第93話 占い師の部屋
澪奈が最初に気づいたのは、動画の履歴だった。
警察庁の小さな解析室には、夜の気配がまだ残っていた。窓の外は白み始めているのに、室内の空気は深夜から抜け出せないまま、薄い疲労と冷えたコーヒーの匂いを抱え込んでいる。
机の上には、押収された端末の記録、印刷された通知履歴、被害者の聴取メモ、医療機関から提供された検査資料が並んでいた。
補欠合格した少女、高槻莉央。
消えた恋人から連絡が来た代償に、恋人との記憶だけを失った若者。
憎い相手が事故に遭うよう願った人物。
大金を手に入れたあと、眠ったまま起きない利用者。
願いの形は違う。
代償の出方も違う。
けれど、澪奈は一つひとつの履歴を追い、同じ名前にぶつかった。
篠宮カナメ。
若者向けの占い配信者。
短い動画、深夜のライブ配信、個別相談の予約ページ、切り抜き動画。被害者たちの端末には、程度の差こそあれ、その名が残っていた。
澪奈はモニターへ映像を出した。
白く柔らかな照明の中で、篠宮カナメが微笑んでいる。年齢ははっきりしない。三十代前後にも見えたし、もっと若くも見えた。肩にかかる黒髪は丁寧に整えられ、声は低すぎず高すぎず、聞く者の呼吸に入り込むように穏やかだった。
画面の中の篠宮は、相談者のコメントを読み上げていた。
「第一志望に落ちました。母に申し訳なくて、もう顔を見られません」
篠宮はすぐには答えなかった。
少し目を伏せ、相手の痛みを一度自分の手のひらにのせるような間を作る。演出としては、あまりにもよくできていた。人間、沈黙に意味を感じる生き物だから面倒だ。
「つらかったですね」
篠宮は静かに言った。
「よく頑張りましたね。結果が出なかったからといって、あなたの努力が消えるわけではありません」
コメント欄が流れる。
泣いた。
優しい。
カナメさんの声落ち着く。
分かってくれる人がいるだけで救われる。
榊はモニターを見ながら、眉間に皺を寄せていた。
「被害者の多くが、篠宮カナメの配信を視聴しています」
澪奈が言った。
榊はモニターから目を離さずに問う。
「アプリの配布元か」
「直接ではありません。ただ、入口になっています」
澪奈は別の資料を示した。
「個別相談を受けた後、《願い屋》の通知が来ている例が複数あります。直接の配布記録は見つかっていません。でも、相談内容と願いの内容が一致しすぎています」
クラウディオはモニターの中の篠宮を見て、不快そうに笑った。
「入口、ね。罠の看板としては上品だな」
ルストは黙って映像を見ていた。
篠宮の配信は、派手ではない。背景には薄暗い布と小さな水晶、古い鏡、タロットカード。占い師らしい小物が整然と置かれている。怖がらせるためではなく、安心させるための部屋だった。
次の切り抜きでは、恋人に捨てられた若者の相談に答えていた。
「連絡がないまま半年が過ぎたんですね。忘れられないんですね」
篠宮は、相談者の言葉を否定しない。
「その願いを持つこと自体は、悪いことではありません。誰かを好きだった時間は、簡単に片づけられるものではありませんから」
次の映像では、職場の人間関係に追い詰められた相談者へ語りかけていた。
「消えてほしい、と思うほど苦しかったんですね。そう思ってしまう自分を、まず責めすぎないでください」
榊の口元が固くなる。
「復讐願望まで肯定しているのか」
「肯定というより、受け止めるふりをしています」
澪奈の声も硬かった。
「その後で、必ず逃げ道を用意するんです」
モニターの中で、篠宮が微笑む。
「誰にも言えない願いほど、置き場所が必要です」
そして、配信の終わり。
篠宮はカメラに向かって、いつもより少しだけ声を落とした。
「本当に叶えたい願いがある人には、特別な窓口を教えます」
室内の空気が、わずかに沈んだ。
榊が低く言った。
「これか」
澪奈は頷いた。
「具体的な誘導の記録は残っていません。少なくとも、こちらで確認できる形では。ただ、被害者たちはこの言葉のあとに個別相談へ進み、その後《願い屋》に接触しています」
「接触させられた、か」
榊の声には怒りが滲んでいた。
クラウディオは腕を組んだ。
「願いを否定しない顔で、代償だけ伏せる。実に人間向けだ」
ルストがクラウディオを見た。
願い。
望み。
叶わなかったもの。
奪われたもの。
そうした言葉が出るたびに、ルストの視線はわずかにクラウディオへ向く。問いはしない。だが、問いより厄介な沈黙というものがある。
クラウディオは横目で睨んだ。
「見るな」
「見ていない」
「嘘が下手だな」
「お前ほどではない」
澪奈が、あからさまに聞こえなかったふりをした。榊も同じ顔をした。警察庁で働く人間は、見なくていいものを見ない技術だけは時々有用である。
クラウディオはモニターへ視線を戻した。
「会いに行くぞ」
榊が頷いた。
「すでに任意での聴取には応じると連絡が来ている。ただし、自分は何も知らない、と言っている」
「知っている顔の人間ほど、よくそう言う」
◇
篠宮カナメの占い部屋は、雑居ビルの四階にあった。
繁華街から少し外れた場所で、一階には古い喫茶店、二階には美容サロン、三階には貸しスタジオが入っている。派手な看板はない。階段の踊り場に、小さな黒いプレートが掛かっているだけだった。
占い相談室 カナメ
文字は柔らかく、控えめだった。
榊がインターホンを押すと、すぐに鍵が開いた。
扉の向こうには、甘すぎない香の匂いが漂っていた。白檀にも似ているが、もっと乾いた匂いだった。深く吸うと、胸の奥が少し重くなる。落ち着かせるための香。あるいは、判断を鈍らせるための香。人間は香りに名前をつけると安心する。中身が何であれ、いい匂いなら許すのだから、鼻の信頼性は政治家の公約より怪しい。
部屋は薄暗かった。
窓には厚いカーテンが引かれ、外の音はほとんど届かない。黒い布を敷いた机。机の上にはタロットカード、小さな水晶、古い真鍮の燭台、銀色のペン、願いを書かせるためらしい小さな紙片が整えられている。
壁際には古い鏡があった。
縁が黒く、ところどころ金の装飾が剥げている。鏡面は磨かれているのに、映る像だけが少し暗い。
相談者用の椅子は柔らかそうだった。深く腰を沈めれば、簡単には立ち上がれなくなりそうな椅子。対面の椅子との距離は近すぎず、遠すぎない。弱った人間が話しやすい距離を、誰かがきちんと測ったようだった。
部屋の隅には配信用のカメラと照明が置かれている。
その横に、小さな棚があった。
棚には、赤い糸で結ばれた小瓶がいくつも並んでいた。透明な瓶、曇った瓶、茶色い瓶。中身は見えないものもあれば、薄い紙片のようなものが入っているものもある。
ルストの目が、そこで止まった。
「この瓶、血の匂いがする」
奥のカーテンが揺れた。
篠宮カナメが現れた。
映像で見た時よりも、実物の方がずっと静かだった。黒髪は首筋でゆるく結ばれている。薄い灰色のシャツに、黒のカーディガン。占い師らしい派手な装飾はない。むしろ、相手の警戒心をほどくために余計なものを削ったような姿だった。
篠宮は柔らかく微笑んだ。
「占い道具です。雰囲気作りですよ」
クラウディオが棚を見たまま言う。
「雰囲気で人間の血は匂わない」
篠宮の笑みは崩れなかった。
「そういうふうに感じる方もいらっしゃいます。象徴としての血、というものは、占いではよく扱われますから」
「便利な言葉だな、象徴。実物を隠す布にちょうどいい」
榊が一歩前に出た。
「篠宮カナメさんですね」
「はい」
「警察庁の榊です。事前に連絡した《願い屋》の件で、お話を伺います」
「もちろんです。どうぞ、おかけください」
篠宮は相談者用の椅子を示した。
榊は座らなかった。澪奈も立ったまま資料を開く。クラウディオは、部屋全体を見渡していた。ルストは棚と鏡と机の配置を読むように視線を動かしている。
篠宮は少し困ったように笑った。
「そんなに警戒されると、こちらも緊張しますね」
「緊張できる良心が残っているなら、まだ安い」
クラウディオが返す。
篠宮は彼を見た。
「あなたが、クラウディオさんですね」
榊の視線が鋭くなる。
「なぜ知っている」
「有名ですから。最近は特に」
篠宮は穏やかに言った。
科学捜査の檻。
濡れ衣。
警察庁内部の騒動。
表に出ていない情報も多いはずだが、噂というものは隙間から水のように流れる。人間の口と配管は、漏れるために存在しているのかもしれない。
クラウディオは薄く笑った。
「占い師にしては耳がいい」
「相談を受ける仕事ですから」
「相談という名の採掘だろう。弱い場所を掘る」
篠宮は否定しなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「皆さん、話したがっているんです。誰にも言えない願いを。誰にも見せられない怒りを。恥ずかしいほど切実な望みを」
榊が資料を開いた。
「被害者が出ている」
「それは報道で知りました」
「代償があると知っていたのか」
篠宮はすぐには答えなかった。
香の煙が、机の上を細く流れる。
「願いには、いつも代償があります」
榊の顔が険しくなる。
「知っていて案内したなら、ただの紹介では済まない」
「案内、という言い方は正しいですね」
篠宮は静かに頷いた。
「願いを叶えているのは、私ではありません。私はただ、必要な人を案内しているだけです」
クラウディオの目が細くなった。
その一文が、彼の嫌悪を決定的にした。
「最も卑しい類だな。自分では手を汚さず、崖の縁にいる人間の背中だけ押す」
篠宮は悲しそうに眉を下げた。
完璧な表情だった。
責められて傷ついたようでいて、責任は一つも引き受けていない顔。人間社会で長く生きると、この表情だけで小さな宗教くらい作れる。悪夢だ。
「背中を押したつもりはありません」
「背中を押しただけで、落ちた責任はない。便利な理屈だな」
「私は強制していません」
「願いを否定しない顔で、代償だけ伏せる。お前は救っていない。売っている」
篠宮は初めて、少しだけ笑みを深めた。
「でも、皆さん望んでいるんですよ」
榊の手が、資料の端を強く握った。
「被害者が苦しんでいる」
「苦しむ前は、叶って喜んだのではありませんか」
篠宮の声は柔らかかった。
だから余計に、室内の温度が下がる。
「願いを否定する権利が、誰にありますか。落ちた大学に受かりたい。消えた恋人から連絡がほしい。自分を苦しめた相手がいなくなってほしい。お金がほしい。病気の家族に生きてほしい。どれも、切実な願いです」
澪奈が顔を上げた。
「その結果、血を失ったり、記憶を失ったり、眠ったまま起きなくなったりしているんです」
「代償が怖いなら、最初から願わなければいい」
榊が低く言った。
「人の弱みに付け込んだんだろう」
篠宮は首を横に振った。
「弱みではありません。願いです」
その言い換えは、部屋の空気をひどく不快にした。
榊は一瞬、言葉に詰まった。
弱みではありません。願いです。
言葉を変えるだけで、罪の輪郭をぼかす。責任を薄める。傷口に花の名前をつけて、綺麗なもののように飾る。人間の言語能力が、たまに犯罪の共犯者に見える瞬間だった。
クラウディオは冷たく言った。
「相談者の痛みを、怪異の餌場まで運んだだけだ」
「怪異、ですか」
「知らないふりが下手だな」
「本当に知らないこともあります」
「なら知っていることだけ話せ」
篠宮は困ったように笑った。
「私がしているのは、整理です」
澪奈が反応した。
「整理?」
「相談者の方は、自分が本当に何を願っているのか、分からないことが多いんです。恋人を取り戻したいのか、謝らせたいのか、忘れたいのか。合格したいのか、親を喜ばせたいのか、自分の努力を認めてほしいのか。憎い相手に消えてほしいのか、自分がそこから解放されたいのか」
篠宮は机の上の紙片に指を触れた。
「だから、言葉にしてもらうんです」
澪奈は資料を見ながら言った。
「この人は、願いを作っているわけではありません。願いを整えている」
クラウディオが吐き捨てる。
「願いの下処理か。吐き気がするな」
ルストは棚の小瓶へ近づいた。
赤い糸で結ばれた瓶の一つを、触れずに見下ろす。瓶の中には、小さく折りたたまれた紙片が入っていた。文字は見えない。けれど、糸の結び目のあたりから、薄い血の気配が滲んでいる。
濃くはない。
吸血鬼の血術ではない。
《願い屋》の画面に残っていたものと同じ、薄く広がる痕。
「ここで願いを形にしている」
ルストが言った。
榊が問う。
「形?」
「曖昧な欲を、支払える願いにしている」
クラウディオは机の紙片を見た。
「店先の加工場だな」
篠宮は微笑んだままだった。
「ひどい言い方ですね」
「お前の仕事よりは上品だ」
澪奈は部屋の中を調べながら、机の脇に置かれた小さな箱を見つけた。中には、相談者の名前が伏せられたカードが並んでいる。カードの端にはラベルが貼られていた。
恋愛。
復讐。
進路。
家族。
金銭。
記憶。
澪奈はカードを一枚引き出した。
名前の代わりに記号が振られている。相談内容の要約。本人が口にした言葉。最後に、短い一文。
母を喜ばせたい。でも落ちたくない。どうしても合格したい。
澪奈の顔色が変わった。
「高槻莉央さんの相談内容に近いです」
榊がすぐに篠宮を見る。
「個別相談を受けていたのか」
「多くの方が相談に来ます」
「はぐらかすな」
「守秘義務がありますから」
榊の眉間の皺が深くなる。
「守秘義務を持ち出すなら、少なくとも相談を受けたことは認めるんだな」
篠宮は口元だけで笑った。
「刑事さんは言葉尻を拾うのがお上手ですね」
「お前ほどじゃない」
クラウディオが言った。
篠宮は楽しそうに彼を見る。
「あなたは、願わないんですか」
ルストの視線が動いた。
クラウディオの表情は変わらない。
「占い師の勧誘に乗るほど暇に見えるか」
「誰にでも願いはあります。叶わなかったこと。取り戻したいもの。忘れたいもの。もう一度だけ会いたい人」
篠宮の声は穏やかだった。
穏やかすぎた。
クラウディオの目の奥に、ほんの一瞬だけ暗い色が差した。だが、それはすぐに消えた。ルストはその一瞬を見逃さない。見逃さないから、クラウディオが余計に不機嫌になる。
「また同じ匂いがする」
クラウディオが低く言った。
ルストが問う。
「久遠院か」
「まだだ。今は占い師の匂いにしておけ」
篠宮は二人を見比べた。
「久遠院、というのは?」
「知らないなら知らないままでいろ。長生きできる」
「忠告ですか」
「警告だ」
榊が部屋の奥を調べていた。
黒いカーテンの裏には、小さな棚と引き出しのついた古い机があった。配信用の機材とは違う。普段、映像には映らない位置だ。
澪奈が机の引き出しを確認する。
中には、使いかけの紙片、空の封筒、古いインク瓶、相談者ごとに分類されたメモが入っていた。いくつかの紙片には、《願い屋》の画面で見た文字に似た筆跡があった。ただし完全には一致しない。真似たのか、寄せられたのか、それとも同じ何かを参照しているのか。
「直接の証拠には弱いです」
澪奈が悔しそうに言った。
「でも、これはただの占い相談の記録ではありません。相談者の悩みを、願いとして提出しやすい形に分類している」
篠宮は静かに答えた。
「悩みを整理するのは、相談の基本です」
「整理した後、何に渡した」
クラウディオが問う。
篠宮は首を傾げる。
「何に、とは?」
「人ではないかもしれない。店かもしれない。箱かもしれない。器かもしれない」
その言葉の途中で、澪奈の指が止まった。
古い机の奥。
引き出しの底板がわずかに浮いている。
澪奈は榊を見る。榊が頷く。底板をそっと外すと、薄い名刺が一枚出てきた。
紙は黄ばんでいた。
現代の名刺よりも少し小さい。紙質は厚く、ざらついている。角は丸まり、長い間どこかに挟まれていたような跡がある。
澪奈が名刺を取り出した瞬間、篠宮の表情が変わった。
本当に一瞬だけだった。
笑みが消えた。
目の奥に、警戒とも恐れともつかない色が浮かんだ。
次の瞬間には、もう元の柔らかな顔に戻っている。
だが、クラウディオは見逃さなかった。
「それは?」
榊が問う。
澪奈は名刺を読み上げた。
「骨董店……《薄明堂》」
その下に、丁寧な文字で短い文言が書かれていた。
願いの器、買い取ります
室内の香の匂いが、急に古びた紙の匂いへ変わった気がした。
ルストが名刺を見る。
「血の匂いは薄い。だが、同じ線がある」
篠宮は笑った。
「古い知人の店です。ただの骨董品店ですよ」
「ただの骨董品店が、願いの器を買い取るのか」
クラウディオは名刺を受け取り、黄ばんだ紙面へ視線を落とした。
「願いに器が要るらしい」
ルストが静かに言う。
「次は店か」
クラウディオは不快そうに目を細めた。
「願いを売る占い師の次は、願いを買う骨董屋。商売熱心で泣けてくるな」




