第87話 監視映像の空白
警察庁の会議室には、まだ白い光が落ちていた。
窓のない部屋だった。壁は白く、机は冷たく、空調の音は低く続いている。人の呼吸よりも、機械の呼吸の方が正しく聞こえる部屋だった。机の上には資料端末が並び、証拠写真と分析表がいくつも開かれている。番号で管理された事件資料。採取時刻。照合結果。映像ログ。血液反応。人形の破片。死亡した元鑑識官の名前。
何もかもが整えられていた。
整いすぎていた。
クラウディオは椅子に座っていない。座れと言われても座らなかった。会議室の壁際に立ったまま、机上の端末を見下ろしている。正式拘束はされていない。だが、会議室の外には警備がいる。廊下へ出るにも職員の視線がつく。庁舎の外へ出る自由はない。
任意という言葉は、まだ薄い檻の形をしていた。
クラウディオの首筋には、ルストがつけた新しい噛み跡が残っている。シャツの襟元から、隠しきれないほどではなく、隠そうと思えば隠せる程度に見える。だがクラウディオは直さない。襟を寄せることも、髪で隠すこともしない。
ルストはそれに気づいている。
気づいていながら、何も言わない。
榊も見ないふりをした。澪奈も見ないふりをした。人間は、危険なものに名前をつけたがるくせに、本当に危険な距離感には見ないふりをする。今回は、その判断が正しい。
澪奈が端末を操作した。
「次は監視映像です」
机上の大型画面に、被害者マンションの玄関映像が映し出された。
夜のエントランス。光沢のある床。自動扉。無人の受付カウンター。画面の隅に時刻表示がある。死亡推定時刻の範囲内だった。
そこへ、一人の人物が入ってくる。
黒い外套に近い上着。すらりとした長身。整った姿勢。淡い光の下でも分かる白い肌。横顔。肩の線。顔立ち。
クラウディオ・ルジェリウスに見えた。
映像は切り替わる。
エレベーターホール。
エレベーター内。
廊下。
被害者の部屋へ向かう方向。
次々と表示される映像の中で、その人物は迷わず歩いていく。顔認証の補助データ。歩行分析の数値。身長推定。服装の一致。エレベーター記録との整合性。死亡推定時刻との一致。
すべてが、一つの結論へ向いている。
映像には、クラウディオらしき人物が被害者のマンションへ入る姿が映っている。顔認証も、歩行分析も、身長も、服装も一致していた。
榊が低く言った。
「映像班の初期解析では、クラウディオ本人と見て矛盾しない」
クラウディオは笑った。
「俺は随分と勤勉な殺人犯らしい。カメラの前を几帳面に歩き、エレベーターにも乗り、証拠へ手を振ってやっている」
「茶化すな」
「茶化していない。感心している。俺より真面目だ」
画面に映る人物は、確かにクラウディオに似ていた。
似すぎている。
だからこそ、気味が悪い。
澪奈が映像解析担当から届いた報告を開く。
「映像そのものに改ざん痕はありません。データの連続性も保たれています。少なくとも、映像を後から差し替えた形跡は見つかっていません」
榊の眉間が深くなる。
「映像は本物か」
「はい。映像は本物です」
澪奈は、そこで一度言葉を切った。
「だからこそ厄介です」
画面の中の人物は、エレベーターを降りる。
廊下を歩く。
被害者の部屋の前で立ち止まる。
顔は半分ほどしか映らない。だが輪郭、顎の角度、髪、服装、体格、歩幅、そのすべてが報告書上ではクラウディオへ近づいていく。
クラウディオは、無表情にその映像を見ていた。
その首筋の噛み跡を、ルストが一度だけ見た。
そして、画面へ視線を戻す。
長い沈黙が落ちた。
最初に違和感を口にしたのは、ルストだった。
「似ている。だが、クラウディオではない」
榊がルストを見た。
「根拠は」
「歩き方が違う」
短い答えだった。
だが、ルストの目は映像から離れない。
画面の人物は、たしかにクラウディオに似た歩き方をしている。背筋は伸び、歩幅は整い、足取りは乱れていない。だが、ルストの目には違って見えていた。
クラウディオの歩き方は、王だった頃の癖が残っている。重心の置き方、視線を向ける前に相手を支配する間、袖口の扱い、扉を開ける時の指の角度。それらは映像の人物にはない。
クラウディオは廊下を歩くだけで、そこを自分のもののように扱う。
人がいなくても同じだ。
誰も見ていなくても、空間の方が一瞬遅れて従う。足を置く前に、空気がその場所を空けるような傲慢さがある。顎を上げる角度、肩の力の抜き方、視線を先に投げるのではなく、視線を受ける側へ先に沈黙を強いるような間。
映像の人物には、それがない。
形は似ている。
歩幅も似せている。
背筋も、顔の向きも、服装も、よく似ている。
だが、芯がない。
血術の残滓と同じだった。
外側だけをなぞり、クラウディオらしく見えるものを貼りつけている。けれど、そこにあるはずの傲慢な重さがない。存在そのものが場を支配する癖がない。
ルストは低く続けた。
「扉の開け方も違う」
澪奈が画面を止めた。
映像の人物が被害者の部屋のドアへ手を伸ばす瞬間だった。
手袋をした指がドアノブへ触れる。
「どこが違う」
榊が聞く。
「指の角度だ」
クラウディオが片眉を上げた。
「俺の指の角度まで覚えているのか、灰銀」
「覚えている」
即答だった。
会議室の空気が一瞬だけ変な方向へ傾いた。
澪奈が咳払いをした。榊は眉間を押さえた。今この瞬間に踏み込むべき話ではない。人間社会には、命に関わらないが精神に悪い事故現場というものがある。
クラウディオは冷たく笑った。
「偽物の俺が俺より従順に犯人役を演じたわけか。出来の悪い舞台だ」
ルストが画面を見たまま返す。
「お前より従順な時点で偽物だ」
クラウディオは一瞬だけ黙った。
それから、ゆっくりとルストを睨む。
「貴様、今のは褒めているのか貶しているのか」
「事実だ」
「便利な言葉だな」
「お前が使うよりは正しい」
クラウディオの目が冷えた。
だが、前話から続いていた刺々しさが、ほんのわずかだけ通常運転へ戻った。噛み跡の問題は何も解決していない。伴侶という言葉はまだ言われていない。責任という言葉の傷も残っている。それでも、二人の会話は少しだけ、事件の方へ戻った。
澪奈が映像を拡大した。
「ルストさんの違和感を前提に、もう一度見ます」
榊が頷く。
「映像に加工がないなら、映ったものを疑うしかない」
「はい」
澪奈は映像の別角度を並べる。玄関、エレベーター、廊下。複数のカメラが、それぞれ同じ人物を映している。データ上の時刻は一致している。エレベーターの記録とも合う。映像そのものは切れていない。見た目には不自然な空白はない。
だからこそ、別の空白が見えてくる。
「映像は本物です」
澪奈は言った。
「改ざんではない可能性が高いです。つまり、カメラが嘘をついたのではなく、映った人物そのものが問題になります」
榊が息を吐いた。
「本人に似た誰かか」
「可能性としては。本人に似た者が、本人のように映る位置と動きで歩いた可能性があります。ただし、具体的な方法はまだ分かりません。そこは断定しません」
「顔認証は」
「一致に近い結果です。歩行分析も同じです。ただし、どちらも映像に映った対象を解析した結果です」
澪奈の声は硬かった。
「科学は見えたものを解析します。でも、見せられたものが偽物なら、結果は偽物に引っ張られます。カメラは嘘をついていません。嘘をついているのは、カメラの前に立った誰かです」
会議室に沈黙が落ちる。
科学は嘘をついていない。ただし、科学が見ている対象そのものが偽物だった。
それは、血痕と同じ構造だった。
血液は本物だった。
だが、事件当日に流れた血ではなかった可能性がある。
映像も本物だった。
だが、映っている人物が本人ではない可能性がある。
証拠は嘘をついていない。
けれど、証拠に「何を見せるか」を選んだ人間がいる。
それが罠だった。
榊が低く言った。
「映像が本物でも、本人とは限らない」
澪奈が頷く。
「はい」
「見たものを信じるのが一番危ない時もある、か」
榊は苦い顔で画面を見る。
「血と同じだ。血は本物でも、現場で流れたとは限らなかった。映像も本物だが、映ったのが本人とは限らない」
クラウディオは画面の中の自分もどきを見た。
「映っているのに、俺がいない」
その声は、静かだった。
皮肉に聞こえた。
だが、その奥には不快感があった。
自分の名を使われた。
血を使われた。
人形を使われた。
今度は姿まで使われた。
クラウディオという存在を、外側だけなぞって、犯人役に仕立てる。しかもその偽物は、証拠の中で従順に振る舞う。カメラの前を歩き、エレベーターへ乗り、被害者の部屋へ向かい、警察が見つけるべき道を綺麗に残す。
クラウディオ本人なら、そんな都合のいい舞台装置にはならない。
だからこそ、腹立たしい。
「俺なら、あんなに素直にカメラへ映ってやらん」
クラウディオは吐き捨てた。
「見られるために歩いている。犯人より役者だな」
ルストが言う。
「下手な役者だ」
「同感だ」
クラウディオは画面の人物を見下ろす。
「俺の真似をする連中は、なぜ揃いも揃って美意識がない」
澪奈が別の映像を止めた。
今度は、エレベーター内の映像だった。
人物の手元が映っている。
黒い手袋。
薄手で、装飾は少ない。だが映像の拡大では、表面の質感まではっきり見える。手袋をしているため、指先の細かい動作の一部は隠れている。だから、ルストが言う「指の角度」や袖口の扱いも、映像だけでは確認しづらい箇所がある。
澪奈はそこを見ていた。
「手袋をしています」
榊が画面を覗く。
「ああ」
「現場に残っていた繊維片の中に、この手袋と一致する可能性があるものがありました。最初はクラウディオさんの服飾品由来と見られていましたが、映像の手袋側と照合し直します」
クラウディオの目が細くなる。
「また手袋か。人間は汚れた手を隠す布が好きだな」
夜見坂教会事件。
白い手袋。
祈りの場で、血と罪を隠した布。
今回の手袋は黒い。
祈りではなく、科学証拠の前に差し出された手。
だが、やっていることは似ている。
手を隠す。
触れたものを見えにくくする。
そして、別の証拠を残す。
「祈る時も、殺す時も、証拠を作る時も、手袋が要るらしい」
クラウディオの声は冷たい。
澪奈は茶化さず、解析結果を待った。
数秒。
会議室の空調音だけが続く。
廊下の向こうで警備員の靴音が遠く鳴った。クラウディオはまだ自由ではない。ルストはその隣から離れない。首筋の噛み跡は隠されていない。
やがて澪奈の端末に結果が表示された。
彼女の表情が変わった。
榊がすぐに気づく。
「どうした」
澪奈は画面を見たまま、ゆっくりと言った。
「手袋の繊維が一致しました」
「クラウディオのものと?」
「違います」
澪奈は顔を上げる。
「警察庁の押収品保管室にあった、過去の証拠品と一致します」
会議室の空気が止まった。
榊の顔が強張る。
ルストの目がさらに冷える。
クラウディオは一瞬だけ黙り、それから低く笑った。
「なるほど。檻の鉄に続き、手袋まで庁舎の中から出てくるわけか」
榊が端末を覗き込む。
「持ち出し記録は」
「まだ確認中です。ここでは一致したという事実だけです。具体的な経路は分かりません。ただ、外部の人間が簡単に触れられるものではありません」
「また内部か」
榊の声は低い。
澪奈は唇を引き結んだ。
「少なくとも、警察庁内の保管品に触れられる立場、またはその周辺へ入れる人物が関わっている可能性がさらに高まりました」
クラウディオは画面の中の偽物を見た。
映像は嘘をついていなかった。
カメラは、そこにいた人物を映した。
解析も、その映像を正しく処理した。
だが、そこにいた人物はクラウディオではない可能性が高い。
そして、その偽物の手袋は、警察庁の保管庫から来ていた。
科学の檻は、さらに内側から軋み始めていた。




