第12話 壊された人形
工房《箱庭》の奥で、音がした。
こつん、と。
木箱の蓋が閉まるような、乾いた小さな音だった。古い人形棚の奥、未完成の顔と白い布の影が重なる場所から聞こえたはずだった。だが、灯りを向けてもそこには人形しかない。人影はない。扉は閉じている。窓もない。空気の流れさえ、ほとんど感じられなかった。
それでも音は残った。
工房の奥の部屋は、いっそう静かになった。少女人形たちが並ぶ棚の前で、榊悠真が動きを止める。白石澪奈は手袋をした指を引き、床の水滴と、棚の右端に置かれた人形を見比べていた。ルスト・ヴァルレインは、壊れた音のした奥ではなく、クラウディオ・ルジェリウスを見ていた。
クラウディオは、棚の右端の人形から目を離さなかった。
その人形の頬には、細い亀裂があった。白い肌に、爪の先でなぞったような浅い線が走っている。つい先ほど見つかったばかりの傷だった。水滴が目元から落ち、頬を伝い、その亀裂の脇を濡らしていた。事件現場の人形ではない。槻島宗一郎の屋敷から消えた修復依頼の人形でもない。ここにあった、クラウディオが作った人形だった。
澪奈は声を抑えた。
「破損の確認をします」
「触るな」
クラウディオの声は低かった。
怒鳴らない。
だが、部屋の温度を一段落とすような声だった。
澪奈は手を止める。榊が視線を向けた。
「確認しないわけにはいかない」
「見るだけにしろ」
「破片、湿り気、繊維、指紋、香り。調べる必要がある」
「必要なら許されると思うな」
「クラウディオ」
榊の声が硬くなる。
「ここは事件現場になる可能性がある。あんたの工房だろうと、調べる」
クラウディオは榊を見なかった。
見れば、余計なものまで出ると分かっているようだった。彼は人形だけを見ている。目元に水滴を残した、頬に亀裂を入れられた人形だけを。
ルストは一歩も動かなかった。
人形に触れようとはしない。
クラウディオがそう言う前から、彼は触れなかった。大きな手は身体の横に落ちたままだった。指はわずかに曲がっている。伸ばせば届く距離にある人形へ、あえて触れない。その選択が、静かにそこにあった。
クラウディオはそれに気づいていた。
気づいて、顔をしかめた。
見られるのも、見ないふりをされるのも、問われるのも、問われないのも癪に障る。あまりにも救いのない精神構造だった。本人も分かっているだろう。分かっていて直す気がないから、なお質が悪い。
澪奈は、クラウディオの反応を見てから、慎重に言った。
「直接触れずに記録します。写真、温度、湿度、位置関係。それから、落下物の確認だけ先に」
クラウディオは答えない。
答えないことを、拒否ではなく許可と受け取るには危険すぎる。だが、今はそれ以外に道がなかった。
澪奈は、まず人形の全体を撮影した。
薄い灰色のドレスを着た少女人形だった。髪は淡い金に近い。目は硝子。片方だけが嵌まっている。もう片方は外れていた。顔の左側に細い亀裂。首元にも、ごく浅い線がある。胸元は開いていた。作りかけではない。後から開かれたような、不自然な露出だった。人形の内側、空洞の暗がりが、白い布の奥に覗いている。
右手の指が一本、折れていた。
折れた指は床に落ちている。だが、欠けたはずの小さな破片が足りない。頬の亀裂も、破片が全て床に落ちているようには見えなかった。硝子の目も片方見つからない。外れたなら、棚か床か布の上に落ちているはずだった。
榊がしゃがみ込む。
「目の片方がないな」
「はい。床には見当たりません」
澪奈が答える。
「指の欠片も一部足りません。頬の亀裂周辺も、微細な破片が落ちていない。破損しただけなら、近くに残るはずです」
「誰かが持ち去った?」
「可能性があります」
クラウディオの目がわずかに細くなる。
榊は彼を見る。
「これはいつ壊れた」
「知らない」
「工房の主だろう」
「人形が壊れる瞬間を毎秒監視する趣味はない」
「以前から壊れていたのか」
クラウディオは、そこで初めて榊を見た。
琥珀色の瞳が冷たく沈む。
「失敗作だ」
部屋が黙った。
その一言は、想像以上に冷たく聞こえた。
自分の作った人形が壊されている。目が外れ、頬に亀裂が入り、胸を開かれ、指を折られている。それなのに、クラウディオは「失敗作だ」と言った。悲しみも怒りも見せず、ただ分類するように。棚の上の道具を、種類別に分けるように。
澪奈は、思わず彼を見た。
理解できなかった。
同じ面影を持つ少女人形が並んだこの部屋は、コレクションではないと彼女は感じていた。作品とも言い切れない。何度も何度も同じ誰かへ辿り着こうとして、辿り着けなかったものたち。なら、その一体が壊されることは、ただの物損ではないはずだった。
それを、失敗作。
そう言い切る声が、あまりにも冷たかった。
榊の表情が険しくなる。
「失敗作だから、壊れても構わないという意味か」
「そう聞こえたなら、お前の耳が雑だ」
「なら説明しろ」
「必要ない」
「必要がある。ここで破損が見つかっている。消えた人形と同じ怪異残響、同じ香り、同じ水滴がある。工房内で壊されたなら、事件に関係する」
「事件に関係するかどうかと、俺の評価は別だ」
「評価?」
「失敗作だと言った」
クラウディオは、もう一度言った。
今度は少し低かった。
澪奈には、その言葉が人形へ向いているようで、別の何かへ向けられているようにも聞こえた。冷たい評価ではない。むしろ、そう言うことでしか触れられないもののようだった。
ルストは、その言葉の奥を見ていた。
彼には分かった。
クラウディオは、人形をどうでもいいものとして扱っているのではない。
どうでもよくないから、失敗作としか言えない。
その人形は、届かなかったものだった。取り戻せなかったものだった。似せようとして、似なかったもの。完成させても、そこにいるべき誰かにはならなかったもの。だから失敗作。壊れたから失敗したのではない。完成した時点で、すでに届かなかった。
それを慰める言葉など、ない。
だからルストは黙った。
クラウディオは、ルストが黙っていることにも気づいた。
見抜かれている。
だが問われない。
その沈黙が、触れられるよりも厄介だった。
「慰める顔をするな、灰銀」
クラウディオが言った。
ルストは短く返す。
「していない」
「なら、その顔をやめろ」
「どんな顔だ」
「俺に聞くな」
「黙っていろと言うなら、黙る」
「その沈黙も癪に障る」
榊は二人のやり取りに口を挟みかけ、やめた。
事件として見れば、異常だった。だが、今の二人の間へ入り込むのは、現場保存を壊すより危険に見えた。刑事の勘というものも、たまには身を守る役に立つ。
澪奈は人形の破損箇所へ視線を戻した。
「破損箇所に湿り気があります」
彼女は慎重にライトを当てた。
人形の頬の亀裂。その線の中に、ごく微量の水分が光っている。床の水滴と似ている。涙のように見えるが、人間の涙とは違う。目元から落ちた水滴とも連続しているようだった。
「雨や結露では説明できません。工房内は乾いています。湿度も安定しています」
榊が問う。
「人形の内部から出た?」
「それも断定できません。ただ、破損箇所だけが湿っています。ドレスの裾も少し濡れています」
澪奈は人形の足元を指した。
灰色のドレスの裾が、うっすら濡れていた。水に浸かったような濡れ方ではない。涙が幾筋も落ち、布の端だけが湿ったような、不自然な濡れ方だった。
ルストが低く言う。
「残響が濃い」
榊が顔を向ける。
「怪異か」
「それだけではない」
ルストは人形に触れないまま、少しだけ近づいた。
「水滴、冷気、薔薇の匂い。焼けた甘さ。血術ではない。だが、血に似たものが絡んでいる。壊れたものに、何かが反応している」
「怪異が壊したのか」
「単独ではない」
クラウディオが言った。
ルストより先だった。
「怪異は、ここまで正確に壊せない。目の片方を持ち去り、指の欠片を消し、胸を開いて異物を残す。そういう細工は人間の仕事だ」
榊の目が鋭くなる。
「異物?」
クラウディオは答えなかった。
澪奈が人形の胸元へライトを向ける。
白い布の奥、開いた胸の内側に、何かがあった。
「……何かあります」
澪奈の声が低くなる。
クラウディオの表情が消える。
ルストが、それを見逃さない。
「人形を動かします」
澪奈が言った。
「触るな」
クラウディオが即座に返す。
「動かさないと確認できません」
「なら俺がやる」
榊が眉を寄せた。
「証拠保全の観点からは――」
「壊すなと言っている」
クラウディオの声が、初めて少しだけ荒くなった。
荒いと言っても、怒鳴りはしない。だが、冷えた声の下に明確な苛立ちがあった。人形を守りたいのか、証拠を見られたくないのか、自分でも判別したくないような声だった。
澪奈は少し考えた。
「では、あなたが支えてください。私は異物の位置だけ確認します。直接触れるのは私が行います。記録を残します」
「手袋を替えろ」
「替えます」
「道具は」
「滅菌済みのピンセットを使います」
「先端が太い」
「細いものに替えます」
澪奈は手早く道具を替えた。
クラウディオは棚へ近づく。
ルストは動かなかった。
人形へ触れるクラウディオの指を見る。細い指が、壊れた人形の背を支える。必要最低限の力だけで、これ以上破損が広がらないように角度を変える。その手つきは冷たい言葉と一致しなかった。失敗作と言った男の手は、壊れたものを扱う時、ひどく慎重だった。
榊もそれを見た。
だが、今は何も言わない。
澪奈は胸の内側をライトで照らした。
暗い空洞の奥に、小さな布片があった。
焦げている。
黒く縁が縮れ、中央に薄い模様が残っていた。布というより、古い包み紙と布の中間のような薄いものだった。繊維の断面が焼け、そこから甘い匂いが立つ。砂糖を焦がしたような、懐かしさを伴う匂い。その奥に、古い薔薇香水が絡んでいる。
「焦げた布片……いえ、紙片に布が貼りついたようなものです」
澪奈は慎重に摘み出した。
小さな異物は、証拠用の白い皿の上に置かれる。焼けた端が、ライトに照らされて鈍く光った。
クラウディオの顔から表情が消えた。
白く、滑らかに。
怒りも皮肉もなくなる。
ただ、何もない顔になった。
ルストは、それを見る。
クラウディオが死体を見た時でも、濡れ衣を向けられた時でも、人形の水滴を見た時でもしなかった顔だった。
それは、見てはいけない顔だった。
だからルストは何も言わなかった。
問わない。
慰めない。
ただ、そこにいる。
クラウディオはそれにも気づく。気づいて、ほんの少しだけ目を細める。救われたのか、苛立ったのか、そのどちらにも見えた。
榊は焦げた布片を見下ろす。
「少女の紙片と同じ系統か」
澪奈は匂いを確認し、すぐに証拠袋へ移す。
「古い薔薇香水と、焼けた甘い匂い。かなり近いです。成分分析が必要ですが、同じ出所、または同じ場所にあった可能性があります」
「これが人形の胸の中に入っていた」
「はい」
「誰が入れた」
榊の問いに、誰もすぐには答えなかった。
クラウディオは人形を元の位置へ戻した。
その手つきは静かだった。壊れた頬に触れないよう、胸の空洞がさらに開かないよう、折れた指の残った手を支えながら、そっと棚へ戻す。
ルストは、人形そのものではなく、その手を見ていた。
失敗作だ。
そう言った手が、壊れたものを壊れたままにしておけないように動いている。
澪奈は欠片の不足を記録する。
「硝子の目の片方がありません。折れた指の欠片も一部不足。胸を開いた時に落ちたはずの微細な破片も足りません」
榊がクラウディオを見る。
「外部侵入の痕跡は薄い。鍵は壊れていない。工房の主はあんただ。クラウディオ、説明してもらう」
クラウディオは冷ややかに答えた。
「俺が壊したと言いたいなら、そう言え」
「可能性としてはある」
「正直でよろしい」
「だが、壊れ方に違和感がある」
榊は人形へ目を戻した。
「さっきの手つきと、この破損の仕方が合わない。あんたが壊すなら、もっと違う壊し方をする気がする」
「俺の破壊傾向まで推理するな」
「必要ならする」
ルストが低く言った。
「お前の壊し方じゃない」
クラウディオの視線がルストへ向く。
それは、榊に向けたものより鋭かった。
「知ったような口を利くな」
「知っている」
部屋が静まった。
榊も澪奈も、何を知っているのかまでは聞かなかった。聞ける空気ではなかった。
ルストは続けない。
ただ、壊された人形を見た。
「クラウディオなら、もっと静かに壊す。もっと容赦なく、もっと綺麗に。これは違う。傷が浅い。見せるための傷だ」
クラウディオは薄く笑った。
「褒めているのか、貶しているのか分からんな」
「事実だ」
「お前も榊と同じ病気か」
「何の話だ」
「事実と言えば何でも許されると思っている病気だ」
榊が割り込む。
「俺を巻き込むな」
だが、空気は少しも軽くならなかった。
ルストの言葉は、クラウディオの無実を示すためのものでもあり、別の意味ではもっと深く踏み込むものだった。クラウディオが何かを壊してきたことを知っている。だが、今回の壊れ方は違うと分かる。それは、誰より近くで見てきた者の判断だった。
クラウディオは、それ以上返さなかった。
返せば、別の扉が開く。
それを互いに知っていた。
澪奈が人形の頬へライトを当てる。
「頬の亀裂は、爪のような硬いものでなぞった痕に見えます。深さは浅いですが、新しい。破損箇所の湿り気は亀裂周辺に集中しています」
「人形の涙が、傷を濡らしたように見えるな」
榊が言った。
クラウディオがすぐに返す。
「名前を与えるな」
榊は黙った。
その沈黙の中で、榊の端末が震えた。
短い通知音。
現実的で、無機質で、場違いなほど明るい音だった。
榊は画面を見る。
眉が寄る。
「警察庁からだ」
澪奈が顔を上げる。
「追加指示ですか」
「いや……資料閲覧権限に、新しい名前が追加されている」
榊の声が低くなる。
「警察庁の外部顧問が、この件を見たいそうだ」
クラウディオは、人形から目を離さない。
ルストが榊を見る。
「誰だ」
榊は画面の名前を読み上げた。
「久遠院怜司」
その名は、工房の奥で妙に乾いて響いた。
クラウディオは強く反応しなかった。
ただ、ほんの微かに不快そうに目を細めた。
「好きにしろ」
彼は低く言った。
「失敗作だ」
その言葉は、壊された人形へ向けられたもののようだった。
だが、ルストには違って聞こえた。
人形だけではない。
もっと別のものへ向かっている。
届かなかったもの。
取り戻せなかったもの。
そして、それを作り続けた自分自身へ。
ルストは何も言わなかった。
何も言わないまま、ただそこにいた。
壊された人形の残った硝子の目から、水滴がひとつ落ちた。
頬を伝わらず、外れた胸の空洞へ滑り込む。
乾いた木箱の底を叩くような音がした。
こつん、と。
工房《箱庭》の奥で、その音だけが長く残った。




