第15話 夜はまだ終わらない
工房《箱庭》の前に置かれた紙は、雨ではない水を吸っていた。
夜はもう深かった。霧杜市の路地裏には人の気配がなく、古い建物の壁と閉じたシャッターだけが、街灯の白い光を浴びて黙っていた。雨は止んでいる。空にはまだ雲が残っているが、細い切れ間から薄い月が見えていた。濡れた石畳は黒く沈み、街灯を細く引き延ばしている。
その路地の奥、《箱庭》の扉の前に、焦げた菓子と濡れた紙が置かれていた。
菓子は丸い焼き菓子だったのだろう。縁が黒く焦げ、砂糖の甘い匂いはほとんど焼け落ちている。残っているのは、焦げた甘さと湿った紙の匂いだけだった。工房の奥で見つかった布片と同じ匂いが、ほんの薄く漂っている。古い薔薇香水の残り香も混じっていた。
紙には乱れた文字が書かれていた。
人形師を許すな。
文字の端は水で滲み、墨のような線が紙の繊維へ広がっている。書いた者の筆圧は強い。怒りを装っているのか、本当に怒っているのかは分からない。ただ、誰かがここへ来て、これを置いた。その事実だけは、濡れた紙よりも冷たくそこにあった。
榊悠真は、路地の防犯カメラと工房の小型カメラの映像を端末で確認していた。画面には、黒い服を着た人物の影が映っている。フードを深く被り、顔は映らない。動きは速く、迷いがない。紙と焦げた菓子を置き、すぐに路地の奥へ消えていく。
「顔は確認できない」
榊の声は低かった。
「この路地を知っている動きだな」
ルスト・ヴァルレインが言った。
榊は頷く。
「ああ。迷っていない。偶然通りかかった人間じゃない。工房の場所を知っていた」
白石澪奈は、濡れた紙へ直接触れないよう、慎重に写真を撮っていた。白い手袋の指先は濡らさない。紙の端から水滴が一つ落ちる。その雫は石畳へ落ち、雨水とは違う丸い跡を作った。
「紙の湿り気が不自然です」
澪奈は言った。
「今の路地の湿度でここまで濡れるとは思えません。水をかけられた可能性もありますが、菓子の焦げた部分はそこまで濡れていません。紙だけが内側から湿っているように見えます」
「またか」
榊が苦い声を出した。
クラウディオ・ルジェリウスは、扉の横に立っていた。
黒い外套の襟は高く、長い黒髪は湿気を受けても乱れていない。白い肌は街灯の光を受け、工房の看板よりも冷たく見えた。彼は、工房前に置かれた紙にも、焦げた菓子にも、表情を変えない。ネット上で自分を犯人扱いする投稿が広がっても、この紙が工房前に置かれても、彼は平然としていた。
平然としているように見えた。
ルストには、そうではないと分かっていた。
クラウディオはさっきから、襟元を直す回数が多い。端末の通知が鳴るたび、画面を見る前にほんの一瞬だけ目を細める。焦げた菓子の匂いが風で流れると、指先が袖の中で止まる。工房の奥から水音が聞こえた時、振り返らないようにしている。
疲れている。
そう言えば、クラウディオは否定するだろう。
傷ついたのか、と聞けば、鼻で笑うだろう。
疑われて腹が立ったか、と聞けば、証拠もなしに人を裁く方が悪いと返すだろう。
少女人形を壊されたのが痛かったのか、と聞けば、失敗作だと言うだろう。
だからルストは聞かなかった。
聞かないまま、見ていた。
クラウディオはそれにも気づいていた。気づいていて、何も言わない。言えば、それを認めたことになるからだ。
榊の端末がまた震えた。
「警察庁から共有通知だ」
榊は画面を見る。
「久遠院顧問から追加分析。告発投稿の拡散経路に、不自然な集中があるらしい。最初の投稿を拾った複数アカウントが、普段は都市伝説系の投稿を扱っている。事件系、怪異系、人形怪談系、三つの層に同時に流れている」
澪奈が顔を上げる。
「拡散のために、層を分けている?」
「そう見える、と書いてある」
榊は画面をスクロールした。
「不安は顔を持った瞬間に攻撃へ変わる、だそうだ」
クラウディオが小さく笑った。
笑ったが、目は笑っていない。
「綺麗に並べるのが好きな男だな」
榊は顔を上げる。
「久遠院顧問の分析は、少なくとも現状に合っている」
「合っているから不快なんだ」
クラウディオの声は冷たかった。
それ以上は言わない。
言えば、久遠院の言葉に反応したことになる。冤罪。告発。群衆。不安の整理。犯人の顔。そういう言葉が、工房の前に置かれた濡れた紙と焦げた菓子の匂いに混じって、クラウディオの近くへ寄ってくる。
彼はそれを振り払うように、外套の袖を整えた。
澪奈は、紙と菓子を証拠袋へ移す準備を進めていた。
「工房内の焦げた布片と、この菓子の焦げた匂い、同じ系統かもしれません。分析が必要です」
榊は頷いた。
「回す。防犯映像も照合する。クラウディオ、今夜は一人で動くな」
「命令か」
「忠告だ」
「人間は忠告という名で鎖をかけるのが好きだな」
「好きで言っているんじゃない。噂が広がっている。工房の場所も割れている。今度は紙で済むとは限らない」
「今度、か」
クラウディオは、濡れた紙を見下ろした。
「ずいぶん先の心配をする」
「刑事だからな」
「便利な職業だ」
「便利じゃない。面倒なだけだ」
「同感だ」
榊は一瞬だけ黙った。
クラウディオが同感と言ったことに、少し驚いたのかもしれない。だが、すぐに仕事の顔へ戻った。
「最低限の記録が終わったら、今日は引き上げる。工房周辺には巡回を増やす。防犯映像のコピーを預かる」
「好きにしろ」
「工房内の壊された人形と焦げた布片は、改めて署で分析する」
クラウディオの目が冷える。
「人形は持ち出すな」
「証拠だ」
「人形だ」
「事件の証拠でもある」
空気が硬くなる。
澪奈が小さく口を開いた。
「現物の持ち出しが難しいなら、まずは必要部分の採取と高精度撮影で対応します。破損状態が進む可能性もあるので、保管環境を変えることが逆に危険かもしれません」
榊は考えた。
「……分かった。今夜は持ち出さない。ただし、分析に必要な採取はする」
クラウディオは澪奈を一瞥した。
「鑑識官としては、少しだけましだな」
澪奈は少しだけ眉を上げた。
「ありがとうございます、と言うべきか迷います」
「迷う程度の知性があるなら十分だ」
「褒め言葉として処理します」
榊が低く呟く。
「やめろ、白石。慣れるな」
澪奈は返事をしなかった。
その間も、工房の奥では小さな水音が続いていた。
ぽたり。
ぽたり。
水が落ちる音。
壊された人形は布をかけられ、棚の奥へ移されている。胸の空洞は応急的に覆われ、周囲には保護用の白い布が敷かれている。水が落ちる場所などないはずだった。
それでも音はする。
クラウディオは振り返らない。
振り返らないようにしている。
ルストは、そのことに気づいた。
榊と澪奈が工房前の証拠を回収し、警察官へ指示を出す頃には、路地の空気はさらに冷えていた。時計は深夜を示している。閉じた店のシャッターには薄い水膜が残り、街灯の光はその表面でぼやけている。遠くで車が一台通り過ぎ、排気音がすぐに消えた。
久遠院の姿はもうなかった。
彼は警察庁の共有画面の向こうに戻っている。直接そこにいないのに、分析資料の文面だけが残っているのが、かえって不快だった。クラウディオはその通知を開かない。ルストはそれに気づいた。クラウディオが見ないようにしているものは、たいてい見えているものより多い。
榊は工房の扉を閉める前に言った。
「クラウディオ、今夜は工房に残るのか」
「俺の工房だ」
「聞いたことに答えろ」
「残る」
「一人でか」
ルストが答える前に、クラウディオが言った。
「一人で十分だ」
「十分じゃない」
ルストの声は低かった。
クラウディオが横目で見る。
「お前に聞いていない」
「答えた」
「会話の手順を学べ」
「必要ない」
「ある」
榊は二人を見て、深く息を吐いた。
「俺たちは一度署へ戻る。周辺警戒は残す。何かあればすぐ連絡しろ」
「連絡する前に片づける」
「片づけるな。連絡しろ」
「状況次第だ」
「状況に関係なく連絡しろ」
クラウディオは返事をしなかった。
榊は諦めたようにルストを見る。
「ルストさん」
「分かっている」
「分かっているなら助かります」
クラウディオが不快そうに言う。
「俺の監視役を頼むな」
「頼まれるまでもない」
ルストが答える。
クラウディオはさらに不機嫌になった。
榊と澪奈が路地を出ていく。警察車両の音が少しずつ遠ざかる。残ったのは、工房の小さな看板と、濡れた石畳と、街灯の光と、焦げた菓子の匂いの名残だけだった。
工房の扉を閉める前に、クラウディオは一度だけ中を見た。
奥の作業場には暗がりがある。
そこから水音がする。
ぽたり。
聞こえた瞬間、クラウディオは扉を閉めた。
鍵をかける。
細い金属音が、夜の路地に響いた。
彼は振り返らずに歩き出した。
歩調が速い。
いつもより少しだけ。
黒い外套の裾が濡れた石畳の上をかすめる。ルストはその後を追った。大股で歩けばすぐ追いつく。だが、追い抜かない。隣に並ぶには、少しだけタイミングを待った。
クラウディオは襟元を直す。
一度。
また少し歩いて、もう一度。
首筋の古い痕を隠すように。
あるいは、別の何かがそこへ触れているのを払うように。
街灯の下を通るたび、濡れたアスファルトに二人の影が伸びた。路地の端に小さな水たまりがあり、クラウディオの足がその脇を通る。水面が揺れた。月明かりと街灯が混じり、黒い鏡のような水面に、白い顔が一瞬映った。
少女人形の顔だった。
髪の色も、目の形も定かではない。だが、白い頬と硝子の目だけが、濡れた水面に一瞬浮かんだ。クラウディオは足を止めない。だが、見た。ルストも見た。
水面はすぐにただの水たまりに戻った。
雨は止んでいる。
上から落ちるものはない。
それなのに、水たまりの縁へ、また一滴、水が落ちた。
クラウディオは小さく息を吐いた。
「しつこいな」
「残っている」
ルストが言った。
「見れば分かる」
「工房から離れても、ついてきている」
「説明するな。気分が悪い」
ルストは黙った。
クラウディオはまた歩き出そうとした。
その時だった。
ルストが手を伸ばした。
最初に掴んだのは、クラウディオの手首だった。強くはない。だが、逃がさない力だった。クラウディオが振り返る前に、ルストはその手首を引いた。濡れた路地の中で、黒い外套がわずかに揺れる。クラウディオの背が、ルストの胸元へ近づいた。
次の瞬間、ルストの腕がクラウディオを抱きしめていた。
背後からだった。
大きな腕が肩と胸の前を囲み、もう片方の手が逃げようとする腕を押さえる。強引すぎない。だが、簡単には抜けられない。雨上がりの匂いと、ルストの体温と、濡れた夜気が一度にクラウディオを包んだ。
クラウディオの身体が強張る。
「何の真似だ、灰銀」
声は低かった。
ルストはすぐには答えない。
「離せ」
クラウディオが言う。
ルストの腕は緩まない。
「慰めるな」
「慰めじゃない」
「なら何だ」
「止めている」
「何を」
「お前が、一人で見ることを」
クラウディオは短く笑った。
「詩人にでもなったのか」
「違う」
「なら離せ」
「離せと言うなら離す」
「言っている」
ルストの腕が、わずかに緩みかけた。
その瞬間、クラウディオの押し返そうとした手が止まった。
自分でも気づいたように、指先が宙で止まる。ルストの腕を押しのけるはずだった手が、布の上で動きを失う。息を吸いかけて、吐きそこねる。肩に落ちたルストの呼吸が、雨上がりの冷えた空気の中でやけに近かった。
クラウディオは舌打ちに似た息を漏らす。
「……命令するな」
「していない」
「している」
「一人で見るな」
「それが命令だと言っている」
「なら、命令だ」
「開き直るな」
ルストの声は静かだった。
低く、短い。
謝罪ではない。
疑ったことを許してくれとも言わない。
守るとも言わない。
ただ、背中に腕を回したまま、そこにいる。
クラウディオは、その方が厄介だと思った。
謝られれば拒める。
慰められれば罵れる。
守ると言われれば、庇うなと切り捨てられる。
だが、何も言わずに抱きしめられると、拒むための言葉が一瞬だけ遅れる。身体の方が先に思い出す。数十年どころではない時間のどこかで、近すぎる息も、背中の体温も、逃げ道を塞ぐ腕も、知っていた。
だから、なおさら腹立たしい。
「事件は解けた」
クラウディオが言った。
自分でも、なぜその言葉を選んだのか分からない。
ルストは返す。
「夜は終わっていない」
路地の奥で、水音がした。
ぽたり。
工房は背後にある。扉は閉めた。鍵もかけた。壊された人形は布をかけられている。焦げた菓子と濡れた紙は警察が回収した。少女は確保された。証言は崩れた。吸血痕の偽装も、科学証拠の配置も、濡れ衣の仕組みも暴かれた。
それでも、水音はする。
クラウディオは、ルストの腕の中で目を細めた。
「知っている」
声は冷たかった。
だが、腕をほどこうとはしなかった。
ルストは、クラウディオの肩越しに路地を見る。
水たまりがある。
その水面に、また白い顔が一瞬映る。
人形の顔。
あるいは、誰かの顔になれなかったもの。
クラウディオもそれを見ていた。
二人とも言葉にしない。
怪異は襲ってこない。
泣き声も上げない。
ただ、雨が止んだ夜に水滴だけを落としている。まるで見ているようだった。人間の告発も、工房の扉も、壊された人形も、抱きしめられたまま離れない黒髪の人形師も、全部を黙って見ているようだった。
ルストは腕を少しだけ緩めた。
「まだ離さない」
「許可を取るな」
「取っていない」
「本当に腹立つ男だな」
「分かっている」
「分かるな」
クラウディオの声には、鋭さが残っていた。
だが、押し返す手はまだ止まっている。
雨上がりの冷えた空気の中で、ルストの体温だけが嫌に確かだった。クラウディオはそれを嫌うように、ほんのわずか身じろぎした。だが、離れない。離れないまま、街灯の光が濡れた路地に落ちるのを見ていた。
遠くで車の音がした。
すぐに消えた。
工房《箱庭》の奥で、また水が落ちる。
ぽたり。
布をかけられた壊れた人形の胸の中で、水滴が落ちたような音だった。
同じ頃。
どこか別の暗い部屋で、消えた修復依頼の人形が横たわっていた。
右腕は欠け、左の硝子の目は外され、胸の機構は開かれている。古い布に包まれ、焦げた甘い匂いと薔薇香水の残り香の中に置かれていた。誰の手も触れていない。窓も開いていない。雨も降っていない。
それでも、その片方だけ残った硝子の目元に、水滴が浮いた。
ひとすじ、涙のように落ちる。
小さな音はしなかった。
ただ、暗い部屋の中で、その人形だけが静かに濡れていた。




