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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第7部 【願い屋は血を取る】

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第94話 古物商の棚


 商店街は、昼の中に沈んでいた。


 太陽は出ている。空も曇りきっているわけではない。けれど、その通りだけは、どこか光に見捨てられているように薄暗かった。


 アーケードの屋根は古く、ところどころ半透明の板が黄ばんでいる。雨漏りの跡が黒い筋となって残り、支柱には剥がれかけた町内会の掲示が貼られていた。歳末セール、盆踊り大会、閉店のお知らせ。どれも日付が古い。すでに終わった行事だけが、いつまでも壁にしがみついている。


 閉じたシャッターが並んでいた。


 薬局の看板は色褪せ、赤い十字だけがかろうじて残っている。時計店のショーウィンドウには、止まった腕時計がいくつも並び、針はそれぞれ違う時刻を指していた。写真館のガラス戸には、成人式の見本写真がまだ貼られている。笑っている若者たちの顔は、陽に焼けて薄くなっていた。


 和菓子屋の跡もあった。


 暖簾は外され、硝子ケースは空だった。けれど、店先の木枠だけは残っていて、そこにかつて饅頭や羊羹が並んでいたのだと分かる。


 クラウディオは、その前を通る時、ほんのわずかに足を緩めた。


 すぐに歩調を戻す。


 ルストだけが、それに気づいた。


 問わなかった。


 この男は問われると、余計な棘を出す。人間で言うところの照れ隠しだが、吸血鬼王の照れ隠しはだいたい周囲の温度を下げるので、環境に悪い。地球温暖化対策には使えない。人格が寒すぎるからだ。


 榊は、篠宮カナメの占い部屋で見つかった古い名刺を確認しながら歩いていた。


 名刺に書かれていた店名。


 骨董店《宵待堂》。


 その下に、丁寧な文字で書かれた文言。


 願いの器、買い取ります。


 澪奈は端末で地図を確認していたが、画面を見ながら眉をひそめている。


「登録上は、この先です」


 榊が周囲を見回した。


「こんなところに店があったのか」


「古物商許可の記録はあります。ただ、更新履歴が妙に古いです。行政上の記録には残っているのに、営業実態がはっきりしません。口コミもほとんどありません」


「営業しているのか、していないのか」


「していることになっています」


「一番面倒な返事だな」


 クラウディオは低く笑った。


「人間の書類はいつもそうだ。あるのかないのかを決めるために、まず紙を増やす」


 榊は反論しなかった。反論する体力も、反論する価値もなかったのだろう。実に正しい判断である。人間もまれに学ぶ。


 商店街のさらに奥へ進むと、空気が変わった。


 人通りはほとんどない。自転車のベルも、店内放送も聞こえない。どこかの換気扇が低く唸っているだけだった。閉じたシャッターの隙間から、古い油と埃の匂いが滲んでいる。


 その中で、一軒だけ灯りがついていた。


 小さなガラス戸。


 木枠は古いが、磨かれている。


 看板には《宵待堂》とあった。


 文字は古びている。けれど、不思議と読みやすい。黒く細い筆文字なのに、目を逸らしても残るような形をしていた。


 ガラス戸の奥には、薄い灯りに照らされた棚が見える。


 古い指輪。


 曇った鏡。


 止まった時計。


 髪飾り。


 小さな硝子瓶。


 割れた人形。


 誰かの名前が刻まれた鍵。


 写真の入っていない写真立て。


 クラウディオは看板を見上げ、嫌そうに言った。


「願いを買い取るには、似合いの場所だな」


 ルストは店の奥を見て、低く言う。


「匂う」


 榊が顔をしかめた。


「血か」


「血だけじゃない」


 ルストの目は、ガラス戸の向こうを見ていた。


「願いの後に残るものだ」


 クラウディオが小さく笑った。


「それを商品名にしていないだけ、まだ商売人の羞恥は残っているらしい」


     ◇


 扉を開けると、小さな鈴が鳴った。


 高すぎず、低すぎず、耳の奥へ細く残る音だった。《願い屋》の通知音に似ている。鈴のようでもあり、古い皿の上に硬貨が落ちたようでもある。


 店内は、外から見たよりも奥行きがあった。


 狭いはずだった。通りに面した間口は広くない。隣の店との幅から考えても、奥に長いだけの小さな店舗のはずだった。けれど一歩入ると、棚と棚の間に細い通路が伸び、その奥にさらに棚があり、目の届かない影が続いている。


 古物の店にありがちな埃っぽさはない。


 むしろ、品物は一つひとつ丁寧に磨かれていた。古い指輪の石はくすんでいるが、台座には汚れがない。曇った鏡は曇ったまま磨かれている。止まった時計は止まったまま、ケースだけが清潔だった。


 値札はない。


 代わりに、小さな紙片が添えられている。


 日付だけが書かれていた。


 八月三日。


 十月十八日。


 一月二十七日。


 どの日付が、買取日なのか、願いが叶った日なのか、代償が支払われた日なのかは分からない。


 棚には、片方だけの手袋が置かれていた。


 蓋の開かない小箱。


 赤黒い染みのあるハンカチ。


 古い日記。


 銀の手鏡。


 名前の刻まれた鍵。


 硝子瓶の中には、折り畳まれた紙片や、乾いた花弁のようなものが入っている。いくつかの瓶には赤い糸が結ばれていた。


 澪奈が息を呑んだ。


「篠宮の部屋にあった小瓶と似ています」


 榊は棚を見渡した。


「古物商の店というより、遺品整理だな」


「遺品なら、まだ持ち主の死に弔いがある」


 クラウディオは、棚に並ぶ品々を見ながら低く言った。


「これはもっと悪い」


 店の奥から、人影が現れた。


 音もなく、というほどではない。木の床がかすかに鳴った。人間の重みがある足音だった。


 男にも老人にも見える人物だった。


 髪は白いようで、角度によっては黒くも見える。目元には皺があるが、肌は妙に張っている。背筋は伸びていて、動きは丁寧だった。和服に似た濃い灰色の上着を着ており、手には白い手袋をしている。


 穏やかな顔だった。


 穏やかすぎて、輪郭がつかみにくい。


「いらっしゃいませ」


 声も柔らかかった。


「宵待堂へようこそ」


 榊が警察手帳を示す。


「警察庁の榊です。店主の灰島さんで間違いありませんか」


「はい。灰島と申します」


 灰島は、深くも浅くもない礼をした。


 礼儀正しい。


 警戒していない。


 吸血鬼二人を前にしても、まるで常連客でも迎えたような落ち着きだった。


 クラウディオはその所作を見て、目を細めた。


「ずいぶん落ち着いているな」


「古い品を扱っておりますと、驚くことにも慣れます」


「吸血鬼にもか」


「お客様には、それぞれ事情がおありですから」


 クラウディオの口元が歪む。


「客扱いとは恐れ入る」


「違うのですか」


 灰島は穏やかに首を傾げた。


 ルストが、灰島を見ていた。


 血の流れ。


 呼吸。


 影の落ち方。


 体温。


 灰島の足元には、確かに影があった。胸はわずかに上下している。血は薄くはない。人間の血だ。だが、その周囲には別の匂いが絡んでいた。古い契約、他人の願い、血術に似て血術ではないもの。


 榊が小声で問う。


「怪異じゃないのか」


 ルストは短く答えた。


「人間だ」


 榊の目が灰島へ向く。


 ルストは続けた。


「違う。だが、怪異と取引している」


 灰島は微笑みを深くも浅くもせず、ただ受け止めた。


「お目が高い」


 クラウディオが冷たく笑う。


「人間のまま怪異に棚を貸すか。器用な商売だな」


「棚は空けておくものです。何を置くかは、持ち主次第です」


「では持ち主は誰だ」


 灰島は答えなかった。


 店内の鈴が、風もないのに小さく揺れた。


     ◇


 榊は名刺を取り出した。


「この名刺が、篠宮カナメの占い部屋から見つかりました」


 灰島は名刺を見る。


「懐かしいものですね」


「篠宮を知っているんだな」


「篠宮様は、人の願いを聞くのがお上手です」


 クラウディオの目が冷える。


「お前は、叶った後の死体を拾うのが上手い」


 灰島は否定しなかった。


「死体とは限りません」


「否定する場所がそこか。救いがないな」


 榊が一歩前に出る。


「《願い屋》を知っているんだな」


「名前は存じております」


「被害者の物がここにある理由を説明してください」


「被害者」


 灰島はその言葉を、棚の埃を払うように丁寧に繰り返した。


「願いを叶えた方々、という意味でしたら、いくつかの品は当店にございます」


 澪奈が息を呑んだ。


「認めるんですか」


「隠す理由がありません。当店は、古いものを扱っております」


「これは古いものじゃない」


 榊の声が低くなる。


「人が傷ついた後に残ったものだ」


 灰島は穏やかに頷いた。


「願いの後に残るものは、意外と捨てられやすいのです」


 クラウディオは棚に近づいた。


 赤黒い染みのあるハンカチが、透明な箱に入れられていた。染みは乾いている。古いものに見える。けれど、ルストにはその赤の奥で、まだ何かが細く動いているように感じられた。


 澪奈が簡易検査の道具を取り出し、慎重に確認する。


「このハンカチの染み、血液反応があります」


 灰島は言った。


「願いを書いた指先を拭った布です」


 榊の顔が険しくなる。


「誰の」


「お客様の情報を、軽々しく口にするわけには」


「被害者だ」


「願った方です」


「言い換えるな」


 榊の声に怒気が混じる。


 灰島は少しだけ目を伏せた。


「では、支払った方です」


 空気が冷えた。


 クラウディオは、透明箱の中のハンカチを見下ろした。


「願いの残骸を商品にするか。随分と品のない蒐集だ」


 灰島は否定しなかった。


「人は願います。叶えば捨てる。捨てられた代償を拾う者がいてもよろしいでしょう」


「拾う、ね。死肉を漁る烏もそう言うだろうな」


「烏は残さず片づけます。腐らせるよりは、役に立つ」


「人間の欠けた部分に値札をつける趣味はない」


「値札はございません」


「なお悪い」


 クラウディオは別の棚を見た。


 そこには、古い日記が置かれていた。黒い表紙で、角が擦り切れている。開かれたページには、几帳面な文字で日々の記録が書かれていた。


 けれど、ところどころに空白がある。


 昨日、__が駅まで迎えに来てくれた。


 __の作ったスープを飲んだ。


 今日は__に怒られた。でも、少し嬉しかった。


 文章は続いている。文脈もある。だが、特定の人物名だけが抜け落ちている。


 澪奈が覗き込み、眉をひそめた。


「日記の空白部分、インクが消えたのではありません。紙面に削れた跡もない。最初から文字が存在しないように見えます」


「記憶が抜けた日記です」


 灰島が言った。


「持ち主は、その方を忘れたのか」


 榊が問う。


「忘れたから、日記にも残らなかったのか。日記から消えたから、忘れたのか。順序は、時に意味を持ちません」


 クラウディオは低く言う。


「意味を持たないのではなく、言いたくないだけだ」


 次の棚には、時計が並んでいた。


 古い腕時計、懐中時計、置き時計。いくつかは止まっている。けれど、ひとつだけ、内部が完全に壊れているように見えるのに、針だけがかすかに進んでいた。


 澪奈は顔をしかめる。


「この時計、内部構造は止まっているのに、針だけが動いています」


 灰島が嬉しそうでも悲しそうでもない声で言った。


「寿命を削られた方の時計です」


 榊の手が拳になる。


「命を商品棚に置くな」


「命ではありません。残った時計です」


「同じだ」


「違います。命は戻りません。時計は残りました」


 クラウディオが静かに言った。


「痛みに値札をつける奴は、大抵そう言う」


 灰島は、そこで初めてクラウディオを少し長く見た。


「価値をつけることが冒涜だとお考えですか」


「これは骨董じゃない。剥がれた人生だ」


 店内の鈴が、また小さく鳴った。


 棚の奥に、命と引き換えに残ったという指輪があった。銀色の輪は細く、内側に何かの記念日らしい日付が刻まれている。隣には、写真の入っていない写真立て。さらにその横には、名前を忘れた者が持っていたという鍵がある。


 鍵には、確かに名前が刻まれていた。


 しかし、その名前を見た瞬間、澪奈はなぜか目が滑った。文字として存在しているのに、頭が読もうとしない。読めたはずの音が、喉の奥でほどける。


「これ……名前が」


 灰島は言った。


「持ち主は、刻まれた名前を覚えておりません」


 榊が厳しい顔で問う。


「誰から買い取った」


「ご本人からの場合もございます。ご遺族からの場合もございます。あるいは、仲介を通じる場合も」


「仲介とは誰だ」


「商売には流れがございます」


「《願い屋》か」


 灰島は微笑んだ。


「願いが叶えば、何かが残ります。残りは、流れる。水と同じです」


「その水路を作ったのは誰だ」


「さて」


 榊はさらに踏み込もうとしたが、クラウディオが手で制した。


「今は言わない顔だ。叩いても埃ではなく香しか出ない」


 灰島は軽く笑った。


「手荒な方は、品を壊しやすい」


「品物にするな。持ち主の痛みまで並んでいる」


 灰島は静かに答えた。


「捨てられるよりは、棚に置かれる方がましなものもございます」


 クラウディオは冷たい目で見た。


「自分を弔い人だと思っているのか」


「私は、捨てられたものに値をつけているに過ぎません」


「その値を誰が払う」


 灰島は答えない。


     ◇


 ルストは、棚の間をゆっくり歩いた。


 品々から立ちのぼる気配は、それぞれ違っている。血の匂い。記憶の抜けた紙の匂い。止まった時間。眠り。名前。声。欠けた感情。


 どれも濃くはない。


 だが、店全体に薄く染みている。


 榊が隣に来る。


「何が分かる」


「この店は、血の匂いが薄い」


「薄い?」


「広く染みている。ひとつの死体ではない。多くの願いの残りだ」


 榊は棚を見回した。


 どれも静かな品物に見える。だが、一つひとつが誰かの欠落だった。誰かが願い、叶い、代償を支払い、そのあと見たくなくなったもの。あるいは持ち続けられなくなったもの。


 榊は吐き捨てるように言った。


「胸糞悪いな」


「そうだな」


 ルストが即答したので、榊は少し驚いたように彼を見た。


 ルストは棚の奥の割れた人形を見ていた。


 白い陶器の顔が、斜めに割れている。片目は残っているが、もう片方は欠けている。胴には小さな布が巻かれ、胸元に赤い糸の跡がある。


 クラウディオも、その人形を見つけた。


 彼の足が止まる。


 人形師としての目が、無意識に働く。作りの癖。関節の構造。顔の造形。古いが、悪い作ではない。けれど、どこか壊され方が不自然だった。事故で割れたのではない。器として使われ、中から何かを抜かれたような割れ方。


「人形を器にしたのか」


 クラウディオの声は低かった。


 灰島は答えない。


 ただ、微笑む。


 それが、答えよりも不快だった。


 クラウディオは人形から目を離さない。


「人形は、持ち主の代わりに痛むものではない」


「そうでしょうか」


 灰島が穏やかに言う。


「人は、人形に願いを入れます。守ってほしい。呪ってほしい。覚えていてほしい。忘れさせてほしい。人形ほど、人間の勝手な願いを受け止めてきた器は少ない」


「知ったような口を利くな」


 空気が、刃物のように薄くなった。


 ルストが一歩、クラウディオのそばへ寄る。


 灰島はその動きにも怯えない。


「お客様は、人形を大切にされるのですね」


「商品ではなく、手だ」


「手」


「誰かが届かなかったものへ伸ばすための手だ。お前の棚にあるこれは、手ではない。切り落とされた指だ」


 榊は黙っていた。


 澪奈も口を挟まなかった。


 クラウディオの怒りは静かだったが、はっきりと店内の空気を変えていた。彼は被害者を甘やかす男ではない。願いを送信した愚かさを容赦なく指摘することもある。だが、失われたものを飾り、並べ、商売の言葉で磨く者には、別の種類の嫌悪を向ける。


 灰島はゆっくりと棚の品を見渡した。


「人は自分で選んだと思う時、最も美しい代償を残します」


 クラウディオの目が鋭くなる。


 ルストも気づいた。


 その言い回し。


 観察者のような距離。


 人間の苦痛を、美しい、などと棚の外から評する声。


「また観察席の匂いがする」


 クラウディオが低く言った。


 ルストが問う。


「久遠院か」


「まだだ。ここは店先だ。奥に誰がいるかは、棚を開けてからでいい」


 灰島はにこやかに言った。


「奥をご覧になりますか」


「今のは比喩だ。勝手に商談へ変換するな」


「失礼いたしました」


 謝罪は丁寧だった。


 だが、本当に悪いとは思っていない声だった。


     ◇


 澪奈は、棚の品々と被害者の記録を照合していた。


「この赤黒いハンカチは、出血が続いている受験生の症状と近いです。ただし、高槻莉央さん本人のものかは、現時点では断定できません」


「断定しなくていい」


 榊は言った。


「持ち帰れるものは証拠として押収する」


 灰島が穏やかに首を傾げる。


「すべての商品には、扱い方がございます。無理に動かすと、持ち主でなかった方にも影響が」


「脅しか」


「注意です」


 クラウディオが鼻で笑った。


「取扱説明書だけは親切だな。代償の値札は隠すくせに」


「願いの代償を決めているのは、当店ではございません」


「だが残りはここへ来る」


「すべてではありません」


「一部は来る」


「はい」


 灰島は認めた。


「篠宮様のところから流れる願いもございます。別の場所から来るものもございます。願いは一本の道を通るわけではありません。人の欲は、もっと細かく枝分かれします」


「その枝を束ねているのは誰だ」


 クラウディオが問う。


 灰島は、答えない。


 代わりに、棚の上の小さな鈴が鳴った。


 澪奈は眉をひそめた。


「風はありません」


「店が返事をしたつもりか」


 榊の声には苛立ちがあった。


 灰島は微笑む。


「古い店には、音が残るものです」


「音だけで済めばな」


 ルストは、奥の棚を見ていた。


 そこに銀の手鏡があった。


 古い銀製の手鏡。縁には細かな蔦のような装飾が刻まれている。持ち手の部分には小さな傷があり、何度も握られてきたように摩耗していた。鏡面は曇っている。だが、近づくと妙に鮮明に店内を映す。


 榊が先に気づいた。


「この鏡は」


 澪奈がライトを向ける。


 鏡には、棚が映っていた。


 古い指輪。


 時計。


 硝子瓶。


 榊の肩。


 澪奈の横顔。


 ルストの灰色の目。


 灰島の穏やかな笑み。


 すべてが、曇った銀の中に映っている。


 ただ一人。


 クラウディオだけが、映っていなかった。


 そこに立っているはずの位置には、棚の影だけがある。


 ルストの声が低く落ちた。


「映っていない」


 榊が息を呑む。


「吸血鬼だからか」


 澪奈はすぐにルストを見た。


「でも、ルストさんは映っています」


 鏡の中のルストは、確かにそこにいた。


 灰色の目で、こちらを見返している。


 つまり、吸血鬼一般の性質ではない。


 クラウディオ個人に、鏡が反応している。


 クラウディオは鏡を見た。


 表情は変えない。変えないようにしている。だが、目だけがわずかに細くなった。


「鏡にも好みがあるらしい」


 灰島が、初めてほんの少し笑みを深めた。


「珍しいですね。その鏡が客を拒むのは」


「客ではない」


 クラウディオは静かに返した。


 灰島は柔らかく言う。


「では、品物でしょうか」


 店内の温度が、明らかに下がった。


 ルストが一歩前に出る。


 声はない。


 牙も見せていない。


 けれど、空気そのものが噛みつく寸前の獣のように張り詰める。


 クラウディオは鏡から目を逸らさずに言った。


「まだ噛みつくな」


「噛まない」


「顔が噛んでいる」


 ルストは答えなかった。


 灰島は、その沈黙すら商品価値でも測るように眺めていた。だからクラウディオの不快感はさらに増した。


 鏡の中には、やはりクラウディオだけがいない。


 そこにいるのに、映らない。


 消えているのではない。


 拒まれている。


 あるいは、すでに別の場所に記録されている。


 クラウディオは、銀の手鏡を見下ろしたまま低く言った。


「……棚に並べる気なら、値札は高くつくぞ」




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