第9話 首筋の古い痕
病院の裏口へ続く廊下は、表側よりもずっと冷えていた。
白い壁は少し黄ばんで見え、天井の蛍光灯は端から順に古びた光を落としている。夜間用の静かな照明に切り替えられた病棟とは違い、こちらは人目につかない通路だった。非常階段へ続く扉、清掃用具の置かれた小部屋、灰色の床に残った薄い水跡。病院というより、病院の裏側に置かれた倉庫のような場所だった。
窓の外には雨上がりの駐車場が見える。
雨はもう止んでいる。雲の切れ間から、薄い月の光がわずかに落ちていた。アスファルトはまだ濡れており、街灯の白い光を受けて、黒い鏡のように鈍く光っている。救急搬入口の赤い表示灯だけが、遠くで規則正しく点滅していた。風は弱い。だが、建物の隙間を抜けるたび、湿った空気が廊下の窓ガラスを冷やしていく。
クラウディオ・ルジェリウスは、廊下を一人で歩いていた。
黒い外套の裾が白い床の上をかすめる。長い黒髪は肩へ落ち、病院の無機質な光の中でいっそう色を濃くしていた。彼は急いでいるようには見えない。逃げているようにも見えない。ただ、これ以上この場所に用がないと判断した者の歩き方だった。
少女は確保された。
証言は崩れた。
クラウディオへ向けられていた濡れ衣の一部は、剥がれ落ちた。
だが、それで終わりではない。
消えた修復依頼の人形は見つかっていない。少女の「私だけじゃない」という言葉は、録音機にも、榊の記録にも残った。現場写真の人形の目元は、今も濡れているように見える。少女の所持品から見つかった古い紙片には、クラウディオが一瞬だけ表情を消すほどの何かがあった。
事件は一区切りしただけだ。
幕が下りたような顔をして、舞台袖にまだ誰かが立っている。
人間というものは、本当に後片付けが下手だ。証拠を置く時は妙に丁寧なくせに、終わらせる段になると湿った布のように半端なものを残していく。怪異の方がまだ正直かもしれない。水滴なら水滴として残る。人間の悪意は、笑顔や証言や同情の顔をして残るから始末が悪い。
クラウディオは非常階段へ続く扉の前で足を止めた。
背後から、重い足音が近づいていた。
振り返らなくても分かる。
灰銀の髪。鋼色の瞳。無駄に大きい体躯。足音を殺せるくせに、あえて殺さない歩き方。
ルスト・ヴァルレインだった。
「追跡癖でもついたのか」
クラウディオは扉の方を向いたまま言った。
ルストは数歩後ろで止まった。
「お前が勝手に消える」
「帰るだけだ」
「事件は終わっていない」
「知っている」
「なら、なぜ帰る」
クラウディオはようやく振り返った。
蛍光灯の冷えた光が、彼の白い肌に落ちている。目元には疲労も怯えもない。だが、不機嫌はあった。濡れ衣が晴れたことへの安堵ではなく、まだ見えないものが残っていることへの苛立ち。さらに言えば、ルストがそれを当然のように追ってきたことへの苛立ち。
「警察がいる。灰銀のハンターもいる。しがない人形師が居残る理由はない」
「紙片を見た時、顔が変わった」
ルストは短く言った。
クラウディオの目が、ほんの少し冷える。
「気のせいだ」
「違う」
「断定するな。面倒だ」
「お前はあの紙を知っている」
クラウディオは答えなかった。
非常階段の扉の向こうから、冷たい空気が漏れている。どこかで換気扇が低く回っていた。病院の機械音、遠くのナースステーションの呼び出し音、窓の外の水たまりを車輪が踏む音。それらが遠く薄く重なっている。
ルストは一歩近づいた。
「古い菓子屋の包み紙だった」
「見れば分かる」
「店名は欠けていた」
「なら、知らなくていい」
「クラウディオ」
その名を呼ぶ声に、かすかな重さが乗る。
クラウディオは嫌そうに視線を外した。
「人形の話をしていたはずだ」
「人形も、紙片も、少女の背後もつながる可能性がある」
「可能性。便利な言葉だな」
「お前が言うな」
ルストの声は低い。
怒っているわけではない。責めているわけでもない。ただ、逃がす気もない。事件の話をしているはずなのに、その奥の別のものへ指をかけている。クラウディオには、それが分かった。
だから、余計に気に食わない。
「消えた人形はまだ見つかっていない」
ルストが言った。
クラウディオは鼻で笑う。
「だから終わっていないと言った」
「誰かが持っている」
「だろうな」
「少女一人ではない」
「それも言った」
「なら、あの紙片を調べる必要がある」
「警察がやる」
「お前も知っている」
「俺が何かを知っていることと、それを話すことは同じじゃない」
ルストは黙った。
その沈黙が、クラウディオには気に入らなかった。
問い詰めればいい。掴めばいい。壁際へでも、雨の駐車場へでも、非常階段へでも追い詰めればいい。そうすれば、クラウディオは皮肉で逃げられる。だが、ルストは今、問う前に止まっている。踏み込む権利があるのか、測っている。
その慎重さが、昔より厄介だった。
「聞きたいことがあるなら聞け」
クラウディオが言った。
「答えるのか」
「答えない」
「なら聞かない」
「お前、本当に面倒になったな」
「昔よりは考える」
「昔の話をする気はない」
「していない」
している。
言葉にはしていないだけで、二人の間にはもう、事件より古いものが立っていた。
非常階段の扉を開けると、冷たい空気が一気に流れ込んだ。クラウディオはそのまま階段へ出た。白い廊下よりも暗い場所だった。コンクリートの壁。灰色の踊り場。鉄の手すり。非常灯の緑が、床に薄い色を落としている。外に面した小さな窓から、雨上がりの駐車場が見下ろせた。
ルストも続いた。
扉が閉まると、病院の音が遠くなった。
代わりに、外の湿った空気と、コンクリートの冷えた匂いが強くなる。非常階段はほとんど使われていないのだろう。壁際に薄い埃があり、足元には誰かが持ち込んだ雨の水滴が乾きかけていた。
クラウディオは踊り場の手すりのそばで立ち止まった。
ルストは数歩離れて止まる。
完全に二人きりではない。病院の中だ。扉の向こうには人間がいる。階下には警備員もいる。駐車場には車が数台止まっている。だが、この踊り場だけは、世界から少しだけ切り離されていた。
クラウディオは外套の襟を直そうとした。
その時、指先が紙片の話で乱れたままだった襟元に触れた。黒い布がわずかにずれる。
白い首筋が、非常灯の薄い光に浮いた。
古い噛み跡が見えた。
ほんの一瞬だった。
だが、ルストは見た。
それは新しい傷ではない。赤くも、腫れてもいない。血も滲んでいない。時間はとっくに過ぎている。それなのに、消えていない。白い肌に沈むように残る、淡い痕。牙が入った場所。噛まれた跡。傷であり、記録であり、名を与えられない何かの名残。
首筋の皮膚の下に、消えたはずの時間だけが残っているようだった。
ルストの呼吸が、わずかに止まる。
暗い石の壁。
冷たい金属。
血の匂い。
逃げるな、と言った声。
牙を立てた時の、白い喉の熱。
クラウディオの声。
それ以上は、思い出す前に切れた。
クラウディオが気づいたからだ。
彼はすぐに襟を直した。指先は乱れていない。だが、声だけが冷えた。
「見るな」
ルストは目を逸らさなかった。
「聞いていない」
「言わなくても分かる」
「何も言っていない」
「その顔で黙るな。余計にうるさい」
ルストは黙ったまま、半歩だけ視線を落とした。
もう痕は見えない。黒い襟が隠している。だが、見えなくなったから消えるわけではない。むしろ、布の奥にあると分かるだけで、さっきより強く存在する。
クラウディオは手すりに指を置いた。
冷たい鉄の感触がある。今のものだ。現代の病院の非常階段。蛍光灯と非常灯と、湿ったアスファルトの匂いがある場所。そこに意識を戻す。
戻さなければ、別の冷たさが足元から這い上がる。
石の床。
鉄の楔。
鎖の微かな音。
近すぎる息。
首筋に残る熱。
思い出すな。
クラウディオは自分に命じるように、息を吐いた。
「首筋の話をする気はない」
「分かっている」
「なら見るな」
「目に入った」
「目を潰してやろうか」
「必要ない」
「お前のそういうところが一番腹立つ」
ルストは少しだけ眉を動かした。
「どこだ」
「聞き返すところだ」
「答えなければ分からない」
「一生分かるな」
会話は軽く見える。
だが、どちらも軽くは受け取っていない。
ルストは痕について問わない。問えないのではない。問えば、そこに踏み込むことになると分かっている。自分にその権利があるのか、まだ決められない。あると言えば傲慢で、ないと言えば嘘になる。だから黙る。
クラウディオはそれも分かっている。
分かっているから、苛立つ。
問われれば拒める。踏み込まれれば突き放せる。だが、踏み込まれない沈黙は拒みにくい。拒む前に、こちらの中で何かが揺れる。
面倒な沈黙だ。
吸血鬼どもは、会話をしない代わりに沈黙で傷を開ける。文明の発展を何百年分も無駄にしている。人類が見たら嘆くだろうが、人類も人類で涙や証言を武器にするので、あまり偉そうなことは言えない。
クラウディオは話題を戻した。
「人形はまだ見つかっていない。少女の背後も見えていない。紙片は古すぎる。今夜、分かったのはせいぜい、あの濡れ衣が少女一人の浅知恵ではないということだけだ」
「クラウディオを狙った」
「俺を疑わせるには十分だったろう」
「お前の名を使った」
「名前だけじゃない。顔、職業、態度、正体不明さ。人間が疑いたがるものをまとめて利用した。お前も疑った」
ルストの目が沈む。
「……そうだ」
謝罪ではなかった。
だが、逃げもしなかった。
クラウディオは一瞬だけルストを見た。
「素直に認めるな。気味が悪い」
「事実だ」
「お前たちの好きな事実か」
「俺は、お前を疑った」
非常階段の空気が重くなる。
クラウディオは手すりから指を離した。
「それで?」
「それだけだ」
「謝る気ならやめろ。許すと言うのも、許さないと言うのも面倒だ」
「謝るとは言っていない」
「ならもっと悪い」
ルストは返さない。
その沈黙もまた、謝罪に近いものだった。言葉にしないから余計に分かりづらい。分かりづらいから、クラウディオは受け取らないふりができる。
便利だ。
不愉快なほどに。
非常階段の小窓に、水滴がひとつ現れた。
外側ではない。
内側だ。
雨は降っていない。風もない。それなのに、硝子の内側に小さな粒が生まれ、ゆっくり下へ落ちた。非常灯の緑を拾い、歪んだ光になって流れる。
ルストが窓を見る。
「まだ残っている」
「当然だ。罪も、人形も、背後の誰かも残っている」
「怪異は、何に反応している」
「さあな」
「知らないのか」
「名前をつけたくないだけだ」
クラウディオは窓を見なかった。
「怪異は、見られ方で輪郭を覚える。涙だと呼べば涙になる。血を吸う人形だと呼べば、血を吸う顔を覚える。人間は何にでも名前を与えて安心するが、怪異相手にそれをやるのは餌をやるのと同じだ」
「だから名づけない」
「少しは学んだな」
「お前が言った」
「俺のせいにするな」
また短い沈黙が落ちた。
ルストは小窓の水滴から視線を戻した。
戻した先で、またクラウディオの襟元へ視線が落ちる。
二度目だった。
無意識に近い。だが、クラウディオは気づく。
「見るなと言った」
「見た」
「開き直るな」
「隠すのが遅れた」
「お前に合わせてやる義理はない」
クラウディオは襟元へ手を上げた。
今度は、隠すのが一拍遅れた。
非常灯の緑が、白い首筋を薄く照らす。古い痕が、ほんの少しだけ見えた。淡く沈んだ噛み跡。消えたはずの時間が、そこだけにまだ残っている。
ルストは言いかけた。
「まだ――」
クラウディオが遮った。
「昔の顔をするな」
ルストは黙った。
その言葉は強かった。
強いのに、完全な拒絶ではなかった。拒むなら、背を向けて階段を降りればいい。非常扉を開けて、人のいる廊下へ戻ればいい。クラウディオはそれをしない。襟を直しながら、まだ同じ踊り場にいる。
ルストは、そこへ踏み込まなかった。
踏み込まない代わりに、声だけを低くした。
「昔の話をしているんじゃない」
「している」
「なら、今の話をしろ」
クラウディオは答えなかった。
窓の水滴が、またひとつ落ちる。
小さな音が、非常階段の冷たい空気に吸い込まれた。
外のアスファルトは濡れている。だが、空は少しずつ晴れかけていた。雲の切れ間に、薄い月が覗いている。上を見ても雨はない。それなのに、足元の小窓には、また透明な線が増えていく。
クラウディオはそれを見ないふりをした。
「人形の話に戻れ。昔の話をする気はない」
ルストは彼を見ていた。
首筋ではなく、顔を。
逃げるな、と言うには、まだ早い。
触れるには、もっと早い。
だから、ルストはただ言った。
「なら、今の話をしろ」
クラウディオは答えない。
非常階段の白くない暗がりの中で、二人の沈黙だけが、雨上がりの冷えた空気よりも長く残った。




