表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第1部 しがない人形師は現場に立つ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/124

第9話 首筋の古い痕



 病院の裏口へ続く廊下は、表側よりもずっと冷えていた。


 白い壁は少し黄ばんで見え、天井の蛍光灯は端から順に古びた光を落としている。夜間用の静かな照明に切り替えられた病棟とは違い、こちらは人目につかない通路だった。非常階段へ続く扉、清掃用具の置かれた小部屋、灰色の床に残った薄い水跡。病院というより、病院の裏側に置かれた倉庫のような場所だった。


 窓の外には雨上がりの駐車場が見える。


 雨はもう止んでいる。雲の切れ間から、薄い月の光がわずかに落ちていた。アスファルトはまだ濡れており、街灯の白い光を受けて、黒い鏡のように鈍く光っている。救急搬入口の赤い表示灯だけが、遠くで規則正しく点滅していた。風は弱い。だが、建物の隙間を抜けるたび、湿った空気が廊下の窓ガラスを冷やしていく。


 クラウディオ・ルジェリウスは、廊下を一人で歩いていた。


 黒い外套の裾が白い床の上をかすめる。長い黒髪は肩へ落ち、病院の無機質な光の中でいっそう色を濃くしていた。彼は急いでいるようには見えない。逃げているようにも見えない。ただ、これ以上この場所に用がないと判断した者の歩き方だった。


 少女は確保された。


 証言は崩れた。


 クラウディオへ向けられていた濡れ衣の一部は、剥がれ落ちた。


 だが、それで終わりではない。


 消えた修復依頼の人形は見つかっていない。少女の「私だけじゃない」という言葉は、録音機にも、榊の記録にも残った。現場写真の人形の目元は、今も濡れているように見える。少女の所持品から見つかった古い紙片には、クラウディオが一瞬だけ表情を消すほどの何かがあった。


 事件は一区切りしただけだ。


 幕が下りたような顔をして、舞台袖にまだ誰かが立っている。


 人間というものは、本当に後片付けが下手だ。証拠を置く時は妙に丁寧なくせに、終わらせる段になると湿った布のように半端なものを残していく。怪異の方がまだ正直かもしれない。水滴なら水滴として残る。人間の悪意は、笑顔や証言や同情の顔をして残るから始末が悪い。


 クラウディオは非常階段へ続く扉の前で足を止めた。


 背後から、重い足音が近づいていた。


 振り返らなくても分かる。


 灰銀の髪。鋼色の瞳。無駄に大きい体躯。足音を殺せるくせに、あえて殺さない歩き方。


 ルスト・ヴァルレインだった。


「追跡癖でもついたのか」


 クラウディオは扉の方を向いたまま言った。


 ルストは数歩後ろで止まった。


「お前が勝手に消える」


「帰るだけだ」


「事件は終わっていない」


「知っている」


「なら、なぜ帰る」


 クラウディオはようやく振り返った。


 蛍光灯の冷えた光が、彼の白い肌に落ちている。目元には疲労も怯えもない。だが、不機嫌はあった。濡れ衣が晴れたことへの安堵ではなく、まだ見えないものが残っていることへの苛立ち。さらに言えば、ルストがそれを当然のように追ってきたことへの苛立ち。


「警察がいる。灰銀のハンターもいる。しがない人形師が居残る理由はない」


「紙片を見た時、顔が変わった」


 ルストは短く言った。


 クラウディオの目が、ほんの少し冷える。


「気のせいだ」


「違う」


「断定するな。面倒だ」


「お前はあの紙を知っている」


 クラウディオは答えなかった。


 非常階段の扉の向こうから、冷たい空気が漏れている。どこかで換気扇が低く回っていた。病院の機械音、遠くのナースステーションの呼び出し音、窓の外の水たまりを車輪が踏む音。それらが遠く薄く重なっている。


 ルストは一歩近づいた。


「古い菓子屋の包み紙だった」


「見れば分かる」


「店名は欠けていた」


「なら、知らなくていい」


「クラウディオ」


 その名を呼ぶ声に、かすかな重さが乗る。


 クラウディオは嫌そうに視線を外した。


「人形の話をしていたはずだ」


「人形も、紙片も、少女の背後もつながる可能性がある」


「可能性。便利な言葉だな」


「お前が言うな」


 ルストの声は低い。


 怒っているわけではない。責めているわけでもない。ただ、逃がす気もない。事件の話をしているはずなのに、その奥の別のものへ指をかけている。クラウディオには、それが分かった。


 だから、余計に気に食わない。


「消えた人形はまだ見つかっていない」


 ルストが言った。


 クラウディオは鼻で笑う。


「だから終わっていないと言った」


「誰かが持っている」


「だろうな」


「少女一人ではない」


「それも言った」


「なら、あの紙片を調べる必要がある」


「警察がやる」


「お前も知っている」


「俺が何かを知っていることと、それを話すことは同じじゃない」


 ルストは黙った。


 その沈黙が、クラウディオには気に入らなかった。


 問い詰めればいい。掴めばいい。壁際へでも、雨の駐車場へでも、非常階段へでも追い詰めればいい。そうすれば、クラウディオは皮肉で逃げられる。だが、ルストは今、問う前に止まっている。踏み込む権利があるのか、測っている。


 その慎重さが、昔より厄介だった。


「聞きたいことがあるなら聞け」


 クラウディオが言った。


「答えるのか」


「答えない」


「なら聞かない」


「お前、本当に面倒になったな」


「昔よりは考える」


「昔の話をする気はない」


「していない」


 している。


 言葉にはしていないだけで、二人の間にはもう、事件より古いものが立っていた。


 非常階段の扉を開けると、冷たい空気が一気に流れ込んだ。クラウディオはそのまま階段へ出た。白い廊下よりも暗い場所だった。コンクリートの壁。灰色の踊り場。鉄の手すり。非常灯の緑が、床に薄い色を落としている。外に面した小さな窓から、雨上がりの駐車場が見下ろせた。


 ルストも続いた。


 扉が閉まると、病院の音が遠くなった。


 代わりに、外の湿った空気と、コンクリートの冷えた匂いが強くなる。非常階段はほとんど使われていないのだろう。壁際に薄い埃があり、足元には誰かが持ち込んだ雨の水滴が乾きかけていた。


 クラウディオは踊り場の手すりのそばで立ち止まった。


 ルストは数歩離れて止まる。


 完全に二人きりではない。病院の中だ。扉の向こうには人間がいる。階下には警備員もいる。駐車場には車が数台止まっている。だが、この踊り場だけは、世界から少しだけ切り離されていた。


 クラウディオは外套の襟を直そうとした。


 その時、指先が紙片の話で乱れたままだった襟元に触れた。黒い布がわずかにずれる。


 白い首筋が、非常灯の薄い光に浮いた。


 古い噛み跡が見えた。


 ほんの一瞬だった。


 だが、ルストは見た。


 それは新しい傷ではない。赤くも、腫れてもいない。血も滲んでいない。時間はとっくに過ぎている。それなのに、消えていない。白い肌に沈むように残る、淡い痕。牙が入った場所。噛まれた跡。傷であり、記録であり、名を与えられない何かの名残。


 首筋の皮膚の下に、消えたはずの時間だけが残っているようだった。


 ルストの呼吸が、わずかに止まる。


 暗い石の壁。


 冷たい金属。


 血の匂い。


 逃げるな、と言った声。


 牙を立てた時の、白い喉の熱。


 クラウディオの声。


 それ以上は、思い出す前に切れた。


 クラウディオが気づいたからだ。


 彼はすぐに襟を直した。指先は乱れていない。だが、声だけが冷えた。


「見るな」


 ルストは目を逸らさなかった。


「聞いていない」


「言わなくても分かる」


「何も言っていない」


「その顔で黙るな。余計にうるさい」


 ルストは黙ったまま、半歩だけ視線を落とした。


 もう痕は見えない。黒い襟が隠している。だが、見えなくなったから消えるわけではない。むしろ、布の奥にあると分かるだけで、さっきより強く存在する。


 クラウディオは手すりに指を置いた。


 冷たい鉄の感触がある。今のものだ。現代の病院の非常階段。蛍光灯と非常灯と、湿ったアスファルトの匂いがある場所。そこに意識を戻す。


 戻さなければ、別の冷たさが足元から這い上がる。


 石の床。


 鉄の楔。


 鎖の微かな音。


 近すぎる息。


 首筋に残る熱。


 思い出すな。


 クラウディオは自分に命じるように、息を吐いた。


「首筋の話をする気はない」


「分かっている」


「なら見るな」


「目に入った」


「目を潰してやろうか」


「必要ない」


「お前のそういうところが一番腹立つ」


 ルストは少しだけ眉を動かした。


「どこだ」


「聞き返すところだ」


「答えなければ分からない」


「一生分かるな」


 会話は軽く見える。


 だが、どちらも軽くは受け取っていない。


 ルストは痕について問わない。問えないのではない。問えば、そこに踏み込むことになると分かっている。自分にその権利があるのか、まだ決められない。あると言えば傲慢で、ないと言えば嘘になる。だから黙る。


 クラウディオはそれも分かっている。


 分かっているから、苛立つ。


 問われれば拒める。踏み込まれれば突き放せる。だが、踏み込まれない沈黙は拒みにくい。拒む前に、こちらの中で何かが揺れる。


 面倒な沈黙だ。


 吸血鬼どもは、会話をしない代わりに沈黙で傷を開ける。文明の発展を何百年分も無駄にしている。人類が見たら嘆くだろうが、人類も人類で涙や証言を武器にするので、あまり偉そうなことは言えない。


 クラウディオは話題を戻した。


「人形はまだ見つかっていない。少女の背後も見えていない。紙片は古すぎる。今夜、分かったのはせいぜい、あの濡れ衣が少女一人の浅知恵ではないということだけだ」


「クラウディオを狙った」


「俺を疑わせるには十分だったろう」


「お前の名を使った」


「名前だけじゃない。顔、職業、態度、正体不明さ。人間が疑いたがるものをまとめて利用した。お前も疑った」


 ルストの目が沈む。


「……そうだ」


 謝罪ではなかった。


 だが、逃げもしなかった。


 クラウディオは一瞬だけルストを見た。


「素直に認めるな。気味が悪い」


「事実だ」


「お前たちの好きな事実か」


「俺は、お前を疑った」


 非常階段の空気が重くなる。


 クラウディオは手すりから指を離した。


「それで?」


「それだけだ」


「謝る気ならやめろ。許すと言うのも、許さないと言うのも面倒だ」


「謝るとは言っていない」


「ならもっと悪い」


 ルストは返さない。


 その沈黙もまた、謝罪に近いものだった。言葉にしないから余計に分かりづらい。分かりづらいから、クラウディオは受け取らないふりができる。


 便利だ。


 不愉快なほどに。


 非常階段の小窓に、水滴がひとつ現れた。


 外側ではない。


 内側だ。


 雨は降っていない。風もない。それなのに、硝子の内側に小さな粒が生まれ、ゆっくり下へ落ちた。非常灯の緑を拾い、歪んだ光になって流れる。


 ルストが窓を見る。


「まだ残っている」


「当然だ。罪も、人形も、背後の誰かも残っている」


「怪異は、何に反応している」


「さあな」


「知らないのか」


「名前をつけたくないだけだ」


 クラウディオは窓を見なかった。


「怪異は、見られ方で輪郭を覚える。涙だと呼べば涙になる。血を吸う人形だと呼べば、血を吸う顔を覚える。人間は何にでも名前を与えて安心するが、怪異相手にそれをやるのは餌をやるのと同じだ」


「だから名づけない」


「少しは学んだな」


「お前が言った」


「俺のせいにするな」


 また短い沈黙が落ちた。


 ルストは小窓の水滴から視線を戻した。


 戻した先で、またクラウディオの襟元へ視線が落ちる。


 二度目だった。


 無意識に近い。だが、クラウディオは気づく。


「見るなと言った」


「見た」


「開き直るな」


「隠すのが遅れた」


「お前に合わせてやる義理はない」


 クラウディオは襟元へ手を上げた。


 今度は、隠すのが一拍遅れた。


 非常灯の緑が、白い首筋を薄く照らす。古い痕が、ほんの少しだけ見えた。淡く沈んだ噛み跡。消えたはずの時間が、そこだけにまだ残っている。


 ルストは言いかけた。


「まだ――」


 クラウディオが遮った。


「昔の顔をするな」


 ルストは黙った。


 その言葉は強かった。


 強いのに、完全な拒絶ではなかった。拒むなら、背を向けて階段を降りればいい。非常扉を開けて、人のいる廊下へ戻ればいい。クラウディオはそれをしない。襟を直しながら、まだ同じ踊り場にいる。


 ルストは、そこへ踏み込まなかった。


 踏み込まない代わりに、声だけを低くした。


「昔の話をしているんじゃない」


「している」


「なら、今の話をしろ」


 クラウディオは答えなかった。


 窓の水滴が、またひとつ落ちる。


 小さな音が、非常階段の冷たい空気に吸い込まれた。


 外のアスファルトは濡れている。だが、空は少しずつ晴れかけていた。雲の切れ間に、薄い月が覗いている。上を見ても雨はない。それなのに、足元の小窓には、また透明な線が増えていく。


 クラウディオはそれを見ないふりをした。


「人形の話に戻れ。昔の話をする気はない」


 ルストは彼を見ていた。


 首筋ではなく、顔を。


 逃げるな、と言うには、まだ早い。


 触れるには、もっと早い。


 だから、ルストはただ言った。


「なら、今の話をしろ」


 クラウディオは答えない。


 非常階段の白くない暗がりの中で、二人の沈黙だけが、雨上がりの冷えた空気よりも長く残った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ