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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第2部 少女人形のみた夢

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第16話 笑う少女人形


 霧杜市の外れにある廃校は、地図の上ではまだ施設名を持っていた。


 旧白鳥坂学園。


 かつては私立の女子校だったという。今は閉鎖され、門には錆びた鎖が巻かれ、校舎の窓は内側から板で塞がれている。校庭には雑草が伸び、雨水を吸った土が黒く沈んでいた。朝になれば近所の犬が吠え、昼には宅配車が横の道を通る。だが、夜になると、その場所だけ街から少し外れる。


 錆びた校門の向こうには、古い校舎があった。


 白かったはずの外壁は灰色に汚れ、雨樋は一部外れ、二階の窓の板は斜めに浮いている。風が吹くたび、どこかで木材が鳴った。校庭の隅には古い百葉箱が倒れ、花壇だった場所には背の高い草が密集している。街灯は校門の外に一本だけで、校舎の奥までは届かない。警察の投光器がなければ、建物は夜の中に沈んだままだっただろう。


 榊悠真は校門の前で端末を確認していた。


「管理会社の記録では、最終巡回は三日前。異常なし。昨夜、警備会社が旧校舎内から異音を確認して通報。先に入った警備員が旧音楽室で人形を見つけた」


 白石澪奈は、錆びた門柱と足元を撮影しながら頷いた。


「肝試しに入った若者の通報も複数あります。動画配信者らしき人物の侵入記録もありますが、今のところ身元確認中です」


「廃校に人形、夜ごとの笑い声、動画配信者。最悪の組み合わせだな」


 榊は低く言った。


 言葉は現実的だったが、声には疲れが混じっていた。洋館の事件がようやく一段落したと思った矢先に、今度は廃校の笑う人形である。怪異も人間も、少しは休暇という概念を学ぶべきだった。働きすぎである。主に人の神経を削る方向に。


 クラウディオ・ルジェリウスは、校門の前に立ったまま校舎を見ていた。


 黒い外套は雨上がりの夜気の中でも汚れひとつなく、長い黒髪は街灯の光を受けて淡く艶めいている。工房《箱庭》の前で抱きしめられた夜から、まだ数日しか経っていない。彼はそのことに一度も触れていなかった。ルストも触れていない。


 何もなかったようにしている。


 だが、完全には戻っていない。


 ルスト・ヴァルレインは、クラウディオの隣に立っていた。


 正確には、半歩だけ近い。以前なら一歩分あった距離が、今は半歩詰まっている。クラウディオはそれに気づいていた。気づいていて、少しだけ横目で見た。


「近い」


 低い声だった。


 ルストは校舎から目を離さずに答えた。


「離れろとは言われていない」


「言われないと分からないのか」


「言えば離れる」


「その言い方が腹立たしい」


「分かっている」


「分かるな」


 榊が二人を見た。


 何か言いたげだったが、やめた。おそらく賢明な判断だった。警察は事件を処理すればいい。吸血鬼同士の距離感など、民事にも刑事にも向いていない。法律が泣く。


 澪奈は少しだけ目を伏せ、廃校へ視線を戻した。


「旧音楽室は二階です。警備会社が発見した人形は、ピアノの前に置かれていたそうです。口は閉じているのに、笑い声が聞こえたと」


「録音は?」


 榊が問う。


「警備員のボディカメラに入っています。音声データは確保済み。ただ、発生源が分かりません。校内放送の残響のようにも、部屋の中の声のようにも聞こえます」


 クラウディオは鼻で笑った。


「笑わせる趣味はない」


 榊が視線を向ける。


「まだあんたが作ったとは言っていない」


「言いたそうな顔をしている」


「疑いたいわけじゃない。だが、似すぎていると聞いている」


「また俺を疑うのか。学習能力がないな」


 榊は眉を寄せた。


「前より慎重に疑っている」


「成長が微細すぎる」


「黙っていてくれ」


「事実を言っただけだ」


 ルストが静かに口を挟む。


「庇っていない。見ている」


 クラウディオはルストを見る。


「何も言っていない」


「言う顔をした」


「お前まで顔を読むな」


「読む」


「開き直るな」


 ルストは答えなかった。


 ただ、隣に立っていた。


 クラウディオは不機嫌そうに視線を戻したが、追い払わなかった。


 それだけで、十分に変化だった。


 旧白鳥坂学園の門が開けられた。


 錆びた鎖は管理会社立ち会いのもと外され、警察官が先に校庭へ入る。投光器の白い光が雑草を照らし、濡れた葉が小さく光った。校庭には足跡が多かった。警備員、警察、肝試しの若者、動物。雨で一部は崩れ、判別しにくい。澪奈はそれでも目立つものから撮影していく。


 校舎の玄関は、ガラスの一部が割れていた。内側から板で塞がれているが、下の隙間が少し浮いている。人が身を屈めれば入れるほどの幅ではない。だが、細い物なら通せる。古い木の扉は湿気で膨らみ、開けるたびに重い音を立てた。


 校舎の中は、埃と濡れた木の匂いがした。


 廊下は暗い。投光器と懐中電灯の光だけが、床のひび割れと壁の剥がれた塗装を切り取っていく。靴音が古い床板に沈む。どこかで水が落ちる音がした。天井の一部から雨漏りしたのだろう。バケツなど置かれていないので、水は廊下の端に黒い染みを作っている。


 壁には、まだ校内掲示の跡が残っていた。


 文化祭のポスターの破片。部活動紹介の紙。防火訓練の掲示。笑顔の少女たちの写真が褪せ、顔の部分だけ白く滲んでいるものもあった。閉じた学校というものは、奇妙に人の気配を残す。人がいないからこそ、人がいた跡だけが浮かび上がる。誰も座らない下駄箱。使われない掲示板。時間割が剥がされた教室の扉。そこにない生活が、埃の中でまだ形を持っている。


 榊が言った。


「旧音楽室はこの先の階段を上がって右。旧放送室はその奥だ」


 クラウディオは廊下を見ながら歩いた。


 不機嫌そうではあるが、怯えてはいない。人形、死体、怪異、廃校。どれも彼を怯えさせる材料にはならないらしい。だが、彼の目は冷えていた。笑う人形という言葉にではなく、作風に似ているという一点に対して。


 自分のものを、外側だけ真似される。


 それは彼にとって、単なる侮辱以上のものだった。


 二階への階段は古く、踏むたびに音を立てた。手すりには埃が積もり、壁には誰かが落書きした跡がある。怪談の名前や、肝試しに来た日付らしき数字。くだらない言葉が白い壁に黒く残っている。人間は怖い場所へ行くと、なぜか自分の名前を残したがる。名札でも配っておけ。怪異側も迷惑だろう。


 二階の廊下はさらに冷えていた。


 窓は板で塞がれている。隙間から細い夜風が入り、埃を揺らしていた。旧音楽室の扉には、音楽室、と薄く読める札が残っている。扉の下には埃の上を引きずったような跡があった。


 澪奈がしゃがむ。


「人形を運び込んだ跡かもしれません」


「大きさは?」


 榊が問う。


「幅は小さいです。箱か、人形本体か。肝試しの足跡も混じっているので、断定はできません」


 ルストが廊下の奥を見る。


「ここに、人形がもう一体あった」


 榊が顔を上げる。


「何?」


「匂いが二つある。ひとつは中の人形。もうひとつは、奥へ抜けている」


 クラウディオは無言で廊下の奥を見た。


 古い薔薇香水。


 焼けた甘い匂い。


 確かにあった。薄いが、音楽室の前だけではない。廊下の奥、放送室の方へも続いている。第1の事件の焦げた菓子、焦げた布片、紙片。その匂いが、ここにもある。


 榊は警察官へ合図した。


「廊下の奥も後で確認する。まず音楽室だ」


 旧音楽室の扉が開いた。


 軋む音がした。


 中は、かつての音楽室の形を残していた。黒板には薄い五線譜が消えかかっている。壁には剥がれた音楽家の肖像画。古い木製の椅子が数脚、教室の隅に積まれ、床には埃が厚く積もっている。窓は板で塞がれているが、隙間から月の光が細く入り、床に白い線を作っていた。


 部屋の奥に、ピアノがあった。


 黒いグランドピアノではなく、古いアップライトピアノだった。蓋は閉じている。鍵盤の一部は黄色く変色し、上には埃が積もっている。その前に、人形が座っていた。


 少女人形だった。


 椅子の上に、まるで演奏を待っているように置かれている。白い肌。細い首。古いレースのドレス。硝子の目。指は繊細に作られ、膝の上に揃えられていた。首は少し傾いている。口元は閉じているが、見る角度によって笑っているようにも見えた。


 クラウディオの人形に似ていた。


 少なくとも、初見ではそう見える。


 白い肌の質感、指先の細さ、首の角度、古い布の選び方。工房《箱庭》の奥に並んでいた少女人形たちの面影が、そこにあった。


 榊がゆっくり言う。


「似ているな」


 クラウディオは人形を見たまま答えた。


「外側だけだ」


 澪奈は人形へ近づき、距離を保って観察した。


「素材は……かなり近いように見えます。硝子の目、布、塗料の質感。作風も似ています。ただ、細部は違うかもしれません」


 クラウディオが冷たく笑う。


「似せるなら、せめて呼吸まで似せろ」


 その声には、明確な嫌悪があった。


 榊が眉をひそめる。


「呼吸?」


「人形にも呼吸はある」


「人形は呼吸しない」


「だからお前は雑なんだ」


 澪奈は口を挟む。


「クラウディオさん、この人形はあなたのものではない、と?」


「違う」


「どこが違いますか」


 クラウディオは人形の顔を指差さず、視線だけで示した。


「関節の沈め方が浅い。指先が綺麗すぎる。硝子の目の焦点が合っていない。首の傾きも、ただ角度だけ真似たものだ。口元は最悪だな。笑っているように見せたくて、泣く寸前の線を殺している」


 榊が黙る。


 澪奈は、思わず人形の口元を見た。


 笑っているように見える。


 だが、確かに違和感がある。口角は上がっているようで、唇全体は硬い。笑顔ではなく、笑顔に見せるための角度だった。クラウディオの工房にあった人形たちは、失敗し続けていたとしても、内側へ向かう何かがあった。この人形にはそれがない。外から見た形だけを貼りつけたように見える。


 ルストが静かに問う。


「これは、お前の人形ではないのか」


「違うと言った」


「違うなら、どこが違う」


 クラウディオはルストを見る。


 疑われたとは受け取らなかった。


 ルストの声は、疑う声ではなかった。確かめる声だった。クラウディオが何を見ているのか、それを知ろうとしている声だった。


 クラウディオは一瞬だけ黙る。


 それから、人形へ視線を戻す。


「この顔は、俺の人形じゃない」


 短い答えだった。


 だが、ルストにはそれで十分だった。


 榊は慎重に言う。


「とはいえ、似ている以上、確認は必要だ」


「好きにしろ」


「疑っているわけじゃない」


「疑う時にそう言うな。余計に腹が立つ」


 榊は反論しなかった。


 第1の事件で、クラウディオを疑った。その疑いは完全な過ちではなかったが、利用されたのも事実だった。だから今度は、疑うにも慎重だった。人間にしては進歩している。本人は胃を痛めているだろうが。


 澪奈は人形の周囲を調べ始めた。


「埃の上に複数の足跡があります。若者の侵入によるものもありますが、人形の椅子の周囲だけ、埃の乱れ方が違います。ここへ最近置かれた可能性が高いです」


「引きずった跡は?」


「廊下から続いています。ただ、途中で途切れています。人形を持ち上げたか、箱に入れて運んだか」


 彼女は人形の足元へライトを向けた。


「それから、小さな跡があります。人形の足跡、というより、靴底ではない細い擦れ跡です。人形を床に一度置いた可能性があります」


 榊が旧放送室の方向を見た。


「放送設備も確認する」


 旧音楽室の隅に、警備会社が置いた録音機があった。昨夜の異音確認のため、急遽設置されたものだ。澪奈はそのデータを確認する。


「昨夜二十三時十二分。笑い声が記録されています」


 端末から音が流れた。


 最初はノイズだった。


 ざ、ざ、と古い校内放送のような音。そこへ、少女の笑い声が混じる。高すぎず、低すぎない。幼い声のようにも聞こえるが、どこか機械に削られたようなざらつきがある。楽しそうではない。泣き声の裏返しのような笑いだった。


 澪奈は唇を引き結ぶ。


「人形の口は閉じています。可動機構も外から見る限りありません。内部確認が必要です」


 クラウディオは人形の口元を見る。


「笑わせるなら、もっとましな喉を作れ」


「喉?」


 榊が聞く。


「説明しても無駄だ」


「分かるように言え」


「作った人間が声の出る場所を知らない。口元だけ笑わせている。喉と胸が空だ」


 澪奈がメモを取る。


「内部に発声装置がない可能性?」


「あるなら雑だ」


 ルストは人形ではなく、部屋の壁を見る。


「声はここだけではない」


 彼の視線は、音楽室の奥の壁へ向いた。


「旧放送室か」


 榊が言う。


 旧放送室は音楽室の隣の奥にあった。かつて校内放送を管理していた小部屋で、扉には剥がれかけた札が残っている。中へ入ると、古い放送卓、マイク、錆びたラック、切れかけた配線があった。電源は落ちているはずだった。だが、一部の配線は新しく触られたように見えた。


 澪奈が膝をつく。


「配線の埃が一部払われています。古い設備ですが、ここ数日で触られた可能性があります」


 榊が唸る。


「人間の仕掛けか」


「可能性は高いです。ただ、昨夜の録音では音源の位置が一定していません。放送室からの出力だけなら、もっと均一に拾えるはずです」


「人間が笑い声を流した」


 榊は言った。


「だが、それだけでは説明できない声もある」


 澪奈は頷く。


「はい」


 クラウディオは放送卓を一瞥した。


「怪談ごっこか。退屈な連中だ」


「退屈で済めばいいがな」


 榊は廊下へ戻る。


 その時、廊下の端で何かが光った。


 澪奈が気づく。


「待ってください」


 廊下の床、埃の中に硝子の目が落ちていた。


 小さい。片目だけ。人形のものだ。埃と水気にまみれているが、内部の色は青灰色に見える。笑う少女人形の両目は揃っている。つまり、この硝子の目は、あの人形のものではない。


 クラウディオの表情が変わる。


 ほんのわずかに。


 榊がしゃがむ。


「別の人形の目か」


 澪奈は慎重に撮影する。


「この人形のものではありません。サイズも少し違います。素材分析が必要ですが、古いものです」


 ルストが低く言う。


「消えた人形の片目か」


 その言葉に、空気が冷えた。


 槻島宗一郎がクラウディオへ修復を依頼していた人形。右腕欠損。左目のガラス交換。胸部機構修復。消えた人形。もしその片目がここにあるなら、洋館の事件と廃校の笑う人形は、偶然ではつながらない。


 クラウディオは硝子の目を見ていた。


「触るな」


「触りません」


 澪奈が静かに答える。


 すでに彼女は、その言葉に慣れ始めていた。慣れたくはなかったが、仕事とは恐ろしい。人間を何にでも慣らす。


 廊下の奥から、かすかな匂いがした。


 古い薔薇香水。


 焼けた砂糖のような甘さ。


 クラウディオの指先が止まる。


 ルストはそれを見たが、何も言わなかった。


 榊の端末が震える。


「最悪だ」


 彼は画面を見るなり低く言った。


「もう上がっている」


 画面には、短い投稿が並んでいた。


 廃校の笑う人形。


 また人形師クラウディオか。


 泣く人形の次は笑う人形。


 人形師はまだ捕まっていない。


 廃校で見つかった人形、箱庭の人形に似ているらしい。


 榊は歯を噛んだ。


「早すぎる」


 澪奈も画面を確認する。


「警察発表前です。誰かが意図的に流しています」


 クラウディオは冷たく笑う。


「ご丁寧に、舞台まで変えてきたか」


 ルストが横へ立つ。


 クラウディオが横目で見る。


「庇うな」


「庇っていない。見ている」


「その言い方を気に入ったのか」


「事実だ」


「またそれか」


 だが、クラウディオはそれ以上言わなかった。


 ルストが隣にいることを拒まなかった。


 旧音楽室へ戻ると、人形は変わらず椅子に座っていた。


 白い顔。


 硝子の目。


 笑っているようで、笑っていない口元。


 澪奈は録音機を新たに設置し直した。音楽室の中央、ピアノの前、放送室側の壁、廊下側にそれぞれ小型マイクを置く。榊は時間を確認した。


「昨夜の発生時刻まで、あと二分」


「また笑うとは限りません」


 澪奈が言う。


「笑うなら、条件を見る」


 クラウディオは人形を見ていた。


「条件などあるのか」


 榊が問う。


「ある。怪異でも、人間でも、繰り返すものには癖がある」


「怪異にも癖が?」


「人間よりは素直だ」


「その言い方は少し傷つくな」


「傷つけた」


 榊は黙った。


 時計の針が進む。


 旧音楽室は静かだった。


 雨漏りの音も、風も止まっている。廊下の向こうで警察官が息を殺している気配だけがあった。放送室の古い配線は外されていない。電源の確認も済んでいる。だが、原因が分からない以上、全てを止めるわけにもいかない。


 残り十秒。


 誰も喋らない。


 クラウディオは人形を見ている。


 ルストはクラウディオの隣に立っている。


 澪奈は録音機の波形を見ている。


 榊は部屋全体を見ている。


 そして、時刻が変わった。


 最初に聞こえたのは、ノイズだった。


 ざ、と。


 古い放送設備が息を吸うような音。


 次に、少女の笑い声がした。


 旧音楽室の中で、確かに響いた。


 誰も触れていない。


 少女人形の口元は動かない。


 それでも、笑い声は部屋の中にあった。高く、細く、楽しげで、どこか壊れている。泣き声を無理にひっくり返したような笑いだった。人形の顔は動かない。だが、見る角度のせいか、さっきより口元が上がっているように見える。


 榊が息を止める。


 澪奈は録音機を見る。


 ルストが顔を上げる。


 クラウディオは人形から目を離さない。


 笑い声は、数秒で止んだ。


 部屋には沈黙が戻る。


 澪奈が録音をすぐに再生した。


 ノイズ。


 沈黙。


 そして、笑い声。


 だが、再生された声は、現場で聞こえたものより一拍遅れていた。


 同じ声だった。


 同じ高さ。同じざらつき。同じ壊れた楽しげさ。


 それなのに、時間がずれている。


 澪奈の顔色が変わる。


「録音では、発生が約一秒遅れています」


 榊が画面を見る。


「現場で聞いた時刻と違う?」


「はい。録音機の時計は同期済みです。複数の録音機でも同じずれがあります。現場で聞こえた笑いと、記録された笑いが一致していません」


 ルストが低く言った。


「笑い声が遅れている」


 クラウディオは人形を見つめたまま、さらに低く言った。


「笑ったのは、人形じゃない」


 その瞬間。


 廊下の奥から、もう一つの笑い声が返った。


 今度は遠い。


 旧音楽室ではない。


 放送室でもない。


 もっと奥、暗い廊下の先。使われなくなった資料室か、閉じた教室か、板で塞がれた窓の向こうか。そこから、細い少女の笑い声が一度だけ響いた。


 楽しそうで。


 泣きそうで。


 少しだけ、こちらを呼ぶような声だった。


 誰も動かなかった。


 ただ、少女人形の硝子の目だけが、月明かりを拾って静かに光っていた。




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