた。


 クラウディオが本当に何も感じていない時、もっと雑に笑う。


 今の声には、蓋があった。


 灰島は、白い手袋をした手で銀の手鏡の縁をそっと撫でた。鏡には触れない。触れる寸前で止める。その仕草は、商品を慈しむ商人のものにも、檻の中の獣を扱う飼育係のものにも見えた。


「珍しいですね。その鏡が客を拒むのは」


「客ではない」


 クラウディオが返す。


 灰島は微笑んだ。


「では、品物でしょうか」


 その瞬間、ルストの周囲の空気が冷えた。


 棚の鈴が、風もないのにかすかに揺れる。榊の手が無意識に腰へ動きかけ、澪奈が息を詰めた。


 クラウディオは鏡から目を離さずに言う。


「まだ噛みつくな」


「噛まない」


「顔が噛んでいる」


 ルストは否定しなかった。


 灰島はその沈黙を愉快そうに見つめた。愉快そう、と言っても、声を立てて笑うわけではない。ただ、目尻にほんのわずかな深さが足されただけだ。人間の悪趣味は、時にこの程度の動きで十分伝わる。大声で笑う悪党より、こういう棚の奥でにこにこしている商人の方がよほど始末に悪い。


 榊は一歩前に出た。


「その鏡は何だ」


「古い手鏡です」


「そういう話をしていない」


「でしょうね」


 灰島は、銀の手鏡を棚から下ろした。


 鏡面が角度を変える。曇った銀の中に、店内が揺れた。榊、澪奈、ルスト、灰島。やはり、クラウディオだけがいない。


「この鏡は、本心を映します」


 灰島の声は穏やかだった。


 澪奈が眉をひそめる。


「本心?」


「ええ。覗いた者、あるいは持ち主の本心を。ただし、見たいものではございません。見たくないものほど、よく映る」


 榊の顔が険しくなる。


「悪趣味な品だな」


「人は本心を知りたがります。自分のものも、他人のものも」


 灰島は鏡を黒い布の上へ置いた。


「けれど、知った後に耐えられるとは限りません」


 クラウディオは鼻で笑った。


「趣味の悪い鏡だ」


「真実を映す鏡、と呼ぶ方もいらっしゃいます」


「見たくないものを暴くことを、真実とは呼ばない」


 クラウディオの声は冷たかった。


 灰島は微笑んだまま答える。


「それでも、人は見たがります」


「だから売るのか。最低の商人だな」


「売ることもございますし、買い取ることもございます」


 澪奈が資料を抱え直した。


「買い取る?」


「本心を知った後に残るものです」


 灰島は棚を示した。


「この店には、願いの後に残った品が並んでいると申し上げました。あの手鏡も、そのひとつです。願いの器であり、代償の器でもある」


 ルストは黙って鏡を見ていた。


 鏡面の奥には、まだ何かがある。薄い血術痕。だが吸血鬼のものではない。《願い屋》のアプリに残っていたものと同じ、薄く人間の欲に馴染んだ痕。


 血ではない。


 記憶でもない。


 けれど、どちらにも触れている。


 榊が問う。


「代償は何だ」


「記憶です」


 灰島は、あまりにも簡単に答えた。


 澪奈の指が資料の端を強く押さえる。


「記憶を削るんですか」


「知るためには、忘れるものが必要になる」


 灰島は静かに言った。


「本心を覗く。その代わりに、本心と関わりの深い記憶が少しずつ削られる。失う量は、覗いた深さによって違います」


「悪質すぎる」


 榊の声に怒りが混じった。


「本心を映して、記憶を削る。これを商品として置いていたのか」


「商品として置いていただけではありません。使われたこともございます」


「過去の利用者の記録はあるのか」


「帳簿はございます」


「普通の古物商の帳簿じゃないだろうな」


 灰島は笑った。


「古い品には、普通ではない来歴がございます」


 澪奈が鏡面を見ながら、小さく息を吸った。


「鏡面に、血液反応に似たものがあります。でも、血そのものではありません」


「記憶の跡だ」


 ルストが言った。


 澪奈が顔を上げる。


「記憶に、跡が残るんですか」


「この店では残る」


 ルストは銀の手鏡から目を離さなかった。


「薄い。血術に似ているが違う。血ではなく、思い出をこすった後のような匂いだ」


 澪奈は苦い顔をした。


「科学で言いたくない言葉ですが、使用履歴があります」


 クラウディオは低く言った。


「言いたくない言葉ほど、だいたい正しい」


     ◇


 灰島は、棚から指輪をひとつ取り出した。


 細い銀の指輪だった。内側に日付が刻まれている。古くはない。だが、奇妙に冷えて見えた。


「ある方は、恋人を憎んでいると思っていました」


 灰島は指輪を黒い布の上へ置いた。


「裏切られた。捨てられた。もう顔も見たくない。そう言って、この鏡を覗いた」


 鏡面に、ほんのかすかに影が動いた。


「映ったのは、まだ相手を愛している自分でした」


 榊の眉が寄る。


「それで」


「その方は、相手を忘れる願いを出しました。残ったのが、この指輪です」


 指輪の銀が、灯りを鈍く返す。


 次に灰島は、名前の抜けた日記へ手を伸ばした。


「家族のために生きていると思っていた方もいました。親のため、兄弟のため、子どものため。自分は家族を愛している。そう信じていた」


 日記のページには、空白が並んでいた。


 __のために買い物へ行った。


 __が眠るまでそばにいた。


 __の声を聞くと、息が苦しい。


「鏡が映したのは、家族から逃げたいという本心でした。その方は、家族の記憶を代償に願いを出した。日記から名前だけが消えた」


 澪奈が口元を押さえる。


「そんな……」


「本心は、必ずしも美しいものではございません」


 灰島は淡々としていた。


「復讐を望んでいると思っていた方が、本当は相手に謝ってほしかっただけだと知ったこともあります。善人だと思っていた方が、誰かの不幸を願っていたことを見せられたこともあります」


「それを見せて、壊して、残った品を買い取ったのか」


 榊の声は低い。


 灰島は否定しなかった。


「壊れた後に残るものは、捨てられやすい。忘れたい方は、よく売ってくださいます」


「忘れさせたのはその鏡だろう」


「すべてではありません」


「すべてではない、か。便利な逃げ方だ」


 クラウディオの声が冷える。


「人間の一番薄い皮を剥いで、よく商売にできるな」


 灰島は、時計の並ぶ棚へ視線を向けた。


「長生きしたいと願った老人がいました。けれど鏡に映った本心は、生きたいのではなく、死んだ人を追い越したくないというものでした。願いは歪み、時計だけが残りました」


 止まった時計の針が、かすかに震えた。


 澪奈が顔をしかめる。


「記憶の欠損記録と、この鏡の所有履歴が重なりますね」


「どこまで残っている」


 榊が問う。


 灰島は答えた。


「帳簿にある分だけなら」


「帳簿を見せろ」


「令状はございますか」


 榊の目が鋭くなる。


 クラウディオは面倒そうに言った。


「人間の手続きは本当に遅いな。悪意の方がいつも先に店を開けている」


「手続きなしで押さえれば、後で崩れる」


 榊は静かに返した。


 前章の科学捜査の檻を経た彼の声だった。


 クラウディオは肩をすくめる。


「多少は学んだらしい」


 榊は返事をしなかった。


     ◇


 灰島は、銀の手鏡をもう一度持ち上げた。


 白い手袋をした指が、古い銀の縁をなぞる。鏡面に、店内の灯りが揺れた。


「この鏡は、誰にでも同じものを映すわけではございません」


「本心がない者でも映すのか」


 クラウディオが皮肉を投げる。


「本心がない方など、おりません」


 灰島の視線が、ゆっくりとルストへ移った。


「隠すのが上手い方と、見ないふりが上手い方がいるだけです」


 ルストは無言だった。


 灰島は、その沈黙の中へ、柔らかな声を落とした。


「あなたは、知りたいのではありませんか。あの方が本当はあなたをどう思っているのか」


 空気が、そこで止まった。


 榊がルストを見る。


 澪奈も息を詰める。


 クラウディオは、すぐに口を開いた。


「くだらんな。鏡などに聞くまでもない。俺は貴様を迷惑な灰銀の荷物だと思っている」


 いつもの声だった。


 皮肉で、軽くて、冷たくて、相手を突き放すようで、その実、言葉の端にいつもの癖がある。


 だが、少し早すぎた。


 灰島が言い終える前から、クラウディオは答えを用意していたようだった。ルストに鏡を見せないために。問いそのものを馬鹿馬鹿しいものにして、地面に叩き落とすために。


 榊と澪奈には、それがただの皮肉に聞こえた。


 けれど、ルストには違った。


 クラウディオは本当に嫌なら、もっと冷たく切る。


 興味がなければ、言葉も選ばない。


 茶化す時は、隠したいものがある。


 迷惑だと言いながら、離れない時がある。


 触るなと言いながら、振り払わない夜がある。


 祈るなと言いながら、ルストの腕の中に残った時がある。


 帰るな、と言った夜がある。


 だから、ルストは返さなかった。


 いつものように「そうか」とも言わなかった。


 皮肉で受け流しもしなかった。


 ただ、クラウディオを見た。


 その沈黙が、クラウディオをわずかに苛立たせた。


「何か言え」


 ルストは静かに返す。


「言えば逃げるだろう」


 クラウディオの目が細くなる。


「逃げるほど可愛げのある生き物に見えるか」


「逃げる時ほど、よく喋る」


 榊は、今度こそ聞こえなかったふりをするのを諦めたような顔をした。澪奈は視線を資料に落とした。人間たちの気まずさだけが、店内の骨董品より新鮮だった。大変くだらないが、少し平和でもある。地獄の棚の前で何をやっているのか。人間も吸血鬼も、関係性というものに巻き込まれると途端に不器用になる。宇宙のバグだ。


 灰島は楽しそうに微笑む。


「見てみれば、早いでしょう」


 ルストは鏡を見た。


 見たい、という気持ちはあった。


 クラウディオが本当は自分をどう思っているのか。


 何度もはぐらかされてきた。


 言葉はいつも棘をまとい、沈黙は蓋をされ、触れようとすると横へずれる。噛みつき、抱擁、手首、拒絶、帰るな、祈るな、触るな。すべてが矛盾しているようで、全部が同じ場所へ繋がっているようにも見える。


 知りたい。


 それは確かにあった。


 だが、鏡から盗むことと、クラウディオ自身の言葉を待つことは違う。


 同じではない。


 灰島の声が続く。


「知りたいと思うことは、悪いことではございません。誰かの本心を知りたい。自分の願いが相手に届いているのか確かめたい。愛されているのか、憎まれているのか、ただの荷物なのか」


「古物商」


 クラウディオの声が低くなる。


「それ以上、その安い舌を動かすな」


 灰島は微笑むだけだった。


「安いものほど、よく売れるものです」


 クラウディオが動きかけた時、銀の手鏡の鏡面が揺れた。


 誰も覗いていない。


 だが、曇った銀の奥に影が重なった。


 最初に映ったのは、幼いクラウディオだった。


 小さな肩。


 整いすぎた顔。


 王城の冷たい床。


 誰かの声を待つような目。


 次に、王だったクラウディオが映る。


 赤い瞳。


 冷たい玉座。


 人を近づけない笑み。


 吸血鬼王としての、凍ったような横顔。


 その上に、現代の人形師クラウディオが重なった。


 作業台の上に置かれた人形の手。


 細い筆。


 針。


 糸。


 白い布。


 火刑台の炎の影。


 菓子の包み紙のような白い断片。


 血のない指先。


 笑っていない口元。


 いくつものクラウディオが、鏡面の中で重なっていた。


 だが、肝心のものは見えない。


 ルストへの本心だけが、靄の奥に沈んでいた。


 輪郭があるのに、言葉にならない。


 近づこうとすると、鏡面が曇る。


 触れようとすると、銀の奥が黒く濁る。


 灰島の目が、初めて興味で細くなった。


「映らない。これは珍しい」


 クラウディオは黙っていた。


「本心がないわけではない。隠し方が深すぎる」


「黙れ、古物商」


「あるいは、鏡が代償を測り損ねているのかもしれません」


 クラウディオの目が冷える。


「黙れと言った」


 灰島は口を閉じた。


 だが、その目は笑っていた。


 鏡面の中で、幼いクラウディオと王だったクラウディオと現代の人形師が、また重なる。どれもクラウディオで、どれもクラウディオではない。時間が積もり、記憶が硬化し、願いが折り重なりすぎて、一枚の鏡で剥がせるものではなくなっている。


 榊は、その映像を見て言葉を失っていた。


 澪奈は息を呑む。


「これ……クラウディオさんの記憶ですか」


「記憶の表面だろう」


 ルストが答えた。


 彼の声は静かだった。


 だが、指先に力が入っている。


 鏡の奥にいる幼いクラウディオを見た時、ルストは動かなかった。動かなかったが、彼の中で何かが強く軋んだ。


 知りたい。


 触れたい。


 守りたい。


 問い詰めたい。


 けれど、そのどれもが、鏡を覗く理由にはならない。


 クラウディオは、鏡ではなくルストを見た。


 いつもの皮肉はなかった。


 怒鳴りもしなかった。


 茶化しもしなかった。


 ただ、低く言った。


「覗くなよ、ルスト」


 命令ではなかった。


 いつもの「見るな」とも違った。


 その声には、薄い強がりがあった。だが、それだけではない。頼みに近かった。拒絶ではなく、守りだった。自分を守るためか、ルストを守るためか、その両方か。


 ルストは、その違いを聞き取った。


 灰島も聞き取ったのだろう。目元に、わずかな愉悦が戻る。


「それほど見られたくないものですか」


 クラウディオは答えなかった。


 ルストは鏡を見た。


 鏡面の奥には、まだ靄がある。


 その向こうに、答えがあるかもしれない。


 クラウディオが本当は自分をどう思っているのか。


 迷惑な荷物。


 灰銀の厄介者。


 過去から絡みつく鎖。


 あるいは、それ以外。


 知りたい。


 確かに知りたい。


 だが、クラウディオが今、覗くなと言った。


 鏡を恐れているのではない。


 鏡に奪われることを知っているから。


 自分の中身を、道具を通して盗まれることを拒んでいるから。


 ルストは、静かに手を伸ばした。


 榊が息を詰める。


 澪奈が止めようとする。


 クラウディオは動かなかった。


 ルストの指が、銀の手鏡の柄に触れた。


 その瞬間、鏡面の靄がざわめく。


 覗け、と言うように。


 知れ、と囁くように。


 欲しいものはここにある、と誘うように。


 ルストは鏡を持ち上げなかった。


 逆に、鏡面を下へ向けた。


 黒い布の上へ、静かに伏せる。


「見ない」


 短い一言だった。


 だが、店内の空気が変わった。


 クラウディオは返事をしなかった。


 礼も言わなかった。


 茶化しもしなかった。


 ただ、鏡を伏せたルストの手を一瞬だけ見た。


 ほんの一瞬だけ、呼吸が戻ったように見えた。


 灰島は、つまらなそうに笑った。


「残念です。知りたがる方は多いのですが、見ない方は少ない」


 ルストは灰島を見た。


「ならない」


 灰島は首を傾げる。


「何がでしょう」


「品にはならない」


 その声は低く、静かだった。


 灰島の笑みは薄いまま残った。


「よい品になりそうでしたのに」


「棚に並べる気だったのか」


 クラウディオが低く問う。


 灰島は穏やかに答える。


「願いの残りは、どれもよい品になります」


 ルストの空気がまた冷える。


 だが、彼は動かなかった。


 鏡は伏せられている。


 クラウディオの本心は映らないまま、靄の奥に沈んでいる。


 クラウディオは灰島を見ず、伏せられた鏡を見た。


「アプリだけじゃない。店があり、品があり、案内人がいる」


 ルストが言う。


「願いの市場か」


「品が悪すぎる市場だ」


 クラウディオは、黒い布の上の銀の手鏡から目を離さなかった。


「どいつもこいつも、観察席から人を落としたがる」


 ルストが問う。


「久遠院か」


「まだだ。今は鏡を伏せておけ」


 鏡は伏せられたままだった。


 その裏側の銀細工だけが、薄暗い店内の灯りを鈍く返している。


 クラウディオは何も言わない。


 ルストも、もう何も聞かなかった。


 ただ、鏡とクラウディオの間に立ったまま、静かに息をしていた。


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