第89話 科学証拠の魔女狩り
押収品保管室に隣接した資料確認室は、保管室よりさらに静かだった。
壁際には鍵のかかった資料棚が並び、中央の長机には端末と紙資料が広げられている。白い照明は人の顔色を悪く見せ、低い空調音は途切れず、廊下の外に立つ警備員の気配が薄く伝わってくる。ここでも、すべては番号と記録に変えられていた。血液も、繊維も、人形片も、監視映像も、持ち出し記録も、死者の名も。
クラウディオは椅子に座らず、机の端に片手を置いていた。
首筋の噛み跡は、まだ隠していない。
新しい痕は白い照明の下で薄く赤みを帯び、古い噛み跡の近くに重なっている。ルストはそれに気づいている。榊も澪奈も気づいている。だが誰も触れなかった。事件だけで手一杯なのに、吸血鬼二人の名前のない関係まで調書に載せる余白はない。人類の帳簿にも、たまには限界がある。
澪奈が端末の画面を切り替えた。
「ここまでの再検証結果を整理します」
声は落ち着いていたが、硬かった。
榊は腕を組んで立っている。眉間には深い皺が刻まれ、怒りを飲み込んだまま次の言葉を待っていた。ルストはクラウディオの斜め後ろに立つ。庇うには近く、触れるには遠い距離だった。前話までの棘は、消えていない。伴侶と言いかけて飲み込んだ言葉も、責任という代替も、首筋に残った答えにならない噛み跡も、すべて部屋の空気に沈んでいる。
だが、今は事件だった。
澪奈が一つ目の資料を開く。
「現場の血痕は、クラウディオさん本人の血液と見ていい結果でした。血液型、DNA、成分は一致しています」
クラウディオが薄く笑う。
「俺の血はよく働くな。主人の意志など無視して、殺人現場でまで俺を名指しする」
澪奈は表情を崩さない。
「ですが、乾燥速度と酸化状態が死亡推定時刻と合いませんでした。さらに、微量ですが保存処理に由来する可能性のある成分が見つかっています」
榊が低く続ける。
「つまり、現場でその時に流れた血ではなく、過去に採取された血液を使った可能性がある」
「断定ではありません。ただし、その可能性が高くなっています」
次の画面。
監視映像。
「映像そのものに改ざん痕はありません。顔認証、歩行分析、身長、服装はクラウディオさんと一致に近い。ただ、ルストさんの指摘した歩き方の違和感と、細部動作の解析を踏まえると、本人に似た者を撮影した可能性があります」
ルストが短く言う。
「クラウディオではない」
クラウディオは横目で見る。
「まだ言うか」
「事実だ」
「貴様の事実は、時々たいへん腹が立つ」
「お前の皮肉よりましだ」
「聞き捨てならんな」
榊が咳払いした。
「続けろ」
澪奈は次の資料へ移る。
「映像の人物が身につけていた手袋の繊維は、警察庁の押収品保管室にあった過去の証拠品と一致しました。血液と同じく、内部保管品が使われた可能性があります」
資料室の空気が重くなる。
澪奈はさらに画面を切り替えた。
「現場の人形破片や工房素材についても、過去の押収品、照合資料、未解決事件の検体データから模倣された可能性があります。死亡した元鑑識官は、事件直前に《箱庭》関連符号を含む未公開の検体照合データへアクセスしていました。そして、彼は過去の人形絡み未解決事件にも関わっていた人物です」
榊が低く言う。
「押収品保管室の持ち出し記録は一部消されていた。ただし完全には消えていない。アクセス権限の範囲は絞れる。その中には死亡した元鑑識官の名前もある」
クラウディオが机上の資料を見下ろした。
血液。
映像。
手袋。
人形片。
工房素材。
通信記録。
そのすべてが、自分へ向かって並べられている。
だが、それらのいくつかは、すでにひび割れ始めていた。
証拠が嘘をついたわけではない。
血は本物だった。
映像も本物だった。
繊維も本物だった。
ただし、それらが置かれた場所と、見せられた前提が歪んでいる。
澪奈は、画面の一覧を見つめたまま言った。
「犯人は、警察内部の証拠保管システムと鑑識データを利用し、クラウディオを犯人に仕立てた」
その言葉が部屋に落ちた瞬間、榊の表情がさらに険しくなった。
言葉にすれば簡単だった。
だが、その意味は重い。
警察が守るはずの証拠。
真実へ近づくためのデータ。
無実を証明するためにも使われるべき保管品。
それらが、クラウディオという一人の吸血鬼を犯人として組み立てる材料にされていた。
「警察の中に、証拠の扱いを知っている奴がいる」
榊が言った。
「それも、ただ盗んだんじゃない。どの証拠をどう見せれば、俺たちがどう動くかまで分かっている。現場の鑑識、上層部の判断、危険個体という扱い、任意同行から身柄確保へ進む流れまでだ」
澪奈は頷く。
「証拠は強すぎました。だから、上は動いた。完璧な証拠に見えれば、慎重になるより先に確保を考える。そこまで計算されていた可能性があります」
ルストが静かに言う。
「クラウディオをここへ入れるためか」
榊の目が動く。
ルストは続ける。
「殺すだけなら、元鑑識官を殺して終わりでいい。だが、証拠はクラウディオを警察庁へ運ぶように並べられていた。本人の血、人形、映像、手袋。全部がこいつをここへ引きずるために置かれている」
クラウディオは低く笑った。
「俺を招待するなら、もう少し上品な招待状を用意しろ」
「招待ではない」
「檻か。分かっている」
榊が資料を掴む手に力を入れた。
「目的は殺人そのものだけではない。クラウディオを警察庁という公的な檻へ入れ、吸血鬼社会と人間社会の緊張を高めることだった」
澪奈が、榊の言葉を引き継ぐ。
「もしクラウディオさんが拘束されれば、吸血鬼側は人間社会への不信を強める。もし彼が抵抗すれば、警察側は『危険な吸血鬼』として制圧できる。どちらに転んでも、誰かにとって都合が良い」
資料室が静まり返った。
それは、単なる冤罪ではなかった。
殺人事件でもある。
警察組織への侵入でもある。
科学証拠の悪用でもある。
だが、それだけではない。
吸血鬼と人間の間に火種を撒く事件だった。
クラウディオは吸血鬼社会において、ただの一個人ではない。王権に近い血を持つ者。人間社会に溶け込む人形師でありながら、過去に王として君臨した存在。そんな男が、人間警察によって科学証拠を根拠に拘束される。
吸血鬼側が黙っているとは限らない。
逆に、クラウディオが抵抗すれば、人間側は「危険な吸血鬼」の実例として扱える。
ルストが動けば、さらに厄介になる。
最古の王に近い男が警察庁内で圧を放った時点で、人間側の警戒は跳ね上がる。彼が一歩でも力で踏み込めば、それは「吸血鬼による公的機関への威圧」として記録されるだろう。どちらに転んでも、燃える材料になる。
クラウディオはそれを理解していた。
だからこそ、声が冷えた。
「魔女の次は吸血鬼か。人間は、燃やす相手を変えただけで進歩した気になる」
榊はすぐに返せなかった。
澪奈も、端末から目を離せない。
その言葉は、旧欧州のロウェナ・ミルの記録と重なっていた。
ロウェナを魔女に仕立てた。
噂、証言、教会記録、恐怖、保身が積み上がった。
町を守るという名目で、一人の女性が燃やされた。
彼女が本当に魔女かどうかは、途中から重要ではなくなった。人々が「魔女だ」と信じる構造が完成した時点で、火刑台は動き出した。
現代では、クラウディオを犯人に仕立てた。
血液、映像、繊維、人形破片、通信記録、保管資料が積み上がった。
社会の安全という名目で、吸血鬼が拘束されかけた。
彼が本当に犯人かどうかより、「科学的に犯人に見える」構造が先に完成していた。
ロウェナの魔女狩りと同じだった。違うのは、火刑台ではなく科学証拠を使っていること。
科学証拠の魔女狩り。
クラウディオの唇が冷たく歪む。
「火刑台が会議室になっただけだ。薪が血液と繊維と映像に変わった。正義の顔をした集団ほど、よく燃やす」
ルストはそれを否定しない。
クラウディオの怒りには、事実が含まれている。
ロウェナは魔女として燃やされた。
クラウディオは科学証拠によって犯人にされかけた。
人間社会が誰か一人へ恐怖や罪を押しつけ、安心しようとする構造は確かにある。
だが、ルストは黙ったまま終わらせなかった。
「否定はしない」
クラウディオの目が動く。
ルストは静かに続けた。
「だが、全員ではない」
クラウディオの視線が鋭くなる。
ルストは榊を見た。
「榊は止めた」
次に、澪奈を見る。
「澪奈は見直した」
それから、クラウディオへ視線を戻す。
「檻を閉める人間もいる。開けようとする人間もいる」
クラウディオはすぐには返さなかった。
その沈黙は、肯定ではない。
許したわけでもない。
人間社会への不信が消えたわけでもない。
ただ、完全に切り捨てるには、目の前に例外がいた。
榊は拘束を止めた。
澪奈は証拠を見直した。
科学を拝むのではなく、疑い直した。
クラウディオは素直に認めないが、少しだけ黙る。
やがて、冷たく言った。
「少数の例外で人間社会が綺麗になるなら、火刑台など建たん」
ルストは返す。
「綺麗だとは言っていない」
「なら黙っていろ」
ルストは黙った。
だが、その沈黙は先ほどとは違っていた。
榊が息を吐く。
「反論しづらいな」
クラウディオが薄く笑う。
「なら反論するな」
「だが、だからこそ止める」
榊は机上の資料を叩いた。
「警察の証拠で冤罪を作られたなら、警察が壊す。俺たちが乗せられかけた檻なら、俺たちで開ける」
澪奈も顔を上げた。
「科学は、魔女狩りの道具ではありません」
その声は震えていなかった。
「証拠は人を燃やすためではなく、間違いを止めるためにあるはずです。使われたなら、取り戻します」
クラウディオは澪奈を見た。
「科学の巫女にしては、まともなことを言う」
「巫女ではありません。科捜研です」
「訂正しなくても意味は通じる」
「訂正します」
榊がわずかに口元を動かした。
この部屋で笑いになるほどの余裕はない。だが、わずかに空気が動いた。
その時、澪奈の端末に新しい照合結果が入った。
短い通知音。
全員の視線が画面へ集まる。
澪奈は結果を開き、すぐに眉を寄せた。
「……ひとつだけ、押収品由来ではないものがあります」
榊が身を乗り出す。
「何だ」
「人形破片の接着剤です」
クラウディオの目が細くなる。
澪奈は慎重に続けた。
「警察庁の押収品リストにも、過去証拠品にも一致しません。工房《箱庭》の過去資料とも違います。民間研究施設で扱われていた特殊樹脂に近い」
榊の声が低くなる。
「どこの施設だ」
澪奈は画面をもう一度確認した。
「法医学関連の外部協力施設です。怪異鑑定、血術反応、特殊素材の分析を扱う民間研究施設。夜見坂教会事件の前後にも、資料に名前が出ています」
ルストが言った。
「久遠院」
澪奈は即答しない。
榊が画面を覗き込む。
そこには施設名と、過去の出入り記録、外部助言者の欄が表示されている。
久遠院怜司。
その名前が、関連記録の中にあった。
「その施設は、久遠院怜司が過去に出入りしていた場所だった」
澪奈の声は慎重だった。
「ただし、これだけで久遠院本人が今回の事件に直接関与したとは言えません。施設に出入りしていた人物は複数います。死亡した元鑑識官も、この施設と接点があった可能性があります。押収品保管室の監視記録に映っていた久遠院関係者の影とも、今後照合が必要です」
榊が低く呟く。
「ようやく線が太くなってきたな」
クラウディオは笑った。
楽しげではない。
冷たく、ひどく不機嫌な笑いだった。
「ようやく趣味の悪い名前が近づいてきたな」
ルストが短く言う。
「久遠院」
クラウディオは首を少し傾けた。
「本人か、周辺の犬か。まだ決めるな。だが臭いはする」
榊が睨む。
「決めつけるなよ」
「決めつけは人間の得意技だろう。俺は嗅いだだけだ」
ルストは黙っていた。
首筋の噛み跡はまだ隠されていない。
クラウディオはまだ警察庁から自由に出られない。
吸血鬼社会と人間社会の間に火種は残っている。
だが、科学証拠の檻には、はっきりと亀裂が入っていた。
火刑台の薪は、警察庁の棚から集められていた。
だが、その火をつけるための最後の樹脂だけは、久遠院怜司の影が落ちる研究施設から来ていた。




