第14話 最初の告発
端末の光は、工房《箱庭》の作業台に冷たく落ちていた。
夜は深くなっている。路地裏の外灯は雨上がりの石畳を鈍く照らし、店先の小さな看板は湿った風に揺れていた。工房の中には古い木材の匂い、乾いた絵具の匂い、白い布に染みついた薬品の匂いが残っている。その奥に、まだ薄く、古い薔薇香水と焼けた砂糖のような甘い匂いがあった。
壊された少女人形は、すでに白い布の上へ移されている。
片方だけ残った硝子の目。頬の細い亀裂。開かれた胸元。足りない指の欠片。見つからないもう片方の目。胸の内側から取り出された焦げた布片は証拠袋に入れられ、作業台の端に置かれていた。密閉されているはずの袋の内側には、まだ薄い曇りがある。ときおり、そこに水滴めいたものが滲む。見間違いと言える程度に小さいが、見間違いで済ませるには、これまでの現象が多すぎた。
榊悠真は、警察署へ戻らず、工房内で資料確認を続けていた。
工房の奥を現場として扱う以上、最低限の確認を終えるまでは動けない。白石澪奈も同じだった。彼女は壊された人形の写真、焦げた布片の状態、棚の水滴、台帳、受け渡し記録を照合している。久遠院怜司は、警察庁の外部顧問として、静かに資料を読み込んでいた。彼の動きは丁寧で、声も穏やかだった。だが、その穏やかさが工房の冷気と妙に馴染んでしまうのが、かえって不快だった。
クラウディオ・ルジェリウスは、作業台の端に立っていた。
黒い外套の袖から覗く指先は、端末にも証拠袋にも触れていない。長い黒髪は肩に落ち、白い肌は作業灯の光を受けて人形めいて見えた。彼は平然としている。少なくとも、そう見える。自分の工房に警察が入り、奥の人形が壊され、警察庁の外部顧問まで来たというのに、表情には動揺がない。
ルスト・ヴァルレインは、クラウディオの斜め後ろに立っていた。
近すぎない。
だが、離れもしない。
灰銀の髪と鋼色の瞳は、工房の暗い照明の中でいっそう静かに見えた。彼は壊された人形よりも、クラウディオの声の温度を見ているようだった。言葉ではなく、沈黙を見る。いつものことだった。人間社会は会話のために言葉を発明したのに、この二人はすぐ沈黙で殴り合う。文明への冒涜である。
榊の端末が鳴った。
短い通知音が、作業場の空気を切った。
榊は画面を確認し、眉をひそめた。
「まずいな」
澪奈が顔を上げる。
「追加の分析結果ですか」
「違う。外だ」
榊は端末の画面を作業台の上へ向けた。
そこには、複数の投稿が並んでいた。匿名掲示板、短文投稿、事件まとめの画像、動画の切り抜き。夜のうちに作られたらしい、粗い文字と、刺激的な見出し。いくつかはすでに拡散され、返信や引用が積み重なっている。
霧杜市の洋館で吸血事件か。
血を抜かれた死体。
現場にいた黒髪の人形師。
美貌の男が防犯カメラに映る。
被害者は人形修復を依頼していた。
人形工房《箱庭》の奥には似た顔の少女人形が大量。
少女は「黒髪の美しい男を見た」と証言。
警察はなぜ逮捕しない。
人形師クラウディオが犯人ではないか。
作業場の中が、しんと静まった。
澪奈が端末を覗き込む。
「……これは」
彼女の声が硬くなる。
投稿の中には、事件現場にいた美貌の人形師という表現があった。防犯カメラに黒髪の人物が映っていたことも書かれている。被害者がクラウディオへ修復依頼をしていたことも。そこまでは、どこかから漏れた噂としてまだ理解できた。関係者の口、近隣住民の目撃、警察車両の動き。最悪ではあるが、不可能ではない。
問題は、その先だった。
壊された少女人形の胸から焦げた布片。
人形の目元の水滴。
箱庭の奥に並ぶ似た顔の少女たち。
少女が「人形が泣いていた」と言った。
黒髪の男は人形を抱えていた。
これらは、警察発表にない。
外へ出していない。
まして、ほんの数時間前に工房内で確認したばかりの情報まで混じっている。
澪奈の声が低くなった。
「この情報は未公表です」
榊は険しい顔で頷く。
「分かっている」
「壊された人形の胸部から出た布片は、まだ記録をまとめている段階です。人形の目元の水滴も、工房奥の人形たちのことも、外部には出していません」
「誰が流した」
榊の声は、警察官のものだった。
久遠院は端末の画面を静かに見ていた。
動揺は見えない。驚きも薄い。彼は流れていく投稿を追いながら、穏やかに言った。
「かなり整理されていますね」
クラウディオが横目で見る。
久遠院は続ける。
「一見、感情的な告発に見えます。ですが、構成が整っている。血を抜かれた死体、黒髪の美しい人形師、防犯カメラ、泣く少女、人形の涙、工房の少女人形。読み手が不安を覚える順番で並べられている」
榊が端末を操作する。
「最初の投稿は、匿名アカウントだ。作成されたばかり。そこから複数のまとめ系アカウントが拾っている」
澪奈は別の投稿を開いた。
「足跡の件も切り取られています。『庭に人形師の靴跡』と書かれていますが、沈み込みの違和感や体重との不一致には触れていません」
「科学的に確定していないものを、断定の材料にされている」
榊が低く吐き捨てる。
「血液反応も同じだ。現場に血があったことだけが広がって、配置の不自然さは消えている」
クラウディオは、端末の画面を見ていた。
表情は変わらない。
画面には、無数の短い言葉が並んでいた。
人形師ならやりそう。
美しすぎる男は怪しい。
人形を作る人間はまともじゃない。
少女が泣いていたなら本当でしょ。
警察は何を隠している。
吸血鬼みたいな殺し方。
工房に似た顔の人形が並んでるって普通じゃない。
あの人形師を調べろ。
人形師クラウディオが犯人ではないか。
言葉は軽かった。
軽いのに、数があった。
数があるだけで、人はそれを重さと勘違いする。証拠の代わりに数を積み、事実の代わりに怒りを重ねる。誰かを裁くには、それで十分だと信じる。まことに効率的で、まことに醜い。人類、火刑台だけは本当に組み立てが早い。
クラウディオの唇がわずかに動いた。
「証拠は?」
静かな声だった。
怒鳴ってはいない。
荒げてもいない。
ただ、冷たかった。
工房の木材も、硝子の目も、焦げた布片も、その声に一瞬だけ温度を奪われたように感じられた。澪奈は思わずクラウディオを見た。ネット上の悪口に腹を立てている声ではなかった。自分を怪しむ投稿に苛立った声でもない。
もっと古いものへ触れられた声だった。
ルストは、それを聞いた。
聞いた瞬間、クラウディオの周囲だけが暗くなるように見えた。
冤罪。
集団の断罪。
火がつく前に、もう誰かが罪人として並べられている構図。
クラウディオはその言葉を出さない。出すつもりもない。だが、声が先に知っている。証拠は。そう問う声に、過去が影だけを落としている。
ルストは一歩近づきかけた。
クラウディオが見ずに言う。
「庇うな、灰銀」
ルストの足が止まる。
「庇っていない」
「今、言わせておけないという顔をした」
「言わせておける内容じゃない」
「だから庇うなと言った」
ルストは黙った。
だが、隣を離れなかった。
クラウディオはそれにも気づいている。追い払わない。追い払わない自分に、少しだけ苛立っているようにも見えた。
久遠院怜司は、端末を見たまま穏やかに言った。
「人は、理解できないものに名前をつけると安心します」
クラウディオの目が冷える。
久遠院は続けた。
「怪異よりも、犯人の顔が見えた方が落ち着くのでしょう。今回は、クラウディオさんがその顔として選ばれやすい。美貌、黒髪、人形師、閉じた工房、似た人形たち。人は、それらを並べるだけで物語を作れてしまう」
「随分と便利に人間を棚へ並べる」
クラウディオが言った。
久遠院は怒らない。
「告発は、時に不安の整理として機能します。もちろん、正しさとは別の話です」
「整理か。人を焼く前に薪を積み上げる作業にも名前をつけるんだな」
榊がクラウディオを見る。
澪奈も同じだった。
火。
その言葉が出た瞬間、クラウディオの声の底がわずかに変わった。久遠院も、それに気づいたように見えた。だが、表情は変えない。
クラウディオは端末の画面へ視線を戻す。
「証拠もなしに人を焼くのが、まだ好きらしいな」
その声に、作業場の空気が少し冷えた。
人形の棚の奥で、何かが水を含んだような気配がした。澪奈は焦げた布片の証拠袋を見る。袋の内側に、また薄く水分が滲んでいた。
「湿り気が増えています」
澪奈は小さく言った。
証拠袋の中の焦げた布片。その端に、小さな水滴が浮いている。まるで、投稿の言葉が画面の中から出て、布片の焦げ跡へ染み込んだようだった。
久遠院は証拠袋を見た。
やはり、表情は変わらない。
「言葉に反応しているようにも見えますね」
榊が眉をひそめる。
「怪異が、告発に反応していると?」
「断定はできません。ただ、罪を押しつける言葉、恐怖、喪失。これまでの現象がそれらへ反応しているなら、集団の断罪にも反応して不思議ではない」
クラウディオが低く笑った。
「本当に何でも並べるな」
「並べなければ、見えにくいものもあります」
「並べたものが生きていることを忘れる奴の言葉だ」
久遠院は微笑む。
「私は忘れているつもりはありません」
「つもり、か。便利な逃げ道だ」
ルストは、久遠院を見た。
分析は的確だった。
告発の構造、不安の整理、犯人像の形成。言葉としては間違っていない。むしろ、警察には必要な見立てだ。榊も澪奈も、それを理解している。
だが、的確すぎる。
人間の弱さを語る声に、弱さへの痛みがない。涙や恐怖や怒りを扱う言葉が、棚の上の標本を並べるように整っている。クラウディオが嫌う理由を、ルストは少しずつ理解し始めていた。まだ言葉にはしない。言葉にすれば、久遠院の方が先に微笑む気がした。
澪奈は投稿をさかのぼっていた。
「最初の投稿、時刻が妙です」
榊が顔を向ける。
「何時だ」
「少女の身柄確保後、まだ正式な内部共有が終わる前です。久遠院顧問の資料閲覧権限が追加された時刻とも近いですが、投稿の方が少し後です」
榊の視線が鋭くなる。
久遠院は静かに聞いている。
澪奈は続けた。
「ただし、顧問が関わったとは言っていません。情報がどこで動いたかは、まだ確認が必要です。けれど、タイミングが近い」
「情報管理を確認する」
榊は端末で別の部署へ連絡を入れる。
「関係者リスト、資料閲覧ログ、工房に入った人員、少女側の接触記録。全部洗う」
クラウディオは端末の投稿を見ていた。
最初の投稿は、感情的な口調で書かれている。
だが、構成は整っていた。
黒髪の美しい人形師。
泣く人形。
血を抜かれた死体。
少女の証言。
人形だらけの工房。
警察が隠す真実。
言葉の並び方が、少女の証言に似ている。クラウディオへ疑いを向けるため、必要な印象だけを取り出して、順番よく置いている。下手な怒りの文章ではない。怒りに見せかけた、設計された文章だった。
投稿の末尾には、小さな記号があった。
涙のような記号。
箱庭を示すような、四角い枠の中に点がひとつ入った絵。
榊がそれを拡大する。
「何だ、これは」
「泣く人形の絵文字に見せているようですが……少し違いますね」
澪奈が画面を見つめる。
「既存の絵文字ではありません。画像として貼り込まれています」
久遠院が静かに言う。
「署名のようにも見えますね」
クラウディオが久遠院を見る。
「楽しそうだな」
「そう見えますか」
「見える」
「それは困りました」
「困っている顔をしろ」
久遠院は微笑みを崩さない。
端末画面が一瞬、乱れた。
ざ、と細いノイズが走る。
投稿の文字が一瞬だけ滲み、画面上の「泣く人形」という文字の隣に、小さな水滴のような影が浮いた。すぐに消える。澪奈が端末を掴む。
「今、ノイズが入りました」
「通信か」
榊が問う。
「分かりません。録画を確認します」
澪奈は端末の画面記録を保存した。
クラウディオは黙っている。
ルストは、工房奥へ視線を向けた。
壊された人形は、すでに一時保管用の箱に入れられている。だが、奥の部屋から微かな水音が聞こえた気がした。布に染みる音。硝子を伝う音。泣いているようで、泣いていない音。
人間が告発を流している。
怪異はそれに反応している。
順番を間違えてはいけない。
ルストはそう思った。怪異が人間を裁いているのではない。人間が先に誰かを裁き、その言葉へ怪異が湿り気を与えている。人間の悪意が主で、怪異は残響。だが、残響は残る。残ったものは、いつか形を持つ。
榊は、外へ警戒を出すよう連絡した。
「クラウディオ、今は表に出るな」
クラウディオは冷たく笑う。
「命令か」
「忠告だ。噂は噂だが、放置できる段階じゃない。工房名まで出ている。場所も割られる可能性がある」
「もう割れているだろうな」
その言葉の直後だった。
表の扉のベルが鳴った。
誰も動かなかった。
夜の路地裏。
工房《箱庭》の扉。
こんな時間に客が来るはずがない。
榊が手で合図し、警察官へ連絡を入れる。澪奈は端末を置き、証拠袋を確認した。久遠院は穏やかな顔のまま、音のした方を見る。ルストはクラウディオの前へ出ようとした。
クラウディオが低く言う。
「庇うなと言った」
「庇っていない」
「ならどけ」
「隣にいるだけだ」
「前に出た」
「気のせいだ」
「お前、そういう嘘が下手だな」
ルストはどかなかった。
クラウディオも、それ以上追い払わなかった。
榊が先に表へ向かった。ルストとクラウディオが続く。久遠院と澪奈も少し遅れて作業場を出た。
展示室の扉は閉まっている。
外には人影がない。
だが、扉の前に何かが置かれていた。
焦げた菓子だった。
小さな焼き菓子が、黒く焦げた状態で紙皿に載せられている。甘い匂いはほとんど消え、焦げた砂糖と湿った紙の匂いだけが残っていた。その下に、濡れた紙が一枚ある。雨は降っていない。それなのに紙は濡れていた。水を吸い、端がふやけ、インクが少し滲んでいる。
紙には乱れた文字で書かれていた。
人形師を許すな
榊の顔が険しくなる。
「監視カメラは?」
澪奈が端末で確認する。
「路地のカメラに影が映っています。顔は見えません。フード、黒っぽい服。置いた後、すぐ離れています」
榊が舌打ちする。
「現実に出てきたか」
クラウディオは、焦げた菓子と濡れた紙を見下ろしていた。
表情は変わらない。
ただ、低く言った。
「くだらない」
ルストは隣に立っていた。
クラウディオは追い払わなかった。
その時、工房の奥から小さな水音がした。
壊された人形は、もう箱に収められているはずだった。
だが、展示室の床に、一筋だけ水が伸びていた。
奥の作業場から、表の扉の方へ。
まるで、誰かが泣きながら歩いてきたように。
クラウディオはその水筋を見た。
ルストも見た。
久遠院は、焦げた菓子の方を見ていた。
そして濡れた紙の端から、さらに一滴、水が落ちた。




