第82話 証拠は喋りすぎる
警察庁の会議室に戻された時、クラウディオはまず椅子を見た。
白い壁。窓のない部屋。天井に埋め込まれた無機質な照明。机の中央に置かれた資料端末と、整然と並べられた鑑識資料。壁際には小型の監視カメラがある。ドアの外には警備員が立ち、廊下を通る靴音が一定の間隔で遠ざかっていく。
正式な拘束ではない。
手錠もない。
しかし、自由でもない。
扉は開けられる。だが、開ければ職員がいる。水を取るにも声をかけられ、廊下に出るにも目がつく。任意という言葉は、まだ薄い檻のまま部屋の中に残っていた。
クラウディオは椅子に腰を下ろし、片肘を机に置いた。
「今度は何を拝ませる気だ。血痕か、映像か、それとも人形の死骸か」
その声は低く、冷えていた。
会議室の端で、榊が端末を開く。澪奈はその隣に立ち、警察庁側から共有された分析データを自分の端末へ表示させていた。ルストはクラウディオの背後に近い位置に立っている。近すぎるほどではない。だが、離れてもいない。
その距離が、前話からの棘をそのまま残していた。
ルストは「伴……」と言いかけた。
言わなかった。
代わりに「俺が責任を持つ」と言った。
クラウディオはそれを忘れていない。忘れるほど物分かりの良い生き物なら、そもそも数百年も血の匂いを引きずって生きていない。吸血鬼王の記憶力は、無駄に頑丈だ。まったく、情緒の保管方法が古文書より面倒くさい。
クラウディオはルストを見ない。
ルストも、それに気づいている。
だが今は、言葉を選び直す時間ではなかった。
会議室のドアの外に警備が立っている以上、彼らの関係の名前より、まず檻の材質を見極めなければならない。
澪奈が端末の画面を机の中央に向けた。
「再検証を始めます」
警察庁側の担当者はまだ不満げだった。だが、榊が手続き面で食い下がり、澪奈が科学側から違和感を主張したことで、一時的に時間だけは確保された。薄い時間だ。人間が作る猶予は、いつも薄い。けれど薄くても、隙間は隙間だった。
澪奈は深く息を吸った。
「最初に確認します。科学的な数値そのものに矛盾はありません。DNAは一致する。繊維片も一致する。映像も改ざん痕がない。位置情報も死亡時刻と合っている」
クラウディオは薄く笑った。
「見事な説教の始まりだな」
「説教ではありません。確認です」
「人間は確認と言いながら判決を読むのが好きだ」
「今回は、その判決になりそうなものを疑っています」
澪奈は言い返した。声は少し硬いが、逃げてはいなかった。
彼女は画面を切り替える。
そこには、死亡した元鑑識官の自宅マンションに関する資料が並んでいた。監視映像の静止画。エレベーター記録。死亡推定時刻。位置情報の照合表。床に残った血液反応の分布図。人形破片の拡大写真。繊維片の分析結果。通信記録。被害者端末に残されたクラウディオ名義のメッセージ。
それらは、一つ一つは冷たいデータだった。
だが、並べられた瞬間、物語になる。
誰が、いつ、どこへ行き、何を残し、どう逃げたか。
証拠は、そう読ませるために整列していた。
澪奈は画面を見つめたまま言う。
「DNA照合は強いです。血液反応も、登録情報と矛盾しません。繊維片は、クラウディオさんの服に使われる素材と一致に近い。映像にも、目立つ改ざん痕はありません。位置情報も、死亡推定時刻と合っています」
榊が低く言う。
「普通なら、それで終わりだ」
「はい。普通なら」
澪奈は頷いた。
「ですが、普通ではありません」
クラウディオは指先で机を軽く叩いた。
「ようやく楽しくなってきた」
「楽しむ場面ではありません」
「俺が犯人として完成させられている場面だぞ。退屈するよりはいい」
澪奈は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに資料へ視線を戻した。
「証拠が喋りすぎている」
その一言で、会議室の空気が少し変わった。
榊が澪奈を見る。
「喋りすぎている?」
「はい」
澪奈は端末上で、血液反応の分布図と現場写真を並べる。
「数字は合っています。だからこそ、変です」
彼女の指先が、画面の上を滑った。
「現実の事件では、証拠はもっと曖昧で、欠けていて、汚れています。人間が動けば、痕跡は乱れる。被害者の生活痕が混ざる。第三者の痕跡も残る。古い繊維や埃、偶発的な接触、不要な汚れ。そういうノイズが必ずあります」
画面に、現場写真が映る。
床。
机。
倒れた椅子はない。
乱れた棚もない。
血痕はある。指紋もある。靴跡もある。人形の破片もある。クラウディオを指すものばかりが、見てほしい場所に残っている。
「だが今回の証拠は、まるで犯人が『ここを見ろ』と印をつけて歩いたように整っている」
澪奈は言った。
「血痕も、繊維片も、人形破片も、映像も、通信記録も、全部が同じ方向へ説明しすぎています。証拠というより、文章です。クラウディオさんを犯人にするための文章に見えます」
クラウディオは口元だけで笑った。
「随分と雄弁な死体だ。死者がここまで俺を名指しするとはな」
その声に、澪奈は目を伏せなかった。
「被害者が喋っているわけではありません」
「だろうな。死体の趣味としては饒舌すぎる」
「喋らされているように見えます」
榊が腕を組んだ。
「証拠を使ってか」
「はい」
澪奈は通信記録へ画面を切り替えた。
クラウディオ名義のメッセージ。被害者と会う約束をしたように見える文面。時間。送信記録。端末上の表示。報告書の上では、冷たく整理されていた。
クラウディオはそれを一瞥する。
「俺の名を騙った、下手な腹話術だ」
榊が言う。
「文体に違和感か」
「言葉の骨が違う」
「骨?」
「皮肉を似せるなら、まず頭を鍛えろ。俺の名を使っておきながら、文章が貧しい。模倣犯というより、国語教育の敗北だな」
「そこまで言うか」
「死体と俺に失礼だ」
澪奈は少しだけ困った顔をした。榊は頭を押さえた。人が死んでいて、容疑が重くて、警察庁の会議室に警備が立っていても、クラウディオはクラウディオだった。最悪の状況でも言葉だけはやたら元気。生き物として本当に面倒くさい。
ルストは、それまで黙って写真を見ていた。
机に並ぶ画面の中で、彼が特に目を止めていたのは、人形破片の写真と血液反応だった。
白っぽい素材の欠片。
微量の血液。
古びた塗装に見える表面。
クラウディオの工房《箱庭》にある素材と酷似する分析結果。
科学的には、クラウディオへ近づく。
だが、ルストの目には別のものも見えていた。
血の残り香。
科学の表には載らない、ごく薄い癖。
ルストは静かに言った。
「違う」
クラウディオは視線を向けないまま返す。
「何が」
「血の残り方だ」
「また血の癖か」
「そうだ」
榊が短く息を吐く。
「血の癖ってやつは、鑑識資料に載せられないんだよな」
「載せられない」
ルストは淡々と返した。
澪奈は端末を抱え直しながら、真剣に聞いている。
「どう違うんですか」
ルストは写真を見たまま言った。
「ルジェリウスの血術なら、もっと残る」
「血液量の話ですか」
「違う。支配の話だ」
澪奈が一瞬だけ止まる。
クラウディオがようやくルストを見た。
「ほう」
ルストは続けた。
「クラウディオの血術は、美しく傲慢で、痕跡すら支配的だ。だが現場に残っていたものは、似せているだけで芯が薄い」
会議室の空気が、またわずかに変わった。
ルストは証拠の中で、血術の残滓だけが微妙に不自然なことに気づく。クラウディオの血術は、美しく傲慢で、痕跡すら支配的だ。だが現場に残っていたものは、似せているだけで芯が薄い。
クラウディオは目を細める。
「本人なら、もっと支配する」
ルストは短く言った。
クラウディオは口元を歪めた。
「褒めているのか、貶しているのか」
「事実だ」
「俺の血に詳しいな、灰銀」
「詳しい」
即答だった。
澪奈が端末を落としかけた。榊は今度こそ明確に頭を抱えた。
「お前ら、警察庁で何の会話してんだ」
クラウディオは冷たく言う。
「榊、科学だけでは分からないことがあるらしいぞ。記録しておけ」
「記録したくねえ」
ルストは平然としている。
前話の「伴……」未遂がなければ、クラウディオはもう少し皮肉を重ねていただろう。だが今は、その言葉を深追いしなかった。ルストも同じだ。二人の間に言い残しがある。だが、事件がそれを許さない。実に迷惑な順番だ。世界はいつも空気を読まない。読んだら読んだで気持ち悪いが。
澪奈は、ルストの言葉を自分の領域へ引き寄せるように、血液反応の分布図へ視線を戻した。
「私は血術の癖は分かりません。でも、別の角度からなら近い違和感があります」
彼女は画像を拡大する。
「広がり方が綺麗すぎます」
榊が画面を覗き込む。
「血液反応の?」
「はい。生きた人間が倒れた現場なら、もっと乱れるはずです。床材、動線、姿勢、周囲の物品、被害者の動き、時間経過。全部が影響します。でも、今回の反応は整いすぎています」
澪奈の指が、血痕分布図の一部を示す。
「澪奈も別角度から同じ違和感に近づく。血液反応の広がり方が綺麗すぎる。人間が死ぬ時の乱れではなく、あとから配置されたような均一さがある」
彼女は慎重に言葉を選んだ。
「もちろん、反応そのものはあります。数値も合っています。けれど、現場の呼吸がありません。血液反応が、図面のように整っています」
「現場の呼吸、か」
榊が低く呟く。
「はい。痕跡が結果として残ったというより、見せるために残された痕跡に近いです」
クラウディオは、静かに笑った。
「これは現場ではない。俺を主語にした作文だ」
榊が画面から顔を上げる。
「作文なら、書いた奴がいる」
その言葉に、部屋の空気が沈む。
証拠はある。
数値も合っている。
映像も合う。
位置情報も時刻と重なる。
報告書上は、クラウディオへ向かう道が白い線で引かれている。だが、その線があまりにも真っ直ぐすぎる。
真実は、たいていもっと曲がる。
人が死んだ場所は、もっと汚れる。
感情も、身体も、物も、時間も、すべてがぶつかって乱れる。それが現場だ。にもかかわらず、この事件の現場は、完成された教材のように整っている。
榊は口元に手を当てた。
「数値は合っている。だが、現場としておかしい」
澪奈が頷く。
「強い証拠です。だからこそ、もう一度見る必要があります」
「強い証拠ほど、使われた時に危ない」
榊は、前にクラウディオから言われた言葉を思い出していた。
証拠は見るものだ。拝むものじゃない。
科学は必要だ。証拠なしで人を疑えば、ただの魔女狩りになる。だが、証拠を疑わずに拝めば、それもまた別の火刑台になる。
旧欧州では、ロウェナ・ミルが証言と記録で燃やされた。
夜見坂教会では、祈りと告発が誰かを燃やした。
今度は、科学証拠がクラウディオを閉じ込めようとしている。
クラウディオは、机に置かれた資料を眺めながら言った。
「久遠院が好みそうだな。証拠に喋らせ、自分は黙って観察する」
ルストはすぐに返す。
「まだ決めるな」
「決めてはいない。趣味の悪さを嗅いだだけだ」
「嗅ぐな」
「鼻まで管理する気か。責任者殿」
ルストの眉がわずかに動いた。
榊が小さく舌打ちする。
「お前も今そこで刺すな」
「刺されたくないなら言葉を飲み込むな」
クラウディオの声は冷たい。
ルストは黙った。
澪奈は二人の間に漂う空気を、見なかったことにした。彼女は賢い。科学で測れない爆発物は、今は放置するに限る。人間社会にもたまには正しい判断が存在する。
澪奈は端末へ視線を戻し、別のログを開いた。
「もう一つ、確認したいものがあります」
榊が反応する。
「何だ」
「被害者のアクセス履歴です。死亡した元鑑識官は、事件直前に内部資料へアクセスしています」
クラウディオの目が、わずかに細くなる。
ルストも画面へ視線を向けた。
澪奈は端末に表示された一覧を会議室の画面へ送る。そこには、時刻とデータ名、アクセス区分が並んでいた。警察庁側から共有された範囲内のログであり、詳細な中身はまだ見られない。だが、ひとつの項目だけが異様に目を引いた。
事件発生の直前。
被害者がアクセスしていた未公開の検体照合データ。
データ名の一部に、クラウディオの工房《箱庭》に関係する符号が含まれている。
澪奈は静かに言った。
「死亡した元鑑識官が事件直前、ある未公開の検体照合データへアクセスしていたことが分かりました」
榊が画面に近づく。
「未公開?」
「はい。共有範囲外の照合データです。まだ中身は確認できません。ただ、データ名に符号があります」
彼女はその部分を拡大した。
DOLL-HK。
その後ろに、枝番のような数字。
さらに、BOX-GARDENに似た管理表記。
澪奈の声が低くなる。
「そのデータ名には、クラウディオの工房《箱庭》に関係する符号が含まれていました」
クラウディオは画面を見た。
表情は変わらない。
だが、会議室の温度が落ちたように感じた。
箱庭。
彼の工房。
人形。
素材。
喪失。
記憶。
誰かが、そこへ手を伸ばしている。
榊が呟く。
「被害者は、事件の前にこれを見ていた」
「そうなります」
澪奈は答える。
「これが何かはまだ分かりません。ですが、少なくとも被害者は死亡直前、《箱庭》に関係する未公開の照合データへアクセスしていました」
ルストは無言で画面を見ている。
クラウディオは、ゆっくりと笑った。
「随分と親切な死者だな。俺を指差すだけでは飽き足らず、箱庭の名まで残していったか」
「クラウディオ」
ルストが低く呼ぶ。
「分かっている」
クラウディオは画面から目を離さない。
「死者が喋っているわけではない。喋らされているのか、それとも喋る前に殺されたのか。そこを見るべきだろうな」
榊の目が鋭くなる。
「被害者は、何かに気づいた可能性がある」
澪奈が頷いた。
「少なくとも、事件直前にこのデータへアクセスした理由があります」
「その中身が、今回の証拠の整いすぎと繋がるかもしれない」
「はい」
部屋の外では、まだ警備員が立っている。
クラウディオは正式拘束されていない。
しかし自由でもない。
証拠はまだ彼を指している。
だが、証拠の声が大きすぎる理由が、ほんの少しだけ見え始めていた。
澪奈は端末を握り直した。
「このデータの開示を求めます」
榊が頷く。
「俺が通す」
「上層部は嫌がると思います」
「嫌がられてもやる。ここまで来て見ない選択肢はない」
クラウディオは薄く笑う。
「ようやく捜査らしくなってきたな。火刑台の薪を数えるだけでは退屈だった」
「お前は黙って座ってろ」
「任意の檻に座らされている身だ。口くらい動かさせろ」
「口が動きすぎなんだよ」
「証拠よりは控えめだ」
榊は言い返す気力をなくした顔をした。
ルストはクラウディオの横に立っていた。前話の言葉はまだ宙に残っている。「伴……」と言いかけて、飲み込んだ音。責任という代替語。クラウディオの冷笑。首筋の古い噛み跡。
それでも、今は隣にいる。
クラウディオはそれを見ないふりをした。
ルストも、言い直さない。
会議室の画面には、未公開検体照合データの名が映っていた。
証拠はクラウディオを指していた。
だが、死者が最後に見ていたものもまた、《箱庭》の名を含んでいた。




