第10話 昔の話を掘り返すな
非常階段の小窓を伝った水滴は、床へ落ちる前に消えた。
硝子の内側をゆっくり下っていた透明な線は、途中で細く痩せ、非常灯の緑をかすかに歪めたあと、冷えた空気の中へ溶けるように薄くなった。外では雨は降っていない。駐車場のアスファルトは濡れているが、それは先ほどまでの雨の名残で、いま空から落ちてくるものではなかった。
それでも、病院の非常階段には湿り気が残っていた。
コンクリートの壁、鉄の手すり、薄く埃をかぶった踊り場。人が通らない場所特有の冷たさの中に、古い薔薇香水の匂いがごく微かに混じっている。消毒液の匂いとは違う。病院のものではない。人形部屋で嗅いだものと同じ、甘く腐りかけた花の匂い。そして、それに重なるように、焦げた砂糖のような匂いがほんの少しだけ漂っていた。
クラウディオ・ルジェリウスは、その匂いに気づいていた。
気づいていないふりをしていた。
ルスト・ヴァルレインは、その横顔を見ていた。
非常灯の薄い光が、クラウディオの白い頬と黒い外套の襟を浅く照らしている。ほんの少し前、襟元が乱れた拍子に、首筋の古い噛み跡が見えた。ルストはそれを見た。クラウディオは気づいた。そして、「見るな」と言った。
見られたことに怒ったのか。
見られてしまった自分に怒ったのか。
それとも、ルストが何も言わなかったことに怒ったのか。
答えはどれでもあり、どれでもないように見えた。
クラウディオは手すりから指を離し、非常階段の扉へ向かった。
「話は終わりだ」
「終わっていない」
ルストの声は低かった。
「少女は確保された。濡れ衣の一部は崩れた。だが、人形はまだ見つかっていない」
「その話なら警察にしろ」
「紙片も残っている」
クラウディオの足が止まる。
ほんの一瞬だった。
それでもルストには分かった。古い菓子屋の包み紙を思わせる紙片。褪せた赤茶の模様。欠けた店名。古い薔薇香水と、焼けた砂糖のような匂い。少女の所持品から出たそれを見た時、クラウディオは表情を消した。
あの顔は、事件現場で死体を見た時の顔ではない。
吸血痕もどきの傷を見た時の顔でもない。
自分に向けられた濡れ衣へ怒る顔でもない。
もっと奥の、古い場所へ触れられた時の顔だった。
「お前はあの紙を知っている」
ルストは言った。
クラウディオは振り返らない。
「知らない」
「嘘だ」
「便利な言葉だな。お前たちは俺に向けて使う時だけ、ずいぶん躊躇がない」
「顔が変わった」
「美しい顔は光の加減でいくらでも変わる」
「クラウディオ」
名を呼ばれ、クラウディオはようやく振り向いた。
琥珀に近い瞳は、非常灯の緑を映して冷たく見えた。
「人形の話をしていたはずだ」
「人形の話だ。あの紙片も、人形も、少女の背後もつながっている可能性がある」
「可能性。そう言えば、どこまでも踏み込めると思っている」
「踏み込まれたくないのか」
「踏み込んでいい場所と悪い場所の区別もつかないなら、ハンターなどやめろ」
ルストは黙った。
非常階段の向こう、病院の廊下から遠く人の声が聞こえる。ナースステーションの呼び出し音、台車の車輪、どこかの扉が閉まる小さな音。現代の夜の音だった。だが、この踊り場だけは、過去の匂いが混じっている。
クラウディオはそれを嫌っていた。
事件の証拠として扱われることを嫌っているのではない。
過去を、現在の事件の机の上に並べられることを嫌っている。
紙片。焦げた甘い匂い。薔薇香水。人形。首筋の痕。ルストの沈黙。そういうものが、ひとつの線にされることを嫌っている。
ルストは、言いかけた。
「あの痕は――」
クラウディオの声がそれを切った。
「昔の話を掘り返すな」
短く、鋭かった。
怒鳴り声ではない。むしろ静かだった。だが、その静けさには、明確な拒絶があった。踏み込むな。触れるな。言葉にするな。そういう意味が、冷えた刃のように乗っていた。
非常階段の空気が固まる。
ルストはそれ以上言わなかった。
クラウディオも続けなかった。
沈黙だけが残る。
長い回想など必要なかった。二人の間に立った沈黙だけで、十分すぎた。
石の壁の冷たさ。
金属が小さく鳴った記憶。
首筋に残る熱。
血の匂い。
近すぎる息。
逃げるな、と言った声に似たもの。
手首に残った圧。
喉の奥で止まる名前。
それらは、言葉にならないまま、非常灯の薄い光の下を通り過ぎた。通り過ぎただけだった。扉は開かない。過去は、現在の廊下へ完全には入ってこない。だが、隙間風だけは残った。
ルストは低く言った。
「……分かった」
「分かっていない」
「今は聞かない」
クラウディオの目が細くなる。
「今は、か」
「人形の話をする」
「ずいぶん聞き分けがいい」
「聞き分けなければ、お前は逃げる」
「逃げると言うな」
「なら、何と言えばいい」
「選んでいる」
「またそれか」
「便利な言葉だろう」
クラウディオは薄く笑った。
だが、その笑みはいつものように綺麗には整っていなかった。端だけが少し冷え、目元は笑っていない。過去を拒んだあとの顔だった。拒んだのに、その場を離れない顔だった。
ルストはそこへ踏み込まない。
踏み込まないことが、今は最も重い選択だった。
非常階段の扉が開いた。
榊悠真が顔を出した。彼は二人の距離を見て、一瞬だけ眉を動かしたが、すぐ事件の顔に戻った。もう慣れつつあるのかもしれない。人間はこうして、異常にも順応する。あまり褒められた能力ではないが、捜査には役立つ。
「ここにいたか」
「帰るところだ」
クラウディオが即答する。
「帰す前に追加だ」
「最悪の言葉だな」
「少女の所持品から出た紙片、予備の簡易検査が出た。古い香料のような成分がある。薔薇系だ。それから、焼けた砂糖に似た匂いも少し」
クラウディオの指先が、黒い外套の袖に触れた。
ほんの一瞬。
ルストは見逃さない。
クラウディオは、何もなかったように榊を見た。
「それで?」
「紙片の端が濡れている。保管中に濡れた可能性は低い。証拠袋の内側にも曇りが出ている」
「人形の涙か」
榊が低く言った。
クラウディオは答えない。
ルストが代わりに言う。
「名前をつけるな」
クラウディオがわずかに彼を見る。
その視線には、苛立ちと、ほんの少しの意外さがあった。
榊は眉を寄せる。
「何だ、それは」
「怪異に輪郭を与えすぎるな、という話だ」
ルストは短く答えた。
クラウディオは薄く鼻で笑う。
「人に説明されると腹が立つな」
「お前が言った」
「俺の言葉を勝手に使うな」
「便利だった」
「殺すぞ」
「今は困る」
榊はこめかみを押さえた。
「二人とも、頼むから本題に戻ってくれ。こっちは現実の事件を扱っている」
「現実ほど面倒なものはないな」
クラウディオが言った。
榊はそれを無視することにしたらしい。賢明だった。人間、無視する技術は大切だ。使いどころを間違えると人生が終わるが、今は合っている。
「消えた人形は見つかっていない。少女は『私は持っていない』と繰り返している」
「本当だろうな」
クラウディオが言う。
榊の目が鋭くなる。
「本当だと思うのか」
「少なくとも、今は持っていないだろう。少女が最後まで持っていたなら、あの程度の聞き取りで崩れる前に回収されている。人形は別の誰かの手にある」
「防犯カメラには人形を抱えた人物が映っていた」
「少女とは体格が合わない。背を丸めて俺に似せていたが、少女ではない。別の人物だ」
「つまり、少女以外に実行役がいる」
「または、少女に証言の役を与え、人形を別に運んだ者がいる」
榊は息を吐いた。
「やはり少女一人じゃない、か」
「本人も言っただろう。私だけじゃない、と」
非常階段の小窓に、水滴がひとつ増えた。
外は雨ではない。
榊はそれを見て、顔をしかめた。
「まだ出るのか」
「人形が消えたままならな」
クラウディオは言った。
「消えた人形と、紙片と、少女の背後。未回収のものが多すぎる。怪異は未回収の罪にまとわりつく。そういうものだ」
「詳しいな」
「人形師だからな」
「その言い訳、万能すぎるだろう」
「使えるものは使う」
榊は諦めたように肩を落とした。
「それで、クラウディオ。工房の確認が必要だ」
空気が変わった。
非常階段の冷たさが、さらに一段落ちる。
クラウディオの表情は動かなかった。
だが、動かないことそのものが反応だった。
「何を確認する」
「槻島からの依頼記録、修復台帳、人形の受け渡し予定、写真、関連資料。消えた人形があなたの工房《箱庭》と関わっている以上、確認しないわけにはいかない」
「断る」
「拒否されても令状を取るだけだ」
「なら取ってから来い」
「時間が惜しい。任意で協力してくれれば早い」
「人間は任意という言葉でだいたい強制を包む」
「今回は本当に任意だ。だが、拒否すれば手続きを踏む」
「脅しが下手だな」
「交渉が嫌いなんだ」
榊は疲れた声で返した。
クラウディオは視線を落とす。
工房《箱庭》。
その名が出た途端、非常階段の空気とは別の冷たさが、彼の内側に触れた。
人形工房。
修復台。
乾いた木の香り。
古い布。
硝子の目。
棚の奥に置かれた未完成の顔。
壊しては作る手。
作っては壊す手。
見せたくないものがある。
警察に、ではない。
ルストに。
そう思ってしまったことが、クラウディオをさらに不機嫌にした。
ルストは、彼の横顔を見ていた。
「工房に何かあるのか」
「人形がある」
「それだけか」
「人形工房に人形以外を期待するな」
「お前の場合、それで済む気がしない」
「失礼な男だ」
「事実だ」
「お前もその言葉が好きだな」
榊が二人の間に割って入るように言った。
「工房の確認は必要だ。クラウディオ、あんたが拒む理由が事件と関係ないとしても、こちらはそれを判断できない」
「関係ない」
「なら見せられるはずだ」
「その理屈が嫌いだ」
「こちらも好きで言っているわけじゃない」
澪奈からの連絡が、榊の端末に入った。
榊は画面を確認する。
「白石からだ。紙片の写真と、匂いの簡易所見を送ってきた」
彼は画面を二人へ見せた。
小さな写真。証拠袋の中の古い紙片。褪せた赤茶の模様。欠けた文字。端に残る濡れたような染み。画面越しでも、クラウディオには匂いが蘇るようだった。
古い薔薇。
焦げた砂糖。
火の気配。
クラウディオは画面から目を逸らした。
ルストはそれを見る。
「お前は知っている」
「知らない」
「嘘だ」
「ならなぜ聞く」
「言わせたいからだ」
「悪趣味だな」
「お前ほどではない」
クラウディオは薄く笑った。
だが、その笑みに温度はなかった。
「その紙片が工房に関わるとは限らない」
「だから確認する」
榊が言う。
「工房《箱庭》に、槻島から届いた記録があるか。修復依頼の写真が残っているか。人形の受け渡しについて何か記録があるか。見せてもらう」
「見せたくないと言ったら?」
「令状を取る」
「最初からそうしろ」
「時間が惜しいと言った」
「人間はすぐ急ぐ。長く生きる気がないからだろうな」
「長く生きる予定はないが、今日中に仕事は進めたい」
クラウディオは榊を見た。
榊は引かなかった。
それは刑事として正しい態度だった。クラウディオがどれほど不愉快そうにしても、事件の必要があるなら動く。クラウディオはそういう人間を嫌いではない。面倒だとは思うが。
彼は小さく息を吐いた。
「好きにしろ」
「協力すると受け取っていいな」
「お前たちはどうせ来る。鍵を壊されるよりはましだ」
榊は端末をしまった。
「今から向かう。人員は最小限にする。俺と白石、それから必要なら鑑識一人」
「必要ない」
「必要だ」
クラウディオは返事をしなかった。
かわりに、非常階段の扉へ向かう。
その時、ルストが静かに言った。
「俺も行く」
クラウディオは振り返った。
「来るな」
ルストは短く返す。
「行く」
「聞こえなかったのか」
「聞こえた」
「なら来るな」
「行く」
クラウディオは舌打ちに似た息を吐いた。
本当に拒むなら、もっと冷たく切り捨てることはできた。今すぐここで、ルストとの距離を事件ごと切ればいい。灰銀のハンターが必要なら警察へ行け、と言えばいい。工房の場所を変え、鍵を閉ざし、誰にも触れさせなければいい。
だが、しなかった。
できなかったのではない。
しなかった。
それがまた、腹立たしい。
「工房に入って、余計なものを見るな」
「何が余計か分からない」
「なら全部見るな」
「無理だ」
「お前は本当に昔から――」
言いかけて、クラウディオは止まった。
昔から。
その言葉が出たことに、彼自身が気づいた。
ルストも気づいた。
榊は空気の変化を感じ取ったが、踏み込まない。賢い。今そこへ入れば、事件ではない刃に触れることになる。
クラウディオは言葉を変えた。
「……昔の話をする気はない」
「していない」
「しかけただろう」
「お前もだ」
「黙れ」
ルストは黙った。
その沈黙が、なぜか少しだけ穏やかだった。
クラウディオは扉を開けた。
病院の裏口へ続く廊下へ戻ると、蛍光灯の白さが目に入る。非常階段よりも明るい。だが、空気は変わらず冷たかった。榊が先に進み、端末で澪奈へ連絡を入れている。警察官の足音が遠くで動き始めた。
クラウディオは病院の裏口から外へ出た。
雨上がりの夜気が肌に触れる。
駐車場のアスファルトは濡れ、街灯を鈍く映している。救急搬入口の向こうで、遠く救急車のサイレンが短く鳴った。排気音が低く流れ、湿った風が外套の裾を揺らす。
その風で、クラウディオの襟元がわずかに乱れた。
白い首筋に、古い痕が一瞬だけ見える。
ルストは今度は見ないふりをした。
視線を落とさなかった。
首筋ではなく、濡れたアスファルトへ目を向けた。
クラウディオは、振り向かずに言った。
「見ないふりも癪に障る」
ルストは答えない。
濡れたアスファルトに、水滴がひとつ落ちた。
空を見上げても、雨は降っていない。雲は薄く切れ始め、月の光がかすかに滲んでいる。それなのに、水は確かに落ちた。暗い路面に、小さな円を作って消える。
遠くで、どこか古い木箱が閉まるような音がした。
乾いた、低い音だった。
病院にも警察署にも似合わない音。
クラウディオは一瞬だけ足を止めた。
ルストもその音を聞いた。
榊は端末を耳に当てていて、気づかなかったようだった。
クラウディオは何も言わない。
ただ、濡れた夜の中へ歩き出した。
工房《箱庭》へ向かって。




