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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第6部 【科学捜査の檻】

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第84話 何もないのと同じ


 警察庁内で一時的に拘束は回避されたものの、クラウディオは庁舎内から自由に出られない。ルストもまた、彼のそばを離れない。


 正式な拘束ではない。


 手錠もかけられていない。


 それでも、廊下には警備が残っていた。会議室から資料室へ移るだけでも、職員のカード認証が必要だった。階を移動するには同行者がつき、庁舎の外へ出る許可は下りない。白い廊下の曲がり角ごとに監視カメラがあり、靴音の止まる位置に人間が立っている。


 任意。


 安全確保。


 一時待機。


 人間は檻を作る時、まず言葉を飾る。鉄格子を白く塗って、名札だけ柔らかくする。まったく涙ぐましい努力だ。そこまでして檻を檻と呼びたくないなら、最初から人を閉じ込めなければいい。文明とは面倒な自縄自縛を発明する装置らしい。


 クラウディオは、資料室へ続く重い扉の前で足を止めた。


 金属製の扉には、事件資料保管区画を示す番号が打たれている。職員がカードをかざすと、短い電子音がした。開いた隙間から、紙と埃と古い接着剤の匂いが流れてくる。


 白い廊下とは違う匂いだった。


 けれど、自由の匂いではない。


「拘束ではないが帰れない。実に便利な檻だな」


 クラウディオが低く言うと、先に入ろうとしていた職員の肩がわずかに跳ねた。


 ルストは返事をしなかった。


 ただ、クラウディオのすぐ後ろに立っている。距離は近い。近すぎるほどではない。だが、離れているとも言えない。その曖昧な距離が、かえって苛立たしい。


「手錠がなければ自由だと思っているらしい」


 クラウディオは続けた。


「警察庁は言葉の装飾が好きだな。任意、保護、安全確保。次は何だ。親切か。招待か」


 ルストがようやく短く言う。


「今は動くな」


「命じるな」


 反射のように返した声は冷たかった。


 ルストは黙る。


 その沈黙に、クラウディオの内側でまた細い棘が動いた。


 責任。


 俺が責任を持つ。


 あの白い廊下で、警察庁の人間に「あなたは彼の何ですか」と問われ、ルストは一瞬だけ言葉を詰まらせた。


 伴……。


 言いかけた一音。


 そして、飲み込んだ。


 クラウディオは聞き逃さなかった。吸血鬼の聴覚以前の問題だ。彼は知っている。ルストが、自分に関する肝心な言葉をいつも喉の奥で殺すことを。


 伴侶。


 そこまで出かけて、言わなかった。


 代わりに出たのは、責任。


 なんと便利な言葉だろう。檻にも首輪にも、監視にも保護にも、警察庁の書類にも、古い吸血鬼の支配にも、同じ札を貼れる。


 資料室の中へ入る。


 扉が背後で閉まり、白い廊下の光が少し遠ざかった。


 資料室は窓のない部屋だった。天井の古い蛍光灯が、低く唸るような音を立てている。壁一面には番号で管理されたファイルが並び、透明な保管箱が棚に積まれていた。箱の中には、過去の事件資料、古い鑑識書類、押収品の記録、未整理の紙束が収められている。


 紙と埃の匂い。


 古いインクの乾いた匂い。


 低い空調音。


 机の上には、榊と澪奈が確認していた途中の資料が置かれていた。未公開の検体照合データの出力紙、過去の人形絡み未解決事件の管理番号、工房《箱庭》に関係する符号が記された一覧。透明ファイルの縁に貼られたラベルは、どれも冷たく整っている。


 科学の神殿の奥にある、書類の納骨堂。


 そんな場所だった。


 完全な密室ではない。扉の外には警備がいる。監視カメラもある。だが、会議室ほど人目はない。資料棚の影と奥の机の周辺だけ、空気が少し緩んでいる。


 逃げ場ではない。


 ただ、人前では言えなかった言葉を落とすには、いくらかましな場所だった。


 職員は資料を置くと、「こちらでお待ちください」とだけ言って退出した。扉の外に、警備員の靴音が残る。


 クラウディオは棚に背を向け、机の縁へ軽く腰を預けた。


 ルストは扉側に立つ。


 その位置も気に入らない。


 扉を塞ぐようで。


 逃げ道を測っているようで。


 あるいは、外から来るものを止めるようで。


 庇うのか、囲うのか。いつもそこが曖昧だ。


「警察も犯人も、俺を閉じ込めたいらしいな」


 クラウディオは言った。


「警察庁の檻に入れられたと思ったら、貴様の檻まで増えるのか」


 ルストは表情を変えない。


「今は出ない方がいい」


「貴様も同じことを言う」


「違う」


「何が違う。責任か。管理か。監視か」


 ルストの目がわずかに細くなる。


 クラウディオは笑った。


 冷たい笑いだった。


「便利だったな。責任という言葉は」


 ルストは答えない。


「俺を庇う時は責任。閉じ込める時も責任。噛む時は何だ」


「クラウディオ」


 低い制止だった。


 だが、止まる理由にはならない。


 クラウディオは、先ほどルストが『伴侶』と言いかけてやめたことを持ち出す。


「貴様はいつもそうだ。噛む。縛る。庇う。だが、名はつけない」


 ルストの沈黙が深くなった。


 資料室の空調音が、やけに白々しく聞こえる。


 クラウディオは一歩、ルストへ近づいた。


「警察庁の人間に聞かれたな。俺の何か、と」


「今その話をする必要はない」


 ルストは話を逸らそうとする。クラウディオはそれを許さない。


「ある」


「事件が先だ」


「逃げるな。灰銀」


 ルストの目が冷えた。


 その冷え方を、クラウディオはよく知っている。警察官へ向けるものとは少し違う。敵に向ける圧でもない。自分の内側へ向ける苛立ちが、外へ漏れた時の温度だ。


「何も言わないなら何もないのと同じだろう」


 言った瞬間、資料室の空気が張った。


 その言葉は、挑発であり、本音でもある。


 クラウディオは、本気で何もないと思っているわけではない。


 何もないはずがない。


 過去がある。


 血がある。


 古い噛み跡がある。


 管理があった。


 檻があった。


 救済もあった。


 支配もあった。


 数十年会わなくても消えなかった関係がある。肌の下に残るもの。忘れようとしても、別の事件のたびに疼くもの。名前を与えられないまま、互いの行動だけが積み重なっていくもの。


 クラウディオは、ルストが自分をどう扱っているのか知っている。だが言葉にされなければ、それはいつでも管理や責任へすり替えられる。過去に何があっても、現代の二人は曖昧なままだ。


 協力者。


 関係者。


 監視対象。


 危険個体。


 保護対象。


 責任。


 どれも違う。


 どれも、誰かが都合よく使える。


 ルストが言わないなら、それらにされてしまう。警察庁の書類にも、上層部の判断にも、ルスト自身の不器用な沈黙にも。


 クラウディオは「伴侶と言え」とは言わない。


 そんな言葉を、自分から差し出すほど愚かではない。差し出した瞬間、欲しがったことになる。足りないと認めることになる。名前を欲していると、相手に知られてしまう。


 だから刃にする。


 何も言わないなら何もないのと同じだろう。


 痛い場所を、痛いと呼ばずに切る。


 それがクラウディオ・ルジェリウスのやり方だった。


 ルストは明らかに不機嫌になる。


 表情の変化はわずかだった。だが、目の奥の温度が落ちる。肩の線が硬くなる。声を出す前に、喉が一度動く。


 刺さったのだ。


 クラウディオには分かる。


 第81話で言いかけて飲み込んだ自覚がある。「責任」という言葉で逃げた自覚もある。クラウディオがそれを見抜いている。何もないわけがない。だが、言葉にできなかった。言葉にすれば、クラウディオを自分のものとして定義することになる。言葉にしなければ、クラウディオには足りない。


 その矛盾に苛立っている。


 まったく、最古の王ともあろうものが、言葉一つに詰まるとは。長く生きると賢くなるわけではないらしい。人類にも吸血鬼にも等しく適用される残念な真理だ。


「言えないか」


 クラウディオはさらに踏み込んだ。


「責任とは便利だな。噛み跡にも檻にも同じ名を貼れる」


「やめろ」


「嫌だね」


 クラウディオは笑う。


「貴様は名をつけないくせに、痕だけ増やす」


 その瞬間、ルストが動いた。


 速かった。


 けれど、暴力ではない。


 言葉で説明する代わりに、クラウディオの腕を取って壁際へ追い詰める。


 手首ではない。肘の少し上。逃がさないが、骨を軋ませるほどではない。クラウディオの身体を半歩下がらせ、資料棚の横の白い壁へ追いやる。背に硬い壁が近づいた。紙と埃の匂いが遠ざかり、ルストの気配が前に立つ。


 あの白い廊下と同じ構図だった。


 前にはルスト。


 背後には壁。


 外には警備。


 ここには資料棚と古い事件の紙束。


 庇う。


 囲う。


 追い詰める。


 閉じ込める。


 ルストの行動は、いつもその境目にある。


 クラウディオは即座に理解した。


 そして笑った。


「また檻か」


 冷たい声だった。


 だが、完全な拒絶ではない。


 怒っている。苛立っている。ルストが言葉ではなく行動で来たことを理解している。その上で、許していない。


「説明できないとすぐ壁を使う」


 クラウディオは言った。


「警察庁より貴様の方が檻を作るのが早い。責任者殿は、言葉の代わりに囲うらしい」


 ルストは答えない。


 クラウディオの背が壁へ触れた。


 冷たい。


 資料室の壁は、石牢の壁ではない。警察庁の内装材で覆われた白い壁だ。けれど、背中を預けた時の圧迫感は、檻によく似ていた。


「ほら、何も言えない」


 クラウディオは低く囁くように言った。


 ルストの顔が近い。


 銀灰の髪が、蛍光灯の白い光を受けて冷たく光る。鋼色の瞳が、クラウディオを見ている。見下ろしているのではない。押さえつけているのでもない。ただ、逃がさない距離でそこにいる。


 それが腹立たしい。


 それが、なおさら腹立たしい。


「俺を庇うなら名をつけろ」


 言いかけて、クラウディオは言葉を飲んだ。


 そこまで言えば、求めたことになる。


 だから、違う刃に変える。


「警察庁の檻に入れられたと思ったら、貴様の檻まで増えるのか」


 ルストの指が、クラウディオの腕から離れない。


「逃げるな」


「だから檻だと言っている」


「違う」


「またそれか。何が違う。言ってみろ」


 ルストは答えない。


 答えられない。


 クラウディオは笑った。


「言葉の使い方を忘れたか、灰銀」


 次の瞬間、ルストの手がクラウディオの肩口へ移った。


 乱暴ではない。


 だが、逃がさない。


 首筋がわずかに開く。


 クラウディオの瞳が細くなった。


「ルスト」


 低く警告する声だった。


 ルストは答えず、クラウディオの首筋に噛みつく。


 古い噛み跡の近く。


 数十年消えなかった痕のすぐ傍。


 牙が皮膚へ触れた瞬間、クラウディオの息が止まった。


 噛みつきは深すぎない。血を大量に飲むものではない。吸血として長く続くものでもない。けれど、牙の先が皮膚を破り、鋭い痛みが走った。熱いというより、輪郭を持った痛みだった。


 首筋の古い噛み跡の近くに、新しい痛みが重なる。


 警察庁の冷たい資料室。


 紙と埃の匂い。


 外に立つ警備員の気配。


 監視カメラの沈黙。


 古い蛍光灯の低い唸り。


 その中で、過去の痕の隣に今の痛みが刻まれる。


 クラウディオの指が、反射的にルストの服を掴んだ。


 掴んだことに腹が立つ。


 離せないことにも腹が立つ。


 噛まれたことにも、言葉の代わりに痕を増やされたことにも、なのにその痛みが「何もない」を否定してしまうことにも腹が立つ。


 これは答えではない。


 伴侶という言葉でもない。


 愛という言葉でもない。


 責任ですらない。


 だが、何もないわけがないという証明にはなる。


 それがなおさら許せない。


 ルストは、言葉を避けたまま痕を残す。管理と愛情、支配と保護、伴侶性と責任。そのすべてが混ざった、不器用で歪んだ痕を。


 クラウディオは喉を動かした。


 声はすぐには出なかった。


 息を詰めたまま、目だけでルストを睨む。


 痛みが、古い傷の隣で熱を持つ。


「……言葉の代わりに、それか」


 掠れた声が落ちた。


 ルストは牙を離さない。


 長くはない。


 それでも、その数秒がやけに長かった。


 クラウディオの指先が、ルストの服をさらに強く歪ませる。甘く崩れるためではない。倒れないためでもない。ただ、怒りの置き場を失った指が、そこを掴んでいた。


 やがてルストは離れた。


 血はわずかだった。


 空気に薄く鉄の匂いが混じる。


 クラウディオは浅く息を吸い、ゆっくりと吐いた。


 首筋が痛む。


 古い噛み跡のすぐ傍で、新しい痛みが脈打っている。


「最低だな、灰銀」


 声は低く、冷たい。


 ルストは答えなかった。


 答えれば、また何かを間違えると分かっているのかもしれない。あるいは、そもそも正しい言葉を持っていないのかもしれない。


 クラウディオは壁に背をつけたまま、笑った。


 笑ったが、目は笑っていなかった。


「貴様は本当に、名をつけるより痕を残す方が得意だな」


 ルストの指が、一瞬だけ動いた。


 触れようとしたのか。


 やめたのか。


 それすら腹立たしい。


 資料室の外で、警備員の靴音が小さく鳴った。


 事件は終わっていない。


 クラウディオはまだ自由ではない。


 榊と澪奈は、証拠の再検証と内部資料へのアクセス履歴を追っている。


 犯人はクラウディオを科学の檻に入れた。


 そしてその檻の中で、ルストはまた別の檻のようにクラウディオを壁際へ追い詰めた。


 クラウディオは唇を歪める。


「何もないのと同じだと言ったら、噛むのか」


 ルストは低く言った。


「何もないわけがない」


「なら言え」


 短い沈黙。


 ルストは言わない。


 クラウディオは目を伏せるように笑った。


「ほらな」


 その言葉は、勝利ではなかった。


 負けでもなかった。


 ただ、傷口を指で押したような声だった。


 警察庁の冷たい資料室で、首筋の古い噛み跡の近くに、新しい痛みが重なる。


 言葉の代わりに残された痛みが、古い噛み跡のすぐ隣で熱を持った。


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