第90話 檻の鍵
警察庁の白い廊下は、夜になっても白かった。
外の空がどれほど暗くなろうと、庁舎の中に夜は降りない。均一な照明が壁を照らし、床に硬い光を落とし、監視カメラの黒い半球が人の動きを黙って追っている。カードゲートの向こうでは、職員用の識別証が小さく揺れ、重い扉の奥には押収品保管室がある。証拠の眠る場所。真実へ近づくために集められたはずのものが、今回は誰かを燃やす薪として使われた場所。
資料確認室の空気も、廊下と同じように白く冷えていた。
長机には端末が並び、解析結果、監視映像の静止画、血液分析、押収品リスト、持ち出し記録、民間研究施設との照合結果が開かれている。紙の資料は番号順に重ねられ、端末の画面には赤い注釈と青い照合線がいくつも走っていた。
そこにいる者たちの顔だけが、白さに馴染まなかった。
榊は立ったまま、腕を組んでいる。険しい顔だった。怒りを表に出しすぎれば判断が鈍ると分かっているからこそ、口を固く閉じている。澪奈は椅子に座っていたが、背筋は伸びたままだ。目元には疲れが出ている。それでも、端末を操作する手は止まらない。
ルストは壁際に立っていた。
クラウディオのすぐ近くだった。近すぎるわけではない。だが、誰かがクラウディオに不用意に近づけば、彼が一歩で間に入れる距離だった。説明のいらない位置取り。人間の書類に書き込めない関係というものは、だいたいこういう無言の面倒さで現場を圧迫する。
クラウディオは椅子に座っていなかった。
机の端に片手を置き、資料を見下ろしている。首筋には、資料室でルストが残した新しい噛み跡がまだある。薄くなってきてはいるが、消してはいない。隠してもいない。手首には、旧欧州で火刑の夢から引き戻された時の噛み跡も、ほとんど消えかけながら残っていた。
手首と首筋。
過去から戻された痕と、今ここで引き留められた痕。
どちらも、クラウディオは隠さない。
澪奈が端末を切り替えた。
「最終整理をします」
声は淡々としていた。だが、そこには硬い疲労が混じっていた。
「現場血痕。血液型、DNA、成分はクラウディオさんと一致しています。これは否定できません」
クラウディオは薄く笑った。
「俺の血はずいぶん忠実だな。主人の許可なく現場へ出勤するとは」
澪奈は眉一つ動かさない。
「ですが、乾燥速度と酸化状態が死亡推定時刻と合いませんでした。さらに微量の保存処理由来成分が検出されています。事件当日に現場で流れた血ではなく、過去に採取、保管された血液が使われた可能性が高いです」
榊が続ける。
「その保存血液は、警察庁内部、もしくは関連保管庫から持ち出された可能性がある。持ち出し記録には不自然な欠落があった。完全には消えていないが、消そうとした跡がある」
澪奈が次の画面を開く。
「監視映像。映像そのものに改ざん痕はありません。データの連続性も保たれています。顔認証、歩行分析、身長、服装はクラウディオさんと一致に近い。ですが、ルストさんが指摘した通り、歩き方、重心、袖口の扱い、扉へ触れる時の指の角度に、クラウディオさん本人の癖がありませんでした」
ルストが静かに言う。
「クラウディオではない」
クラウディオは横目で睨んだ。
「何度も断言するな。俺の歩き方の評論家か、貴様は」
「本人よりは正確に見ている」
「不愉快だな」
澪奈は咳払いもせず、続けた。大人である。あるいは仕事に疲れ切っている。人間、限界を超えると余計なものに反応しなくなるらしい。悲しい処世術である。
「映像の人物が身につけていた手袋の繊維は、警察庁の押収品保管室にあった過去の証拠品と一致しました。映像は本物ですが、映っている人物が本人とは限らない。少なくとも、この映像だけでクラウディオさんが現場にいたと断定するのは危険です」
榊が机上の押収品リストを指で叩く。
「人形破片も同じだ。素材は《箱庭》のものに酷似している。過去の押収品、照合資料、クラウディオが捜査協力で提出した素材記録から模倣された可能性がある」
クラウディオの目が冷える。
「模倣と言うな。あれは出来損ないだ」
「分かっている」
榊は否定しなかった。
「お前の人形技法としては不自然だ。澪奈の分析でも、素材以外の部分にズレがある。さらに、人形破片の接着剤だけが警察押収品ではなく、民間研究施設で扱われていた特殊樹脂に近い」
澪奈が資料を表示する。
「その施設は、灰苑生体現象研究機構。久遠院怜司が過去に出入りしていた民間研究施設の記録にも残っていました」
ルストの視線がわずかに鋭くなる。
「灰苑」
クラウディオは鼻で笑った。
「名前からして辛気臭い。灰だの苑だの、人間は不吉なものに綺麗な看板をつけるのが好きだな」
澪奈は画面を戻した。
「押収品保管室。保存血液、繊維、手袋、人形片などが、警察庁内部の保管品と繋がりました。持ち出し記録の一部は消されていますが、完全には消えていません。アクセス権限者は絞れます。その中には、死亡した元鑑識官の名前もありました」
榊の声がさらに低くなる。
「その元鑑識官が主犯か、利用されたのか、途中まで協力していたのかはまだ分からない。押収品保管室の監視記録には、久遠院と関わりのあった別人物の影も映っている。ここも未確定だ」
澪奈が静かに息を吸った。
「ですが、少なくとも一つ言えます。澪奈の解析、榊の内部調査、ルストの血術痕の読み、クラウディオの人形技法への違和感が重なり、クラウディオを犯人にする完璧な証拠は崩される」
その言葉が、部屋の中に落ちた。
完璧だった証拠。
白い紙でできた檻。
血、映像、繊維、人形、通信記録、押収品。
どれも一つずつ見れば、クラウディオへ向いていた。
だが、それらはあまりにも整いすぎていた。整いすぎたものを疑い直した結果、見えてきたのはクラウディオの犯行ではなく、クラウディオを犯人にするための作為だった。
科学は嘘をついていない。
だが、科学に何を見せるかを選んだ者がいる。
そこが今回の檻だった。
会議室の扉が開いた。
上層部の担当者が入ってくる。年齢は五十代ほど。声は冷静で、表情には不満が滲んでいた。彼の後ろには別の職員が二人立っている。いずれも、クラウディオを見る目に警戒を隠していなかった。
「状況は確認しました」
担当者は言った。
「疑義が残っただけで、容疑が消えたわけではありません」
榊の眉が動く。
「疑義が残っただけ、ではないでしょう。主要証拠の前提が複数崩れている」
「血液は本人のものです。映像の人物も酷似している。クラウディオ・ルジェリウス氏が危険個体であることも変わりません。逃走、証拠隠滅の可能性を完全に否定する材料はない」
ルストの目が冷える。
クラウディオは笑った。
「危険個体とは便利な名札だな。貼っておけば、檻に入れる理由になる」
担当者は反応しない。
「ですが、この状態で身柄確保へ進めるのは難しい」
榊がわずかに息を吐いた。
澪奈は画面から目を離さないまま、肩の力をほんの少しだけ抜いた。
担当者は続ける。
「完全に晴れたわけではないが、少なくとも警察庁内での拘束は不可能になる」
その言葉は、解放の宣告というより、渋々認める撤退だった。
「再捜査を認めます。ただし、監視は継続します」
クラウディオは、ゆっくりと顔を上げた。
「檻を開ける時まで恩着せがましい」
「安全確保のためです」
「便利な言葉だ。責任、管理、安全確保。人間は首輪に名札をつけるのが本当に上手い」
担当者の顔がわずかに固くなる。
榊が割って入った。
「それで十分だ。今は」
クラウディオの視線が榊に向く。
「危うく燃やしかけた側が偉そうに言うな」
榊は逃げなかった。
「だから止める」
短い返答だった。
クラウディオは何も言わなかった。
素直に感謝などしない。するはずがない。そんな甘い生き物なら、ここまで面倒な王にも人形師にもなっていない。だが、完全に切り捨てることもできなかった。
榊は止めた。
澪奈は見直した。
ルストは庇った。
それでも、クラウディオは一度、現代の火刑台に乗せられかけた。
人間社会は、証拠という名の薪を積み上げれば、今でも誰かを燃やせる。
その事実は、消えない。
警察庁の白い廊下へ出ると、空気が少し冷たく感じられた。
クラウディオは、カードゲートの向こうへ続く通路を歩く。行きとは違い、警備員の配置はわずかに緩んでいる。だが視線は残っていた。監視カメラは同じように彼を追い、白い床は同じように照明を反射している。
檻の扉が開いた。
ただし、檻が消えたわけではない。
榊が背後から言った。
「ここからは、こっちの中を洗う」
クラウディオは歩みを止めずに返す。
「ようやく自分の巣の埃に気づいたか」
「証拠を守る場所を使われたなら、そこから壊すしかない」
「壊すのが遅い」
「分かってる」
榊の声には、疲労と怒りが混じっていた。
「お前への疑いは完全に消えていない。だが、今の証拠で拘束はさせない」
クラウディオは肩越しに見る。
「許可を出した覚えはない」
「許可は求めてない」
「人間にしては殊勝だな」
「褒めるな。腹が立つ」
澪奈も歩きながら端末を抱えている。顔色は悪いが、目は伏せていない。
「もう一度、最初から見直します」
彼女は言った。
「証拠は、結論に従わせるものではありません。科学を檻に使わせたままにはしません」
クラウディオは横目で見た。
「科学の巫女にしては威勢がいい」
「科捜研です」
「毎回律儀に訂正するな」
「必要なので」
「人間はそういうところだけ几帳面だ」
澪奈は少しだけ眉を寄せたが、反論しなかった。
玄関ホールへ近づくにつれて、人の気配が増える。夜の庁舎でも、完全に人が消えることはない。職員の足音、端末の通知音、遠くの電話、警備員の短い会話。清潔で整った音ばかりだった。
クラウディオは、その白い空間を見渡した。
旧欧州の火刑台には、煙があった。
群衆の声があった。
石と泥と汗と恐怖の匂いがあった。
ここには煙はない。
群衆もいない。
代わりに、監視カメラと鑑定表と照合結果と会議室がある。
火の匂いがしない火刑台。
それが、現代の姿だった。
警察庁を出る直前、クラウディオは足を止めた。
ルストも止まる。
榊と澪奈は少し後ろで立ち止まった。二人が何かを話す空気ではないと察したのだろう。そういう判断だけは早い。ありがたいというより、これ以上余計な地雷を踏む余力が人類側に残っていなかっただけかもしれない。
クラウディオはルストを見上げた。
白い照明が、ルストの灰銀の髪を冷たく照らしている。
「貴様は結局、何も言わなかったな」
ルストは黙る。
クラウディオの首筋には、まだ新しい噛み跡が残っている。
ルストの視線が、そこへ一度落ちた。
すぐに戻る。
けれど、クラウディオは見逃さなかった。吸血鬼の目以前に、彼はルストがどこから逃げるかを知っている。言葉から逃げる男の視線は、いつも噛み跡へ落ちる。
やがて、ルストは低く言った。
「何もない相手に、あんな噛み方はしない」
伴侶とは言わなかった。
愛しているとも言わなかった。
それでも、何もない、という言葉だけは否定した。
第84話の言葉への返答だった。
何も言わないなら何もないのと同じだろう。
そこへ、ようやく返された一文だった。
クラウディオは鼻で笑う。
「言葉を節約するな。貴様の牙は辞書ではない」
ルストの眉がわずかに動く。
「覚えておく」
「毎回それだな」
「噛むよりはましだろう」
「比較対象が低すぎる」
会話はそこで止まった。
解決などしていない。
伴侶という名はまだない。
愛という言葉もまだない。
責任では足りず、噛み跡でも足りず、言葉はまだ欠けている。
それでも、完全な沈黙ではなくなった。
クラウディオは襟を直さなかった。
それでも、クラウディオは噛み跡を隠さない。手首の跡も、首筋の跡も、どちらも彼を現実へ引き戻した証として残っている。
手首の跡は、旧欧州で火刑の夢から戻された痕。
首筋の跡は、警察庁の資料室で、言葉の代わりにつけられた痕。
どちらも不十分だ。
どちらも乱暴だ。
どちらも腹立たしい。
だが、なかったことにはしない。
クラウディオが警察庁の出口へ向かおうとした時、澪奈の端末が鳴った。
彼女は足を止め、画面を確認する。
榊が振り返った。
「どうした」
「灰苑生体現象研究機構について、追加の照会結果が来ました」
空気がまた冷える。
クラウディオも振り返った。
澪奈は端末の画面を読み上げる。
「灰苑生体現象研究機構。民間の研究施設です。表向きは生体現象解析、法医学補助、特殊犯罪における鑑定協力を行っています。内部資料上では、血液、怪異、吸血鬼の再現性、そして『科学的に証明できる怪異犯罪』の研究が行われていた記録があります」
クラウディオの目が細くなる。
「科学的に証明できる怪異犯罪」
口の中で転がすような声だった。
「また、人間が自分で地獄に名前をつけたのか」
ルストが低く言う。
「久遠院の影がある」
澪奈は頷いた。
「灰苑生体現象研究機構。その名は、久遠院怜司が過去に出入りしていた民間研究施設の記録にも残っていた。ただし、これで久遠院本人が今回の事件の真犯人だと確定するわけではありません」
榊が言う。
「だが、次に見る場所は決まったな」
クラウディオは警察庁の白い出口を見た。
檻はひとまず開いた。
だが、そこから出た先に、さらに深い檻の名が待っている。
灰苑生体現象研究機構。
血液。
怪異。
吸血鬼の再現性。
科学的に証明できる怪異犯罪。
科学と怪異が、また別の場所で結びついている。
久遠院怜司の影は、まだ消えない。
クラウディオは低く笑った。
「灰苑。灰の庭か。趣味の悪い箱庭だ」
ルストが言う。
「行くぞ」
クラウディオは横目で睨む。
「命じるな」
「なら、行く」
「言い換えればいいと思うな」
そう言いながら、クラウディオは歩き出した。
警察庁の檻は、ひとまず開いた。
だが、その鍵の形は、灰苑生体現象研究機構という名の、さらに深い檻へ続いていた。




