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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第7部 【願い屋は血を取る】

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第92話 血で払った少女



 合格通知は、少女の右手の中で皺になっていた。


 病室の白い灯りの下で、紙だけが不自然に鮮やかだった。大学名、学部名、受験番号、氏名。そこに印字された文字は、確かに少女の未来を告げているはずだった。


 補欠合格。


 不合格だったはずの第一志望から届いた、奇跡のような連絡。


 高槻莉央は、ベッドの上でその紙を胸に抱いていた。十八歳。受験を終えたばかりの顔は疲れていて、頬は薄くこけている。それでも、合格通知を見つめる目だけは、まだ強く光っていた。


 片方の手には、通知。


 もう片方の手には、包帯。


 白い包帯は指先を一本ずつ覆っていた。親指、人差し指、中指。特に右手の人差し指の先は、何度巻き直しても赤が滲む。大きな傷などない。裂けた皮膚も、深い切り口もない。ただ、爪の間から、細い赤がじわりと浮いてくる。


 母親は、ベッドの横の椅子に座っていた。


 高槻志穂。


 髪を後ろで雑にまとめ、目元を赤く腫らしている。昨日からほとんど眠っていないのが一目で分かった。膝の上では、替えの包帯と小さなタオルを握りしめている。


 志穂は、莉央の手を見て、それから合格通知を見た。


「よかったね」


 声が震えた。


「頑張ったものね」


 莉央は、合格通知からゆっくり顔を上げた。


 志穂は涙をこらえながら笑った。泣いてはいけないと思っている顔だった。泣けば娘を不安にさせる。そう分かっているのに、目尻から涙がこぼれてしまう。人間の涙腺は、本当に肝心な時ほど役に立たない。


「ずっと見てたよ」


 莉央は、母親を見た。


 まっすぐに見た。


 そして、ひどく申し訳なさそうに眉を寄せた。


「すみません。どなたですか」


 志穂は最初、意味が分からなかった。


 冗談だと思った。疲れすぎて混乱しているのだと思った。病院に運ばれ、検査を受け、指先の血が止まらず、合格の喜びと恐怖が一度に押し寄せたせいで、少しおかしなことを言っているだけだと思おうとした。


 けれど、莉央の目は本気だった。


 怯えも、嫌悪もない。


 ただ、知らない大人に話しかけてしまった時のような、遠慮があった。


「莉央……?」


 志穂の声が小さくなる。


 莉央は首を傾げた。


「私のこと、知っているんですか」


 合格通知を抱く手に、力がこもる。


「この紙、私のですよね。私、受かったんですよね。補欠だけど……第一志望で」


「そうよ」


 志穂は頷いた。涙がこぼれた。


「そうよ、莉央。受かったの。あなたが頑張ったから」


 莉央は少しだけ笑った。


 安心したような笑顔だった。


 けれど、その笑顔は志穂へ向けられたものではなかった。合格という結果に向けられた笑顔だった。そこへたどり着くまでの夜、台所の灯り、温かい飲み物、模試の結果を前に黙って隣に座ってくれた母親の手。それらすべてを、莉央は持っていなかった。


 志穂は唇を震わせた。


「お母さんよ」


 莉央は困ったように瞬きした。


「……ごめんなさい」


 包帯の端に、また赤が滲んだ。


     ◇


 病院の廊下は、消毒液の匂いが強かった。


 榊はその匂いを吸い込みながら、足を止めた。刑事として何度も病院に来ている。被害者、加害者、目撃者、遺族。病院という場所は、事件の終着点にも、始まりにもなる。


 だが今回の病室の前では、いつものように呼吸が整わなかった。


 少女は死んでいない。


 母親も死んでいない。


 合格通知はある。


 願いは叶った。


 それなのに、何かが決定的に奪われている。


 榊の隣で、澪奈が資料を抱え直した。彼女の目元にも疲労がある。前章の騒動から、休む暇などほとんどなかった。警察庁内部では、クラウディオへの視線がまだ完全には変わっていない。疑いは一度貼りつくと、濡れた紙のように剥がしづらい。人間社会の粘着力だけは一級品だ。


 クラウディオは廊下の壁にもたれずに立っていた。


 白い病院の灯りは、彼の顔色を余計に人間離れして見せる。整った顔の上に、不機嫌だけが薄く乗っていた。ルストはその半歩後ろにいる。いつものように、離れない。近すぎるが、守るにはちょうどいい距離だった。


「被害者は高槻莉央、十八歳」


 榊が低く説明した。


「第一志望の大学に一度不合格。数日後に補欠合格の連絡が来た。その前夜、例の《願い屋》に願いを入力している」


 クラウディオが目だけを動かす。


「願いは」


 澪奈が資料を開いた。


「端末の通知履歴に一部残っていました。入力欄のスクリーンショットも、本人が残しています」


 彼女は印刷された画像を差し出した。


 古い帳簿のような白い背景。


 黒い文字。


 《願い屋》


 あなたの願いをお書きください。


 入力欄には、短い一文があった。


「どうしても合格したい」


 クラウディオはそれを見下ろした。


 何も言わなかった。


 榊は続ける。


「送信後に、『ご依頼を承りました』『成就までお待ちください』という通知が出ている。その後、大学から補欠合格の連絡。翌日から出血と記憶障害が始まった」


「記憶障害」


 ルストが静かに言った。


 澪奈が頷く。


「学校のこと、受験勉強、友人、教師、大学名、合格通知の意味。そこは覚えています。けれど」


 澪奈は一度、病室のドアへ視線を向けた。


「母親だけを忘れているんです」


 廊下の音が遠くなった。


 看護師の靴音も、どこかの病室のテレビの音も、すべて一枚布の向こうへ押し込まれたように薄くなった。


 榊は顎に力を入れた。


「母親だけを忘れるなんて、そんな都合のいい障害があるのか」


「医学的には、あり得ないとは言い切れません。ただ」


 澪奈は言葉を選んだ。


「今回の症状は、あまりにも選択的です」


 クラウディオは低く笑った。


「選択したのだろうな。医者ではなく、取り立て屋が」


 榊は顔をしかめた。


「これを叶ったと言うのか」


「願いは叶った。だから悪質なんだ」


 クラウディオは病室のドアを見る。


「叶わない詐欺なら、人間は怒れる。叶ってしまえば、怒る前に自分を責める。なぜ願ったのか、なぜ送ったのか、なぜ代償を読まなかったのか。もっとも、値札など最初から隠されていたが」


「生きているのに、奪われている」


 榊の声は低かった。


「殺人より楽だと思ったか。怪異は」


「楽かどうかは知らん。だが趣味は悪い」


 クラウディオは資料を返した。


「会うぞ」


     ◇


 病室に入った時、志穂は莉央の包帯を替えていた。


 手慣れてはいない。けれど、一つひとつの動作が慎重だった。娘を痛がらせたくない。怖がらせたくない。そう思うあまり、指先が震えている。


 莉央は母親を見ていなかった。


 窓の外へ目を向けている。昼の光は薄く、曇り空の色がガラスに貼りついていた。膝の上には合格通知が置かれている。折り目がつき、端が少し丸まっていた。


 志穂は入ってきた榊たちに気づき、慌てて立ち上がろうとした。


「そのままで」


 榊が手で制した。


「警察の榊です。昨日、お話を伺った者です」


 志穂は小さく頷いた。


「お願いします。娘を……莉央を、助けてください」


 その言葉に、莉央が顔を向けた。


「私、何か事件に巻き込まれたんですか」


 志穂の表情が一瞬、壊れかけた。


 それでも笑った。


「大丈夫。少し調べてもらうだけ」


 莉央は頷いた。


 母親を母親としては見ていない。だが、その声を聞くと、わずかに肩の力が抜けた。身体の奥に残ったものが、記憶より先に反応しているようだった。心は忘れても、何かが覚えている。怪異の徴収にも、取りこぼしはあるらしい。ざまあみろ、と言うには、あまりにも痛々しい取りこぼしだった。


 澪奈が検査資料を確認しながら、静かに説明を始めた。


「血液量は減っています。でも、出血量の説明がつきません」


 志穂が唇を噛む。


「こんなに少ししか出ていないように見えるのに、ですか」


「はい。外から見える出血だけなら、ここまで数値に反映されるとは考えづらいです。凝固異常ではありません。大きな外傷もありません。止血剤も、完全には効いていない」


 澪奈は莉央の指先へ視線を落とす。


「脳の画像上、母親だけを失うような損傷は確認できません。記憶障害としては、あまりにも選択的です。医学的には説明がつきません。でも、記録は残っています」


 クラウディオは、莉央の包帯を見ていた。


「願いを書いたのは右手か」


 莉央は少し迷ってから頷いた。


「たぶん、そうです。スマホで……夜に。落ちたと思って、もうだめだって思って」


 声が小さくなる。


「でも、本当に本気だったんです。遊びじゃなかった。友達が送ってくれたんです。願いが叶うって。そんなのあるわけないって思ったけど……でも」


「書いた」


 クラウディオが言う。


 莉央は合格通知を握りしめた。


「はい」


 志穂が小さく息を吸う。


「莉央は、ずっと頑張っていたんです。朝も夜も、ずっと。模試の結果が悪くても、泣いても、机に向かって」


 言いながら、志穂の声が乱れた。


「不合格だった時も、この子、私に謝ったんです。ごめんねって。お金かけてもらったのにって。そんなこと、言わなくていいのに」


 莉央は戸惑ったように志穂を見た。


「私が、あなたに?」


 志穂は一瞬、笑おうとして失敗した。


「うん」


「……すみません。覚えていなくて」


「いいの」


 志穂はすぐに言った。


「いいのよ」


 莉央の指先から、赤が滲んだ。


 志穂は慌てて新しいガーゼを取る。けれど、莉央が少し身を引いた。知らない大人に触られる不安が、反射的に身体を動かしたのだ。


 志穂の手が止まる。


 その手は、娘の手に届く寸前で宙に浮いていた。


 志穂は、ゆっくりと手を引いた。


「ごめんね。怖かったね」


 莉央は首を横に振った。


「違います。嫌とかじゃなくて……ただ、分からなくて」


「うん」


 志穂は泣きながら笑った。


「覚えていなくてもいい、生きていてくれれば」


 病室が、静かになった。


 クラウディオは何も言わなかった。


 いつもなら、皮肉の一つくらい返す場面だった。人間の美談は安っぽい、愛情はしばしば呪いに似る、そんな言葉をいくらでも吐けたはずだった。


 けれど、その一拍だけ、彼は黙った。


 視線が、莉央の血の滲む指先から、志穂の震える手へ移る。


 遠い記憶の影が、目の奥をかすめた。


 温かいものを差し出す手。


 夜に灯る店の明かり。


 帰る場所の匂い。


 名前を呼ぶ声。


 クラウディオはすぐに目を細め、表情を戻した。何も語らない。語るつもりもない。過去は親切な回想装置ではなく、喉に刺さった骨のようなものだ。人前で取り出して見せる趣味はない。


 だが、ルストは気づいた。


 彼はクラウディオを見ていた。


 問わない。ただ、見ていた。


 クラウディオはそれにも気づき、不機嫌そうに目だけを動かした。


「観察するな」


 ルストは低く返す。


「黙ったな」


「気づいただけだ、とでも言うつもりか」


「気づいただけだ」


「もっと悪い」


 榊は、そのやり取りを聞かなかったことにした。大人の判断だった。人間にしては賢明である。


     ◇


 ルストは、莉央の右手に近づいた。


 志穂が不安そうに身を固くする。ルストは威圧するつもりのない動きで、少し距離を取ったまま膝を折った。


「触れない」


 そう言ってから、包帯の上に手をかざす。


 莉央は、恐る恐るその手を見た。


 ルストの指先は、彼女に触れていない。けれど、空気が少し冷えた。病室の機械音が遠のく。包帯に滲んだ赤が、灯りの下で少し暗く見えた。


 ルストの目が細くなる。


 榊が問う。


「何か分かるか」


 ルストはすぐには答えなかった。


 血の匂いはある。


 だが、吸われた血ではない。


 吸血鬼が血を奪う時の濃い痕ではない。牙の跡も、吸い上げられた熱もない。これはもっと薄く、細い。少女の指先から、見えない帳簿へ向けて、赤い線が伸びているような感覚だった。


 出ているのではない。


 送られている。


 奪われているというより、支払わされている。


「奪われた血じゃない」


 ルストが言った。


 榊が眉を寄せる。


「どういう意味だ」


 ルストは、莉央の指先から目を離さずに答えた。


「支払われている」


 志穂の顔が青ざめる。


「支払うって……何を」


「願いの代金だ」


 クラウディオが言った。


 その声は冷たかった。


 莉央が肩を震わせる。志穂が娘の前に立とうとした。怖がらせたくないのに、守らずにはいられない。親という生き物は、理性より先に身体が動く。厄介だが、時々まぶしい。


 クラウディオは志穂を見ず、莉央を見ていた。


「願いの価値に見合うものを取られたわけだ。努力の記憶を支えた人間ごと、合格と引き換えた」


 ルストがわずかに顔を向ける。


「言い方がある」


 クラウディオは表情を変えない。


「優しい言い方で代償が戻るなら、いくらでも言ってやる」


「子どもだ」


「だから正確に言っている。曖昧な慰めで、次の願いを押さえられると思うな」


 その言葉で、榊が目を上げた。


「次の願い?」


 クラウディオは、莉央の膝に置かれた端末へ視線を落とした。


「願い屋は、欲しいものを渡す。代わりに、欲しかった理由を剥がす。合格だけを残して、そこへ辿り着くまでの支えを抜いた。なら次に何を願わせる」


 病室の中で、誰もすぐには答えなかった。


 莉央は、志穂を見た。


 知らない女性。


 けれど、自分を見て泣いている女性。


 自分の指先の包帯を替えようとして、怖がらせないように手を止めた女性。


 名前を知っている。


 関係も、説明されれば理解できる。


 母親。


 そう言われれば、そうなのだろうと思う。


 けれど、胸の奥にあるはずのものだけがない。夜食の匂いも、車の助手席で見た街灯も、模試の結果を隠して泣いた夜も、母親が「今日は寝よう」と言った声も、どこにもない。


 莉央の唇が震えた。


「私……ひどいですよね」


 志穂は首を横に振った。


「ひどくない」


「だって、覚えてないんです。あなたが泣いてるのに、どうして泣いてるか、分からない」


「いいの」


「よくないです」


 莉央の声がかすれた。


「私、合格したかったんです。どうしても。お母さんを喜ばせたかった……んだと思います。そう聞きました。でも、そのお母さんが分からないなら、私、何のために」


 包帯に赤が広がる。


 澪奈が動こうとしたが、クラウディオが目で止めた。


 血の量は多くない。けれど、それが合図のようだった。願いの周辺。願いの背景。誰が支えたか。何を失えば願いが軽くなるか。そこを測る怪異。


「願いだけを読んでいるわけじゃない」


 クラウディオは言った。


「願いの周辺を見ている。誰が支えたか、何を失えば願いが一番安くなるか、それを測っている」


 榊が低く呟く。


「安くなる?」


「合格という結果から、母親の記憶を抜けばどうなる。本人にとって、その合格は軽くなる。努力の意味も、報われた理由も、喜ばせたかった相手も消える。残るのは結果だけだ」


 クラウディオの声は淡々としていた。


「結果だけ欲しがれば、過程を取られる。残酷だが、勘定は合っている」


 志穂が唇を噛んだ。


 怒りたかったのかもしれない。そんな言い方をしないでほしいと叫びたかったのかもしれない。けれど、目の前の男が、娘を責めているわけではないことだけは伝わった。


 冷たい言葉の芯に、怪異への嫌悪がある。


 榊にも、それは分かった。


 だからこそ、余計に苦しかった。


「願い屋は、叶える前に値札を隠す。叶えた後で、人間の一番痛いところを選ぶ」


 クラウディオは、端末へ視線を移した。


「悪い商売だ」


 澪奈が端末を確認する。


「アプリ本体は、今は開けません。アイコンも消えています。ただ、通知履歴だけが残っています」


 画面に残っている文面を、澪奈が読み上げた。


「ご依頼を承りました」


 莉央の指が震える。


「成就を確認しました」


 志穂が息を呑む。


「お支払いは、願いが叶ったあとで」


 病室の空気が、冷えた。


 莉央は自分の端末を見つめていた。


「これを押したら、戻せるんですか」


 榊がすぐに言った。


「触らない方がいい」


「でも」


 莉央は志穂を見る。


 知らないはずの人。


 なのに、その人が泣くと、胸が痛む。


 理由がない痛みは、記憶の残骸に似ていた。怪異が丁寧に切り取ったはずの場所に、まだ小さな棘が残っている。


「思い出せるなら」


 志穂が強く首を振った。


「だめ」


「でも、お母さんなんですよね」


 その言葉で、志穂の顔が歪んだ。


 お母さん。


 呼ばれた。


 けれどそれは、思い出した声ではなかった。説明された関係をなぞる声だった。それでも、志穂は泣きそうになった。泣きたくなかった。娘を困らせたくなかった。けれど、心はそんなに器用ではない。


「だめよ、莉央。もう何も願わなくていい」


「でも、私のせいで」


「あなたのせいじゃない」


 志穂は言い切った。


「願ったのは私です」


「追い詰められていたのよ」


「でも押したのは私です」


 莉央は合格通知を握った。


「私、覚えてないのに、合格だけ持ってる。変です。気持ち悪いです。こんなの、ずるい」


 クラウディオの目が少しだけ動いた。


 その言葉は、少女自身を切っていた。


 愚かだったからではない。


 悪人だったからではない。


 努力が報われてほしかった。母親を喜ばせたかった。落ちたという現実に耐えられなかった。それだけだった。その弱さを、怪異は丁寧に拾った。願いという名札をつけ、後払いにした。


 人間の弱さは、罪ではない。


 だが、契約書を読まない弱さは、時に怪異の餌になる。


 クラウディオは静かに息を吐いた。


「責めるなら、願った自分ではなく、願わせたものを責めろ」


 莉央が彼を見る。


「願わせたもの……」


「お前は追い詰められていた。そこへ、都合よく扉が開いた。扉の向こうにいたものは、お前の努力にも、母親の愛情にも、合格にも興味がない。ただ、どこを剥がせば一番高く売れるかを見ていた」


「売る……?」


「比喩だ。今はな」


 ルストが、クラウディオの横顔を見た。


 その「今はな」に、まだ確定していないものへの警戒があった。血はどこかへ支払われている。記憶はどこかへ抜かれている。それが消費されているのか、保存されているのか、観察されているのか。まだ分からない。


 榊が低く言った。


「この件も報告書を上げる。警察庁側にも共有される」


 クラウディオは顔をしかめた。


「また観察する気か」


「久遠院のことか」


 ルストが問う。


 クラウディオは端末を見たまま答えた。


「願いを叶えて、代償を見て、反応を観察する。趣味の悪い男が好きそうな構造だ」


「久遠院か」


「まだ名前を貼るな。アプリに署名はない」


 榊は黙って頷いた。


 疑いと断定は違う。


 その違いを、彼は前章で嫌というほど見た。完璧すぎる証拠が、どれほど綺麗な檻になるかを知った。だから今、久遠院の名をすぐに貼ることはできない。


 できないからこそ、気持ち悪かった。


 通知文の整いすぎた丁寧さ。


 願いと代償の対応の仕方。


 人間の反応を測っているような構造。


 それらすべてが、どこかで見た悪意に似ていた。


     ◇


 日が傾くころ、病室の窓際に薄い影が伸びた。


 澪奈は追加の検査記録を確認し、榊は志穂から改めて話を聞いた。ルストは莉央の血の気配をもう一度読み、クラウディオは端末の通知履歴を見ていた。


 《願い屋》の画面はもう開かない。


 アイコンもない。


 けれど、履歴だけが残っている。


 ご依頼を承りました。


 成就を確認しました。


 お支払いは、願いが叶ったあとで。


 文字はただ丁寧だった。


 丁寧すぎる文は、時に脅迫より冷たい。


 志穂は莉央のそばに戻った。けれど、椅子を少し離して座った。娘が怖がらない距離。手を伸ばせば届くのに、勝手には触れない距離。


 その距離が、母親の傷そのものだった。


 莉央は、それを見ていた。


「どうして、そこに座るんですか」


 志穂は驚いたように瞬きした。


「近いと、怖いかと思って」


「怖くは、ないです」


「でも、分からないでしょう」


 莉央は黙った。


 分からない。


 その事実が、一番痛かった。


 目の前の女性が自分を大切にしていることは分かる。声を聞くと、少し落ち着くことも分かる。泣かれると胸が痛むことも分かる。


 けれど、どうしてなのかが思い出せない。


 理由だけがない。


 根だけを抜かれた花のように、感情の形だけが手元に残っている。


 志穂は、そっと手を伸ばしかけた。


 莉央の包帯が赤くなっていることに気づいたのだ。


 けれど、途中で止めた。


 触れていいのか分からなかった。


 娘なのに。


 自分の娘なのに。


 莉央はその手を見た。


 爪の間から、また血が滲む。痛みは強くない。ただ寒い。指先から体温が少しずつ抜けていくような寒気がある。


 その時、端末が鳴った。


 鈴のような音。


 硬貨が古い皿に落ちるような音。


 病室にいた全員が、動きを止めた。


 莉央の膝の上で、消えていたはずの画面が灯る。


 白い背景。


 黒い文字。


 《願い屋》


 志穂の息が止まる。


 榊が一歩踏み出す。


 澪奈が端末を見つめる。


 ルストの手が、わずかにクラウディオの前へ出る。


 画面には、短い通知が表示されていた。


 追加の願いも承ります


 莉央の喉が鳴った。


 母親を思い出したい。


 その願いが、言葉になる寸前まで上がってきた。


 知らないはずの人が泣いている。


 自分のせいで泣いている。


 この人を思い出せば、きっと何かが戻る。


 そう思った瞬間、莉央の指が端末へ伸びかけた。


 クラウディオの声が、低く落ちた。


「見るな」



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