第8話 探偵扱いするな
録音機が止まる音は、奇妙に軽かった。
赤いランプが消え、聞き取り室に短い沈黙が落ちる。先ほどまで少女の泣き声と、クラウディオの冷えた声と、資料をめくる紙音が重なっていた部屋は、急にただの白い部屋に戻ったように見えた。だが、空気は戻っていない。消毒液の匂いの奥に、古い薔薇香水の甘く腐りかけた匂いがまだ残っていた。窓の内側には、水滴の跡が細くいくつも走っている。外ではもう雨など降っていない。
少女は、警察官に支えられて部屋を出ていった。
足取りは弱かった。だが、最初に病室で見せた整いすぎた震えとは違う。今の彼女は、身体のどこへ力を入れればいいのか分からないように歩いていた。頬は涙で濡れている。目元は赤い。何度も「違う」と言いかけ、結局、言葉を飲み込んでいた。
扉の手前で、少女はもう一度だけ振り返った。
その目はクラウディオを見ていた。
黒髪の美しい男。人形のような男。彼女はその言葉で彼を指した。指し示して、逃げようとした。けれど、いまその瞳にあるのは、作られた恐怖ではない。もっと奥の、別の誰かへ怯える目だった。
「私だけじゃない」
彼女はもう一度、声にならないほど小さく呟いた。
榊悠真が、その言葉を聞き逃さなかった。白石澪奈も顔を上げる。ルスト・ヴァルレインは黙って少女を見ていた。クラウディオ・ルジェリウスだけが、驚かなかった。
少女は連れていかれた。
扉が閉まる。
聞き取り室には、残された者の沈黙だけが残った。
机の上には、証拠写真が広げられている。槻島宗一郎の屋敷。人形部屋。首筋に傷を持つ死体。割れたグラス。止まった古時計。棚から落ちた少女人形。防犯カメラの映像を印刷したもの。庭の足跡の拡大写真。繊維片の入った証拠袋。血液反応の報告書。どれも、つい先ほどまでクラウディオへ向かっていた。
今は違う。
違うと分かったからといって、消えるわけではない。疑いは煙のようなものだ。火元を消しても、しばらく匂いが残る。人間社会は特にその匂いを好む。誰かを疑ったあとで、疑った自分の顔を見たがらないからだ。
榊は深く息を吐いた。
「少女の身柄は確保する。偽証、証拠隠滅、現場偽装への関与。殺害そのものについては、まだ調べる必要がある」
「当然だな」
クラウディオは窓際に立ったまま答えた。
彼の声は平坦だった。自分への疑いがいくらか晴れたことに安堵する様子はない。むしろ、不機嫌そうに見える。黒い外套の裾は、病院の白い床に影のように落ちていた。長い黒髪も、白い肌も、この部屋ではあまりにも異物だった。
榊は彼を見た。
「今回の件については、あんたの指摘が正しかった」
クラウディオが、薄く眉を上げる。
「葬式の挨拶か?」
「礼を言っているわけじゃない」
「なら言わなくていい」
「だが、完全に疑いが晴れたわけじゃない」
「知っている。人間は一度疑ったものを簡単には手放さない。手放すと、自分が間違えたことになるからな」
榊の口元が硬くなる。
反論はできた。だが、今の彼にはそれより優先すべきものがあった。
「消えた人形がまだ見つかっていない」
その一言で、部屋の温度がわずかに下がったように感じた。
澪奈が現場資料をめくる。
「槻島氏があなたに修復を依頼していた人形。右腕欠損、左目のガラス交換、胸部機構修復。依頼書の写真は剥がされ、現場からも消えています。防犯カメラの人物が抱えていたものが、その人形である可能性が高い」
「可能性ではなく、ほぼそうだろう」
クラウディオは窓を見たまま言った。
「それがまだ見つからないなら、事件は片づいていない」
「少女が持ち出したとは限らない?」
「持ち出したとしても、今は持っていない。あれが手元に残っていたなら、もっと早く見つかっている。誰かに渡したか、渡すように仕向けられたか、あるいは最初から少女の手にはなかったか」
榊は顎に手を当てた。
「少女一人の計画ではない、と見ているのか」
「見ているというより、そうでなければ雑すぎる場所と、整いすぎた場所が混ざりすぎている」
クラウディオはようやく榊へ視線を向けた。
「首の傷は雑だった。吸血痕の模倣としては下手だ。だが、科学証拠の配置は整っていた。防犯カメラに映る位置、足跡、繊維片、血液反応、証言。人間の同情まで含めて、俺へ向ける作りになっていた。少女だけの発想にしては、性質が違う」
澪奈は証拠袋の中の繊維片を見た。
黒い繊維は、小さな袋の中で静かに横たわっている。それは確かに、クラウディオの外套と酷似していた。科学的には正しい。似ている。付着している。検出された。それらは否定できない。
だが、その場所へ置かれた意味を、科学は自分から語らない。
「科学が間違っていたわけではありません」
澪奈は小さく言った。
「前提を作られていた。それだけです」
その声には悔しさがあった。
クラウディオはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
「それが一番厄介だろう」
「……ええ」
「嘘の証拠なら捨てればいい。正しい証拠は捨てられない。人間は正しいものに騙される。覚えておくといい」
澪奈は答えなかった。
代わりに、現場写真を一枚持ち上げた。棚から落ちた少女人形の写真だった。青いドレス。淡い髪。白い頬。傾いた首。目元には、小さな水滴が残っている。
いや。
残っているように見える。
写真に印刷された水滴のはずだった。現場で撮影されたものだから、そこに写っているのは当然だ。だが、見る角度を変えると、目元だけが妙に艶めいていた。紙の表面に本当に水が浮いているように、光を拾っている。
澪奈は眉を寄せた。
「現場写真、まだ変です」
榊が覗き込む。
「反射か?」
「分かりません。紙面に水分はありません。ただ、目元だけが濡れているように見えます」
ルストが静かに写真を見た。
クラウディオは見なかった。
「見るな」
彼は低く言った。
澪奈が顔を上げる。
「どういう意味ですか」
「名前を与えるな。形を与えすぎるな。怪異は、見られ方で輪郭を覚える」
榊が顔をしかめる。
「またそういう話か」
「信じなくていい。だが、見つめるなら責任を持て」
澪奈は写真から視線を外した。
認めたわけではない。だが、見続ける気にはなれなかった。写真の人形の目元は、視線を外した後もまだ、濡れているような気配だけを残していた。
聞き取り室の扉がノックされた。
若い警察官が入ってくる。手には透明な証拠袋を持っていた。中には、少女の所持品から取り分けられた小物がいくつか入っている。ハンカチ、古い鍵、折れたヘアピン、小さな紙片。
「榊さん。少女の所持品から出たものです。気になるものがありました」
榊は袋を受け取り、机に置いた。
その瞬間、クラウディオの視線が動いた。
紙片だった。
古びた包装紙の切れ端のようなもの。端は擦り切れ、雨か湿気を吸ったのか、少し波打っている。薄いクリーム色の紙に、褪せた赤茶の模様が残っていた。花のようにも、古い菓子の焼き印のようにも見える。文字は半分ほど欠けている。読めるのは、かすれた数文字だけだった。
――菓子舗。
その下に、もう一つ、店名の一部らしきものがあった。だが、破れた端に飲み込まれている。
クラウディオの表情が消えた。
本当に、一瞬だった。
美貌から皮肉も不機嫌も消え、何の感情も乗らない顔になる。人形のような、という言葉が似合うのは、その一瞬だけだった。すぐに彼はいつもの顔へ戻った。だが、ルストは見逃さなかった。
榊も気づいたが、ルストほど深くは読めなかった。
「知っているのか」
榊が問う。
クラウディオは答えなかった。
代わりに、紙片を見下ろし、ほんの少しだけ息を吐いた。
「どこで見つかった」
「少女の上着の内ポケットです。本人は知らないと言っています」
「知らない、か。便利な言葉だ」
「クラウディオ、あんたは何か知っているのか」
「人間は何でも俺に聞けばいいと思っているな」
「そう思わせるだけのことを、あんたがしている」
「俺はしがない人形師だ」
榊は本気で疲れた顔をした。
「その言い方、毎回腹が立つな」
「慣れろ」
クラウディオは紙片から視線を外した。
だが、ルストはまだ彼を見ていた。
古い菓子屋。
褪せた包装紙。
クラウディオの表情が消えた一瞬。
それは事件の証拠としては、まだ何の意味も持たない。だが、ルストには別の意味で重かった。クラウディオが冤罪や断罪に反応する理由。その奥にある火の匂い。古い紙の匂い。彼が作っては壊す人形の顔。すべてが、まだ言葉にならない線でつながりかけている。
ルストは問わなかった。
今、問えば逃げられる。
この男は、真正面から踏み込まれると皮肉で壁を作る。壁際へ追い詰めても、耳元で囁いて主導権を奪い返す。面倒な生き物である。人間でも吸血鬼でも、長生きすると会話の仕方を忘れるのかもしれない。いや、たぶん最初からだ。
榊は証拠袋を澪奈へ渡した。
「鑑識に回してくれ。紙質、印刷、匂い、付着物。あと、古い店舗の包装紙なら照会できるかもしれない」
「分かりました」
澪奈は袋を受け取り、慎重に机へ置いた。
「薔薇香水の匂いも残っています」
クラウディオが目だけを動かす。
「紙片に?」
「微量ですが。少女の衣服についていたものと近いかもしれません」
「なら、人形部屋か、消えた人形か、あるいはその紙片自体が同じ場所にあった」
榊は低く唸る。
「人形、紙片、薔薇香水。少女の『私だけじゃない』。繋がるとしたら、背後にいる誰かだな」
「ようやくそこまで来たか」
クラウディオが言った。
榊は睨んだ。
「言い方を直せ」
「無理だ」
「即答するな」
そのやり取りを聞きながら、ルストはクラウディオの横顔を見ていた。
少女を信じかけた。
クラウディオを疑った。
そして、クラウディオの方が正しかった。
その事実は、ルストの内側で重く沈んでいる。謝罪すべきか。謝罪してどうなるのか。クラウディオは許すと言わないだろう。言われても、むしろ怒るかもしれない。だが、何も言わないまま済ませるには、今夜の彼の観察眼はあまりにも鋭かった。
ルストは短く言った。
「よく見ていた」
クラウディオは紙片から視線を外し、ようやくルストを見た。
「何を今さら」
「少女の視線、呼吸、証言。証拠の置かれ方。全部だ」
「お前たちが見ていないだけだ」
「探偵に向いている」
その瞬間、クラウディオの眉がはっきり寄った。
榊が少しだけ顔を上げる。澪奈も書類から視線を外した。
クラウディオは不機嫌そうに言った。
「探偵扱いするな」
ルストは黙っている。
「俺は人形師だ。死体を並べて喜ぶ趣味はない」
「喜んでいるようには見えない」
「なら二度と言うな」
「向いていると言っただけだ」
「褒めたつもりか、灰銀」
「事実だ」
「事実なら何を言ってもいいと思っているなら、警察に向いているぞ」
榊が顔をしかめた。
「巻き込むな」
クラウディオは答えず、窓の方へ顔を背けた。
その仕草は、拒絶のように見える。
だが、ルストには分かった。
完全には嫌がっていない。
警察に評価されることには心底どうでもよさそうな顔をするくせに、ルストが認めると、ほんの少しだけ反応する。嬉しさではない。素直な受け入れでもない。もっと厄介な、触れられたくない場所に言葉が届いた時の反応だった。
ルストはそれを口にしなかった。
口にすれば噛みつきたくなる種類の沈黙が降りるだけだ。いや、噛みつくのは自分かもしれない。どちらにせよ、病院でやることではない。施設は大事にすべきだ。人間社会に紛れて生きるなら、それくらいの分別は必要である。
榊は資料をまとめ始めた。
「今回の偽装については、少女の供述を改めて取る。背後の人物がいるなら、そちらも追う。消えた人形も捜索を続ける」
「見つからないだろうな」
クラウディオが言った。
「なぜだ」
「あれを持ち去った者がいるなら、隠す理由がある。見つかる場所には置かない」
「分かっている。だが、探す」
「好きにしろ」
「不本意だが、あんたにも話を聞くことになる」
「不本意ならやめろ」
「やめられる状況じゃない」
クラウディオは肩をすくめた。
「警察はつらいな。職務とはそういうものか」
「その顔で同情するな。余計に腹が立つ」
澪奈が思わず小さく息を漏らした。笑ったわけではない。空気が少しだけ緩んだだけだった。だが、すぐに彼女は現場写真へ視線を戻す。
人形の目元。
まだ、濡れて見える。
証拠袋の内側にも、ほんの小さな曇りがあった。紙片の袋ではない。少女のハンカチが入った袋の内側。水滴というほどではない。だが、湿り気の輪郭がある。
澪奈は眉を寄せた。
「証拠袋の内側にも、曇りがあります」
榊が見る。
「保管時の温度差か」
「可能性はあります。ただ、他の袋には出ていません」
ルストが低く言う。
「残っている」
クラウディオは窓の外を見たまま答えた。
「消えた人形が戻らない限り、残るだろうな」
「人形に憑いているのか」
「名前をつけるなと言った」
「分かった」
素直すぎる返答に、クラウディオがわずかに目を細める。
「気味が悪いな」
「何がだ」
「お前が聞き分けると、だいたいろくなことがない」
「なら聞き分けない方がいいか」
「いつも通りでいい」
言ってから、クラウディオはほんの一瞬だけ黙った。
いつも通り。
それがどの時代の、どの距離の話なのか、自分でも分からなかったのかもしれない。
ルストもそこへ踏み込まなかった。
代わりに、視線だけがクラウディオの首筋へ落ちた。
黒い襟元の奥。
古い噛み跡が隠されている場所。
事件とは関係ない。少女の偽装とも、消えた人形とも、血液反応とも関係ない。だが、ルストにとっては、どの証拠よりも長く残っているものだった。数十年どころではない時間を越え、身体の上に残った沈黙。
クラウディオは気づいた。
指先が襟元へ上がる。
布を直す動作は自然だった。だが、自然すぎる仕草はたいてい隠すためにある。
「見るな」
クラウディオが言った。
ルストは目を逸らさない。
「まだ何も言っていない」
「言わなくても分かる」
「なら、分かっているだろう」
「何を」
「今は聞かない」
クラウディオは薄く笑った。
「賢くなったな」
「お前が逃げるからだ」
「俺のせいにするな」
「逃げなければいい」
「人形師に追跡能力を求めるな」
「探偵に向いている」
「二度目だぞ、灰銀」
声は冷たい。
だが、一度目よりも少しだけ、刺が浅かった。
ルストはそれに気づいた。
気づいたが、言わなかった。言えば、クラウディオはさらに刺を増やす。面倒な相手を扱うには、言わない方が進むこともある。人類も吸血鬼も、どうしてそこまで遠回りを尊ぶのか。本人たちに聞いても答えないだろう。
榊は資料をまとめ、澪奈は証拠袋をケースへ入れた。
事件は一区切りした。
少女の証言は崩れた。クラウディオへの濡れ衣は、少なくとも今回の偽装については剥がれた。科学証拠が何を示し、何を示さないかも見えた。怪異の残響が本物であることも、否応なく残った。
それでも、聞き取り室の空気は晴れない。
消えた人形は見つからない。
少女は「私だけじゃない」と言った。
古い紙片は、クラウディオの表情を一瞬消した。
窓の外では雨は止んでいる。
それなのに、硝子の内側に一筋、水滴が落ちた。
クラウディオはそれを見ないふりをした。
ルストは、今度は水滴ではなく、クラウディオだけを見ていた。




