第13話 久遠院怜司
工房《箱庭》の奥は、まだ冷えていた。
壊された少女人形は棚の右端に置かれたまま、片方だけ残った硝子の目で暗い部屋を見ていた。頬には浅い亀裂が走り、胸元は開かれ、空洞の内側に水滴の跡が残っている。折れた指の欠片はすべて揃わず、外れたはずの硝子の目も見つからない。白い布の上に置かれた焦げた布片は、証拠袋の中へ移されてもなお、古い薔薇香水と焼けた砂糖のような匂いを薄く漂わせていた。
作業灯の光は、部屋の中央だけを照らしている。
棚に並ぶ少女人形たちは、黙っていた。どの顔も美しい。だが、その美しさは、澪奈にはもう素直なものとして映らなかった。髪の色も、目の形も、唇の角度も少しずつ違う。けれど、同じ誰かへ向かって作られている。辿り着こうとして、辿り着けなかったものたちが、棚の上で静かに息を止めているようだった。
白石澪奈は、記録用端末の画面を確認した。
壊された人形の正面、斜め、背面。胸部の開口部。亀裂。水滴。床の位置関係。焦げた布片。棚の右端。作業場から奥の部屋へ続く扉。鍵。台帳。受け渡し記録。ひとつずつ撮影したはずなのに、何かを撮り落としているような感覚が消えない。
写真には写らないものが多すぎる。
匂い。
冷気。
クラウディオの声の温度。
ルストの沈黙。
人形の目元に残った水滴の、意味のようなもの。
科学はそれらを全部同じ器に入れることはできない。だが、無視すれば、また何かを読み間違える。澪奈はそれを、この数時間で嫌というほど思い知らされていた。
榊悠真は、工房の作業場に臨時の調査スペースを作らせていた。
作業台の上には白い布が広げられ、その上に証拠写真、少女の証言記録、防犯カメラ映像の静止画、足跡写真、繊維片の画像、血液反応の報告書、壊された人形の破損記録、焦げた布片の写真が並べられている。クラウディオは、作業台に警察の資料を置かれることへ露骨に不快そうな目を向けていたが、何も言わなかった。
言えば止まるわけではないと分かっているからだ。
その代わり、作業台の端に置かれていた小さな筆と硝子の眼球だけは、彼自身の手で別の棚へ移した。触れられる前に、静かに避けた。その動作には苛立ちがあった。だが、乱暴さはなかった。
ルスト・ヴァルレインは、作業場の入口近くに立っていた。
灰銀の髪は、工房の暗い照明の中で青みを帯びて見える。彼は壊された人形を見た後、ほとんど喋っていない。壊れたものよりも、それを見たクラウディオの顔を見ていた。クラウディオはそれに気づいている。気づいていて、苛立っている。だが、ルストへ「見るな」とは言わなかった。
言えば、また何かが形を持ってしまうからだ。
榊の端末が震えた。
短い通知音が、作業場の静けさを裂いた。人形の水滴や、木箱のような音とは違う。あまりにも現代的で、あまりにも無機質な音だった。
榊は画面を見る。
「着いたらしい」
澪奈が顔を上げる。
「久遠院顧問ですか」
「ああ。警察庁から直接、資料閲覧権限が追加された。本人がこちらへ来ている」
クラウディオは、焦げた布片の写真から目を離さない。
「ずいぶん早いな」
「警察庁の外部顧問だ。動きは早い」
「早い人間は、たいてい何かを踏む」
榊は返しかけ、やめた。
工房の表側で扉のベルが鳴った。
小さな音だった。古い真鍮のベルが、控えめに震える。夜の路地裏から、誰かが《箱庭》へ入ってきた。足音はひとつ。急いでいない。遠慮がちでもない。ゆっくり、しかし迷いなく進んでくる。
やがて、作業場の入口に男が現れた。
久遠院怜司は、穏やかな印象の男だった。
年齢は三十代半ばから四十代手前ほどに見える。清潔な濃紺のスーツに、淡い色のシャツ。派手な装飾はない。髪は整えられ、靴は雨上がりの路地を通ってきたとは思えないほど綺麗だった。眼鏡の奥の目は柔らかく、表情には余裕がある。声を発する前から、話を聞くことに慣れた人間だと分かった。
彼はまず榊へ軽く会釈した。
「夜分に失礼します。久遠院怜司です。警察庁の外部顧問として、いくつか資料を拝見しました」
声は静かだった。
低すぎず、高すぎず、聞き取りやすい。相手に圧をかけない。だが、届かせたい場所へきちんと届く声だった。訓練された声、と言ってもよかった。
榊は軽く頭を下げる。
「霧杜中央署の榊です。こちらが白石鑑識官。こちらは協力者のルスト・ヴァルレインさん。それから――」
「クラウディオ・ルジェリウスさんですね」
久遠院は、榊の言葉を奪う形にはしなかった。
だが、自然に先へ進んだ。
そしてクラウディオへ向き直る。
「お会いできて光栄です、クラウディオ・ルジェリウスさん」
丁寧な挨拶だった。
澪奈には、何の問題もないように見えた。むしろ、この場にいる誰よりも礼儀正しい。工房に入った時も、勝手に人形へ目を向けすぎることはなく、まず人へ挨拶した。警察庁の顧問としては、非常にまともな態度だった。
だが、クラウディオは返礼しなかった。
彼は久遠院を一瞥した。
一秒にも満たない視線だった。
それだけで十分だったらしい。
クラウディオの声が冷えた。
「お前は嫌いだ」
作業場の空気が止まった。
榊が一瞬、目を見開く。
「クラウディオ」
澪奈も思わず顔を上げた。
失礼、という言葉では足りない。初対面の相手に向けるにはあまりにも唐突で、あまりにも明確な拒絶だった。クラウディオが人に対して礼儀正しいとは誰も思っていない。だが、それでもこれはひどい。人類が何百年もかけて作った最低限の挨拶文化が、一秒で蹴り飛ばされた。文明、泣いていい。
しかし、久遠院は怒らなかった。
表情を崩さない。
むしろ、少しだけ残念そうに微笑んだ。
「嫌われてしまいましたか。それは残念です」
声には棘がない。
不快も、苛立ちも、侮辱された傷も見えない。整っている。整いすぎている。澪奈はそこに、ほんの小さな違和感を覚えた。礼儀正しい反応ではある。だが、人が本当に侮辱された時の揺れが、どこにもなかった。
クラウディオの目がさらに冷える。
「理由を聞くな。聞かれても答えない」
「では、聞かずにおきます」
「聞かないふりも嫌いだ」
「難しい方ですね」
「お前ほどじゃない」
榊が間に入った。
「クラウディオ、口を慎め。久遠院顧問は警察庁の協力者だ」
「だから何だ」
「この件について、顧問の見立てを聞く」
「好きにしろ。俺に礼儀を期待するな」
「最初からしていない」
「なら騒ぐな」
榊は深く息を吸った。
ここで口論しても無駄だと判断したらしい。人間、学習する時は本当にする。感心するほど遅いが、しないよりましだ。
久遠院は、作業台の資料へ視線を向けた。
「拝見しても?」
榊が頷く。
「どうぞ。資料はこちらにまとめています。少女の証言記録、工房で発見された破損人形、焦げた布片、事件現場の証拠写真です」
久遠院は白い手袋を取り出した。
それを見て、クラウディオがわずかに目を細める。久遠院はそれに気づいたのか、気づいていないのか、丁寧な動作で手袋を嵌めた。資料に触れる手つきは慎重だった。無駄がない。壊れた人形にも、紙にも、証拠品にも、同じ距離で触れる。
澪奈は、その手つきに職業的な安心感を覚えた。
少なくとも、雑ではない。
久遠院は少女の証言記録から見た。
最初の証言、次の証言。順番の食い違い。廊下で見た男。人形部屋で見た男。真っ暗だった部屋。人形を抱えていたという詳細。黒髪で美しい男という表現。冷たい手。薔薇の匂い。人形が泣いていたという、聞かれていない情報。
彼は静かにページをめくる。
「少女が単独でこの証言構造を組んだとは、少し考えにくいですね」
榊が頷く。
「やはり、そう見ますか」
「はい。もちろん、彼女自身にも作為はあります。ですが、彼女の証言には、他者へ疑いを向けるための言葉がかなり効率よく含まれている。黒髪、美しい、冷たい手、人形、薔薇の匂い。どれもクラウディオさんへ結びつきやすい」
クラウディオは黙っている。
久遠院は続けた。
「ただ、彼女の語り方は未熟です。順番の維持ができていない。恐怖の演出に比べて、記憶の整理が追いついていない。泣き方、証言の組み立て方、相手に守られる位置の取り方。どれも、誰かから学んだ可能性があります。完全に仕込まれたというより、使いやすい型を与えられた、と言うべきでしょうか」
澪奈は思わず記録を取った。
分析は的確だった。
少女の言葉がなぜ崩れたのか、なぜ初めに信じられやすかったのか、その両方を説明している。警察が少女を重要証人として扱ったのは不自然ではない。だが、少女はその立場を利用していた。久遠院はそれを、責めるでも怒るでもなく、淡々と分類していた。
クラウディオが低く言った。
「随分と人間を分かった気でいるんだな」
久遠院は穏やかに彼を見る。
「分かった気になっているだけかもしれません」
「自覚があるなら、なお悪い」
「そうでしょうか」
「救う顔で分類する奴は嫌いだ」
作業場が静まった。
久遠院は微笑みを崩さない。
「分類しなければ、救えないこともあります」
「救いという言葉を棚に置くな。埃がつく」
「手厳しいですね」
「優しいふりをするなと言っている」
ルストは、クラウディオを見た。
この反応は、いつもの皮肉や不機嫌とは違う。
クラウディオは人を嫌う。すぐに見下す。礼儀も期待できない。だが、久遠院へ向けた拒絶は、それらとは質が違った。本能的な嫌悪に近い。相手の服装や肩書きではなく、言葉の置き方、視線の滑らせ方、相手の反応を測る間。そういうものへ反応している。
ルストは久遠院を見た。
穏やかで、丁寧で、知的で、隙がない。
だからこそ、ほんの少し警戒した。
久遠院は、次に壊された人形の写真へ視線を移した。
「これは、工房内で見つかった破損人形ですね」
澪奈が説明する。
「はい。クラウディオ氏の作った人形です。目の片方がなく、指の欠片も一部不足しています。胸部が開かれ、内部から焦げた布片が出ました。破損箇所には湿り気があります」
「外部侵入の痕跡は?」
榊が答える。
「薄いです。鍵は壊れていない。ですが、誰かが触れた痕跡はあります。クラウディオ本人が壊した可能性も一応ありますが、壊れ方に違和感がある」
久遠院は、壊された人形の写真をしばらく見ていた。
その目つきは、優しかった。
少なくとも表面上は。
「この人形は、犯人にとってクラウディオさんを揺さぶるための象徴だったのではないでしょうか」
クラウディオの指が止まる。
彼は作業台から少し離れた位置に立っていた。手は外套の袖の中に半分隠れている。その指先が、ほんのわずか強く握られた。
久遠院は続ける。
「濡れ衣工作は、証拠と証言で成立するものです。ですが、この人形の破壊は、それだけではないように見える。捜査機関へ見せるための証拠というより、あなた自身へ向けたものではないかと感じます」
榊が顔を上げる。
「クラウディオ個人への心理的な攻撃、ということですか」
「可能性としては。工房の奥にあった人形を壊すには、場所を知っているだけでは足りません。そこがクラウディオさんにとって、どのような意味を持つ場所なのかを知っている、あるいは想像している必要がある」
久遠院の声は、あくまで穏やかだった。
だが、その言葉は、クラウディオの傷の近くへ正確に置かれていた。
ルストの視線が、クラウディオへ向く。
クラウディオは見返さない。
久遠院はさらに言った。
「あなたは、冤罪という構図にずいぶん敏感ですね」
工房の空気が、冷えた。
澪奈は、その変化を肌で感じた。作業場の温度計が動いたかどうかは分からない。だが、空気が確かに落ちた。人形の棚の奥から、微かな湿り気が広がったような感覚がある。
クラウディオは答えなかった。
顔も動かさない。
だが、沈黙そのものが答えのようだった。
ルストは、クラウディオの首筋の古い痕を思い出した。壊された人形を見て「失敗作だ」と言った声。紙片を見た時の無表情。冤罪という言葉へ向けた沈黙。すべてが線になりかける。だが、口には出さなかった。
クラウディオは、ルストが見ていることに気づいている。
気づいていて、見返さない。
「冤罪の話をしたいなら、証拠を持ってこい。感想ならいらない」
クラウディオの声は冷たかった。
久遠院は微笑む。
「失礼しました。感想に聞こえたなら、私の言い方が悪かったのでしょう」
「その謝り方も嫌いだ」
「嫌いなものが多いのですね」
「お前が増やしている」
榊がこめかみを押さえた。
「頼むから、事件の話に戻ってくれ」
「私は事件の話をしていますよ」
久遠院は穏やかに答えた。
「人間は、自分の恐怖に形を与えたがるものです。今回の少女は、恐怖を“黒髪の美しい男”という形にした。あるいは、そう形づくるように導かれた。人形の涙も同じです。理解できない現象へ、人は物語を与える。その物語を利用した人間がいる」
クラウディオが不快そうに目を細める。
「随分綺麗に並べるな」
「並べなければ見えないものもあります」
「並べた瞬間に死ぬものもある」
久遠院は、少しだけ首を傾けた。
「怪異のことですか」
「人間のことだ」
その返答に、久遠院はほんの一瞬だけ沈黙した。
怒りではない。
驚きでもない。
まるで、興味深い分類外の反応を見た時の間のようだった。
ルストはそれを見た。
資料を見る目ではない。
人形を見る目でもない。
久遠院は、クラウディオを見ている。
観察対象として。
ルストの胸の奥で、警戒が少しだけ濃くなった。
澪奈が、証拠袋の中の焦げた布片へ視線を落とした。
「久遠院顧問、この水滴は心理的なものでは説明できません」
証拠袋の内側に、薄い曇りが出ていた。
焦げた布片の端に、小さな水分が滲んでいる。工房内は乾いている。証拠袋は密閉されている。温度差による結露と見るには、他の袋には何も出ていない。
久遠院は証拠袋を見た。
見たはずだった。
だが、表情は変わらない。
「不可解な現象ですね」
ただ、それだけを言った。
澪奈は小さく眉を寄せた。
その言葉は間違っていない。
だが、薄かった。
現場で人形の水滴を見た時の榊の困惑や、澪奈自身の戸惑いとは違う。久遠院の反応には、驚きがない。恐怖もない。怪異を信じる者の熱も、否定する者の焦りもない。ただ、不可解な現象として処理するための言葉があった。
クラウディオはそれにも気づいていた。
ルストも。
久遠院は、工房奥の少女人形たちへ視線を向けた。
「奥を見てもよろしいですか」
「嫌だと言ったら?」
クラウディオが即座に返す。
「見ません」
久遠院は静かに答えた。
その返答がまた、整いすぎていた。
クラウディオは不快そうに笑う。
「見たいなら見ろ。どうせ見る顔をしている」
「では、失礼します」
久遠院は奥の部屋へ向かった。
榊と澪奈が続く。ルストは少し遅れて動き、クラウディオの横を通った。クラウディオは何も言わない。だが、ルストが久遠院へ視線を置いたままでいることには気づいた。
工房奥の部屋は、先ほどよりさらに静かに感じられた。
少女人形たちは棚に並び、壊された人形だけが白い布の上に移されている。未完成の目のない人形は、棚の中央で空白を抱えたまま座っていた。作業灯の光が、硝子の目を持つ人形たちに小さな点を作っている。
久遠院は、その部屋へ入って足を止めた。
しばらく、人形たちを見た。
そして穏やかに言った。
「美しいですね」
澪奈は、ほんの少し眉を寄せた。
間違ってはいない。
人形たちは美しい。
髪の質感も、頬の塗りも、指先の形も、ドレスの布選びも、どれも精密で美しい。だが、澪奈にはそれだけではなかった。むしろ、美しいという言葉だけで済ませることに違和感があった。
これは、届かなかったものの列だ。
同じ誰かへ向かって、何度も失敗し続けた痕跡だ。
美しいですね。
その言葉は、正しいのに冷たく響いた。
クラウディオが低く言った。
「見る目がない」
久遠院は微笑む。
「そうかもしれません」
「そうだ」
「では、あなたにはどう見えているのですか」
「俺を分析対象にするな」
「質問しただけですよ」
「質問に見せた分類だろう」
久遠院は否定しなかった。
ただ、穏やかな顔のまま、壊された人形の方へ目を向けた。
その時だった。
証拠袋に入れられた焦げた布片の端から、水滴が一つ滲んだ。
袋の内側で、小さな透明な粒が膨らむ。
ルストはそれを見た。
クラウディオも見た。
澪奈も息を止めた。
榊が低く声を漏らす。
「またか」
久遠院だけが、見ていないように見えた。
いや。
見ていたのかもしれない。
ただ、彼は少しも表情を変えなかった。
水滴は、焦げた布片の黒い端を濡らし、透明な線になって証拠袋の内側を滑った。古い薔薇香水と焼けた甘い匂いが、ほんの一瞬だけ濃くなる。工房の奥の空気が、また少し冷えた。
クラウディオが低く言った。
「やっぱり嫌いだ」
久遠院は穏やかに返した。
「二度も言われると、少し傷つきますね」
その声には、傷ついた色がなかった。
ルストは、久遠院から目を離さなかった。
クラウディオもまた、壊された人形ではなく、久遠院を見ていた。
そして澪奈は、証拠袋の内側を伝う水滴の音が、聞こえた気がした。
こつん、と。
乾いた木箱の底を叩くような音だった。




