第84話 何もないのと同じ
警察庁内で一時的に拘束は回避されたものの、クラウディオは庁舎内から自由に出られない。ルストもまた、彼のそばを離れない。
正式な拘束ではない。
手錠もかけられていない。
それでも、廊下には警備が残っていた。会議室から資料室へ移るだけでも、職員のカード認証が必要だった。階を移動するには同行者がつき、庁舎の外へ出る許可は下りない。白い廊下の曲がり角ごとに監視カメラがあり、靴音の止まる位置に人間が立っている。
任意。
安全確保。
一時待機。
人間は檻を作る時、まず言葉を飾る。鉄格子を白く塗って、名札だけ柔らかくする。まったく涙ぐましい努力だ。そこまでして檻を檻と呼びたくないなら、最初から人を閉じ込めなければいい。文明とは面倒な自縄自縛を発明する装置らしい。
クラウディオは、資料室へ続く重い扉の前で足を止めた。
金属製の扉には、事件資料保管区画を示す番号が打たれている。職員がカードをかざすと、短い電子音がした。開いた隙間から、紙と埃と古い接着剤の匂いが流れてくる。
白い廊下とは違う匂いだった。
けれど、自由の匂いではない。
「拘束ではないが帰れない。実に便利な檻だな」
クラウディオが低く言うと、先に入ろうとしていた職員の肩がわずかに跳ねた。
ルストは返事をしなかった。
ただ、クラウディオのすぐ後ろに立っている。距離は近い。近すぎるほどではない。だが、離れているとも言えない。その曖昧な距離が、かえって苛立たしい。
「手錠がなければ自由だと思っているらしい」
クラウディオは続けた。
「警察庁は言葉の装飾が好きだな。任意、保護、安全確保。次は何だ。親切か。招待か」
ルストがようやく短く言う。
「今は動くな」
「命じるな」
反射のように返した声は冷たかった。
ルストは黙る。
その沈黙に、クラウディオの内側でまた細い棘が動いた。
責任。
俺が責任を持つ。
あの白い廊下で、警察庁の人間に「あなたは彼の何ですか」と問われ、ルストは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
伴……。
言いかけた一音。
そして、飲み込んだ。
クラウディオは聞き逃さなかった。吸血鬼の聴覚以前の問題だ。彼は知っている。ルストが、自分に関する肝心な言葉をいつも喉の奥で殺すことを。
伴侶。
そこまで出かけて、言わなかった。
代わりに出たのは、責任。
なんと便利な言葉だろう。檻にも首輪にも、監視にも保護にも、警察庁の書類にも、古い吸血鬼の支配にも、同じ札を貼れる。
資料室の中へ入る。
扉が背後で閉まり、白い廊下の光が少し遠ざかった。
資料室は窓のない部屋だった。天井の古い蛍光灯が、低く唸るような音を立てている。壁一面には番号で管理されたファイルが並び、透明な保管箱が棚に積まれていた。箱の中には、過去の事件資料、古い鑑識書類、押収品の記録、未整理の紙束が収められている。
紙と埃の匂い。
古いインクの乾いた匂い。
低い空調音。
机の上には、榊と澪奈が確認していた途中の資料が置かれていた。未公開の検体照合データの出力紙、過去の人形絡み未解決事件の管理番号、工房《箱庭》に関係する符号が記された一覧。透明ファイルの縁に貼られたラベルは、どれも冷たく整っている。
科学の神殿の奥にある、書類の納骨堂。
そんな場所だった。
完全な密室ではない。扉の外には警備がいる。監視カメラもある。だが、会議室ほど人目はない。資料棚の影と奥の机の周辺だけ、空気が少し緩んでいる。
逃げ場ではない。
ただ、人前では言えなかった言葉を落とすには、いくらかましな場所だった。
職員は資料を置くと、「こちらでお待ちください」とだけ言って退出した。扉の外に、警備員の靴音が残る。
クラウディオは棚に背を向け、机の縁へ軽く腰を預けた。
ルストは扉側に立つ。
その位置も気に入らない。
扉を塞ぐようで。
逃げ道を測っているようで。
あるいは、外から来るものを止めるようで。
庇うのか、囲うのか。いつもそこが曖昧だ。
「警察も犯人も、俺を閉じ込めたいらしいな」
クラウディオは言った。
「警察庁の檻に入れられたと思ったら、貴様の檻まで増えるのか」
ルストは表情を変えない。
「今は出ない方がいい」
「貴様も同じことを言う」
「違う」
「何が違う。責任か。管理か。監視か」
ルストの目がわずかに細くなる。
クラウディオは笑った。
冷たい笑いだった。
「便利だったな。責任という言葉は」
ルストは答えない。
「俺を庇う時は責任。閉じ込める時も責任。噛む時は何だ」
「クラウディオ」
低い制止だった。
だが、止まる理由にはならない。
クラウディオは、先ほどルストが『伴侶』と言いかけてやめたことを持ち出す。
「貴様はいつもそうだ。噛む。縛る。庇う。だが、名はつけない」
ルストの沈黙が深くなった。
資料室の空調音が、やけに白々しく聞こえる。
クラウディオは一歩、ルストへ近づいた。
「警察庁の人間に聞かれたな。俺の何か、と」
「今その話をする必要はない」
ルストは話を逸らそうとする。クラウディオはそれを許さない。
「ある」
「事件が先だ」
「逃げるな。灰銀」
ルストの目が冷えた。
その冷え方を、クラウディオはよく知っている。警察官へ向けるものとは少し違う。敵に向ける圧でもない。自分の内側へ向ける苛立ちが、外へ漏れた時の温度だ。
「何も言わないなら何もないのと同じだろう」
言った瞬間、資料室の空気が張った。
その言葉は、挑発であり、本音でもある。
クラウディオは、本気で何もないと思っているわけではない。
何もないはずがない。
過去がある。
血がある。
古い噛み跡がある。
管理があった。
檻があった。
救済もあった。
支配もあった。
数十年会わなくても消えなかった関係がある。肌の下に残るもの。忘れようとしても、別の事件のたびに疼くもの。名前を与えられないまま、互いの行動だけが積み重なっていくもの。
クラウディオは、ルストが自分をどう扱っているのか知っている。だが言葉にされなければ、それはいつでも管理や責任へすり替えられる。過去に何があっても、現代の二人は曖昧なままだ。
協力者。
関係者。
監視対象。
危険個体。
保護対象。
責任。
どれも違う。
どれも、誰かが都合よく使える。
ルストが言わないなら、それらにされてしまう。警察庁の書類にも、上層部の判断にも、ルスト自身の不器用な沈黙にも。
クラウディオは「伴侶と言え」とは言わない。
そんな言葉を、自分から差し出すほど愚かではない。差し出した瞬間、欲しがったことになる。足りないと認めることになる。名前を欲していると、相手に知られてしまう。
だから刃にする。
何も言わないなら何もないのと同じだろう。
痛い場所を、痛いと呼ばずに切る。
それがクラウディオ・ルジェリウスのやり方だった。
ルストは明らかに不機嫌になる。
表情の変化はわずかだった。だが、目の奥の温度が落ちる。肩の線が硬くなる。声を出す前に、喉が一度動く。
刺さったのだ。
クラウディオには分かる。
第81話で言いかけて飲み込んだ自覚がある。「責任」という言葉で逃げた自覚もある。クラウディオがそれを見抜いている。何もないわけがない。だが、言葉にできなかった。言葉にすれば、クラウディオを自分のものとして定義することになる。言葉にしなければ、クラウディオには足りない。
その矛盾に苛立っている。
まったく、最古の王ともあろうものが、言葉一つに詰まるとは。長く生きると賢くなるわけではないらしい。人類にも吸血鬼にも等しく適用される残念な真理だ。
「言えないか」
クラウディオはさらに踏み込んだ。
「責任とは便利だな。噛み跡にも檻にも同じ名を貼れる」
「やめろ」
「嫌だね」
クラウディオは笑う。
「貴様は名をつけないくせに、痕だけ増やす」
その瞬間、ルストが動いた。
速かった。
けれど、暴力ではない。
言葉で説明する代わりに、クラウディオの腕を取って壁際へ追い詰める。
手首ではない。肘の少し上。逃がさないが、骨を軋ませるほどではない。クラウディオの身体を半歩下がらせ、資料棚の横の白い壁へ追いやる。背に硬い壁が近づいた。紙と埃の匂いが遠ざかり、ルストの気配が前に立つ。
あの白い廊下と同じ構図だった。
前にはルスト。
背後には壁。
外には警備。
ここには資料棚と古い事件の紙束。
庇う。
囲う。
追い詰める。
閉じ込める。
ルストの行動は、いつもその境目にある。
クラウディオは即座に理解した。
そして笑った。
「また檻か」
冷たい声だった。
だが、完全な拒絶ではない。
怒っている。苛立っている。ルストが言葉ではなく行動で来たことを理解している。その上で、許していない。
「説明できないとすぐ壁を使う」
クラウディオは言った。
「警察庁より貴様の方が檻を作るのが早い。責任者殿は、言葉の代わりに囲うらしい」
ルストは答えない。
クラウディオの背が壁へ触れた。
冷たい。
資料室の壁は、石牢の壁ではない。警察庁の内装材で覆われた白い壁だ。けれど、背中を預けた時の圧迫感は、檻によく似ていた。
「ほら、何も言えない」
クラウディオは低く囁くように言った。
ルストの顔が近い。
銀灰の髪が、蛍光灯の白い光を受けて冷たく光る。鋼色の瞳が、クラウディオを見ている。見下ろしているのではない。押さえつけているのでもない。ただ、逃がさない距離でそこにいる。
それが腹立たしい。
それが、なおさら腹立たしい。
「俺を庇うなら名をつけろ」
言いかけて、クラウディオは言葉を飲んだ。
そこまで言えば、求めたことになる。
だから、違う刃に変える。
「警察庁の檻に入れられたと思ったら、貴様の檻まで増えるのか」
ルストの指が、クラウディオの腕から離れない。
「逃げるな」
「だから檻だと言っている」
「違う」
「またそれか。何が違う。言ってみろ」
ルストは答えない。
答えられない。
クラウディオは笑った。
「言葉の使い方を忘れたか、灰銀」
次の瞬間、ルストの手がクラウディオの肩口へ移った。
乱暴ではない。
だが、逃がさない。
首筋がわずかに開く。
クラウディオの瞳が細くなった。
「ルスト」
低く警告する声だった。
ルストは答えず、クラウディオの首筋に噛みつく。
古い噛み跡の近く。
数十年消えなかった痕のすぐ傍。
牙が皮膚へ触れた瞬間、クラウディオの息が止まった。
噛みつきは深すぎない。血を大量に飲むものではない。吸血として長く続くものでもない。けれど、牙の先が皮膚を破り、鋭い痛みが走った。熱いというより、輪郭を持った痛みだった。
首筋の古い噛み跡の近くに、新しい痛みが重なる。
警察庁の冷たい資料室。
紙と埃の匂い。
外に立つ警備員の気配。
監視カメラの沈黙。
古い蛍光灯の低い唸り。
その中で、過去の痕の隣に今の痛みが刻まれる。
クラウディオの指が、反射的にルストの服を掴んだ。
掴んだことに腹が立つ。
離せないことにも腹が立つ。
噛まれたことにも、言葉の代わりに痕を増やされたことにも、なのにその痛みが「何もない」を否定してしまうことにも腹が立つ。
これは答えではない。
伴侶という言葉でもない。
愛という言葉でもない。
責任ですらない。
だが、何もないわけがないという証明にはなる。
それがなおさら許せない。
ルストは、言葉を避けたまま痕を残す。管理と愛情、支配と保護、伴侶性と責任。そのすべてが混ざった、不器用で歪んだ痕を。
クラウディオは喉を動かした。
声はすぐには出なかった。
息を詰めたまま、目だけでルストを睨む。
痛みが、古い傷の隣で熱を持つ。
「……言葉の代わりに、それか」
掠れた声が落ちた。
ルストは牙を離さない。
長くはない。
それでも、その数秒がやけに長かった。
クラウディオの指先が、ルストの服をさらに強く歪ませる。甘く崩れるためではない。倒れないためでもない。ただ、怒りの置き場を失った指が、そこを掴んでいた。
やがてルストは離れた。
血はわずかだった。
空気に薄く鉄の匂いが混じる。
クラウディオは浅く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
首筋が痛む。
古い噛み跡のすぐ傍で、新しい痛みが脈打っている。
「最低だな、灰銀」
声は低く、冷たい。
ルストは答えなかった。
答えれば、また何かを間違えると分かっているのかもしれない。あるいは、そもそも正しい言葉を持っていないのかもしれない。
クラウディオは壁に背をつけたまま、笑った。
笑ったが、目は笑っていなかった。
「貴様は本当に、名をつけるより痕を残す方が得意だな」
ルストの指が、一瞬だけ動いた。
触れようとしたのか。
やめたのか。
それすら腹立たしい。
資料室の外で、警備員の靴音が小さく鳴った。
事件は終わっていない。
クラウディオはまだ自由ではない。
榊と澪奈は、証拠の再検証と内部資料へのアクセス履歴を追っている。
犯人はクラウディオを科学の檻に入れた。
そしてその檻の中で、ルストはまた別の檻のようにクラウディオを壁際へ追い詰めた。
クラウディオは唇を歪める。
「何もないのと同じだと言ったら、噛むのか」
ルストは低く言った。
「何もないわけがない」
「なら言え」
短い沈黙。
ルストは言わない。
クラウディオは目を伏せるように笑った。
「ほらな」
その言葉は、勝利ではなかった。
負けでもなかった。
ただ、傷口を指で押したような声だった。
警察庁の冷たい資料室で、首筋の古い噛み跡の近くに、新しい痛みが重なる。
言葉の代わりに残された痛みが、古い噛み跡のすぐ隣で熱を持った。




