第88話 押収品保管室
押収品保管室は、警察庁の奥にあった。
白い廊下を何本も曲がり、職員用のカードゲートを二つ越え、壁に埋め込まれた監視カメラの下を通る。足音は硬い床に薄く反響し、空調の音だけが途切れず続いていた。ここまで来ると、庁舎の表側にあったざわめきはほとんど届かない。電話の音も、人の声も、会議室で資料をめくる紙の音も遠くなる。
残るのは、管理された沈黙だった。
クラウディオは歩きながら、白い壁を見ていた。
首筋には、ルストがつけた新しい噛み跡がまだ残っている。シャツの襟で隠そうと思えば隠せる。だが、クラウディオは一度も襟を直さなかった。廊下の照明がその白い首筋を冷たく照らし、古い噛み跡と新しい痕が、わずかな陰影となって浮かぶ。
ルストは隣にいる。
何も言わない。
だが、視線が一度だけそこへ落ちたことを、クラウディオは気づいていた。
「見るな」
「見ていない」
「嘘が下手だ」
「見るなと言うなら隠せ」
クラウディオは鼻で笑った。
「隠してやる理由がない」
ルストは黙った。
その沈黙は、前話から続くものだった。言葉の代わりに牙を使った男と、言葉がないことを選ばれていないと受け取る男。その間に、首筋の噛み跡だけが残っている。事件は進んでいる。冤罪の檻はまだ閉じきっていない。だが、二人の間にある別の檻も、まだ名前を与えられていなかった。
榊が前を歩いていた。
その背は硬い。怒りを押し込んでいる人間の背中だった。澪奈は端末を抱え、何度も画面を確認している。彼女の顔には疲労があったが、それ以上に緊張が濃かった。科学の結果を疑うのではない。科学を利用した誰かがいるかもしれない。その疑いが、彼女の呼吸を浅くしていた。
重い扉の前で、一行は止まった。
扉の横にはカード認証の端末があり、その上には監視カメラがある。扉そのものは灰色の金属で、飾り気はない。宗教的な紋様も、荘厳な彫刻も、古い教会のような重々しさもない。
ただ、閉じている。
その事実だけで十分だった。
榊が担当職員へ短く告げる。
「開けてください」
担当職員は迷いを見せた。後ろにいるクラウディオを見て、ルストを見て、それから榊へ視線を戻す。
「本当に、同行させるんですか」
「必要だ」
「ですが、被疑者扱いの人物を保管区画へ入れるのは――」
「正式拘束はされていない。立ち会いは俺と澪奈がする。記録も残せ」
榊の声は荒くない。
だが、拒ませない硬さがあった。
「それに、ここが使われた可能性がある。本人を外して確認する方が不自然だ」
担当職員は唇を結び、カードを認証機にかざした。
電子音が鳴る。
金属扉のロックが外れた。
中から流れてきた空気は、冷たかった。
保管室の中は、思った以上に広い。番号で管理された金属棚が規則正しく並び、透明な証拠袋、封印ラベル、バーコードの貼られた箱、樹脂ケース、紙の資料封筒が整然と置かれている。空気は温度管理されていて、紙と樹脂と古い布の匂いが薄く混じっていた。血の匂いはしない。腐敗の匂いもしない。何もかもが、保管されるために殺菌され、乾かされ、番号へ変換されている。
正義のために保存された残骸。
罪を立証するための欠片。
無実を証明するかもしれない沈黙。
そのすべてが、棚の中で静かに眠っていた。
クラウディオは、ゆっくりと周囲を見渡した。
「科学の神殿の奥にある宝物庫か」
声は冷たい。
「ただし、聖遺物ではなく事件の残骸ばかりだな」
榊は答えなかった。
彼も同じものを見ていたからだ。
ここは本来、証拠を守る場所だった。
誰かが犯した罪を明らかにするため。誰かが着せられた罪を剥がすため。過去の事件を再検証するため。証拠を改ざんや紛失から守るため。
だが今回、その保管品が逆に冤罪を作る材料として利用された可能性がある。
警察組織の証拠管理が逆に犯罪へ利用された。つまり、正義のための保管庫が、冤罪を作る材料庫になっていた。
榊の手が、わずかに拳になる。
澪奈が該当する棚番号を読み上げた。
「まず、《箱庭》関連照合資料の保管区画です。過去の人形絡み未解決事件、鑑識照合用素材、人形片、衣類繊維、参考採取検体がまとめられています」
クラウディオが薄く笑う。
「見事な棚だな。俺を犯人にする材料が、実に行儀よく並んでいる」
棚の一角に、クラウディオに関係するものが並んでいた。
工房《箱庭》に関係する素材片。
人形の破損部品。
過去事件で提出された人形片。
採取済み血液の保管記録。
古い衣類の繊維。
手袋。
衣装片。
封された証拠袋。
工房に関する照合資料。
過去の未解決事件の関連物。
それらは、ひとつひとつ番号を与えられ、透明な袋や箱の中に収められている。クラウディオの血も、人形も、工房の素材も、衣類の繊維も、すべて「証拠品」として整えられていた。
クラウディオはしばらく黙ってそれを見ていた。
そして、低く言った。
「火刑台の薪を、役所が丁寧に番号管理していたわけだ」
誰もすぐには返せなかった。
旧欧州では、群衆が薪を運んだ。
今は、警察庁の棚に保管された証拠品が、クラウディオを燃やす材料になっている。血液、繊維、人形片、映像、保管記録。火はない。煙もない。だが、罪を作るために材料を集める構造は、驚くほど似ていた。
ルストの目が、保存血液の保管記録へ落ちた。
「誰が触れた」
声は低い。
榊が即座に返す。
「今調べている」
「全員洗え」
「やる」
クラウディオが横目で見る。
「命令口調が似合うな、灰銀」
「黙っていろ」
「俺の欠片を並べられて黙れと?」
ルストは答えなかった。
答えれば、また何かを言い損ねると分かっているようだった。
クラウディオは押収品リストへ視線を戻した。血液サンプル。人形片。工房素材。衣類繊維。手袋。彼に関係するものが、他人の手によって分類され、番号を貼られ、保管されている。
それは、存在を分解されて棚へ置かれているようだった。
血は身体から切り離されている。
人形は工房から切り離されている。
布は身につけていた時間から切り離されている。
そして、それらが再び誰かの手で集められ、クラウディオという犯人像へ組み立て直されている。
名前、血、人形、歩き方、繊維。
誰かがクラウディオという存在を、保管庫の棚から取り出せる部品のように扱っている。
「人形も血も布も、札を貼れば正義の顔をするらしい」
クラウディオの声は冷たかった。
「俺の欠片を並べて、俺の罪を作る。趣味が悪い」
榊がとうとう低く吐き捨てた。
「ふざけるな」
保管室の空気が震えた。
怒鳴ったわけではない。だが、抑えた声の方が重かった。
「証拠品は、人を嵌めるための材料じゃない」
榊は棚を睨んでいた。
「ここにあるのは、事件の記録だ。誰かの作文道具じゃない」
澪奈が顔を上げる。
榊の声は続いた。
「俺たちは、証拠を守る場所ごと使われたことになる」
その言葉は、保管室の中でひどく重く響いた。
警察組織の中に、科学証拠を使って冤罪を作れる者がいる。
第83話で浮かんだ恐怖が、ここでさらに深くなった。
これは単に、外部の犯人が警察の目を欺いた事件ではない。警察が守るべき証拠品を、警察が信じる仕組みを、警察が人を疑うための手順を、誰かが逆向きに利用している。
科学捜査の檻は、外から運び込まれたものではなかった。
檻の鉄は、最初から庁舎の中にあった。
澪奈が端末を操作する指を止めた。
「持ち出し記録を確認します」
彼女の声には、緊張があった。だが逃げはなかった。
画面にログの一覧が表示される。管理番号。閲覧権限。確認履歴。照合記録。端末操作の痕跡。澪奈はひとつずつ確認していく。榊が隣で見ている。ルストは黙って棚の前に立つ。クラウディオは腕を組み、冷笑を消さないまま画面を見下ろしていた。
しばらくして、澪奈の眉が寄った。
「持ち出し記録の一部が消されています」
榊の表情が変わる。
「消されている?」
「はい。ただ、完全には消えていません」
澪奈は端末を操作する。
「消した痕跡そのものが残っています。正式な記録は欠けていますが、確認履歴や照合記録の周辺に不自然な欠けがあります。アクセス権限の範囲は絞れます」
「どのくらいだ」
「この保管室へ触れられる人間は限られています。記録を消せる人間は、さらに少ないです」
榊の目が鋭くなる。
「名前は」
澪奈はすぐには答えなかった。
画面を確認し、もう一度別の記録を開く。
そして、静かに言った。
「その中に、死亡した元鑑識官の名前もありました」
保管室の冷たい空気が、一段重くなった。
榊が低く呟く。
「被害者が、被害者だけとは限らなくなったか」
澪奈は慎重に返す。
「断定はできません」
クラウディオが笑った。
「死者までよく喋る事件だな」
その声には、いつもの皮肉があった。
だが、誰も軽く受け取らなかった。
死亡した元鑑識官は、単なる被害者ではなく、犯人に利用されたか、あるいは途中まで協力していた可能性が出てくる。
誰かに命じられたのか。
自分で関わったのか。
途中で気づいて殺されたのか。
利用されただけなのか。
協力していたが、最後に切り捨てられたのか。
まだ分からない。
死者にすべてを着せるのは簡単だ。ロウェナを魔女にした町と同じように、都合のいい死人へ罪を集めることもできる。だからこそ、榊はすぐに結論を出さなかった。
「元鑑識官のアクセス履歴、通信記録、直前に見ていた未公開データをもう一度洗う」
榊は言った。
「だが、死んだ人間に全部押しつけるな。まだ生きている誰かが、この棚を使った可能性もある」
澪奈は頷いた。
「はい」
ルストが低く言う。
「まだいる」
榊が見る。
「何がだ」
「この檻を組んだ者だ」
クラウディオはわずかに目を細めた。
「同感だ。死者ひとりでここまで趣味の悪い構造は組めまい」
榊は息を吐いた。
「笑えないな」
「笑わせる気はない」
その時、保管室奥の端末に別の記録が表示された。
澪奈が監視記録へ切り替えたのだ。
押収品保管室へ出入りした人物の映像。時刻表示。廊下。カードゲート前。保管室入口。画質は高くないが、動きは分かる。職員が何人も映る。担当者。管理職。過去の確認作業。定期点検。
その中のひとつで、澪奈の手が止まった。
「……この人物」
榊が画面を覗く。
映っているのは、保管室前の廊下だった。画面の端に、ひとりの人物の影が入っている。顔ははっきり映っていない。角度が悪い。だが、体格、持ち物、歩き方、首元に下げた識別証の位置、手にしている薄いファイルケースが見える。
澪奈が別の資料を開く。
夜見坂教会事件の関連資料。
久遠院怜司の助言記録。
同席者一覧。
外部鑑定協力者。
法医学関連施設の人物。
画面の中の影と、資料の中の一項目が重なる。
「久遠院怜司本人ではありません」
澪奈は慎重に言った。
「ですが、押収品保管室の監視記録に、久遠院怜司と関わりのあった別の人物の影が映っていることが判明します」
榊の顔が険しくなる。
「関わりのあった、別の人物」
「夜見坂教会事件の周辺資料に出ていた人物と、体格や所持品が一致する可能性があります。ただし、顔が明確ではありません。まだ特定はできません」
クラウディオは画面を見つめた。
白い廊下に映る、ぼやけた影。
信仰の事件から、科学の檻へ。
聖女像の前で誰かを告発した構造が、今度は警察庁の棚の奥へ移っている。
クラウディオは低く笑った。
「聖女像は黙ったが、告発者は黙っていなかったらしい」
ルストが静かに問う。
「久遠院か」
「本人か、取り巻きか、信奉者か。どれにせよ趣味は最悪だ」
榊は端末の画面から目を離さなかった。
夜見坂教会事件で使われた告発の設計。
旧欧州の魔女狩りから持ち込まれた構造。
そして今、警察庁の押収品保管室を材料庫にした科学証拠の檻。
一本の線が、まだ薄いながらも見え始めていた。
夜見坂教会事件は終わっていなかった。
聖女像は沈黙したはずだった。
だが、告発の仕組みだけは、警察庁の保管室でまだ息をしていた。




