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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第1部 しがない人形師は現場に立つ

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第11話 人形工房《箱庭》



 工房《箱庭》は、霧杜市の古い路地裏にあった。


 表通りから二本外れた細い道である。夜の街灯は届くが、明るいとは言えない。雨上がりの石畳は黒く濡れ、古い店の軒先から落ちる雫が、排水溝の中へ細い音を立てて吸い込まれていく。飲食店の明かりも、コンビニの白い光もここまでは来ない。代わりに、閉じたシャッター、古い木戸、煤けた壁、かすれた看板が、湿った夜気の中に並んでいた。


 その一角に、小さな看板がかかっている。


 箱庭。


 それだけだった。


 店名の横に、人形、修復、販売、鑑定などの説明はない。古びた木板に黒い文字が彫られ、金属の小さな吊り金具で揺れている。照明は控えめで、扉の上の小さなランプだけが、薄い琥珀色の光を落としていた。夜に営業しているようには見えない。むしろ、開いている方がおかしい店だった。


 榊悠真は、その看板を見上げて眉を寄せた。


「本当にここか」


「目の前の文字も読めないのか」


 クラウディオ・ルジェリウスは黒い外套の襟を整えながら答えた。


「控えめな看板だなと言っている」


「通りすがりの人間に来られても困る」


「商売する気があるのか」


「客を選んでいる」


「しがない人形師の言うことじゃないな」


「しがないから選ぶんだ」


 榊は反論を諦めた。学習能力がある。人間にしては順調だった。いや、クラウディオ相手にいちいち反論していたら寿命が足りない。人類、有限なのだから会話相手くらい選ぶべきである。


 白石澪奈は、店の外観を記録用端末で撮影していた。路地の幅、入り口、看板、周辺の水跡、扉の鍵の形。鑑識官として、彼女はまず場所を見る。空気に呑まれるより先に、物を見る。現実的で、正しい態度だった。


 だが、その現実的な態度でも、店の前に立つとわずかに呼吸が遅れた。


 古い木材の匂いがする。


 雨で湿った路地の匂いとは違う。乾いた木、古い布、絵具、微かな薬品、そして、どこか奥から漂う薔薇香水の匂い。少女の所持品に残っていたものと似ている。だが、ここにある匂いはもっと古く、もっと沈んでいた。時間を吸い込んで、壁の内側に眠らせているような匂いだった。


 ルスト・ヴァルレインは、扉の前で黙っていた。


 灰銀の髪に、路地の湿気がわずかに絡んでいる。二百二十センチに届くほどの巨躯は、狭い路地ではなおさら異様だった。彼は店の中を見ていない。まだ扉は閉じている。それなのに、視線はすでに内側へ届いているようだった。


 クラウディオは鍵を取り出した。


 古い鍵だった。現代の電子錠ではなく、細い金属の鍵。榊がそれを見て何か言いたげにしたが、言わなかった。クラウディオが鍵穴に鍵を差し込み、短く回す。


 かちり、と音がした。


 扉が開く。


 工房《箱庭》の内側は、外の湿った夜と違い、乾いた静けさに満ちていた。


 入ってすぐの空間は、店舗というより小さな展示室だった。壁際には古い人形用の棚があり、アンティークドールが数体、間隔を空けて置かれている。照明は低く、暖色の光が硝子の目に小さく映っていた。床は磨かれた古い木で、雨の足跡が入り込まないよう、入口には厚手の布が敷かれている。


 クラウディオが振り返った。


「靴を拭け」


「分かっている」


 榊が答える。


「手袋もだ。人形を死体と同じ扱いで触るな」


「触る前に確認する」


「触るなと言っている」


「調査に必要なら触る」


 クラウディオの目が冷える。


「なら、せめて正しく触れ。無遠慮な指で古い関節を折ったら、警察署ごと修復費を請求する」


「そんな請求が通るか」


「通す」


 榊はため息を飲み込んだ。たぶん飲み込めていない。顔に出ていた。


 澪奈は白手袋を装着した。薄い手袋ではなく、繊維を落としにくいものを選ぶ。クラウディオはそれを一瞥し、何も言わなかった。黙ったということは、最低限は合格なのだろう。採点の厳しい人形師である。面倒な教官か。いや、本人に教える気はないので、もっと性質が悪い。


 榊は店内を見回した。


「表はこれだけか」


「客に見せる部分はな」


「奥を確認する」


「言われなくても分かっている」


 クラウディオは工房の奥へ向かった。


 細い廊下を抜けると、作業場があった。


 そこは、表の展示室とは違い、実際に手を動かす場所だった。中央に大きな作業台がある。白い布が広げられ、その上に小さな筆、細い針、硝子の眼球、未完成の指、木製の関節、古いレース、乾いた絵具、人形用の靴、銀色の小さな鋏が整然と並んでいた。壁には工具が吊られ、引き出しには細かく番号が振られている。棚には修復途中の顔がいくつか置かれ、空の胴体が布に包まれていた。


 不気味ではある。


 しかし、乱れてはいない。


 むしろ、異様なほど整っていた。


 澪奈はそれが意外だった。人形工房と聞いて想像する薄暗さ、埃、奇妙な趣味の部屋。そういうものはない。ここは仕事場だった。道具の位置には意味があり、布の折り目には手順があり、硝子の眼球の並べ方にも分類がある。美しさではなく、精度のための整頓だった。


 だが、その整い方がまた、人の生活から遠かった。


 椅子の背に脱ぎ捨てられた上着はない。飲みかけのカップもない。無造作に置かれたメモや、作りかけのものを迷って放置した痕跡もない。すべてが、決められた位置に戻されている。戻さなければならない、とでもいうように。


 澪奈は端末で作業台を撮影した。


「台帳はどこですか」


 榊が問う。


 クラウディオは壁際の棚を指した。


「左から三番目。依頼記録、受け渡し記録、修復台帳。年代順に並べている。乱すな」


「確認する」


 榊は棚へ向かい、慎重に台帳を取り出した。厚い革装の帳面だった。紙は古いが、管理は丁寧だ。日付、依頼者名、人形の特徴、損傷箇所、見積もり、受領日、完了予定日、引き渡し日。手書きの文字は端正で、無駄がない。


 澪奈は台帳を撮影する。


「槻島宗一郎の依頼は……ありました」


 榊がページを押さえる。


 そこには、槻島宗一郎の名前が記載されていた。修復予定の人形。右腕欠損。左目ガラス交換。胸部機構修復。受け取り予定日。費用見積もり。備考。


 だが、受領欄は空白だった。


 榊は顔を上げる。


「受け取っていない、と」


「言っただろう」


 クラウディオは作業台のそばに立ったまま答えた。


「台帳上もそうなっています」


 澪奈が言った。


「受領印、写真番号、保管棚番号、いずれも空欄です」


「こちらの記録では、まだ工房に入っていない」


 榊はページを確認しながら言った。


「だが、槻島側の依頼書では、受け渡しが済んだようにも読める記載があった」


「槻島がそう思っていたか、そう思わせる紙を誰かが用意したか」


「またそれか」


「何度も言わせるな。証拠は勝手に嘘をつかない。人間が証拠に嘘の役を与える」


 榊は台帳から顔を上げた。


「この工房へ、人形が近づいた可能性は?」


 クラウディオは答えなかった。


 澪奈が、棚の一角に顔を近づける。


「匂いがします」


 彼女の声が静かに変わった。


「少女の所持品の紙片と似ています。古い薔薇香水。それから……焼けた甘い匂い」


 クラウディオの肩が、ほんのわずか強張った。


 目で見なければ分からないほどの変化だった。だが、ルストは見ていた。見逃さなかった。クラウディオが自分で気づかれたことを悟る前に、ルストは視線を外した。


 問わない。


 その選択をした。


 クラウディオはそれにも気づく。


 気づいて、さらに不機嫌になる。見られるのも癪に障る。見ないふりをされるのも癪に障る。どちらにしろ腹が立つ。実に面倒な男である。まあ、本人も分かっているだろう。分かっていて直す気がない。最悪だ。


 澪奈は棚の前で検査用の小さな紙片を取り出した。


「採取します」


「棚には触るな」


 クラウディオが言う。


「表面の匂いを確認するだけです」


「それでもだ」


「クラウディオ」


 榊が口を挟む。


「必要な確認だ」


「必要なら許されると思うな」


「許可を求めている。だが、事件の調査でもある」


 クラウディオは数秒黙った。


 それから、細い溜息を吐く。


「棚の右端、そこだけにしろ。引き出しは開けるな」


「理由は?」


「言わせるな」


 榊は眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。


 澪奈は慎重に、棚の右端から微量の成分を採取した。触れたか触れないか分からないほどの動きだった。それでも、クラウディオは見ていた。硝子の目より厳しい視線だった。


 ルストは作業台のそばで、空気を読んでいた。


 血術ではない。


 だが、血に似た残響がある。


 人形部屋で感じたものと同じではない。もっと薄く、もっと古く、乾いた木の奥に染み込んだような気配だった。人形の涙。死者の血。隠したい罪。そこに別のものが混じっている。喪失。執着。取り戻せないものへ向けて、何度も手を伸ばした痕。


 ルストはクラウディオを見た。


 クラウディオは見返さない。


「奥は」


 榊が言った。


 クラウディオの声が低くなる。


「必要ない」


「確認する」


「そこは見る場所じゃない」


 空気が変わった。


 それまでの作業場に対する不機嫌とは違う。もっと深い。もっと直接、皮膚の下へ刃を当てられたような拒絶だった。


 榊は表情を引き締める。


「消えた人形がここにないかを確認する必要がある。奥の部屋も見る」


「受け取っていないものは、ここにはない」


「それを確認する」


「令状を取ってからにしろ」


「任意協力の範囲を超えるなら、今から取る」


「なら帰れ」


 榊が息を吸う。


 だが、その前にルストが口を開いた。


「クラウディオ」


 短い声だった。


 クラウディオはルストを見た。


 ルストは問わなかった。


 奥に何があるのか。


 誰の人形なのか。


 なぜ見せたくないのか。


 何も聞かなかった。ただ、静かに言った。


「触らない」


 クラウディオの表情が、一瞬だけ崩れかけた。


 すぐに戻る。


「誰もお前に触れと言っていない」


「触らない。見るだけだ」


「見るな、と言いたいところだ」


「言えばいい」


「言ったら余計に見るだろう」


「見ないふりはできる」


「それも癪に障る」


 ルストは黙った。


 榊は二人を見比べる。何かを察したようだが、踏み込まなかった。彼もこの数時間で、踏み込むべきではない沈黙というものを学びつつある。遅いが、学ばないよりはましだ。


 クラウディオは奥の扉へ歩いた。


 作業場のさらに奥。細い扉があった。表の展示室や作業場とは違い、そこだけ鍵が二重にかかっている。クラウディオは鍵束から小さな鍵を選び、ひとつ、ふたつと開けた。


 扉が開く。


 奥の部屋は、薄暗かった。


 照明はある。だが明るくはない。棚が壁一面に並び、その棚に少女人形が置かれていた。数は多い。多すぎるほどではない。けれど、一体一体の存在感が強く、部屋に入った瞬間、見られているような感覚があった。


 澪奈は足を止めた。


 美しかった。


 どの人形も、美しい。


 髪の色は少しずつ違う。淡い金、灰色がかった茶、銀に近い白、夜明け前の空のような青みを帯びた黒。目の形も違う。頬の丸みも、唇の角度も、首の傾きも、指先の細さも、すべて違う。ドレスの色、靴、リボン、レースの使い方も違っている。


 それなのに、似ていた。


 同じ顔ではない。


 同じ作品群というだけでもない。


 同じ誰かを目指している。


 澪奈はそう感じた。


 同じ顔を複製しようとしたのではない。もっと不確かで、もっと痛々しいものだった。ある一人へ辿り着こうとして、髪の色を変え、目の形を変え、頬の角度を変え、唇の薄さを変え、何度も何度も手を伸ばし、そのたびに少し違うものになってしまった痕跡。


 これはコレクションではない。


 作品、とも言い切れない。


 同じ誰かに届こうとして、届かなかったものたちだ。


 美しい、と思うより先に、怖いと思った。


 澪奈は自分の感覚に戸惑った。人形が怖いのではない。クラウディオが怖いのでもない。美しいものが、失敗の形で並んでいることが怖かった。失敗、と言っていいのかも分からない。だが、その部屋には、成功してはいけないものを何度も作り直したような不気味さがあった。


 榊も無言だった。


 彼は職務として部屋を見ている。消えた人形があるかどうかを確認するために。だが、刑事としての目の奥に、人間としての戸惑いが混じっていた。


 クラウディオは部屋の入口に立ったままだった。


 奥へは入らない。


 自分の部屋なのに、入ることを避けているようにも見えた。


「触るな」


 彼は低く言った。


 ルストが短く返す。


「触らない」


 その言葉に、澪奈は奇妙な重みを感じた。


 単なる捜査上の確認ではない。そこには境界線があった。ここから先は触れない。問わない。名前をつけない。そういう、二人だけが分かる線。


 澪奈はそっと部屋の端を撮影した。


「消えた修復依頼の人形と一致するものは、見当たりません」


 榊が棚を一列ずつ確認する。


「右腕欠損、左目交換待ち、胸部機構修復予定……該当する状態の人形はないな」


「だから言った」


 クラウディオの声は冷たい。


 だが、その冷たさは自分を守るためのものにも聞こえた。


 澪奈は床を見た。


 棚の前、入口からは離れた場所に、小さな水滴があった。


 工房内は乾いている。路地は雨上がりだったが、ここまで水が入り込む構造ではない。入口からの足跡も、この部屋までは続いていない。水滴は、まるで棚の前に落ちた涙のように、床の木目の上で丸く光っていた。


「床に水滴があります」


 澪奈が言った。


 クラウディオの顔がわずかに険しくなる。


「採取します」


「触るな」


「床です」


「床でもだ」


 榊が言いかけたが、澪奈が先に手を止めた。


「位置と写真だけ先に記録します」


 彼女は水滴へ直接触れず、撮影した。ルストが一歩近づく。しゃがまない。近づきすぎない距離で、目だけを細める。


「血術ではない」


 低く言った。


「だが、血に似た残響がある。人形部屋と同じだ。薄いが、ここにも残っている」


 クラウディオは何も言わない。


 澪奈は水滴から棚へ視線を上げた。


 棚の中央に、未完成の人形があった。


 まだ目が入っていない。顔は途中まで作られている。頬の輪郭は柔らかく、唇はわずかに開きかけていた。髪もまだついていない。白い頭部と、細い首、未塗装の手。完成していないからこそ、その不在は強かった。目がないのに、見られているような気がする。そこにいるべき誰かが、まだ来ていないような空白があった。


 澪奈は、その人形を見て言葉を失った。


 美しい完成品よりも、未完成のその顔の方が、ずっと強く胸に残った。


 クラウディオは、その人形だけは見なかった。


 ルストはそれにも気づいた。


 聞かない。


 今は聞かない。


 そう決めているのに、沈黙は痛かった。


 榊が棚の端を確認していると、澪奈が別の匂いに気づいた。


「この棚の一角、紙片と似た匂いがします」


 クラウディオの指が動く。


「どこだ」


 榊が問う。


「中央下段。古い薔薇香水と……焼けた甘い匂い。作業場の棚より少し強いです」


 クラウディオが足を踏み出しかけた。


 すぐに止まる。


 そこへ近づきたくないのか、近づくべきではないのか、自分でも決めかねているようだった。


 ルストがその棚を見る。


「ここへ何かが近づいた」


「人形か、紙片か、運んだ人間か」


 榊が言う。


「工房に侵入者がいた可能性は?」


 クラウディオは答えない。


 榊が再度問う。


「クラウディオ」


「鍵は壊れていなかった」


「合鍵は」


「作っていない」


「内部を知る人間は」


「いない」


「本当に?」


 クラウディオが榊を見た。


 その視線だけで、榊はそれ以上の問いを止めた。嘘をついているというより、その質問自体に触れてはいけないものがあるようだった。


 ルストは棚の前へ近づいた。


 人形には触れない。


 だが、気配を読む。


 ここにも残っている。湿り気。古い花。焼けた甘さ。血ではないのに血に似たもの。怪異というより、怪異が何かを見つけて舐めた跡のようなもの。


 クラウディオが言った。


「そこに立つな」


 ルストは振り返る。


「邪魔か」


「違う」


「なら」


「そこに立つな」


 ルストは数秒黙った。


 そして、一歩引いた。


 クラウディオの表情がまた少しだけ乱れかけた。


 言えば引く。


 それが腹立たしい。


 言わなければ踏み込むくせに、言えば引く。その選び方を覚えられていることが、苛立つ。見られたくない場所を見抜かれ、踏み込まれないようにされることも、十分に暴力めいている。


 澪奈は、その沈黙を見ないふりをした。


 見ないふりをしながら、奥の棚の人形たちを見た。


 同じ誰かへ辿り着こうとして、失敗し続けた痕跡。


 その言葉が頭から離れなかった。


 彼女は科学分析担当だ。感覚で物を決めるべきではない。人形に込められた思いなど、測定できない。だが、この部屋では、測定できないものほど濃く残っている。


 人形の肌の白さ。


 硝子の目の光。


 未完成の指。


 古いレース。


 どれも静かで、どれも綺麗で、どれも少しずつ間違っているように見える。


 その時だった。


 棚の右端に置かれた少女人形の目元に、透明な水滴が生まれた。


 誰も触れていない。


 その人形は、事件現場から持ち込まれたものではない。


 クラウディオが作った人形だった。


 水滴は目元で一瞬とどまり、それから白い頬を伝って落ちた。


 床へ触れる音は小さかった。


 だが、部屋にいた全員が聞いた。


 クラウディオの顔から表情が消えた。


 ルストが一歩近づく。


 クラウディオが低く言った。


「触るな」


 ルストは短く返した。


「触らない」


 澪奈は息を殺しながら、人形の頬を見た。


 水滴が通った場所のすぐ横に、細い線があった。


 亀裂だった。


 古い傷ではない。


 塗装の下から自然に出たものでもない。


 つい先ほど、誰かが爪の先でなぞったような、浅く細い線。人形の頬を、泣いた跡とは別の方向へ裂くように走っている。


「亀裂があります」


 澪奈の声は、自分でも驚くほど低かった。


 榊が近づく。


「古いものか」


「違います。少なくとも、表面の埃の入り方から見て、古くありません。ごく最近です。触れた跡もあるかもしれません」


 榊がクラウディオを見る。


「誰かが、ここに入ったのか」


 クラウディオは答えない。


 答えないまま、人形を見ていた。


 美しい顔の上に、細く走った亀裂。


 水滴の跡。


 それは、事件現場の人形ではない。


 ここにあったものだ。


 クラウディオの領域の内側に置かれていたものだ。


 その内側まで、何かが来ている。


 あるいは、誰かが来ていた。


 工房の奥で、こつん、と音がした。


 木箱の蓋が閉まるような、乾いた音だった。


 全員が振り向く。


 棚の奥、未完成の人形たちの向こう。暗がりの中に、古い保管箱がいくつも積まれている。だが、動くものはない。人影もない。風もない。扉も閉じている。


 そこには、人形しかいなかった。


 澪奈は、手袋の中で指先が冷えるのを感じた。


 クラウディオは、まだ亀裂の入った人形を見ていた。


 ルストは、クラウディオを見ていた。


 そして誰も、すぐには次の言葉を選べなかった。



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