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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第6部 【科学捜査の檻】

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第81話 伴侶と言いかけて



 白い廊下の空気は、まだ凍っていた。


 警察庁の廊下は、ひどく清潔だった。床は照明を薄く反射し、壁には染みひとつない。監視カメラの黒い半球が天井の角に沈み、カードゲートの電子音が遠くで短く鳴る。空調は一定の温度を保ち、誰の怒りも、誰の焦りも、誰の恐怖も数値に直して処理できると言わんばかりに静かだった。


 だが、その静けさの下に、薄い火薬のような緊張が敷かれていた。


 壁際にはクラウディオがいる。


 その前には、ルスト・ヴァルレインが立っていた。


 クラウディオの背中のすぐ後ろには白い壁。前には灰銀の背。ルストの肩越しに、距離を取った警備員たちが見える。警備員たちは動かない。先ほど、ルストが低く「動くな」と言っただけで、廊下の空気が一瞬にして冷えたからだ。


 ただの協力者ではない。


 ただの同行者でもない。


 警察庁の人間たちは、そのことを言葉にできないまま理解していた。だから余計に扱いに困っている。分類できないものを前にすると、人間は途端に書類棚の前で迷子になるらしい。実に人類らしい不便さだった。


 上層部の男は、ようやく口を開いた。


「このまま身柄を確保すべきです。証拠は揃っています」


 榊が即座に返す。


「まだ正式な令状は出ていない」


「手続きは進めています」


「進めている最中と出ている後では違う。任意同行の範囲を超える」


「被疑者は吸血鬼であり、血術および怪異事件との関与も複数確認されています。逃走や証拠隠滅の危険を考えれば、現時点で確保を検討するのは当然でしょう」


「検討はしろ。だが、いま腕を取って連れていくのは別だ」


 榊の声には苛立ちが混じっていた。感情で押しているのではない。むしろ、感情を押さえ込んでいるから声が低かった。


「証拠は強い。そこは分かってる。だが、強すぎる。都合よく残りすぎている。現場があまりにもクラウディオを指しすぎている」


 上層部の男の眉がわずかに動いた。


「証拠が被疑者を指しているなら、それは本来、捜査上有力な材料です」


「だから危ないと言っている」


 榊は一歩も引かなかった。


「証拠が自然にそこへ向いたのか、向くように置かれたのかを確認しないまま走れば、警察が誰かの筋書きに乗ることになる」


 クラウディオは壁際で薄く笑った。


「珍しくまともだな、榊」


「黙ってろ。お前に褒められても疲労が増えるだけだ」


「人間にしては成長したと言ってやっている」


「それが余計なんだよ」


 榊の返しに、クラウディオの笑みが少しだけ深くなった。だが、目は笑っていなかった。


 彼は壁際に立たされている。背後に壁。前にルスト。周囲に警備。白い廊下。監視カメラ。識別証。電子音。任意と拘束の境目が、白い照明の下で曖昧になっている。


 火刑台ではない。


 鐘も鳴らない。


 ロウェナの声も聞こえない。


 それでも、構造は似ていた。誰かを一つの場所に追い込み、周囲が証拠と名のつく薪を積む。本人の言葉より、記録の方が重くなる。周囲の正義と不安が、その席に座る者へ集まる。


 ロウェナは「魔女」とされた。


 今のクラウディオは、「犯人」として完成させられかけている。


 澪奈が端末を胸元で抱え直した。


「証拠の再検証が先です」


 その声は大きくなかった。だが、白い廊下にはよく通った。


 上層部の男が彼女を見る。


「科捜研としての意見ですか」


「はい」


「あなたは分析結果の強さを認めていたはずです」


「認めています。現場証拠は強いです。ですが、強すぎます」


 澪奈は緊張していた。指先が端末の縁を押さえている。だが、目は逸らさなかった。


「誤差が少なすぎます。人形破片、血痕、繊維片、映像、通信記録。どれもクラウディオさんを示す方向に整いすぎています。実際の現場なら、もっとノイズが残ります。生活痕も、偶然の痕跡も、被害者側の乱れも混じるはずです」


「それは推測でしょう」


「違和感です。ですが、科学は違和感を無視しません。確認します」


 澪奈の声がわずかに強くなる。


「科学は、都合のいい結論に判を押すためのものではありません」


 クラウディオは目だけで澪奈を見た。


「科捜研の小娘にしては、悪くない」


「小娘ではありません」


「では何だ」


「科捜研です」


「頑固だな」


「褒め言葉として受け取ります」


 榊が疲れたように息を吐いた。こんな状況で会話の端が律儀に噛み合うのだから、この面子は本当に面倒だった。警察庁の廊下で人外と科捜研が皮肉を交わし、刑事が胃を削られている。国家機関も大変である。たぶん福利厚生に胃薬は含まれていない。人類、詰めが甘い。


 上層部の男は沈黙した。


 その沈黙を、別の警察庁職員が破る。先ほどからルストの立ち位置を測るように見ていた男だった。スーツの襟元には識別証。眼鏡の奥の目は冷静で、声も丁寧だった。


「そもそも、確認させてください」


 男の視線は、ルストへ向いていた。


「あなたは彼の協力者ですか」


 ルストは答えない。


「保護者ではありませんよね」


 クラウディオの眉がかすかに上がった。


「俺に保護者が必要に見えるなら、眼科へ行け」


「あなたには聞いていません」


「なら聞き方を間違えている。俺の前で俺の話をするな」


 男はわずかに表情を引き締めたが、乱れなかった。職務として問うている顔だった。上層部の男も黙って見ている。榊は嫌な予感がしたように眉間を押さえた。澪奈は口を挟まない。ただ、端末を抱える指先に力を込めている。


 警察庁の男は続けた。


「監視役としてこちらに協力しているのですか」


 ルストは沈黙している。


「関係者というだけでは、これ以上の介入は認められません」


 クラウディオの目が細くなる。


 男は最後に、丁寧な声のまま言った。


「あなたは彼の何ですか」


 白い廊下に、その問いが落ちた。


 監視カメラの下で、空調の音だけが続いている。カードゲートの電子音も、靴音も、その瞬間だけ遠ざかったように思えた。


 ルストは一瞬だけ黙る。


 ほんの短い沈黙だった。


 だが、クラウディオには分かった。


 ルストの喉がわずかに動く。唇が開きかける。


「伴……」


 そこで、止まった。


 最後まで言わなかった。


 ルストは一瞬だけ黙る。そして、「伴……」と言いかける。だが最後まで言わない。


 クラウディオは、その一音を聞き逃さない。吸血鬼の聴覚以前に、彼はルストが自分に関する肝心な言葉をいつも飲み込むことを知っている。


 血を知っている。


 噛み跡を知っている。


 地下の檻を知っている。


 支配を知っている。管理を知っている。救済も、暴力も、執着も、長い不在も、戻ってくる沈黙も知っている。


 数十年会わなくても消えなかったものがある。首筋に残る古い痕。手首に薄く残る新しい痕。灰の国で火刑の夢から戻された痛み。壁際で庇われる息苦しさ。どれも浅い関係ではない。


 それでも、名がない。


 ルストが言いかけた言葉は、その名になり得るものだった。


 そして、飲み込まれた。


 クラウディオの笑みが冷える。


 ルストは、別の言葉を選んだ。


「俺が責任を持つ」


 その声は低かった。


 警察庁の男は、わずかに目を細める。


「責任、ですか」


「クラウディオには触らせない。聴取が必要なら、手続きに従ってここで行え。強制に移るなら、正式なものを出せ」


「あなたにその判断権はありません」


「判断ではない。立場を聞いたのだろう」


「責任を持つ、というだけでは不十分です」


 ルストは返さない。


 クラウディオは、壁際で静かに笑った。


 それは庇う言葉ではあるが、クラウディオには足りない。責任という言葉は、管理や監視に近い。伴侶とは違う。愛とも違う。選ぶ言葉を避けられたように聞こえる。


 責任。


 便利な言葉だ。


 警察庁は安全確保という名で人を囲う。教会は町を守る責任という名でロウェナを燃やした。上層部は公的責任という名で身柄確保を急ぐ。ルストは責任という名でクラウディオの前に立つ。


 もちろん、同じではない。


 ルストの腕は、クラウディオを火刑台の夢から戻した。ルストの牙は、手首に現実を刻んだ。ルストの背は、警備員の手を遮った。それは警察庁や教会の責任とは違う。


 違うと分かるからこそ、腹立たしい。


 名前を与えない庇護は、檻に似る。


「責任。便利な言葉だな。檻にも首輪にも同じ札を貼れる」


 クラウディオの声は冷たかった。


 廊下の空気が、また少し張り詰める。


 ルストは振り返らない。だが、肩の線がわずかに強張った。


 クラウディオは続ける。


「監視役には似合いの言葉だ」


「違う」


 ルストの声は低い。


「何が違う」


 クラウディオは笑った。


「俺は荷物か。危険物か。保護対象か。責任者の札を首から下げて満足か」


「クラウディオ」


「呼ぶな」


 短く切った声に、警察庁の男たちが沈黙した。


 クラウディオはルストの背中を見る。


 灰銀の背。


 警察庁の白い廊下を塞ぐ背。


 守っている背。


 囲っている背。


 クラウディオは、その背を憎らしいと思った。憎らしいと思えるほど、近い。近いくせに、名を与えない。踏み込むくせに、言葉だけを飲み込む。牙は立てる。腕は回す。壁になる。だが、名をつける直前で止まる。


 ルストは不機嫌になるが、何も言い返せない。


 言い返せない理由は明白だった。実際に、言いかけて飲み込んだからだ。責任という言葉で逃げた自覚がある。クラウディオを守りたい。だが、その言葉を口にすれば、クラウディオを自分のものとして定義することにもなる。言わなければ、足りない。言えば、囲う。言わなくても、傷つける。


 ルストは、肝心なところで沈黙を選ぶ。


 クラウディオは、それを知っている。


 榊が咳払いをした。


「今それを掘るな」


 誰に向けた言葉か曖昧だった。警察庁側にも、クラウディオにも、ルストにも、自分自身にも向けているようだった。


 警察庁の男が榊を見る。


「しかし、彼の介入は現に聴取手続きへ影響を及ぼしています」


「だから手続きの話をしている。正式な令状がない。現場証拠には不自然な点がある。本人の同行者の立場確認より、いま優先すべきは証拠の再検証だ」


 澪奈が頷く。


「人形破片、血液反応、通信記録、映像。その整い方を確認する必要があります。少なくとも、現場資料の再解析と、元データの保存状態、第三者の痕跡の有無を確認するまでは、結論を急ぐべきではありません」


「被疑者が逃走した場合は」


「逃走を防ぐ手続きも必要です。ただ、手続きと検証を飛ばしていい理由にはなりません」


 澪奈の声は震えなかった。


「科学は、都合のいい結論に判を押すためのものではありません」


 上層部の男は、明らかに不満げだった。しかし、正式な令状がないままこの場で強く押すことの危うさは理解している。彼らは単純な悪人ではない。証拠と危険性に基づいて動こうとしている。その判断が、仕組まれた檻の一部になり得ることをまだ見ていないだけだ。


 ただ、それだけで人は十分に危うい。


 警察庁の男はルストへ視線を戻す。


「いずれにせよ、関係性は記録する必要があります」


「好きにしろ」


 ルストは短く返した。


「では、責任を持つ立場、と」


 クラウディオが笑う。


「いいじゃないか。書類の上では立派だ。責任者、監視対象、危険個体。実に清潔な単語ばかりで反吐が出る」


「クラウディオ」


「黙れ、灰銀」


 ルストはまた黙った。


 榊は、もう頭痛が本格化してきた顔をしていた。澪奈は端末にメモを取りながらも、二人を横目で見ている。警察庁の職員たちは、どう扱えばいいのか分からない顔を隠しきれていなかった。


 協力者にしては距離が近い。保護者にしては対等ではない。監視役にしては私情が強い。恋人にしては言葉が冷たい。敵対者にしては離れない。


 クラウディオはルストを拒絶する。だが、完全にはどかない。ルストはクラウディオを庇う。だが、名を選びきれない。周囲から見れば分類不能だった。分類不能の関係ほど、公的機関に嫌われるものはない。書類の欄が足りないからである。人間社会、感情より先に欄を作るな。


 クラウディオは壁から離れた。


 ルストがほんのわずかに視線を動かす。


「動くな」


「命じるなと言ったはずだ」


 クラウディオは白い廊下をゆっくり歩いた。警備員たちがわずかに身構える。だが、榊が手で制した。ルストも動かない。ただ、視線だけがクラウディオを追う。


 廊下の横には、磨かれたガラス窓があった。外に面した窓ではない。隣の会議室との間にある、半透明に加工されたガラスだ。そこに、白い照明を浴びたクラウディオの姿がぼんやり映っていた。


 黒い髪。


 整った横顔。


 冷たい目。


 人形師。


 吸血鬼。


 被疑者。


 危険個体。


 書類が貼ろうとする名はいくらでもある。


 だが、そのどれも彼の首筋に残る古い痕を呼ぶ名前にはならない。


 クラウディオは、庁舎のガラス窓に映る自分の首筋を見て、古い噛み跡に指を触れる。


 その傷は、第70話の手首の噛み跡とは違う。もっと古い。もっと深い。薄れてなお消えない。ルストとの過去に由来する痕だった。


 血の関係。


 檻の記憶。


 支配。


 救済。


 執着。


 数十年会わなくても消えなかったもの。


 ルストはその動きに気づいた。だが、何も言わない。言えなかったのかもしれない。言わなかったのかもしれない。どちらにせよ、白い廊下には沈黙が落ちた。


 そこにある関係は確かに深い。だが、名前が与えられていない。


 クラウディオの指先が、古い噛み跡の上で止まる。


 痛みはもうない。


 それでも、痕はある。


 ガラスに映るルストは、クラウディオの少し後ろに立っていた。近い。けれど、届いていない。壁になれる距離にいながら、言葉ひとつを飲み込む距離。


 クラウディオは笑わなかった。


 怒鳴りもしなかった。


 ただ、ガラスの中の自分を見ていた。


 古い噛み跡は消えていなかった。

 ただ、その傷を呼ぶ名前だけが、まだどこにもなかった。



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