第86話 乾きすぎた血
資料室の空気は、まだ冷えていた。
白い蛍光灯の下、番号で管理されたファイルの背が、壁一面に並んでいる。古い紙の匂いと、乾いた埃の匂い。空調の低い音。廊下の外に立つ警備の気配。警察庁という建物は、何も燃やしていないのに、じわじわと息を奪う。
火も煙もない。
鐘もない。
祈りもない。
それでも、誰かを閉じ込めるための仕組みだけは、どこまでも正確に組まれていた。
クラウディオは机の前に立っていた。
まだ正式拘束はされていない。手錠もない。書類上は任意の範囲に留まっている。だが、庁舎の外へ出る自由はない。部屋の外には警備がいる。廊下へ出れば職員がつく。扉は開く。だが、どこへでも行けるわけではない。
任意という名の檻は、まだ続いていた。
そして、その檻の中で、クラウディオの首筋には新しい噛み跡が残っている。
ルストがつけた痕だ。
古い噛み跡の近くに、まだ新しい痛みがある。シャツの襟を直せば隠せる。指先で少し布を寄せればいい。それでもクラウディオは直さなかった。
榊はもう一度そこを見そうになり、見なかったことにした。澪奈も同じだった。人は時々、目の前にあるものを見ないことで、かろうじて仕事を続けられる。今回ばかりは、その判断を責める者はいない。面倒な人外二名の関係性まで鑑識対象にしたら、警察庁の端末が先に壊れる。
ルストはクラウディオのそばを離れない。
ただし、さっきから二人の間には薄い棘が残っていた。
伴侶と言いかけて、言わなかった。
責任と言った。
噛んだ。
それでも、名はつけていない。
クラウディオはルストを見ない。ルストも、必要以上には声をかけない。二人の沈黙は、事件資料よりよほど扱いづらかった。
澪奈が端末を机の上に置いた。
画面には、現場から採取された血液反応の再検証結果が表示されている。写真、採取記録、分析表、環境条件の記録、死亡推定時刻との照合。資料は整っていた。整っているからこそ、ひびが見え始めていた。
澪奈の表情は硬い。
だが、焦ってはいない。結論に飛びつく顔ではなかった。彼女は科学捜査の人間だ。数字を軽んじない。だからこそ、数字の並び方がおかしい時、それを見逃せない。
「血痕の追加解析結果です」
榊が腕を組んだ。
「さっき言っていた矛盾か」
「はい」
澪奈は一度だけ画面に目を落とし、それから全員を見た。
「血液型、DNA、成分は一致しています」
その言葉に、室内の空気がわずかに沈んだ。
榊の眉間に深い皺が寄る。
ルストの目が冷える。
クラウディオだけが、薄く笑った。
「俺の血だと?」
「クラウディオさんのものに見える、というより、本人の血液と見ていい結果です」
澪奈は言葉を選んだ。
「少なくとも、現時点の検査結果では、血そのものが別人のものだとは考えにくいです」
「偽物なら話が早かったものを」
クラウディオは吐き捨てるように言った。
「まったく、嫌がらせに限って手間を惜しまない」
榊が低く言う。
「問題はその先だろ」
「はい」
澪奈は画面を切り替えた。
血痕の状態を示す資料が並ぶ。専門用語が多い。だが、澪奈はそれを噛み砕きすぎず、必要な部分だけを選んで口にした。
「ですが、乾燥速度と酸化状態が、死亡推定時刻と合いません」
資料室の空調音が、妙に大きく聞こえた。
クラウディオの笑みが少しだけ深くなる。
ルストは黙ったまま、澪奈を見る。
榊が問い返す。
「死亡推定時刻に、現場で流れた血としてはおかしいってことか」
「はい。現場環境、室温、湿度、採取状況を含めて再確認しました。もちろん、完全に断定できる段階ではありません。ただ、事件当日に現場でクラウディオさんが負傷し、その場で残した血液として扱うには、状態が合わない部分があります」
澪奈は、慎重に続けた。
「この血は、現場でその時に出たものではない可能性があります」
榊の表情が変わった。
それは安心ではない。むしろ、別の種類の重さだった。
クラウディオの血である。
だが、事件当日に流れた血ではないかもしれない。
偽物なら話は単純だった。誰かが偽の証拠を作った。それで済む。だが、本人の血を使われているとなれば、話はさらに厄介になる。
本人のものだから、科学的には強い。
本人のものだから、疑いは残る。
本人のものだからこそ、誰かがそれをどこかで手に入れたという事実が、別の檻を見せ始める。
澪奈は端末を指先で操作した。
「現場に残された血は、事件当日に流れたものではなく、事前に採取・保存された血液を使った可能性が高かった、というのが現時点での見立てです」
クラウディオは笑った。
だが、それは愉快だからではない。
「俺の血まで盗むか。随分と卑しい蒐集家だな」
声は冷たかった。
怒鳴らない。
荒げない。
けれど、資料室の温度が一段落ちたように思えた。
「名を盗み、血を盗み、人形を盗む。次は俺の影でも採るつもりか」
クラウディオの首筋には、ルストの噛み跡がある。
それも血に触れた痕だ。
乱暴ではあった。言葉の代わりで、足りなかった。クラウディオは怒っている。今も、解決などしていない。
だが、誰がつけたものか分かる。
そこにはルストの意思があった。怒りがあった。所有の反応があった。歪んでいても、雑でも、名を持ちそこねていても、そこにルストがいることだけは分かる。
だからクラウディオは隠していない。
一方で、現場に残された血液は違う。
誰かに盗まれた。
誰かに保存された。
誰かに利用された。
誰かがクラウディオの名を着せるために使った。
そこにはクラウディオの意思がない。身体の一部を、証拠品にされた。人形の破片と同じように、名札のついた素材へ落とされた。
クラウディオは、それが許せなかった。
彼にとって、人形を証拠品に落とされることが侮辱なら、血を証拠品にされることは、身体そのものを切り分けられる侮辱だった。
「以前に採取された血液が、別の形で現場に存在していた可能性があります」
澪奈は続けた。
「ただし、どう持ち込まれたかまでは、まだ断定できません。重要なのは、死亡推定時刻と血痕の状態が一致しないことです」
榊が言った。
「つまり、事件現場に本人がいた証明にはならない」
澪奈はすぐに頷かなかった。
「少なくとも、そのまま証明として扱うのは危険です」
「面倒な言い方だな」
クラウディオが言う。
澪奈はまっすぐ返した。
「科学は面倒なものです。簡単に言い切ると、人が燃えます」
クラウディオが一瞬だけ目を細めた。
ロウェナの記録。
告発者たち。
火刑台。
科学の資料室で、澪奈の言葉だけが妙に古い灰に触れた。
クラウディオはそれ以上、茶化さなかった。
榊が端末を覗き込む。
「クラウディオの血が以前採られた可能性があるとして、どこにある」
ルストが低く言った。
「過去に採られた血か」
澪奈が頷く。
「可能性はあります」
ルストの視線が冷たくなる。
「どこに保管されている」
その声は、静かだった。
静かすぎて、逆に資料室の空気が硬くなる。
澪奈は表情を引き締めた。
「警察庁、関連施設、過去事件の検体保管庫、法医学関連施設。範囲は広いです。クラウディオさんは過去の事件で何度か捜査協力していますし、検体が登録された記録もあります」
「誰が触れる」
「通常は権限が限られます。ただ、事件ごとの管理者、再鑑定担当、法医学関連機関との照合担当など、完全に少人数とは言い切れません」
ルストの空気がさらに冷えた。
クラウディオの血が、誰かの手で保存され、今回の罠に利用された。
その事実は、ルストにとっても不快だった。
だが、暴れない。
警察庁の白い資料室で、ルストはただ一歩も動かずに立っている。
それがかえって怖かった。
榊はその圧を受けながら、澪奈へ向き直る。
「追加で何か出たか」
「あります」
澪奈は別の資料を表示した。
「微量ですが、保存処理に由来する可能性のある成分が出ています」
その場にいた全員が、言葉を失った。
澪奈は続ける。
「通常の流れなら、ここまで追加で見ないかもしれません。血液型、DNA、基本成分が一致していれば、報告書上は強い証拠として扱われます。ですが、乾燥状態に違和感があったので、範囲を広げて調べました」
榊が低く聞く。
「通常の現場血液には説明しづらい成分、ということか」
「はい」
「保存剤か」
澪奈は、少しだけ言葉を選んだ。
「具体名はまだ報告段階では伏せます。ですが、微量の保存剤が混ざっていた、と表現して差し支えないと思います。通常の鑑識なら見落としかねない量だが、違和感を持って再検査したことで判明しました」
クラウディオは小さく笑った。
「随分と丁寧だ。俺を犯人にするためなら、俺の血も身なりを整えられるわけか」
「笑い事じゃない」
榊が言う。
「笑わせる気で言っていない」
クラウディオの返しは、鋭かった。
榊は黙った。
澪奈は資料を閉じずに続ける。
「これで、現場にあった血液が事件当日に流れたものだとする前提は崩れます。ただし」
その「ただし」に、部屋の空気がまた重くなる。
「これにより、完璧だった証拠の一角が崩れ始めることになります。ですが、まだクラウディオさんの疑いが晴れたわけではありません。血が本人のものであることは確かであり、それがなぜ現場にあったのかを説明しなければならない」
榊が頷いた。
「これで終わりじゃない。血が本人のものなのは変わらない」
「俺が自分の血を撒いて歩く趣味でもあると言いたいのか」
「そう言われないために調べている」
榊は即座に返した。
クラウディオは鼻で笑った。
「なら、急げ。俺は自分の血を盗んだ蒐集家の趣味に長く付き合う気はない」
「お前が急がせると、たいてい余計に腹が立つ」
「知ったことか」
榊は端末を受け取り、澪奈が示したデータを確認した。眉間の皺が深くなる。
「保管記録を当たる」
澪奈が頷いた。
「すでに照会を始めています。過去事件や検査で採取されたクラウディオさんの血液が、どこに保管されていたか。警察庁内部、関連保管庫、法医学関連施設、過去事件の検体管理台帳を確認中です」
ルストが短く言う。
「今すぐ」
「進めています」
澪奈の声には、かすかな怒りが混じっていた。
科学証拠は真実へ近づくための道具だ。
だが、検体管理や照合データが利用されれば、その道具は冤罪の刃に変わる。澪奈はそれを理解していた。だからこそ、顔色は青ざめているのに、目だけは揺れていない。
「資料に触れられる人間が、資料を汚せる」
彼女は小さく言った。
榊が聞き逃さなかった。
「その可能性が出てきたな」
澪奈は唇を結ぶ。
「はい」
資料室の空気が、さらに重くなった。
外部犯が証拠を置いたのではないか。
それだけなら、まだ話は単純だった。
だが今、見えてきたのは別のものだ。
警察内部の保管庫。
過去検体。
鑑識資料。
法医学関連施設。
未公開データ。
それらが罠の材料にされた可能性。
科学捜査の檻は、外から作られたものではない。警察機構の内側にある材料で組まれている。
クラウディオはゆっくりと笑った。
「檻の鉄は、最初から庁舎の中にあったわけだ」
榊の顔が険しくなる。
「笑えない」
「笑わせる気はない」
クラウディオの目は冷たかった。
だが、その奥には強い不快感があった。
自分の名。
自分の人形。
自分の工房。
自分の血。
それらを切り分け、保存し、利用し、並べ替え、クラウディオという犯人像を作る。
人形師の前で、あまりに醜い人形を組み立てるような行為だった。
クラウディオにとって、それは許しがたい。
ルストは、クラウディオの横顔を見た。
首筋の噛み跡はまだ隠されていない。
ルスト自身がつけた痕。
その痕と、現場に利用された血痕が、同じ「血」に属していることが、ルストを苛立たせている。クラウディオの意思がある血と、意思を奪われた血。そこには明確な違いがある。
だが、科学の資料には、その違いはまだ記録されない。
数字は血を読む。
意思までは読まない。
だから、人間が見る必要がある。
澪奈が端末を操作していた手を止めた。
「出ました」
榊がすぐに近づく。
「何が」
「保管記録です。クラウディオさんの過去検体の一部が、警察庁内部の関連保管庫に記録されています」
ルストの視線が鋭くなる。
クラウディオは笑みを消さない。
だが、目だけが冷えた。
澪奈は続けた。
「最近、その保管記録に不自然な閲覧履歴があります。まだ持ち出しと断定できる記録ではありません。ただ、通常の確認手続きとは違う動きがある」
榊の顔色が変わった。
「誰が見た」
「今、権限情報を照会しています。ただ、権限なしでは触れない領域です」
榊は低く息を吐いた。
「内部か」
澪奈はすぐには答えなかった。
だが、その沈黙が答えに近かった。
クラウディオは静かに言った。
「犯人は、警察庁の内側にいるか、内側へ入れる人物だった」
資料室の白い蛍光灯が、妙に冷たく光る。
榊は端末を握る手に力を込めた。
警察組織の中に、科学証拠を使って冤罪を作れる者がいる。
それは単なる殺人事件ではない。
警察機構そのものを利用した罠だ。
澪奈は唇を噛み、すぐに顔を上げた。
「追加照会を続けます。検体管理記録、閲覧履歴、照合データの使用記録。全部、洗い直します」
「頼む」
榊は短く言った。
ルストは何も言わない。
ただ、静かにクラウディオのそばに立っている。
クラウディオは、首筋の噛み跡を隠さないまま、画面に映る保管記録を見つめた。
血はクラウディオのものだった。
だが、それを現場へ運んだ手は、警察庁の内側から伸びていた可能性があった。




